200×年 6月

長々と二ヶ月分の愚痴を書いてきたが、それでもこの6月に起きた事に比べれば、それまでの事は単なる序章に過ぎなかったと思う。


このころになると私もある意味達観してきた。

先日、制作の同期の子がミスをするという事件(?)が発生した。

社員全員が呼び出されたのでなにごとかと集まると、ぶすっとしている支店長とショー子さん、制作の子が立っていた。

ショー子さんは冷たく「ミスが発生しました。ほら言いなさい」とその子に言った。

その子はエグエグ泣きながらミスの説明をした。

まるで晒しものだ。

あんな目にはあいたくない。

この事が起きる数日前に、文具が不足していたので私は会社行きつけのスーパー「ほりはらさん」で足りない文具を補充した。

そうしたら

「百均で買えば安く済むでしょ、そう思わない!?そういう不精が一番いけないのよ!」

と仙波さんに叱られた。

いずれ私もあの晒しものの刑に処される事になるかもしれない。

まっぴらだ。


そこでふと、思いついた。

最初からうまくいく方法ではなく、仙波さんに叱られない方法をとればいいのだ、と。


その日から、私はすべてにおいて「仙波さんに叱られないようにするにはどうしたらいいか」と考えるようになった。

朝出社して、受付の花が枯れていたら仙波さんが叱る。

だから替えておかなきゃいけない。

生花は買うと高いから仙波さんに叱られる。

なのでその辺の野の花を取ってこなければいけない。

領収書は上からじゃなくて安いものから入力していかないといけない。

仙波さんが叱るからそうしなきゃいけない。

なんで日付順ではなく安い領収書から入力していかなきゃいけないのか理由は知らないが、仙波さんが叱るからそうしなければいけない。

例え明らかな矛盾や疑問があろうと考えない。

仙波さんの言う通りにする。

私は会社でのやり方を全部、仙波さんが叱るかどうかでシミュレートするようになった。

そうやっていると、わりとスムーズにいくようになった。

仙波さんに叱られることも減った。

同時に私の職場での立ち回りもまあまあになってきた。


しかしそれでも事件は起きた。

名付けるなら「パスポート事件」とでも呼ぶべきか。

今から思えば、私が夜逃げ同然にこの会社を去る事になったすべてのきっかけ、ことのはじまりはこの「パスポート事件」だったのではないかと思う。

いや、そもそも、最初から株式会社〇〇産業に就職しなければよかったのだ。

それを言っては身も蓋もないが。


それは6月上旬のある日だった。

梅雨に加え初夏の暑さもきつくなり、だいぶ不快指数が上がってきたころだ。

エアコンつけたいけど電気代がもったいないと言って会社はエアコンを禁止していた。

その日、支店長がまた鼻の穴を大きく膨らませて言った。

「今度の社内旅行は韓国に決まったぞ!」

えー海外なのー、すごーい、とみんな大はしゃぎだった。

私はK-POPも聴くので、本場に行けるのはうれしいなと思った。

「我が社はバブルのころはグアムに行った事もあったがバブルが弾けてからはずっと国内旅行だった。だが今回は違う。久しぶりの海外旅行だ!」

「今回は北朝鮮にも見学に行く!平和とは何かをじっくりと考える良い機会だ!自分達が普段どれだけ恵まれているか、平和な時代に楽して生きることが…」

支店長はそういうことを陶酔したような表情で言った。

私は、北朝鮮ってそもそも見学に行けるのかなと思った。

あとで知ったけど国境は見学できるらしい。

「というわけで社員全員のパスポートを申請する!みな戸籍謄本を持ってくるように!」

支店長は社内(と言っても小さいプレハブ小屋だが)に響き渡る大声で言った。

仙波さんが申請用紙を私の前に差し出して言った。

「じゃあまずは三井さん、必要事項書いて。あと戸籍謄本…」

私は何の気なしに、ただの事実を言った。


「あ、私、パスポート持ってますから、実家から送ってもらいます」


あの異様な瞬間の事はいまでも忘れられない。

その瞬間、社内の空気が水を打ったように静かになった。

時間が止まったような感じになった。

みんな、きょとんとした顔で、目をまん丸くしてこっちを見ている。

支店長は口をぽかんと開けている。

特にショー子さんなんかは「は…」と、目と口をまんまるく開けてポカンとしている。

私は戸惑うしかなかった。

そんな変な事を言っただろうか?

支店長はやがて、ふん、と鼻で笑い、まんまるかった口をニヤリと口角を上げて、こう言った。


「このスネカジリが」

は?


「親のすねをバリバリボリボリかじりおって、とんだ不良だったんだな、お前は」

不良不良、スネカジリ~♪と支店長は変な歌を歌った。

仙波さんが、はいこれ、と別の計算書類を持ってきた。

「じゃ、文房具はちゃんと百均で買ってね。また不精してほりはらさんなんかで買ってこないでね」

そこでがらっと空気が変わった。

まさか…遊びで行ったと思われたのか。

「あの、海外って言っても、学校の修学旅行と家族旅行ですけど…」

支店長が少しふりむき、じろっと私を睨んだ。

誰も返事をしなかった。

みんなまるで何ごともなかったかのように仕事に没頭していた。



その晩、友達に、高校の修学旅行の事をメールで話した。

高校と短大が同じだった友達が

「高校の時の修学旅行のシンガポール楽しかったね。あたし、今年また行ってくる」

と言った。

「こないだ会社の人に、学校の修学旅行でシンガポール行ったんですっていったら、けっこう興味あるって人多くて、今度みんなで行こうってなってさ。探したらすごい格安ツアーあったし」

「中には、大学の研修旅行でルーブル美術館見に行ったって人もいたよ、すごいよね。その人のルーブルの話とかフランス旅行の話とか聞かせてもらったけどすっごい面白くて、それ聞いてたらやっぱフランスってなんかお洒落だなーって、いつか行ってみたいよ」

そこから仲間内で話がはずんだ。

「あたしはイタリアだな。ヴェネツィア。死ぬまで一度は行きたい」

「俺はスイス行きたい。漠然とした憧れ。子供の頃再放送か何かで見たハイジのパン、一度でいいから食ってみたい」

「そういえばうちの会社も、学生時代ヒッチハイクとかで世界一周した人いて……」

みんな楽しそうだ。

友達も就職先は地方の会社だが、うちとは全然違う。

私も、友達と同じところに就けば良かった。

メール会議が終わった後、実家の母に電話をして、実家の机の引き出しにしまってあるパスポートを郵送で送ってくれるよう頼んだ。


数日後、実家からパスポートが届いた。

「電話の声が元気がなさそうだったので心配です。何かおいしいものでも食べてね」

という母の手紙と、何千円かの現金が入っていた。

親心がしみる。

と言っても、せっかくお金を送ってくれたのに、このへんでおいしいものを食べられるところはないのが悲しいところだ。

居酒屋ぐらいしかない。

実は居酒屋および飲み会はほぼ毎週連れて行かれる。

会社から偉い人が来た、給料出た、なんだかんだと理由をつけて支店長はみなを居酒屋に連れて行く。

食費が浮くのでまあ助かるが、正直、私は下戸であまり胃が丈夫ではない。

なのでいつもサラダだけつまんでいる。

なんでこの会社の人、こんなに飲み会好きなんだろう。

謎だ。

二次会でカラオケに行けるとかの楽しみがあれば私も気分が乗るがただのどんちゃん騒ぎで終わるからつまらない。


翌日、私は会社にパスポートを提出した。

支店長は一瞬苦虫をかみつぶしたような顔で私のパスポートを睨みつけたが

「ふん」と鼻で笑い、汚物でも扱うように人差し指と親指で私のパスポートを受け取りそれを仙波さんに放り投げた。

仙波さんも、汚物でも扱うようにパスポートを指先で受け取り、仕事を再開した。


旅行かぁ…

本当なら楽しいはずだろうけど、この人達との旅行はなんとなく楽しいものにはならないと予想できる。

とくに飛行機の中では退屈するだろう。

そんなときだ。

社宅のアパートの近く、田んぼの中にぽつんと立つ白い古い建物が公民館で、中には小さいけど図書室があると知ったのは。

これで少しでも脳に違う刺激を与えられる。

何か新しい本でも読もう。

私は早速図書室に入り、本を借りたいと申し出た。

見まわしたけど、ファッション誌や雑誌のバックナンバーはさすがに無かった。

受付の奥から眠そうな白髪のおばあさんが出て来て

「じゃあこの用紙に住所、氏名、電話番号、職業と会社の住所と電話番号を書いて。一週間したら出来るから」

とかったるそうに言った。

一週間もかかるのか…

地元××県の図書館はその日のうちに図書カードを作ってくれたのに。

というわけで私は一週間待った。


しかし一週間経っても電話は無かった。

私はもう一度公民館に行った。

すると受付のおばあさんが言った。

「会社に電話しても出なかったからもういらないのかと思ったよ」

は?

会社に電話?

そんな連絡があったなんて全く聞いてない。

「あの、私、携帯電話の番号書いてましたよね?なんでそっちに連絡くれなかったんですか?」

ええ?なに?と係のおばあさんは不思議そうな顔で答えた。

書類に書いた携帯電話の番号を指さすと

「え、これ電話番号だったの?こんな変な数字…こんなのが電話番号だなんて思わなかったよ。こんなもん見たってなんもわからんよ」

まったくいまの人は変な事ばっかりして…とブツブツ叱られた。

気分が滅入る。

だけどこれでやっと新しい本を読める。

図書室の中で幾つか本をパラパラと読んで、良さそうな本を選んだ。


家に帰って後悔した。

「小人 冒険もの」と書かれた棚にあったハードカバーの本は、冒険してたのは最初のちょこっとだけで、実際は大人向けの露骨な猥褻小説だった。

吐きそうになった。

ますます旅行に行きたくなくなった。

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