200×年 6月のある週 火曜日
「三井さん!三井さん!!」
ドアをどんどんと叩く音で目が覚めた。
というか無理やり覚めさせられた。
なんで社宅なのに仙波さんの声がするんだ?
「何時だと思ってるの!もう9時よ!」
く…9時!?
慌てて飛び起きて時計代わりのガラケーを探した。
ガラケーを開くと画面は真っ黒だ。
そうだ…ショー子さんからの着信がやかましいから昨晩電源を切ったんだ。
思わず昨晩の出来事を思い出す。
あれは夢だった?
いや…現実だ。
枕元にタクシーのレシートが転がっていた。
単なる悪夢であってほしかった。
「電話しても出ないし仕方ないから来たよ!何やってんの!!」
「あ…ゆうべ…その…具合悪くて」
「それがどうしたの」
仙波さんに叱られながら私はなんとか着替えて家から飛び出た。
朝食はもちろん、日焼け止めすら塗る暇はなかった。
プリプリ怒る仙波さんの車に乗せられて会社に急いだ。
ふとバカなことを考えた。
仙波さん、こうして起こしに来た時、もし私がまた高熱出してうなされていても「それがどうしたの」と無理やり連行するのかな。
私が首吊ってても「それがどうしたの」と私の死体を引きずっていくんだろうなあ。
このときは自覚はなかったが、私の考え方はどんどんネガティブになっていっていたのだ。
会社に着くと支店長たちの睨み顔が揃っていた。
その中にはショー子さんもいた。
ショー子さんの頬がまるで殴られたように赤くなってる気がする。
私には関係ないし関わりたくない。
私はとりあえず謝罪の言葉を述べた。
そのあと支店長に、会社に遅れること、仕事を遅らせる事がどれだけ不精なことか、納期というものがいかに大事かを30分以上説教された。
そのわりには今日もやる事が少なく暇だった。
昼から出勤しても大丈夫なんじゃないかってぐらい暇だった。
お客さんが来なくて暇で疲れたことは、短大時代のバイトしていたファミマでも経験はある。
でもファミマはなんだかんだ店内放送もかかっていたし色々とやることもあった。
あまり褒められた事ではないけど同じバイト先の人とおしゃべりしたり。
もちろんお客さんがいない時だ。
この会社は、音楽も何もかかっていないし業務中は簡単な世間話も無い。
みんな無言で仕事に没頭するしかない。
そうしないと仙波さんと支店長に叱られるから。
昼休みになった。
飲まず食わずで午前中を過ごすのは流石につらかった。
お弁当も持ってきてないし、今日は「ほりはらさん」で我慢するか。
「三井さん」
思わず、うわ来た…と思った。
ショー子さんだ。
ショー子さんは、泣くのを我慢している小学生みたいな顔でじっと私を睨みつけた。
「もう我慢できないよ」
それはこっちの台詞だ。
私はあんたと話したくない。
関わりたくない。
「悩みがあるなら言いなさい!」
悩み?
「ゆうべあんな事するぐらいだから…よっぽど思いつめてるんでしょ?」
あんな事?
逃げた事?
まさかこの人…私が何かを悩んでいて思いつめているから、だから逃げたと思ってる?
「三井さんもここに来て三か月なんだから、そろそろ心を開かないと。こういうことは自分から言わないと。これじゃ、誰も三井さんを助けてあげられないよ」
「あのさぁ!」
私は思わず叫んだ。
何言ってるか全然わからんしもう限界だ。
これ以上、年下相手に下手に出ても仕方ない。
私は、悩みも何も無い、ゆうべはショー子さんの家で起きた事にあまりに驚いたから逃げただけだ、という事を説明した。
「私、おばあさんの相手をしろだなんて何も聞いてないよ。夕飯食べないかってショー子さんが言うから行っただけだよ。お年寄りの相手をさせられるなんて聞いてない。ましてや初めて行った家で夕飯作らされたり、あげく殴られかけたり、ありえないでしょ」
ショー子さんは、私が言い返したからか、ちょっと驚いた顔をした。
「いや、でも家におばあちゃんがいたらだいたいわかるでしょう、ね」
ショー子さんの言い方は、小さな子供に言って聞かせるような言い方だ。
「こっちはそんな話は聞いてません」
今日だけはこっちだって引かないぞ。
私は怒ったんだ。
「でもね、普通はね」
なにが普通だ。
「私の友達には初対面の客に家族の世話や夕飯の支度をさせるような人はいませんでした」
ついでに言えば友達が来てるのに寝っ転がってオナラするお母さんやブリーフ一丁で初対面の客の前に現れるお父さんだって見た事なかった。
さすがにそんな下品な話題を口にするのは気が引けたので言わなかったけど。
ショー子さんはやれやれ、と言った感じの困り顔で
「それは…三井さんの友達ってほら、本当の友達じゃないし、変わってるからそれは参考にしちゃだめよ」
本当の友達ってなんやねん。
私は、私の友達に会った事もないくせに悪く言わないでほしい、というような事を反論したが
「ああ…うん…まぁ…じゃあ、とりあえずそのことは今はいいよ」
と面倒な仕事を後回しにするような口調で言われた。
今思えば友達を侮辱されたんだから謝罪を要求しても良かったんじゃないだろうか。
「あのね三井さん、普通に考えてみて。当たり前のことよ。どんなときでも自分に何かできる事はないか、常に探さなきゃ。思いやりの心を持たなきゃ」
出たよ思いやり。
研修で何度も言われた。
そういえばショー子さん、仕事が無くて暇してる時、よくパソコンを雑巾で拭いてるな。
たぶん1日10回は拭いてる。
そこまで暇な時間が多いこの会社が問題なんだと思うが。
「人間、当たり前のことを忘れちゃだめなんだよ。三井さん、もっと変わりたいって思わなきゃ」
と言った。
なんで私が変わる必要がある。
おもわず「いいかげんにして!」と私は叫んだ。
なんだなんだ、と社員たちがやってきた。
こうして私とショー子さんの事は社内に広がった。
てっきりどうせみんなショー子さんの味方になると思ったが、意外にもこれは意見が分かれた。
仙波さんと何人かの上司は「そりゃ三井さんが悪いよ」派だったが
意外にも支店長が「何も知らされず高齢の家族の相手をさせるのは難しかったかな」と言ってくれた。
若い同期たちはノーコメントだった。
ショー子さんは私がいくら言っても聞き入れなかったのに、支店長が言うと「ああ…それは…確かにそうだったかも」と聞き入れた。
年配の男の人の言う事はあっさり聞き入れるんだな、と思った。
昼食の後、午後2時頃。
支店長が私を
「仮名」
と呼んだ。
…ん?
下の名前、呼び捨て?
確かにショー子さんもいつも下の名前で呼び捨てにされてお茶くみをさせられてるけど、私にまでそれが来たか。
ちょっと来なさい、と支店長が私を手招きした。
支店長の座席の前にはショー子さんもいた。
「仮名。実はな、ショー子に、仮名を夕飯に誘うよう言ったのは俺なんだ」
は?
そのあと支店長は、お前の様子がおかしいのはわかっていただの、遠くから慣れないこっちに来て寂しいお前はきっとホームシックにかかっているだの、俺はいつもそうやって人を思いやるんだだの、そんな世迷言を感情を込めてせつせつと語った。
ホームシックならあの駅に降りて1秒でかかった。
そして諦めた。
「…だからな、今度の日曜日」
あ、ごめん聞いてなかった。
なんだって?
日曜日?
「ショー子の家で二人でクッキーを作りなさい」
………………。
………………………。
………………………………。
…………ク…クッキー?
な、なんで?
支店長は
「そのクッキーを月曜日に会社に持ってくるように。ちゃんとみんなの分作るんだぞ。いいな。これはノルマだ!」
とにっこり笑いながら私の肩をポンポンと叩いた。
だいじょうぶよ、教えてあげるからね三井さん、とショー子さんがにこにこ微笑んだ。
クッキー程度、小学校の頃よく母と作ったからレシピなしでも作れる。
でも…なんでクッキー?
いや、本当に、本当にわからない。
混乱で動けない私にショー子さんがニコニコしながらさらに続けた。
「三井さん。うちのお父さんはね、ビールが好きなの」
クッキーの次はビールか。
ああ、だからあんなすごいおなかなんだ。
「いつもはアサヒ呑んでるけど、今回はヱビスにして」
…?
ヱビスに…「して」って何?
「バラで買うなんて不精しちゃだめよ。ちゃんと箱で買ってね」
さらにショー子さんはニコニコ顔で続けた。
「おばあちゃんの好物はほりはらさんの羊羹だからね。よろしくね」
………………。
………………………。
………………………………。
私が…買うの?
日曜日。
それは、今の私にとって一番貴重な日だ。
1日中誰にも会わずにただただ寝ていられる。
たったそれだけの事がこんなにも貴重だ。
私は最近、休日はひたすら寝ていた。
休日どころか、平日も帰ってすぐ、夕飯も食べずにひたすら寝るのが習慣になっている。
その楽しみを潰してあんな家に…?
なんで?
なんで?
その日私はたまらず、社宅に帰ってすぐ母に電話でこぼした。
しかし母は、そういうのは軽くいなしなさい、としか言わなかった。
もう家に帰りたいと泣きながら訴えたが、もうちょっと我慢しなさい、お母さん最近具合悪いの、勘弁して、と言われた。
…母にまで見捨てられた。
逃げ道が、無くなった。
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