第39話 夢中になることの幸せ

 ぼくと一条渚の夜の散歩は、ずっと続いていた。

 目的地は一条の母親の家だった。

 毎日、足が棒になるまで歩き続けた。

 そして紙に書かれた住所のところに辿り着く。

 歩くコースが決まっていて、ココには毎日来ていた。

 

 ぼくはアイフォンである人に電話をかけた。

 今日は目的地にたどり着く日だった。

「着きましたよ」

 とぼくが言う。

「わかりました」

 とアイフォンから女性の声がした。

 ぼく達が歩いているとトキワ荘的なアポートから女性が出て来た。

 40代ぐらいの女性で髪がピョンと跳ねている。

 膝まである茶色いジャンバーを着ていた。

 女性は熱い息を出しながら、目から氷柱を生成するために泣いていた。



 一条渚が持っていた紙に書かれた住所にぼくは一人で行ってみた。

 だけど彼女の母親のもとに辿り着けなかった。

 彼女の母親の旧姓をぼくは知らない。

 あの紙には番地は書かれていない。

 住宅街でアパートも一軒家も多い。

 昔、届いた手紙である。

 すでに引っ越しをしているのかもしれない。

 彼女のお母さんに出会うまでに、ぼくは100件以上のインターホンを押した。



「渚」と女性が呼んだ。

 一条渚が立ち止まる。

 もしかしたら今までもすれ違っていたかもしれない。

 だけど髪を伸ばして顔を見せないようにしていた彼女の事を女性は自分の子どもだと気づかなかったのかもしれない。 

 一条渚が凍ったように動かない。

「渚? 渚なのね」

「誰?」

 と困惑した声で、一条渚はぼくに尋ねた。

「お前のお母さん」

 とぼくは言った。

 ぼくは一条渚のお母さんを探し当てたのだ。

 そのアパートは何度も前を通ったことのあるアパートだった。

「お母さん?」

「渚?」

 初めて一条渚の泣き声を聞いた。

 低くうねるような声で、「おがあさぁん」と泣いていた。

「ごめんね、ごめんね」

 と女性は謝り続けて、二人は抱き合った。

 二人の抱き合う姿を見て、ぼくはアユのことを思った。

 もう二度とアユはお母さんと抱き合う事がない。

 ぼくの妹はお母さんのぬくもりを二度と感じる事ができない。

 今もぼくのベッドで眠っている妹のことが愛おしくなって、ぼくは一条渚を置いて家に帰った。



 アユが眠っているぼくの部屋。

 机のランプだけを付けて、ワードを開いた。

 今なら書けるような気がした。

 だから書きたいキャラクターで書く。

 前に書いた物語の続き。

 デビューもしていないのに、ネット公開もしていないのに、物語の続きを書き始めた。

 それは新人賞に出すことも、誰かに見せることもできない作品だった。

 だけど誰かのために書いている。

 どこかで誰かが同じ気持ちになっていたら、それを救いたいという気持ちで書き始めた。

 小説は誰かのための救いなのだ。

 ぼくは想定している読者を喜ばせるように設計図を書き、どうやったら喜ぶのか悩みながら物語を考える。

 宮崎いすずしか読んだことがない物語の続きなのに。

 それなのに誰かを喜ばせたいと思いながら物語を書く。



 物語の設計図が書き上がってから、小説を書き始めた。

 小説に向き合う物語であり、母親の死に向き合う物語であり、母を探す物語であり、兄妹の物語であり、少しエッチな物語である。

 ぼくが持っている全てを書き出した。

 ぼくの心臓そのものだった。

 物語が心臓のようにドクンドクンと鳴っている。



 ぼくは小説を書くために何十日も夢中になっていた。

 気づいたら小説は書き終わっていた。

 ぼくは自分の机に座っていて、小説を書き上げた全能感が体を覆っていた。

 今のぼくなら何でもできるような気がした。

 自分が特殊な才能に恵まれた人間のような気がした。

 そして、ぼくは、救われていた。

 


「おい、起きろ」

 とぼくは妹を起こしていた。

 窓の向こう側は夜の闇が広がっている。

「学校の時間だぞ」

 妹を起こすために嘘をついた。

 アユは眠たそうに目を擦りながら、目を覚ます。

 ぼくは妹を抱きしめた。

 もうお母さんに抱きしめてもらえることができない妹の体。

 ぼくはアユに伝えたかった。

 今すぐ。

「お兄ちゃんは幸せだぞ」

 とぼくは言った。

「……なにお兄ちゃん?」

「お兄ちゃんは幸せだぞ」

「なにが?」

「こんなに夢中になることがあって、お兄ちゃんは幸せなんだ」

 涙がボロボロと溢れているのがわかった。

「お兄ちゃんは幸せなんだ。お父さんとお母さんに育てられて、今がある。好きなことができて、夢中になることができて幸せなんだ。お前がいてくれて幸せなんだ。こんな幸福なことはねぇーよ」

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