第29話 母親

「少年漫画の主人公って母親に背を向けた時から物語が始まるのよ」

 と母親が言い出したのは温泉旅行が終わった帰りの新幹線のことだった。

 お母さんの言葉は舌に大きな口内炎があるように呂律が回ってなくて聞き取りにくかった。

 新幹線の窓から見える景色は過去を消すように凄まじいスピードで流れている。

 お母さんの目はプールに入った後のように赤く充血していた。

 囚人のように頬はこけ、骨という骨が主張している。

 顔の右半分が麻痺しているらしく掃除機に吸われているような表情をしていた。

 母は必死にポップな口調で死を伝えているのだ。

 アユには死に囚われてほしくない、と母親は願っている。

 だから言葉を選び、漫画を例えであげたんだろう。

 できる限り悲しまないように、母親がいなくなった後から物語が始まるんだよ、って希望をアユに伝えているのだ。

 妹はお母さんの隣にいて、ペットボトルのお茶を飲んでいた。

 時間が止まったようにアユは手を止め、幽霊でも見るようにゆっくりと母親を見た。

「……なんで、そんな事言うの?」

 とアユが唇も動かさずに尋ねた。

 母親はぼくを見る。

「温泉、楽しかったわね」と母親は呟いた。

 妹の質問の答えにはなっていない。

「お母さんは幸せだよ。ハイジがいて、アユがいて。すごく幸せなの。うん。もうお母さん十分幸せだった」

 母親は自分が言っていることに納得しているように、「うん、うん」と頷く。

「ありがとうね。アユ、ハイジ。お母さんの息子でいてくれて、娘でいてくれて、ありがとうね」

「なによ、それ? なんか最後の挨拶みたいじゃん」

 とアユが言って、泣きそうな表情で笑った。

 ぼくは新幹線の窓を眺めた。

 母親は未来を失う。

「……十二分に生きた、とは思えない。アナタ達が社会人になって、結婚して、子どもができて、孫の顔も見たかった。もっと一緒にいたかった。そばで応援したかった。ハイジの未来を見たかった。アユの綺麗になる姿を見たかった」

 母親は涙を我慢しているのか、グッと強く目を瞑った。

 それを見たアユは母の細い体を抱きしめた。

「でも、お母さんね。できないの。お母さんがいなくなったらどうなるんだろう? って心配で苦しいの。でも、もうアナタ達には何もしてあげられないの。ごめんなさい」

 ぼくはお母さんに謝らないでほしかった。

 お母さんは死ぬ。

 せめて幸せで死んでほしい。

 ぼく達に謝りながら、ぼく達のことを心配しながら、ぼく達のことばかり考えないでほしい。

 自分のことだけを考えてほしい。

 ぼく達は大丈夫だよ。ぼくが何とかするから、と言おうとしたけど、言葉が喉元で絡まって何も出てこなかった。



 それから一週間もしないうちに母親は入院して、ピッピッピって音がなる機械に接続される。その音は母の生命の音だった。

 お母さんは手足が麻痺しているらしく、うまく体を動かすことができない。

 見えない手錠で縛られているようである。

 ぼく達はできる限り面会時間に顔を出した。

 お母さんの友達がお見舞いに来ることがあったけど、人相が変わって動けなくなったお母さんを見てハッとした。

 まさかこんな姿になるなんて、って驚いているんだろう。

 ぼく達は徐々にお母さんが元気じゃなくなっていく姿を見続けたので、あまりわからなかった。……嘘、ぼくだってお母さんがケロベロスに噛まれたみたいな表情をして身動きができなくなっているのを見るのは怖い。

 それでも死ぬ最後の最後の時間まで、できる限り時間を共有しておきたかった。

 一緒にいたかった。死ぬときには立ち会っていたかった。

 死は綺麗なモノじゃない。

 綺麗だろ、死んでるんだぜ、って全然言えない。

 死に近づいているお母さんは夜見たら怖い姿になっていく。

 アユはお母さんの体を愛おしそうに触ったし、ぼくだってお母さんの細くなってしまった体を愛おしく触った。

 もう肉なんてない。


 もしも作家になっていたら、とぼくは考える。

 お母さんがごめんね、って謝らずに済んだのだ。

「ごめんね」の代わりに「がんばってね」になっていたはずなのだ。

 ぼく達の未来が心配だからお母さんは謝るのだ。

 本当に心の底からお母さん大丈夫だよ、と言えたら謝る必要もないのだ。

 だけどぼくはお母さんに謝らせていて、収入が無くて、未来が怖くて、お母さんが死んでいくのが悲しくて、でも涙を流す姿をアユには見せたくなくて、何度も何度も涙を堪えていた。

 すごく悲しいことだってアユに伝わらないように、未来がすごく不安定な事であることをアユにバレないようにぼくは必死だった。

 ぼくはアユを笑かすようにお母さんの顔面が麻痺しているピクピクっていう動きに合わせて手を動かし、見えざる手で母の頬に触れているみたいな冗談をやったけど一ミリもアユは笑わなかった。

 妹がトイレに行っている時にぼくはコッソリ母親に抱きついた。

 別に泣いてなんかないけど母親の服が濡れてしまう。

 でもお母さんは何も言わない。

 死神でも見ているようにジッと天井を見上げているだけだった。

 アユが帰って来るまでにぼくは目をこすって、あくびの練習をした。

 お母さんは、もう何も考えられないような状態になっている。

 あるいは別の世界に、過ぎ去った時間に、これから失うはずの未来に母親は行っているのかもしれない。

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