第27話 口に指を入れる
一条渚のお父さんはどこかの企業の社長の子どもだった。
一条渚自身、自分のお爺さんが何の会社をしていたのかは知らない。
だけど父親が会社の後継者だった事は知っている。
結果を言えば父親は会社を継ぐ事はなかった。
経営者としての手腕がなかったのか、それとも父親が経営する前に事業を畳んだのかはわからない。
父親は無職になった。
その頃には母親と結婚し、一条渚を産んでいた。
ここまでなら別に大した話じゃないけど、彼女の父親は職を転々とし、転職した先で上司を殴ってクビになったり、お金を盗んでクビになったり、そこらのチンピラよりも酷いものだった。もしかしたら泥水に住むタニシが就職した方がマシなのかもしれない。
ある時から仕事もせずに呑んだくれるようになった。
それは社会にとっては幸運な事だった。だけど家庭にとっては不幸な事だった。
それでも生活ができたのは裕福な祖父母がいたからである。
祖父母は社会に適さない息子を支援し、そのお金で3人は生活をしていた。
だけど、そのお金のせいで、父親の働く気は一切無くなってしまった。
祖父母は優しさを履き違えたのである。
一条渚の父親は可愛い可愛いと育てられ、妻も子どももできたのに、今でも支援してもらって呑んだくれた。
父親は自分がこうなったのは妻のせいだと殴るようになった。
父親はお母さんを殴った。
母親と渚は隅っこ暮らしをするようになった。
ずっと父親は家にいた。
だから家の酸素を父親が全部独り占めして、二人の息はできなくなった。
一条渚が息をすることができるのは学校の時だけだった。
そして母親が息をすることができるのは買い物の時だけだった。
その買い物だってルールがあった。娘が学校から帰って来てからの一時間だけ外出は許される。しかも娘と二人での外出は禁止だった。
一時間を過ぎれば娘を殴る、と母は脅されて買い物に出かけた。
酸素を吸う、っていっても息継ぎ程度の一瞬しか吸えなかったのだ。
このルールは二人が逃げないようにするためのモノだった。
昭和のクズ人間よろしくお酒を飲んで暴れる父親にいつも怯えて過ごしていたらしい。
平成も終わり、令和が始まった時代に、昭和のクズ人間みたいな人種がなぜ生まれてしまうんだろうか? 謎すぎる。
それから母親が逃げた。
夜、父親と渚が寝静まった後に。
もう耐えられなかったのだ。
母親の体にはヒョウのようなアザがあった。包帯も取れなかったし、眼帯もつけていた。
娘を置いて出ていくぐらいに彼女の母親は追い込まれていた。
そして一条渚は父親と生活するようになった。
自分を置いて逃げてしまった母親。
一条渚は母親に裏切られたように思った。
世界で唯一の味方がいなくなった。
だけど母親は自分を迎えに来てくれると信じていた。
何日経ってもお母さんは迎えに来なかった。
だから父親が酒に飲みつぶれると母親を探しに出歩いた。どこにも母の姿はなかった。
暗闇の中で一人ぼっち。
水辺に板を置いただけの足場に立っているような不安定な生活だった。
それでも母親はいつか自分を迎えに来てくれると信じていた。
母親が自分を置いて出て行ったのは何かの間違いなんだ、と思っていた。
だけど迎えに来てくれる、という願望は打ち砕かれた。
父親は祖父母から貰ったお金でマンションを買ったのだ。
そのマンションのことを母親は知らない。
知らないマンションに母親は自分を迎えに来てくれない。
小学生の一条渚は父親に付いて行かなければいけなかった。
残るという選択肢が彼女にはなかった。その当時の彼女は小学五年生である。
家を引っ越し、知らない街の知らない小学校に通うことになった。
家に帰れば父親の暴力に怯えて隅っこ暮らし。
たまに父親は彼女の事を殴ったけど、頻繁に殴られることはなかった。
そういう環境で、彼女の心は折れ曲がり、海辺の松の木のようにクネクネとねじ曲がって育ったのだ。
誰か私のことを見て、という願望は人を支配する事で埋め合わせる事になった。
父親は中学を入学する頃には余所の女のところに行き、戻って来なくなった。
それから一条渚は祖父母の支援で生活するようになった。祖父母は一人ぼっちになった孫を引き取る事はなかった。
イジメている時は一人ぼっちではなかった。
みんな自分に従った。みんな自分の事を怖がった。みんな自分の顔色ばかりを伺った。
だけど中学三年生の事件が起きる。
金木ハイジ、つまりぼくがイジメを公にして彼女は孤立させたのだ。
イジメて人を支配していると一人ぼっちになる事に一条渚は気づいた。
イジメが公になって仲間が去って行った。
家でも学校でも一人ぼっちになった。
鏡を見たら大っ嫌いな父親と裏切った母親に似た顔が鏡に映っていた。
高校生になって人をイジメる事をやめた彼女はイジメられるようになった。
イジメられている時だけは一人ぼっちじゃなかった。
だからイジメてほしかった。
「……寂しかったんだと思う」
一条渚の物語を一言で最後は締めくくった。
「そう」とぼくが言った。
彼女の話を聞いたぼくはイジメてあげたい、と思った。
一人ぼっちじゃないよ、の変わりに、彼女を少しだけイジメてあげたかった。
だけど何をしていいかわからず、リビングの何もない空間を見つめた。
そしてある事を思いつく。
「ねぇ、口開けて」
とぼくは言った。
「どうして?」
ぼくは彼女の耳に長い髪をかきわけた。
彼女の顔をちゃんと見たかった。
「いいから」
一条渚が口を開ける。
ぼくは彼女の口の中に中指を突っ込んだ。
そして世界一くすぐったい口の裏側を触った。
湿っているけど硬い、イルカの肌のような感触。
彼女の目がゼリーのように潤み始める。
ぼくは彼女の口に中指を入れる。
イルカの肌がある所から肉球のように柔らかくなる。
さらに奥に突っ込むと米粒を丸めたような突起物に触れる。
くすぐったいのか、気持ち悪いのか、苦しいのか、彼女が涙を流す。
ぼくは彼女の口から手を引っこ抜いた。
手がエイリアンに触れた時のように唾液でベッダリになっていた。
「苦しかった?」
ポクリ、と一条渚が頷いた。
「苦しいことをしてほしかったんでしょ?」
ポクリと一条渚が頷く。
「それじゃあ、また口を開けてよ」
彼女の口の中に次は人差し指と中指を入れた。
口の裏側を二本の指で愛撫する。
それだけで涙がボロボロと溢れ始める。
涙は妖精の羽のように綺麗だった。
彼女の舌が犬のように飛び出してきて、はぁはぁと荒い息を立てた。
次は舌の上に二本の指を置いて、指が歩くように愛撫する。
舌は少しザラザラだけど柔らかくて湿っている感触。まるで新しいクッションの素材を開発したような弾力性である。
今まで人に触られていなかった部分が急に刺激されたせいで、彼女の口からヨダレが溢れ出す。
「ずっと寂しかったんだね」
とぼくは彼女の口を愛撫しながら言った。
「誰かにかまってほしかったんだね」
彼女は口を愛撫されながらポクリと何度も頷く。
イジメていたのも、イジメられていたのも、誰かにかまってほしかっただけなんだ。
だからツールは何だってよかったんだ。ツールっていうのは道具のこと。イジメるのもイジメられるのも口を愛撫されるのも何だって彼女にとってはよかったんだ。
口の中から手を抜く。
彼女は愛おしそうにぼくの指をペロペロと舐めた。
濡れていない手でぼくは彼女の頭を撫でた。
彼女は犬のようにクゥーンと言いながらぼくの膝の上に頭を押し付けてきた。
「やっぱり金木は頭がおかしいんだね」
えっ。一条渚には言われたくない。
「普通はこんな事しないし、できない」
「それじゃあ、もうしない」
「してほしい。……そうじゃなくて、何て言えばいいのかわからないけど、金木は簡単にラインを超えちゃうんだよ」
「イジメてほしい、って言ったのは一条だろう」
「それだよ。金木ならイジメてくれるって確信があった。だって金木は頭がおかしいもん」
コイツが何を言っているのかぼくにはわからない。
ぼくは彼女の口を開かせ、また口の中に指を入れた。
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