第9話 天才
眠気覚しに入れたドリンクバーのアイスコーヒーを啜る。
電車が無かったので、ここまでタクシーで来た。
向かいの席では宮崎いすずが緑色のシュワシュワしたジュースを飲んでいた。
物語が印刷されたA4の紙を捲る。
ぼくが読んでいるのを彼女はジッと見ている。
「集中できないから見るな」
「いいじゃん。ハイジとデート初めてだね」
と嬉しそうにいすずが言った。
「デートじゃないよ。ただ読みに来ただけ」
「こんな時間に?」
「こんな時間に呼んだのはいすずだろう」
ぼくは文字を読んでいく。
しばらくいすずは携帯を触っていたけど、疲れていたらしく机に伏せて眠ってしまった。
ギャル二人が食べていた皿やコップを店員さんがダラダラと片付けている。
ギャル達がいなくなって、ファミレスにいるお客はぼく達だけになった。
空調の音。それと皿が重なる音。
それ以外に何も聞こえなかった。
物語が進むにつれて眠気が無くなる。
アイスコーヒーのせいじゃない。
胸がざわついている。
ページを捲りたくて焦っている。
どうなってしまうんだろう?
宮崎いすずが書いた小説を読み終わった頃には席が埋まっていて、人が賑わっていた。
アイフォンで時間を見ると朝の8時を過ぎている。
まだ彼女は机に伏したまま眠っていた。
ぼくはぬるくなってしまったアイスコーヒーを啜った。
下唇を噛み締めた。
天才という幻想に惑わされるな、と心の中で呟く。
たまたま初めて書いた作品が面白かっただけ。
人は人。ウチはウチ。
書くべきモノが違うし、学ぶべきモノが違う。
目を瞑る。
彼女が作り出した物語が脳裏をよぎる。
ジャンルでいえばホラーになるんだと思う。
だけどホラーでは言い表せないぐらいに淡い青春だった。
主人公は中学2年生の男子ムジナと同級生の女の子ラン。
2人が人殺しをするところから物語が始まる。
殺したのはランをイジメていた女子生徒。
このままイジメが続けば大好きな女の子が自殺するかもしれないと思ったムジナがイジメっ子を殺す。
その現場を見ていたランが死体を消すのを手伝うことになる。
2人で死体をバラバラにする。
それが両思いの2人が相手の気持ちを探りながら、やらなければいけない作業に没頭するシーンみたいに書かれていて、死体をバラバラにしているのに、すごく羨ましくなってしまった。
2人はバレないようにバラバラにした肉片をトイレに流したり、燃やしたり、ゴミ袋に入れたり、犬に食べさせたりする。
その都度、その都度、バレそうになる。
それが吊り橋効果みたいに2人の距離を近づけていく。
ハラハラしたり、ドキドキしたり、気持ち悪かったり、読んでいて感情が揺れ動きすぎて疲れるぐらいだった。
最後には肉片は全て無くなってしまう。
それが無性に虚しくなるのだ。
これで2人の特別な関係が終わり。
2人は教室でお互いの事を意識してチラッと見つめ合って終わる。
きっとこのまま2人は、もう2度と喋らないんだろう。
そしてこの出来事をいつか青春の1ページになってしまうんだろう。
彼女が起きるまで待った。
どんな作品でも、時間をかけ、愛情を込めたモノだと知っているから、読む前から、「面白かったよ」と言うつもりだった。
だけど本当に面白いんだもん。
天井を見上げて目を瞑る。
下唇を噛む。この下唇が美味しくてたまらない。
息を吸ったら鋭利な紙で傷ついてしまった胸の痛みが気になった。
ぼくは自分が歩んで来た作家になるための道のりを思い出した。
何時間、何百時間、何千時間、何万時間、パソコンの前で向き合っただろうか?
使える時間は全て費やした。
みんなが寝ている時間、遊んでいる時間、全て。
ぼくの人生は物語を書くための経験を得るためのものだったし、ぼくの手は物語を書くためだけにあったし、ぼくの頭は物語を考えるためにあった。
向き合った時間は死ぬほどあるのに、評価はポケットのどこを探してもなかった。
履歴書にも書けない。
何万人、何十万人、何百万人、何千万人に読んでもらうために書いた作品は誰にも読まれずにパソコンの中で眠った。
それでもぼくが書いた物が、世界中のどんなモノより面白いと知っている。
もしかしたら彼女はこの小説で賞を獲るのかもしれない。あるいはネットで人気になるかもしれない。ぼくの先へ行ってしまうのかもしれない。
噛んでいた下唇から血が滲み出た。
宮崎いすずにどんな未来が来てもぼくには関係ない、と心の中で何度も言い聞かせた。
まだ、その未来が来るかもわからないのに。
彼女が顔を上げて目を擦った。
「起きたよ」
「見たらわかる」
「どうだった?」
「……よかったと思う」
言うのが嫌だった。だけど心の底から言った。
彼女は炭酸の抜けた緑色の甘い液体を飲み、鼻くそでも口に入れられたような顔をする。
「それで面白かったの?」
「うん。……面白かったよ」
「どこが? ハイジ先生の意見を聞かせて」
ピンクの髪が2、3本だけ天井に向かっている。
ぼくは面白かった箇所を列挙した。
死体をバラバラにしている時の2人の淡い気持ち。
肉片が見つからないように捨てていくハラハラした気持ち。
2人の特別な時間だったのに、それが終わった時の虚しさ。
「うん」と彼女は頷いた。
少し沈黙。
ぼくの感想を聞いて彼女は満足しているようだった。
いや、ぼくに読まれただけで満足するなよ。
「この小説どうするの?」
ぼくが尋ねた。
「えっ? どうもしないよ」
「バカ。どうにかしろよ」
「どうにかって?」
「ネット投稿するか、新人賞に応募するか、だよ」
「どっちがいいの?」
「どっちでもいいと思う」とぼくが言う。
彼女がぼくの目を見る。
「ハイジ先生のおっしゃる通りにします」
「なんだよ。自分で考えろよ」
「もし私が作家になったら付き合ってよ。いや、ちょっと待って。私には作家になるのはハードル高いわ。私の作品が誰かに評価されたら付き合ってよ」
「先輩と付き合ってるんじゃねぇーのかよ」
「もうとっくに別れたよ」
「なんで?」
「だって高校に行って野球辞めちゃったんだもん」
「野球やっていたから好きだったのかよ」
「そうよ。頑張っていたから好きだったの。頑張らない奴なんて糞虫と同じよ」
「ぼくのこと好きなの?」
「ハイジが作家を本気で目指した時から好きだったよ。私が知っている全ての人の中でハイジが一番頑張ってる人だもん。それに」と彼女は言った。
「他の人に奪われそうだから」
「そんな事で?」
「そうよ」
「ぼくはいすずの事が好きじゃない。あばずれピンク頭だと思っている」
最大級に断った。
「わかった。コレ捨てる」
捨てる? こんな面白い物語を? クソ。なんでそんな簡単に作品が捨てられるんだよ。
「そんな事しちゃダメだろう」
「付き合ってくれる?」
「ぼくが作家になったらじゃなかったのかよ?」
「ハイジ、私のこともう好きじゃないでしょ」
「好きじゃない」
「だから」
「それ捨てるの?」
「捨てるよ」
「この小説、書くためにどれだけかかったんだよ?」
「1年半ぐらい」
1年半?
「書いても書いても、ずっと書けなかったの。そしてようやく書けたの」
「そんなもの捨てれるのかよ?」
「捨てるよ」
「わかったよ」とぼくが言った。
いすずがニッコリと笑った。
「付き合うってこと?」
「……付き合わねぇーよ」
「それじゃあ捨てる」
「いすずが作家になったら付き合ってあげる」
「無理。そんな漫画みたいなことしていたら私はオバサンになってしまう」
「わかったよ。とにかく誰かに読んでもらって評価されたら考える」
なんでぼくは他人の子どもの命を人質に取られているんだろうか?
彼女がこの作品と向き合った時間。愛情を持って育てた時間、ぼくにはわかる。
だから誰かに読まれる可能性があるのに簡単に殺してほしくはなかった。
もし本当に、この作品が評価されたら、お付き合いを考えるだけ。考えるだけなら誰でもできる。
「その代わり、ちゃんと小説は新人賞に応募するか、ネットに投稿するかしろよ。もしくはどちらもするか」
「わかった」と彼女は嬉しそうに言った。
ちなみにぼくがしているのは新人賞の応募だけだった。
誰にも評価されていないのに、誰かに読まれるのが怖くてネット投稿が出来ずにいた。人を楽しませる事ができずに失望されるのが不安なのだ。
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