第8話 先生との禁断
スニーカーを履きながら後ろを振り返る。
誰もいない。
こんな時間に遊びに行ってはいけません、と母親が止めてくれるんだったら、今すぐにでも部屋に戻りたい。
遊びに行く事を考えただけで、ダンベルをポケットに入れたように体が重かった。
月に1度は夜の街に遊びに行く事を義務づけていた。良い子は真似しないでね。
財布の中には2万円。
バイト代はできる限り多く、家計に入れたいのでお金は使いたくない。
手の平を見る。ガソリンスタンドで働いた時についた汚れが指紋にこびりついていた。
使ったとしても1万円まで。
だけど茶色い銀行券1枚だけ入っている状態は不安だから2枚入れている。
小説のためならお金を使うのも仕方がなかった。
情報には2種類ある。
知識による情報。これはネットや本から得る事ができる。
経験による情報。これは体験しなければ得ることができないモノである。
経験による情報を想像でカバーする人もいるかもしれない。
だけどぼくの場合は違った。
キスシーンですら経験による情報があれば、もっといいモノが書けるんじゃないだろうか、と思ってしまう。
言いたくないけど、ぼくが読みたいモノは少しエロの要素が入っているラブコメだった。
読みたいモノを書きたい。
だけどエロいことをぼくは知らない。
だから経験としてエロの知識がほしかった。
夜の街に出かけても、いい思い出なんて1ミリも無い。
だから体は重たいけど、小説を書くためにぼくは夜の街に向かった。
歓楽街の明かりは墓場の運動会を見ているようにおぞましい。
砂漠の遭難者が水を求めるようにセッ◯スを求めている若者達で賑わう街。
歓楽街で有名なクラブに行く。
その建物には芸術家気取りのご老人が筆でキリンを書いたような絵が描かれていた。
クラブの名前はキリン。
クラブに入るために人気のラーメン屋のような列を作っていた。
一番後ろに並んでポケットからトランプぐらいサイズの身分証明書を取り出す。
期限切れになった運転免許を友達のお兄ちゃんから1万円で譲ってもらって、写真を張り替えた偽造免許書である。
犯罪すれすれである。
もしかしたらガッツリ犯罪なのかもしれないけど許してくれぇー。これも小説のためなので許してくれぇー。本当に良い子は真似しないでください。悪い子でも真似しないでください。
屈強な男が門番に立ちはだかる。
身分証明書とぼくの顔を見比べた。
そんなにマジマジ見たらダメよ。偽造だってわかるんだから。
そんな思いとは裏腹に珍しい昆虫でも見るように、すごく見る。
ぼくも見る。彼の目玉の奥の奥まで覗くように見る。むしろバレてクラブに入れなくても別にいいのだ。
こんなところ入ったって、何もいいことなんか無い。
バレたって別にかまわないのに、屈強の男は身分証明書をぼくに返して入場料2千円払うように命令した。
これでクラブに入るのは3回目である。
だから嫌な気持ちをして帰る事は知っていた。
それでもぼくは経験を得るためにココに来ている。
何回来ても偽造した身分証明書を見せるのはドキドキする。
虫の死骸に群がる蟻のように人がウジャウジャと蠢いている。
スピーカーから流れる低音が肋骨をノックする。
空間が地獄絵図のように赤色になったり黄色になったり青色になったり、照明が切り替わる。
1メートル先の人の顔も見えない。
音楽が五臓六腑を揺らす。
この世界に馴染めない。
せっかく来たんだから女の子をナンパしなくちゃ。
お前なんかが女の子に喋りかけるな。
弱気なぼくが顔を出す。
セッ◯スもしたことがない童貞のくせに。
童貞に喋りかけられても嫌だろうなぁ。
闇と光のダンスフロアーの中。
ぼくはビビる。
帰りたい。
せっかく来たのに?
喋りかけたって、その子がぼくのことを覚えている事はない。
女の子だってナンパ目的で来ている子だっているのだ。
お前にナンパされたいわけじゃねぇーだろう、と同じ脳みそで考える。
そんな事ぐらいわかってるよ。
でもココまで来たんだ。経験のために。小説のために。
誰に迷惑をかけるわけじゃない。
誰でもいいから、とにかく喋りかけろ。
お前は小説を書くための経験を積まなくちゃいけない。
ココで帰ったら経験値を貰えない。
経験値を得てレベルアップさせて、その先に学生からジョブチェンジさせて作家にならなくてはいけないのだ。
「お酒を飲まない?」と女の子の耳元でぼくが喋りかけた。
ちなみにぼくはお酒を飲まない。あんなモノ飲んだら経験としての知識を取りに来ているのに頭が働かなくなってしまう。
「飲む飲む」と言われて、お酒を奢った後は、名前とか尋ねて共通の話題を見つける前に彼女はダンスフロアーに帰って行く。
何人もの女の子達にお酒を奢った。だけど彼女達はすぐにダンスフロアーに帰って行く。
ダンスフロアーは海なのだ。彼女達はエラ呼吸をする半魚人で、早く海に戻りたくて仕方がないのだ。
ぼくは壁にもたれて何をしているんだろう? と天井にぶら下がった丸い球体を見上げた。
未成年でお酒も飲まず、夜更かしして、居たくないクラブに足を運んで、お金を使っている。それなのに学ぶことは一つもない。泣ける。
経験値としての情報がほしかった。
何度も挫折を繰り返し、時間が過ぎ去っていく。
「お酒飲まない?」
ぼくは喋りかけた。
ショートパンツから生えた足。
ムニムニした太もも。
おへそが出そうなシャツ。
ダンスフロワーの中で一番エロそうな子だった。
その子と目が合う。
その子、というのは失礼だろう。
その女性。
「あっ」
ぼくもその女性も、同じように言葉を漏らす。
少し沈黙。
ぼくが話しかけた相手は、ぼくの担任の先生でもあり、部活の顧問でもある中本ありさ先生だった。
気まずくなって、ぼくは逃げようと後ろを振り返る。
「待ちなさい」
女性に肩を掴まれる。
「なんで、こんなところに金木君がいるの?」
爆音のせいで彼女はぼくの耳元で喋りかける。
いつもより近い距離。
ボブヘアーはフワッと波打っている。
「これも部活の一環でして」
ホッペをつねられる。
「なにを言ってるの?」
「すみません」
「ちょっと金木君、こっち来なさい」
手を握られて壁際に連れて行かれる。
そして中本先生に壁ドンされる。
逃げようにも逃げられない。
「息、ハァーしてみて」
「イヤです」
「いいから」
「ぼく息臭いですし」
お腹の横腹をつねられる。
「息、ハァーしなさい」
ハァー。
「お酒も飲んでるの?」
中本先生が言った。
「飲んでないです」
「本当に? もう一度ハァーして」
ハァー。
「鼻詰まっててわからないわ」
それじゃあハァーさせるなよ。息を嗅がれるの恥ずかしいじゃん。
先生は相当お酒臭かった。
地面が餅で作られているみたいに足もふらついているし、押したら倒れるんじゃないか?
壁ドンしているのも支えがなくちゃ立っていられないからなんじゃないか?
「誰と来たの?」
「1人です」
「なんで?」
「……ナンパ目的です」
「ナンパ? 金木君には必要ないでしょ」
「先生はなんでココに?」
「私は別にいいの」
「先生みたいな綺麗な人が、こんなところに来ると危ないですよ」
デコで頭突きをされる。
先生の口から、お酒の匂いがする。
デコがくっ付いたまま離れない。
「先生のこと綺麗だと思ってるの?」
見た目を褒めるな、と警告音が頭に鳴り響く。
「ぼくは先生の事が好きです。それは見た目が綺麗だからじゃありません。先生は誰よりも優しい」
「優しくなんかないわよ」
「ぼくが部活を作りたい、と言った時に顧問になってくれました」
「顧問になっただけで何もしてないじゃない」
「何もしない事が正解だと思ってるからじゃないですか?」
「……ただ、邪魔臭いだけよ」
「嘘だ。だって先生は生徒の事を誰よりも見ている。生徒指南書みたいなのを作っているのも知っています」
「他には?」
褒め言葉を欲しがっている。
先生だって褒められたいんだ。大人だって褒められたいんだ。
ちょっと笑ってしまう。
ぼくは中本先生に興味が湧いた。彼女はどんなキャラクターなんだろうか? 邪魔くさがり屋だけど、ちゃんと生徒達のことは観察している。それだけ? もしかしたらエッチな要素もあるんじゃないだろうか?
「先生が担任でよかった。来年も担任でいてほしいです。再来年も担任でいてほしいです」
とぼくが言う。
「もっと」
と中本先生が言う。
褒め言葉を欲しがっているパート2。
どうして先生はそこまで褒められたいんだろうか?
「ぼくはある事で教師に失望していました。だけど中本先生に出会って、教師っていう職業もありなのかな、って思えました」
「なにそれ? どんどん弱くなってない?」
ダメでしたか? 絞り出したんですけど。
「……何かイヤな事でもありましたか?」とぼくは尋ねた。
デコ同士がずっとくっ付いていると、男子高校生なので、あれが反応してしまう。だから少し距離を保つために、先生の頬を両手で挟んで顔の距離を離す。
手と手で挟まれた先生の顔。
可愛い。
「大人だって色々あるのよ」
ぼくが頬を挟んでいるせいで、先生は水の中で喋っているみたいだった。
だけど何を言っているのかはわかる。
「大人って大変ですね」
「そうよ。高校生が羨ましいわ」
先生は酔いすぎている。
頬を挟んでいた手を離すと中本先生が体をぼくに預けた。
大きなクマのぬいぐるみを子どもが抱えているような形になってしまう。
女の人を抱っこしている。
「先生が世界で一番頑張っています」
よしよし、とぼくは頭を恐る恐る撫でた。
大丈夫だよな? 急に噛んだりしないよな?
「〇〇も〇〇も死ねばいいのになぁ」
そんなことを先生が言う。
〇〇に入るのはベテランの女教師だった。
うんうん、とぼくは聞きながら、ずっと頭を撫で続ける。
すげぇー酔っているじゃん。
面白いな、この先生は。
「先生のこと好き?」
と中本先生が尋ねた。
「大好きです」
ぼくは口先だけで答える。
そりゃあ好きって尋ねられたら、選択肢は1つしか無い。
「どれぐらい?」
「人類史上、先生が一番好きです」
「めっちゃ好きじゃん」
「めっちゃ好きですよ。だから先生をイジメる〇〇も〇〇も死ねばいい、っとぼくも思ってますよ」
中本先生がぼくの肩の上で笑っている。
「ついでに体育教師も殺しといて」
と先生が言う。
「先生の願いなら殺しときますよ」
思ってもいないことをぼくが言う。
つーか、体育教師も嫌いだったんだ。
ずっといやらしい目で中本先生の事を見てるもんな。
大変だな、この人も。
「先生はぼくが守ってあげますよ」
「お願い」
たぶん、ココがキスするタイミングなのかな?
いや違う?
わかんねぇー。
だって泣く子も黙る童貞だぜ。キスもした事ないんだぜ。
生徒と先生。禁断じゃん。
キスしても大丈夫かな?
ダメだったらダメで小説を書くための経験になるだろうし、受け入れられたら小説のための経験になる。
ぼくは先生の唇に唇を近づけた。
先生がぼくの唇を人差し指で止めた。
「キスしようとしてる?」と先生が尋ねた。
断られた時の対象法はどうしたらいいんだろう?
「しちゃいそうでした」
正直に答える、を選択した。
「ダメよ。生徒と先生よ」
「禁断ですね」とぼくが言う。
「禁断ですよ」と中本先生が言う。
ぼく達は見つめ合う。
「ココから出ようか」
先生が言って、ぼくの手を握った。
指と指の間に指と指。
先生に恋人繋ぎで手を握られた。
クラブを出るとぼくは何も言わず、夜の歓楽街を先生の隣で歩いた。
どこにぼくは行ってしまうんだろうか?
もしかして本当に禁断の果実を食べてしまうんだろうか?
ぼくはちゃんとセッ◯スできるんだろうか?
ちゃんと先生を気持ち良くさせる事ができるんだろうか?
もう少しでホテル街に入りそうだった。
ポケットに入れていたアイフォンが揺れた。
ぼくはアイフォンを取り出す。
電話の相手は宮崎いすずだった。
「はい」
「小説書き終わったよ〜」
「えっ?」
「私の家の最寄駅まで今から来て」
今から読めってことかよ。
コイツ、今何時だと思ってんだよ? そもそも電車なんてねぇーよ。
「わかった」
とぼくは言った。
電話を切る。
先生がコチラを見ている。
「ごめん先生。帰って来なさいってお叱りをうけました」
ぼくは嘘をついた。
「仕方ないわね」
先生は、どこかホッとしたような、残念そうな顔をしている。
「どんな事があっても、ぼくは先生の味方です」
先生が微笑んだ。
「もうあんなところに行っちゃダメよ。悪い大人に連れて行かれるんだから」
そしてぼく達は握っていた手を離して、別れた。
宮崎いすずから電話があって、正直のところホッとしていた。
どうやらぼくは童貞を捨てるのをビビっていたらしい。
経験になるんだから童貞の1つや2つぐらい捨てろよ。
好きな人とじゃないとダメ、というラブコメの主人公が持ち合わせている(あるいは結構な高校生が持ち合わせている)気持ちをぼくは持っていない。
だけど純粋にセッ◯スが怖かった。
誰としても別にかまわない。だけど失望されたくなかった。
先生を気持ち良くできないんじゃないか? もっと言えば何をどうすればいいのかわかんねぇー。
だけど色んな事を知りたくて、いつかぼくは先生に初体験を捧げるかもしれない、と思った。ぼくは先生に興味を抱いていた。
褒められたい大人で、ちょっとエッチで、色んな人を殺したくて、超絶に面白いキャラクターだと思った。ぼくは先生のことを知りたかった。そのためなら童貞ぐらい捧げてもいいように思えた。
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