第10話 ネタ
新築の匂いがする教室の中。
多目的ルーム2。
いつものように長机を出し、椅子を出し、書くことが無くてもとりあえずカバンからノートパソコンを取り出し、ワードを立ち上げる。
スヤスヤという寝息がぼくの隣から聞こえた。
この教室にいるのは、ぼくと七瀬うさぎの二人だけ。
まだ他の部員は来ていない。
「寝たの?」
とぼくが尋ねた。
うさぎは10秒前に横になったばかりである。
「寝ましたよ」
と彼女が返事をした。
どうやら寝たみたいだ。
「それじゃあ何をしてもバレないよな?」
「バレませんよ」とうさぎが言った。
椅子から降りて床に座った。
彼女の顔を間近で見た。
長い睫毛。小さな鼻。小さな顎。柔らかそうな唇。
唇を少し指先で触れてみる。
ビクン、とうさぎが小さく動いた。
悪魔がキスしてしまえ、と囁いている。ココで経験を積んどけよ、お前さん作家になるんだろう。経験経験。
キスしてもいいんだろうか?
勝手にキスなんてしてはいけません、と天使が囁きかける。指を突っ込んで舌をひっぱたり摘んだりするだけにしなさい。
指を突っ込むほうがいいのか? いや、そっちの方がダメなような気がする。
ぼくは悪魔の言うことを聞いて彼女の柔らかくて、綺麗な白い歯が見える唇に、自分の唇を重ねた。
柔らけぇー。
ミントの匂いがする。
彼女は石像のように硬直していた。
タバスコを飲み干したような体温が唇から伝わる。
手のやり場がなくて、強く握ってしまったら壊れそうな彼女の肩に手を置いた。
舌を出す。
ぼくの舌が彼女の柔らかい唇の間を通って歯に当たった。
それ以上、先に進むことができず、彼女の前歯をハブラシしているように舌でゴシゴシと磨いた。
彼女の八重歯の先を舌先で触れた。尖っている。
唇の裏側に舌がいく。
ナメクジを舐めているようなヌメッとする感触があった。
遠くの方から足音が聞こえたので、ぼくは椅子に座り直した。
隣でスヤスヤと眠っている彼女の耳がトマトジュースでも吹き出してしまいそうなほどに赤く染まっていた。
ぼくは椅子に座り直して、何事もなかったように頬杖をついた。
キスってこんな感じか。
部室の隅っこで宮崎いすずと七瀬うさぎが服を作っていた。
すでに勇者のコスチュームは作り終え、赤いジャージの製作に取り掛かっている。
七瀬うさぎと目が合った。
彼女は発情期のお猿のお尻のように顔を真っ赤にさせていた。
自分の手元にあるパソコンに目を落とす。
新しい作品に取り掛かるためにプロットを書かなくてはいけなかったけど、何も思いつかない。
ぼくは何を面白がっている? 何が好き? どんなキャラクターを書きたいと思っている? と自問自答を繰り返す。
「う〜ん」
隣では思い悩みながら伊賀先輩は今日もノートに点を書いていた。
ネタが思いつかないらしい。
伊賀先輩とはあの日以来、喋っていなかった。ぼくがお笑いについて喋ったことで彼女のプライドを傷つけてしまったのだ。
伊賀先輩の大きな胸が机に乗っかっている。
彼女と一緒にお笑いのネタを書く、という目的があった。
そのためにぼくはユーチューブでアップロードされていた伊賀先輩のネタを全部見ていた。
フリップ芸もあれば、ショートコントもあったし、1人コントもあったし、2人でやっていた時の漫才もあった。
彼女の怒りはそろそろ冷めてきただろうか?
「伊賀先輩」とぼくが言った。
「悩んでいるんですか?」
恐る恐る尋ねる。
「見たらわかると思うんだけど」
「どこで悩んでいるんですか?」
「ネタを書くとこで悩んでいるんだ」
と伊賀先輩が言った。
もう怒ってなさそう。
「自分が何をしたいのか、に悩んでいるんですか? それともお客さんに何を見せたいのか? に悩んでいるんですか?」
ぼくが尋ねると伊賀先輩が首を傾げた。
自分が何をしたいのか? お客さんに何を見せたいのか? と伊賀先輩が呟いた。
もしかしたらネタは空から降ってくるモノだと思っているんだろうか。
「伊賀先輩は特別な人なんだと思います。お笑いが好きでもぼくはアナタのようには舞台には立てない。だから少しでも役に立ちたいです」
一ミリでも彼女が嫌な気持ちをしないように、ぼくは言葉を選びながら言った。
「……うん」
ノートに書かれた黒い点が大きくなっていく。
「もしかしたら何かを作る切掛けを見つけ出せるかもしれません」とぼくが言う。
ポクリ、と彼女が頷く。
「1人でお笑いをしたいんですか?」
「したくないんだ」
「2人でしたいんですか?」
「2人でも3人でもいいんだ。誰かとやりたいんだ」
「先輩、ノート借りていいですか?」
伊賀先輩のネタ帳を借りる。
複数人、と書き込む。
「とりあえず、これで1人のコントやフリップ芸を考えるのは伊賀先輩のするべき事じゃない、というのがわかりましたね」
うん、と伊賀先輩が頷く。
「伊賀先輩がしたいのはコントですか? 漫才ですか?」
「どちらでもいい、って答えはいいの?」
「いいですよ。それも答えなんで」
「どちらでもいいんだ」
漫才、コント、と書き込む。
「組みたい人っていますか?」
「いないんだ」
相方を探す、と書き込む。
「どんな風に相方を探すつもりなんですか?」
彼女が言いにくそうにしている。
「……先輩や後輩や同期をあたってみたり」
「あたったんですか?」
ポクリと頷く。
「……断られた」
彼女が言いにくそうに答えた。
質問を変えよう。
ココからは出来る事と出来ない事の認識について質問しよう。
「登場人物は女子高生で考えたことがありますか?」
「なんで女子高生なんだ? 考えたことないんだ」
「女子高生が女子高生役をやるのが一番わかりやすいし、演じやすい。なにより衣装が揃っているからコストもかからない」
とぼくが言ったところで2人が勇者のコスチュームを作っていたのを覚え出す。
お客さんが見た時に勇者もわかりやすい。それに衣装がある。
敵役の魔神もいる。本来なら魔王だけど。
「別にいいんだけど」
女子高生、と書き込む。
「キャラクターは勇者でもいいですか?」
「なんでもいいんだ。面白ければ」
勇者、と書き込む。
「それじゃあ素人と一緒に舞台に上がってもいいですか?」
「金木君が出るってこと?」
「ぼくは出ない」
「な〜んだ」
と彼女が頬を膨らます。
ぼくは窓側でチラチラとコチラの様子を伺っている七瀬うさぎを見た。
「とにかく伊賀先輩が同業者から面白いと思われて、一緒にコンビあるいはトリオを組みたいと思われるようになったら勝ちってことですよね?」
伊賀先輩が顔を赤くさせる。
しまった、まとめただけなのに。
なにか地雷踏んでしまったか?
伊賀先輩は意外とプライドが高い。だから気づかないうちに地雷を踏む事がある。
「もういい」と伊賀先輩が言った。
そして立ち上がって七瀬うさぎのところに伊賀先輩が行く。
えっ? なにをしてるの?
「舞台に一緒に立って」
と伊賀先輩が七瀬うさぎに言った。
「嫌です」
とうさぎが言った。
しかも普段は見せない温厚なうさぎちゃんが牙を出している。
伊賀先輩は何をしているのだろうか?
怒った勢いで七瀬うさぎにお願いをしに行っている。
すごくバカだ。
人にお願いをする事が下手くそすぎる。
「アナタは?」
と伊賀先輩が、ピンク頭の宮崎いすずに尋ねた。
「無理」
床を見ながら先輩が帰って来る。
「断られたんだ」
「バカですか?」
とぼくは思わず言っていた。
「私はバカじゃないんだ」
あんな言い方したら断られるに決まっているだろう。
しかも、すげぇー敵視されている。
ガルルルルルと2人が牙を見せながらコチラを睨んでいる。
「そもそも2人にお願いできるだけの仲なんですか?」
「そんな仲良くない」
ぼくはため息をつく。
この部活は、ただ場所を提供されているだけである。部員同士は目的が違う。
伊賀先輩はノートと睨めっこしているだけで、ぼく以外の人間とほとんど喋ることもない。
ちなみに隅っこの方でダンボールをチョキチョキ切っている一条渚にいたっては誰とも喋ったところを見たことがない。
「先にネタを考えましょう」とぼくは言った。
ノートに目を落とす。
「お笑いを勉強した目的はネタを書くためなんですから一緒に考えましょう」
とぼくが言う。
彼女の反応を伺った。
ポクリ、と伊賀先輩が頷いた。
「とりあえずコントにしましょう」
ポクリ、と伊賀先輩が頷く。
コントを選んだのはキャラクターを作ることができるからである。
漫才は相方がいない現時点では作ることができないような気がした。漫才をする二人に合わせたネタを作らなくてはいけないから。
「それじゃあ登場人物から考えましょう」
ぼくはノートを伊賀先輩に返す。
「何も思いつかないんだ」と先輩が言った。
ぼくは頭の中で物語が浮かんでいた。
だけどぼくが考えたモノでは意味がないように思えた。せっかく勉強したんだから2人で考えなくてはいけない。
もっと言えばお笑いをしたいのは伊賀先輩である。だから伊賀先輩が自発的に考えたモノにしなくてはいけない。
お笑いを勉強した目的はネタを書くことだった。
彼女が芸人であり続けるのなら、伊賀先輩はネタを書き続けなくてはいけないのだ。
だからぼくはネタ作りのサポートに回ろう、と決めていた。
ぼくが彼女のためにネタを書き続ける事はできないのだ。
人に考えさせるには、どうしたらいいんだろう?
「今、現在、再現できるキャラクターで考えましょう」
「さっき言ってた女子高生ってこと?」
「他に何か再現できるモノって考えられます?」
「借りることができたら勇者もできると思うんだ」と伊賀先輩が言う。
ぼくが頷く。
「掛け合わせてみるのも面白いかもしれませんね」
「女子高生の勇者?」
「それじゃあ次に敵役を考えましょう」
とぼくが言う。
「うん」
「勇者と対立構造になっている人物は?」
伊賀京子が七瀬うさぎを見る。
「魔神」
「そうです。思いつくじゃないですか。勇者と対立構造になっているのは魔神です」
本当は魔王になるんだけど、それは一旦置いておく。
「それじゃあ2人のキャラクターに女子高生を絡ませましょう」
「はい」
「どうして女子高生は魔神になったんですか?」
「どうして?」
「ぼくが尋ねています」
「彼女はどうして魔神になったんだろう?」
七瀬うさぎを見ながら伊賀先輩が呟いた。
「不思議ちゃんだから人から魔神だと思われたい」
「いいですよ。それじゃあ、どうして女子高生が勇者になったんですか?」
「不思議ちゃんの唯一の友達だから。彼女を1人ぼっちにさせたくない」
「面白そうじゃないっすか。それじゃあ、そんな2人の会話を考えましょう」
「思いつきそう」
伊賀京子のペンが走る。
ようやく書き始めた。
だけど、しばらくしてペンが止まる。
ぼくは伊賀先輩が書いた文字を読む。
ツッコミ役が不足している事に気づく。
きっと追加でツッコミ役を入れてあげないと物語が進まない。
どうやって伝えれば気づくんだろうか?
「ちなみに、この2人がいる場所ってどこですか?」
「教室なんだ」
「休み時間とか?」
「うん」
ペンが走らない。
気づけ。休み時間だったら授業開始と同時に先生が入って来る。先生をツッコミ役にできるじゃないか。
「……」
「途中で休み時間が終わったりしないんですか?」
「……」
「先生が入って来たりしないんですか?」
「……」
「授業が始まったら先生が入って来て、2人を止めたりするかもしれませんね」
結局、最後まで言ったじゃん。
言い過ぎたか?
「あっ?」と伊賀先輩が呟く。「私って天才なんだ。先生をツッコミ役にしたらいいじゃん。そしたらココをこうして……」
言い過ぎた、と思ったけど大丈夫のようだった。
しばらく彼女は書き続けた。
ぼくは横で母親のように見守っていた。
伊賀先輩が書き終わる。
「やっぱり私は天才なんだ。面白いモノが書けた」
ネタ帳をうっとり見る伊賀先輩。
「面白いです。アナタは天才です」
とぼくは絶賛する。
伊賀先輩は赤いジャージを作っている2人を見て机に顔を伏せた。
「最悪なんだ」
「どうしたんですか?」
「さっき2人に断られたんだ」
「また頼めばいいじゃないですか?」
「無理なんだ。せっかく、こんなに面白いネタが書けたのに」
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