あべこべ記

 俺がまだ気が狂う前の話、『ふつう』に物事を見れていた時分の話。

 俺は椿が落ちる様をよく見ていた気がする。それは同じく刀刃衆で水槍の位をいただいた父の前で起きた。

 父はいつも腰に水の入った瓢箪を吊り下げていて、わらわらと咲く椿の群生に目掛けて水槍をふるったものだ。

 ぼたり、ぼたり、と足元にたくさんの椿が落ち、鎮座する様には言葉すら失う。

 すべての椿が落ちると父は手元のえものを瓢箪に戻し、いつも俺にこう尋ねる。

『雷、お前に恐怖はないのか?』

 俺は今でもその時の言葉の意味をつかみかねている。


  ・

  ・


 庭に出、強くつむった瞼を開くとそこには俺が想定したとおりに見たくない現実がひしめき合っていた。

 祝いの場に咲いたあでやかな牡丹を囲むように魚影が庭をぐるぐると回遊しているのだ。そしてその中にいる人間たちは誰一人として頭部がない。

 刀刃衆時代とまったく同じだ。

 血の跡もなければ、消えた頭部がそこらにあるわけでもない。ただただ一か所、頭が消えている。

 この後、この場で起きるであろう出来事に俺はぞっとするほかなかった。

「さて媛はどれだ」

 惨状を見ることが叶わず、かつこの場に一番不似合いな男が暢気に呟く。その男に首根っこを掴まれ、満足に動くことが出来ない俺は祈るほかなかった。

 妹がこの男の前に現れないことを。妹の祝いが反転しないことを。

 逆月は包帯で隠れていないほうの目でぐるりと辺りを見渡し、俺を引きずりながらそこへ歩を進めた。

「ご歓談中失礼、波月櫛女媛とお見受けいたしますが」

 逆月に連れて行かれた場所で、見たことのある婚礼服が映る。顔を上げた先に櫛女の頭はなかった。婚礼衣装に身を包んだ首なしの体がある。

 こんなにもめまいがする出来事はこれで三回目だ。

「あら……? どなたでしょう? 雷兄さん、刀刃衆のお知り合いの方ですか?」

 知らないことを心底申し訳なさそうに妹は尋ねた。

 俺は口の端を噛み、答えることを拒否していたが、逆月がこれくらいの抵抗で黙るわけがないのだ。

「わたしは逆月と申します。媛の兄上――雷殿とは同じ釜の飯を幾度も食べた間柄でして、本日媛がご婚礼とお伺いし居てもたってもおられずお祝いにはせ参じました。この度は善き《家紋渡し》となられましたな」

「逆月様、有難う存じます」

「媛、様はお止め下さい。媛のことは見習い時代に当時の同期はみな雷殿からよく聞かされていましたので、いざこう面と向かって会っても初めて会った気がいたしませんのに」

「それでは私のこともぜひ櫛女とお呼びくださいな。家族や近い人たちはみんなそう呼びますの。小さい頃はお転婆のが頭についていましたけれど」

「ほんとうに? そんな風には見えません。同期たちも腰を抜かしますよ。雷め、よくもこんな宝を隠しおおせたなと」

「まあまあ」

 櫛女の声ははずみ、互いにからからと笑う声が耳に届く。蚊帳の外は俺だけだ。

「……雷兄さん、顔が青いわ。気分が優れないの?」

 そう妹に声をかけられても、自分がどんな顔をしているのか微塵も分からない。

「俺のことは心配しなくていい」

「けれど」

 手を伸ばしてこようとする妹の背後、白塗りの壁に映る魚影たちがぴたりと動きを止めた。「は」、と息を殺し注視する。

「兄さん?」

 魚影はまるで品定めするかのようにそこから動かない。頭の中で警鐘がけたたましく響いている。

「兄さんやっぱり顔色が悪いわ。薬師を呼んで来て貰いましょう」

「ちがう、櫛女。それはやめてくれ」

 いたずらに被害を増やすだけだ。だが心配をする妹に対して俺は満足のいく説明を持ち合わせていなかった。

 今に始まった話じゃない。これは妹の目を潰した時から進歩のないことだ。

「媛、雷殿はきっと血を流しすぎたのでしょう」

 思わぬところから助け船が出た。と壁の魚影はまた回遊し始める。

「血? けがをなさったの?」

「いえいえ、そうそう慌てるものではありません。媛のご婚礼をお伺いしたまでは良かったのですが、何分わたしから媛に出来る贈り物が浮かばず思案していたところに雷殿が血矢で的を得てはいかがと助言を受けまして」

 そんな話は初耳だ。

「血矢?」

「刀刃衆で弓を扱うものが隊のみなから血を分けて得る矢のことです。的を必ず得る、そういう信頼の証とわたしは思っています。媛、差し支えなければこの逆月に媛の祝儀と今後が上手くゆくよう的当ての大任をお任せいただけませんか」

「それはもちろん。兄さんが一考案じて頂いていたことなのであれば櫛女に断ることは出来ません」

「安堵いたしました。今日のために腕をまた一つ上げてまいりましたので、媛に首を振っていただけない時にはいかがしようかと」

「ふふ」

 逆月は肩にかけた射隼を外しながら、ふと動きを止めた。

「僭越ながら媛、この場を借りてお頼みしたいことがあるのですが」

「何でしょう?」

「実は、わたしは見習い衆時代から雷殿に《家紋渡し》を願っているのです。しかし今日までずっと許して頂けず、図々しい願いにはなるのですがもしわたしが的中させた暁には媛からも雷殿に口添えお願いできませんか」

「逆月、お前――」

 睨みつけようにも、相手が今どこを見ているのかすら分からず俺は二の句が継げない。

「どうして兄さんと《家紋渡し》を? 兄は水槍の位をいただきました、私の目から見ても立派な方です。ですが逆月様、あなたもそうなのでは?」

 櫛女は静かにそう質問した。妹のその声は母を思い起こさせた。具体的にどこがと言われると難しい。しかしそう感じたことだけは間違いがない。

「そう、と言われると?」

「刀刃衆には、大帝から頂戴する三つの位があると聞きます。一つに水槍、一つに鬼灯刀。そして」

 妹はすっ、と確信をもって縫い月たる男に手を向けた。

「隼弓、あなたはそうなのではありませんか」

「…………、ご慧眼。否、かしこき媛であられる」

「やはりそうなのですね」

「補足するのであれば、俺はその位をいただいていないのですよ。縫い月と園で称賛と褒賞はじゅうぶんにいただきましたが」

 これは当時、同期たちの間でも不思議な話だった。何故、この男が位を貰えず称賛にとどまるのか。

「……、あえて縫い月様とお呼びいたします。あなたが矢を外すことはきっと天文学的な確率でないのでしょう。あなたは弓がある限り、白星を得るようになられていらっしゃいます。なのにどうして祝儀と絡めて兄の家紋を得たいのですか」

「媛、あなたには恐れがありますか? 俺には在る」

 回答を待たず逆月は答え、続ける。

「子どもの時からずっと恐れています。そして思いついたのです、一等恐れているのであればそれを内に持てば恐れることはないのではないかと」

「それが兄だと?」

 信じがたいと言いたげに櫛女はいう。俺でもそう言っただろう。いいや、そもそもでこの男に恐れという感情自体があることに驚いてすらいる。

「厳密に言えば違う、雷は恐れではない。俺の恐れはきっと媛の兄が恐れるものに近い」

 波月家の兄妹は二人そろって困惑した。一人は男の恐れが何なのか分からずに。一人はそれが理解できてしまうかもしれないことに。

「媛、とくとご照覧あれ。けして瞬きされぬように」

 言いながら逆月はその場から俺を連れて庭の一番端に行くと、出世頭の刀刃衆から渡された包みを寄こした。櫛女への手土産にと言っていたそれだ。

「なあ、雷。お前はいま何が見える?」

「祝いの席だ」

「ほんとうに?」

 真意を試すようだった。

「それ以外に何があるというんだ」

「だってお前はずっと恐れているじゃないか。井戸底の調査に向かった時も、竹藪を越えた先にある村に赴いた時も、俺の顔を焼いた時もそうだった」

 着実に、迫り、目の前に来るもの。

「水槍殿いま、主が恐れているものはなんだ? この逆月が射て御覧に進ぜよう」

「射られるわけがない」

「なぜ?」

「自分の腕に過信するのは今日で終わりだ、逆月。お前ほどの名手でも見えぬものを射られるわけがない」

「怪談のたぐいか」

「そうじゃない! あれは、あれらは殺せない!」

「殺せずとも、射ることは出来るだろう」

「はは、お前はこれを射れなかった。逆月、お前は黒星がいくつもある。見えないものはけして撃ち落とすことが出来ないんだから」

 自分ですら狂気だと思うような引き攣り笑いを聞き終えた後、男は射隼を構えた。白星を射る気なのか。見えている俺ですら根源が分からないのに。

「知っているか、雷」

 射隼の弦に血矢をつがえられた。

「恐れは殺せる」

 その背中に小さな百足がいる。あの時と同じだ。今度はどうする。今、この瞬間ならあの時の二の舞は起こさない。

 逆月は、よい思い出として昇華されるだろう。狂人などではなく、ひとりの仲間、ひとりの友人と思っていた昔のように。

「魚影……」

「魚影?」

 脳裏にいつか見た椿の群生が浮かぶ。どうして俺はこれを忘れないでいるのか。今日になって分かった。

「白壁に無数の魚影が泳いでいる。竹藪を越えた先にある村で見たものと同じだ。時間が経てば、みな首がなくなる。誰かが根源を持っている。……持っているはずなんだ」

「あれか。つまり的はあるわけだ」

 尻すぼみになっていく呻きに逆月は返すと、「お前はなにも恐れなくていい」と気楽な声がかかった。

 そよ風が吹く。

 血矢が放たれる。

 椿が落ちる。

 恐れは、

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呉越同舟滑稽話 ロセ @rose_kawata

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