家紋渡し

「本日はどうぞよろしくお願いいたします、雷義兄さま」

 初対面の俺に対して深々と銀混じりの黒髪の頭を下げる青年に抱いた印象は、お坊ちゃんだった。

 銀呼ギンコの家系の息子だとは事前に聞いていたものの、ここまでまっさらな性格をした人間を見たのは初めてかもしれない。

「どうか頭を上げて。よろしくお願いするのはこちらのほうだ、五月ヶ原くん」

 そう言うと、妹の縁談相手たる五月ヶ原よろいはようやく顔を上げた。まだ幼い顔つきをした青年に俺は小さいころの妹をすこし思い出した。目の前の青年はこちらがそんなことを考えているとは露とも知らず、縁側からでも分かる空の深い青さを見てにこりと笑った。

「よいお天気です、何日も前からお天道様にお願いした甲斐がありました」

「妹の櫛女に会うのはたしか今日が初めてだったかな」

「はい、いろいろとお話しできるのが楽しみです」

 俺は周囲に家人がいないことを一度確認して、声を落として尋ねる。

「よろい君、きみは櫛女の目についてなにか?」

「ええ、伺っております」

 明朗快活としたその答えに俺は次を言い淀んだ。そしてようやく「それならいいんだ」とだけ返せた。

 よろいはまた後程と最初と同じく頭を深く下げて、この場から離れて行った。一人取り残され縁側の柱に寄りかかっていると、庭の奥にある白壁が目についた。一週間ほど前に母が今日のために職人を雇いあげ、補修を行った。綺麗に整えられた壁は太陽の光を照らして、庭に植えられた見目麗しく種類豊富な牡丹を輝かせている。

 花びらの数も色も様々な牡丹は母が妹――櫛女のために植えた。あれほどに咲けば妹の片方の瞳のなかも寂しくはないだろうと。

 母は怒るわけでも泣き喚くでもなく、ただ淡々と妹の片目を潰したにそう提案した。

 あの時、俺は十歳、櫛女は六歳だった。

 春の日差しのもと、庭で犬たちと鞠を追いかけ無邪気に遊ぶ妹を俺は部屋から眺め見ていた。櫛女は部屋にぽつんとたたずむ俺に気づき、顔を汗まみれにして一緒に遊ぼうと誘った。

 当然ながら、なにもおかしなところはない。

 ほんとうにおかしな部分は――、妹の片目に潜んでいた。

 狭小だが、あまりにも多くの物事を映すその場所は、その時何故か稲穂と秋赤音で溢れていた。夕映えがうつくしいその風景に一瞬、今の季節を忘れた。『かづち兄さま』と桜貝のような淡い色をした唇が動く。それだけで、たったそれだけで俺は現実に引き戻され、十の俺は事の重大さを理解した。

 それが現れたこと。それがもたらすこと。なにか手を打たなければそれらが何をするか。俺はもう知っていたし、

 だからこそ恐ろしかった。

――――妹の瞳のそれが何を引き起こすか。

 考えたくもない。放棄した思考の代わりに、手がこうすればよいのだといわんばかりにひとり動く。

 おそらくあの時、あの場所でもっともすぐれた最適解を。

 最悪を。災厄を。

 潰すのだ。

 妹の片方の世界ごと。

「雷兄さん」

 か細い声にはっとし、声の聞こえた方を見る。

 赤い紅を引き、白い頬をより白く、そして片方の目がぼんやりとした妹――櫛女が《家紋渡し》の衣装に身を包んで立っている。

「櫛女」

「そろそろ時間になると母様が」

 気を遣う妹の姿は昔から一度も変わったことがない。少なくとも俺の前で彼女は俺の蛮行に対して憎し悔しと呪った試しがない。

「分かった。でもお前自ら呼びに来ずとも良いのに」

「私が呼びに来たかったのです」

 櫛女は頑として言った。犬と砂まみれになって遊ぶお転婆な妹の影はもうここにない。気が利き、辛いところもおくびにも見せない波月の娘がいるのみだった。

 その事実に俺はまた苦しむ。責めてもらえた方がいっそ楽だった。母にも父にも妹にも、そして奴にも。

「では、行こう。手を引いても?」

 妹は自分でやらなくては意味がないのだからと家族の誰の手も借りなかった。だからこの時もきっと握り返されることはないだろうと思いながら、手を差し出した。

 しかし返ってきたのは、ほんのりとあたたかい人の熱だった。

「お願いします」

「…………、今日は雷でも降るのか」

「雷兄さんがいらっしゃいますから平気ですね」

 櫛女は軽口を軽くかわすと、ゆっくりその場所を確かめるような歩調で歩き始めた。祝い事にぴったりな天気とあたたかさはまるで夢の中のようだった。

 暢気に充てられた俺は化粧で知らないお嬢さんになった妹の横顔を覗き見ては、光を失った目も昔のように輝いていないだろうかと期待を込めた。

 そんなうまい話はどこにもなかったが。

「兄さん」

「なんだ」

「どうか気に病まないでくださいね」

 かけられた言葉に思考が凍り付く。何を、とは聞けなかった。

「不便ではありましたけれど、悪いことじゃありません。ですから兄さんもそう気に病まずとも良いのですよ」

「お前は、……俺の気狂いを許すのか」

 櫛女の足が止まる。小さいころと比べて身長はだいぶ差が開き、俺は妹を見下ろすしかないのにどうしてか、俺は彼女にいつも見下ろされているような気がしてならなかった。

「あいにく櫛女は気狂いの兄を存じ上げませぬので、その質問にはお答えできかねます。私の兄はいつも人を案じてばかりいらっしゃる雷兄さんだけですから」

「肩身も狭かろう」

「ふふ」

 鈴の転げるような、笑い。

「刀刃衆……、それも水槍の位をいただいた兄さんですもの、誇らしゅうございますとも」

「昔の杵柄だ」

「そういうことにいたしましょう、ですが櫛女の禍根はありません。いままでも、これからも」

 妹はそういうと、「どういう紋になるかしら」と顔をほころばせ尋ねる。

「五月ヶ原くんは人柄の良い青年のようだから、きっと二人とも気に入る紋になるよ」

「ほんとうに?」

「ほんとうだよ。あとで話してごらん。それに俺も見守っている。いや、俺だけじゃないな。父さんも母さんも、みんなお前の門出を祝っているから悪いことにはならないよ」

 櫛女はちいさく頷いて、俺の手をぎゅっと握りしめた。

 手を繋いで兄妹で何度も渡った廊下から庭に出ると、きらきらと光が輝く。夜空の星を砕いてちりばめたようにまばゆい。

「さ、櫛女」

「……、私一つだけ心配がありました」

 神妙な表情の妹に胸の内がざわざわする。

「お膳の料理に私の好きなものはあるかしら」

 俺はぷっと噴き出し、笑った。

「安心するといい。お前の好物でたくさんだったとも」

「それもほんとう」

「ほんとうほんとう」

 何度も頷けば、櫛女は満足そうに笑って庭へ降りていく。

 指先に残った熱をこすると、暗い記憶がほんのすこしだけ光を得るような気がした。

 今日は善き日。妹の門出の日。

 俺も顔を上げなくては。

 元気よく、櫛女のように明るい気持ちで面を上げる。

 すぅ――っと、何かが目の端をさっていく。刀刃衆の見習いだった頃に赴いた村落でも似たようなことがあった。

「雷様」

 誰かが俺の名を読んだ。廊下に誰かいるのは分かるのに顔が見えない。首から上がないからだ。

 ああ、よりによってこのめでたい日に!

「どうした」

 尋ねると、相手が言いづらそうな雰囲気を纏ったのでいいから話せと先を急がせてようやくこう切り出した。

「表に刀刃衆が……」

 俺は庭を見る。光でうめつくされたその場所は首なしで溢れている。それがどういう意味か、俺は知っている。

 絵空事が現実にとって代わる、そういう前触れだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る