呉越同舟滑稽話

ロセ

雷呼ひ

 妹――波月ナミヅキ 櫛女クシナの《家紋渡し》を翌日に控え、早々に床についたのが数時間前。

 ところが夜の九時を過ぎた頃、喉の渇きを覚えてしまい俺は台所に足を運んだ。 

 いつもは暗いその場所も《家紋渡し》で出す料理の下ごしらえのために家中の女中たちが昼間のように働いている。

 鬼気迫る空気に俺は用事を済ませたらさっさと退散しようと心に誓った。

 邪魔にならないようそっと移動し、甕に溜めた水をひしゃくで掬って一口飲む。

 生ぬるいそれは喉を潤すには十分の甘さで、続いてもう二口、三口と続けて飲み干せば渇きはすっかり失せた。

 顎に伝う雫を手でふき取り自室に戻ろうとした時、「カヅチさん」と声をかけられた。

 見れば母が大鍋の前でおいでおいでと手招きしている。

 台所の端を歩き、母の隣に立つと鍋の中で小魚が野菜と一緒にくつくつと煮つまり、甘い匂いが沸き立っている。

「お呼びですか」

「味見をしてもらるかしら。櫛女好みにはもう少し甘辛くしたほうがいいかどうか分からなくなってきたの」

 言って母は小皿に鍋の中身を取り分け寄こした。

「行儀が悪いのは目をつむってくださいよ」

「見ていませんから食べてしまいなさいな」

 小皿に乗ったものを箸を使わず、そのまま口の中にひょいっと放り込んで咀嚼する。あまい醤油に父秘蔵の酒を混ぜたのだろう、馥郁とした匂いが魚を噛むと同時に鼻をつく。砂糖の上品な甘さに鷹の爪を切って和えたことで、うまい調和が取れている。

 これは櫛女好みだろう。

「うまいな、櫛女の祝いの席じゃなかったら俺がこの鍋の分を全部貰って白飯によそって食べたい」

「塩分の取りすぎは体の毒ですよ」

「もちろん心得ておりますとも」

 小皿を母に返すと、母は目元の皺を緩ませて話好きの婦女子の体になる。

「あの小さかった櫛女が家紋渡しですもの、時が経つことの疾きこと疾きこと」

 流しの桶へ小皿を浸け、母は頭巾を外す。

「もうよろしいのですか」

「だいたいは作り終えていたのよ、ただお相手の好みが分からなくてどうしようかと考え込んでいたらこんな時間になってしまったの」

 お相手とぼやかし、母は名前を出すことを明らかに避けた。

「五月ヶ原はいい縁談相手なのでしょう」

「申し分ないことは確かですとも。……、みんな手を止めて。片付けが終わったら休んで頂戴な、お風呂はいつもよりゆっくり入ってね」

 女中たちの明るい声を背で受け、母は広い廊下に出る。少し考え、母の後を追うと生みの親は後ろを振り返りもせずこんな話をした。

「雷さん、あなたこんな話は知っているかしら。《家紋渡し》で家紋がなくなった家はやがて傾く、という話を」

「…………、与太話のたぐいでは?」

 《家紋渡し》では、互いの家の家紋をもとに新たな家紋が生まれるものだ。だのに片方の家の家紋がなくなるとは……。縁起が悪いどころの話じゃない。

「与太話のたぐいであればいいのだけれどね」

「なにか気に障るところがおありですか」

「……はぁ。あまり言いふらすんじゃありませんよ」

 振り返った母は面倒くさいという表情を微塵も隠さずに俺に耳打ちした。

「はかま座敷の子に聞いたのだけどね、刀刃衆がこの話をしていたそうよ。しかもこの時の《家紋渡し》の相手というのが…………」

 次いで耳朶に流し込まれた名前に俺はぎょっとし、老けた母の横顔をまじまじと見た。母は目を真ん丸にさせる息子を見やり、「縁は切ったのよね」となにか深いところを探るようにいう。

 こういう時の子を持つ女たちの直感が俺は苦手だ。なぜならそれは理屈を超え、限りなく正解を見ているのだから。

「切りました」

「そうですか。……あなたも早々に床につきなさいな。隈なんて作っていたら櫛女に笑われてしまいますからね」

「"遊船に乗りませ"、母さん」

「"遊船に乗りませ"」

 夜の挨拶を交わすと、妹がまだ指を口で吸っていた頃から少しも変わらぬ足取りで母は長い廊下を歩いていく。俺はその後ろ背をずっと見ている。ずっと。

 縛りにかけられたごとく。あるいは、…………まな板の鯉のごとく。

 母の姿が見えなくなった後、長い廊下を渡って自室にたどり着く。

 部屋に入るべく引いた障子には波月家の家紋である波と矢が合わさったものが描かれている。家紋、また家紋か。

 後ろ手で障子を閉め、上掛け布団がめくられた状態の布団に横たわると、母が話した与太話が自動的に思い浮かんだ。 

 《家紋渡し》、それは新しい家族が出来るたび取り行われる寿ぎの儀。

 もはや疑念の余地を挟むことさえない行事に何故、あのような与太話がついて回るのか。いっそのこと一笑に伏せれば楽だった。

 だが、俺はそれが出来ない。

 脳裏に浮かぶのは、いっぺんの翳りもしらず輝くままに大弓をひく友人の姿。

 そして次に思い出したのは、火にあてられ顔の半分を爛れさせることになってまでも、に《家紋渡し》を願うだれかだ。

 つよく瞼をつむると、春の鳥の声が耳に届く。

 瞼は開かない。それは本物ではないと知っているから。

 ただただ俺を惑わすだけだから。

「狂人は俺一人か」

 呟きは空にのまれ沈んだ。

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