朝顔師

五十鈴りく

第1話

 人は、生まれながらにして背負わされるものが決まっているのだろう。


 太平の江戸の町で久遠くどう東吾とうごがそのことに気づくまで、それほど時はかからなかった。幼子のうちにそれを知った。


 生家の安曇野あずみの家より、東吾は生後まもなくして養子に出されたのだ。東吾には兄が一人おり、嫡男の兄がいれば安曇野家は安泰、次男は所詮次男でしかない。跡目争いの種になるくらいならば、と養子に出したらしい。


 生家は信濃の国だが、実父は江戸留守居役とのことである。ただ、両家は親戚筋ということもなく、間に人が数名入り、話を繋いでの縁組だった。どうせ手放すのなら、遠くにやってしまった方が気は楽であっただろう。実際に、一度も実の親兄弟と顔を合わせたことはない。


 久遠家には子がおらず、養子の東吾はそれでも跡取りとなるはずであった。

 ところが――。


「お生まれになりました。ご丈夫そうな男児にございます」


 その時、役方の奥祐筆おくゆうひつを勤める養父と共に聞いた産婆の言葉を、東吾は今でもよく覚えている。

 東吾が跡取りという意味を解し始めた年頃のことだった。久遠の夫妻に子が産まれた。


「男、か――」


 久遠の養父が顎を摩りながらつぶやいた。この時、四十路も終盤であった。遅くからできた我が子だ。嬉しくないはずがない。けれど、東吾の手前、手放しで喜ぶことをしなかったのだと思えた。


 女児であれば東吾と娶せて丁度良いと考えていたのかもしれないが、男児である。


 正当な血筋は生まれた赤ん坊だ。東吾には久遠の血など一滴たりとて混ざってはいないのだから。

 しかし、久遠の両親はできた人たちであった。


「それでも、嫡男はおぬしだ。産まれた子は、兄を支えられる男に育てる。何も案ずるな」


 そんな養父の言葉が嬉しかったのは幾つまでだっただろうか。

 それは筋が違うと思うようになった。両親がそれをよしとしても、周囲が納得しないのではないか――そんなことばかり考えた幼少期であった。

 常に、とても久遠家の当主としては立てないという思いが東吾を苛んだ。


 義弟、正治郎しょうじろうは、久遠の両親から出たのだ。血のなせる業か、人柄は素直なものであった。純粋に東吾を兄と慕ってくれた。東吾なりに義弟を可愛くも思えた。


「あにうえ、わたしは大きくなったらあにうえをおたすけいたします」


 舌ったらずの幼い子が、そんなことを言う。正治郎はまっすぐで正義感の強い子だ。

 養父も養母も優しく、久遠の家は東吾にとって決して居心地の悪い場所ではなかった。けれど、それでも、ここはおのれの居場所ではない。


「父上、母上、私は久遠の血を引かぬ余所者に過ぎませぬ。跡目はどうぞ正治郎にお継がせください。私はこれより家を出て、単身にて暮らしてゆきたく存じます。勝手を申しますが、何卒お許しください」


 二十歳になった東吾が畏まってそう告げた時、義父も義母も口をぽかんと開けた。


「いや、我が家の嫡男はおぬしだと、ずっとそう申してきたはずだ」

「そうですよ、東吾さん。そのようなことを口にするのはおやめなさい」


 そんな養父母に、東吾は手を突いて深々と頭を下げた。この家にも養父母にも感謝しかないのに、こんなことしかできない。


「この久遠の家には大恩がございます。それはどうあっても変わらぬこと。卑小の身ではございますが、陰ながら正治郎の力となりましょう。細々とではございますが、ご恩は必ずお返し致します」


 行き場のない己をあたたかく迎え入れてくれた家だ。しかしこれは、東吾も久遠家の存続を願うからこその決断である。

 東吾が一度決めたことを曲げない性質であることを、ここまで育ててくれた養父母だからこそよくわかっている。渋々ながらに東吾の望みを聞き入れてくれた。


 東吾は家を出るにあたり、久遠の家の金銭をあてにするつもりはなかった。そのために何年も前からこつこつと貯め込んでいたのである。


 その頃は、禄高四百石の久遠家の嫡男が、下士のような内職を小遣い稼ぎに始めたのだから、正直なところあまりいい顔はされなかった。変わり者だとささやかれたのも無理はない。それでも、東吾はいずれこの屋敷を去ることを決めていたから、己の口を養えるようにならねばと考えていたのだ。


 剣術道場や手習い所のように、人と交わる暮らしよりも、ひっそりと生きてゆくことを選んだ。生業すぎわいは草の種ほどもあると言うが、本当にそうだ。生きるすべを探した結果、それに行き着いた。


 当初、稼ぎは知れていたが、今となってはそこそこの金が手に入る。

 久遠の家の者たちは東吾が庭で朝顔を育てる様を、若様の道楽だとしか見ていなかったが、これこそが東吾の資金源である。


 最初はなんの代わり映えもしないただの朝顔を咲かせた。その鉢を売って小銭を得た。それを繰り返すうち、少し変わった朝顔が咲くようになり、その珍しい朝顔は他のものよりも高く売れるということを知ったのだ。


 特別美しい花ではなかった。いびつで、おかしな花だった。それでも、珍しいというただそれだけのことで高直こうじきな値がつく。人は珍しいもの、数の少ないものに値打ちを見出し、手元に置きたがる。


 しかし、そんな好事家たちと東吾が同じ気持ちを抱くことはない。珍しさをありがたがる考えはわからない。そのくせ、技量だけは他が悔しがるほどに伸びたのだ。ただ単に、有り体に言うなら金のため。東吾は朝顔のほんのわずかな違いにも目を光らせた。植木屋にも師事し、学び続けた。


 珍しい朝顔は、手をかけたからといって必ず咲くものではなかったが、それでも東吾はいくつかの珍花を咲かせ、まとまった金を手にしたのだった。


 だからこそ、久遠の家を去ることもできるようになった。

 世間から見れば、実家に捨てられ、養家からも不要とされた男でしかないのだろう。それでも、そんな半端者の東吾だからこそ、真っ当に咲けぬ珍花と心が通ずるのかもしれない。


 畢竟ひっきょう、朝顔は人と同じである。

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