ですが先生

ジュン

第1話

近くに牛乳はありますか。 牛乳を飲んで吐き出して。 主治医は言う。 牛乳ですか。 ちょっと 下の台所に行って冷蔵庫の中を見てきますと私が言って スマホを持ったまま下に降りて 台所の冷蔵庫の中を見た。 牛乳パックがある。 私はスマホで、ありますと答えた。 そうすると主治医はその牛乳を飲んで、指を突っ込んで吐き出して。と言った。 分かりました。と私は答えた。


私は、またやってしまった。 主治医から出された 薬 をまた一気に飲んでしまった。いわゆる オーバードーズなどと呼ばれている。 後日 クリニック に行くと主治医の先生は 照夫さん またやっちゃったね、 オーバードーズ 。と言った。 私は はいと答えた。 困ったね照夫さん。 オーバードーズ 止められないと 体に負担だからね。 わかってますと私は答えた。でも、やってしまいます。 どうしたらいいでしょうと先生に聞くと、 先生は 照夫さんはきっと僕には分からない 苦しみを 感じてらっしゃるのでしょう。が、 なんとか オーバードース やる手前で 止められるようにしないとね。 と言った。私はそうですね 。と答えた。


照夫さんは 今どのような悩みがあるのですか と先生が聞いた。私は まるで自分が マトリョーシカ のように どれだけ自分というものを深く洞察しても 全く変哲もないものしか発見できないのですと答えた。 そうですか。 先生はため息をつきながら言う 。つまり照夫さんは生きる目的を失っているんだ。 はい。と私は答えた。 しかし先生はこうも言う。


人間なんていうものは生きる目的なんて誰もはっきりとしたものは持ってないんですよ。まあなんと言うかただ適当に今日という日を生きていてそれが連なって人生になって最後死ぬというそれだけのことなんですけどね 。私は 確かにそうですねと答えた。 しかし先生、人間というものが人生なるものを 生き生きと生きることができる人と全く 絶望というものしか感じられないという人の 二つに分かれるのは何故なのでしょう。 そうですね。 先生は少し時間を置いて、違いがあるとすれば ちょっとした違いなんですよ。と答えた。 私は聞いた。ちょっとした違いというのはどのような違いなのでしょうか。 先生は答えた。それは 取るに足らぬ事で考える余地もないようなことですから答える必要はないのです と。 私は、 それでは分かりません。先生が何をおっしゃりたいのか。と 叱責すると先生はこのように言う。


人間というものは考えれば考えるほど 、考えない生き物になってしまうのですよ。 なぜなら考えれば考えるほど臆病になりますからね。つまり何かを行動に移す前に考えてしまうと、 やっぱりやめておこうかなどと判断してしまうことが多いですからね 。ですから照夫さん、あなたが幸せな人と不幸な人を見分ける力というものがあることはいいのだけれど、それの分岐点になるものの原因を探るということは、考えれば考えるほど ますます 照夫さん自身は不幸な人間のように分類されてしまうのですよ 。 考えれば考えるほど臆病になり臆病になればなるほど自分とは違う世界というものを恐れますからね。そうであるならば照夫さん、あなたが今不幸を感じているならば不幸とは違う幸福な世界というものをその憧憬というものに預かっても自らその世界に立ち入ることに強い恐怖を覚えるでしょう 。と先生はおっしゃった。 ああ、なるほど。私はそう答えた。


でも先生、 私は今の不幸を感じている人生というものを変えていくためには 今の自分というものを 考えて洞察を深めなければどのように幸せな自分というものにたどり着くことができるのですかと聞いた。 先生はそれは真逆なのですよと言う。 不幸な自分というものを深く洞察することは、幸せに繋げるということよりも不幸な自分というものをどれだけ 堪能できるかということなのですよ 。


私は声を荒げて反論する。不幸な自分というものを堪能するなどということは苦しみが増すだけで何の意味があるのでしょうかと。 先生は、このように苦しみというものは逃げれば逃げるほど追いかけてくるものですよ。ですから 照夫さんあなたが苦しみの中に染まれば染まるほどそんな 苦しみというものが実は照夫さんの存在の中で、かけがえのない 部分であるということがはっきりと分かるようになるものです。 苦しみというものはある意味大きな恵みなのですよ。


なぜですか。先生。と私が声を荒げて再度抗議すると先生はこのように答えた。よく考えてもごらんなさい。 苦しみというものを味わった人間は世の中に対しても他の人に対してもその観察眼というものはより深いものになっているでしょう。それは自分自身に対してもそうなのですよ。一見表象的には幸せに見える人とかあるいは幸せそうなカップルとか夫婦とかそういうものが偽善の恋愛を繰り返して本当の愛というものからはるかに遠い存在であるなどということは世の中にありふれていることなのです 。ですから 幸せの条件というのはただ単に安っぽい幸福論を 身にまとって いかにも私は幸せですといった態度で世に出ていくことではないのです。


しかし先生、私は確かに今不幸の中にいるのです。例え偽りの幸福を身にまとった人になることは望まないとしてもどうしたら本当に幸せな人になれるでしょうか。


照夫さん、あなたは今ご自分の幸せということに夢中になっておられるけれど本当の幸せというものは自分の幸せを望むことから実は生まれては来ないのですよ。と先生は言う。それはどういうことでしょう。と私は尋ねると先生はこのように 答えた。


人間というものは どれだけ自分以外の人を幸せにできるかということが、実は自分を幸せにすることと全く同じであるということなのです。つまり逆説的だけれども、自分の幸せというものは その対象が自分自身に向いている限り実現することはないのです。あなたが周りに誰でも良いのだけれど誰かを幸せにするということができたとき、初めてあなたは自分自身の幸せというものを感じることができるようになるのですよ と。 私は言った。つまり先生、幸せというものは 実は 分かち合うものであってそれが むしろ 他の人に向かえば向かうほど自分に返ってくるということなのですかと。 先生はそうですよ。と答えた。


その逆もまた真なりなのですよ。つまり不幸というものも他人を不幸にすればするほどますます自分というものも強く不幸というものを感じるようになるのです。ですから 人間が幸せになるためには、どれだけ 幸せというものを周りの人に与えられるかということなのです。 でも先生、自分の幸せのために周りの人に幸せを与えるというのは、それは目的が自分に向かっていて、手段が周りの人に向かっていて、つまりこれは目的と手段ということが逆を向いているから偽善ではないでしょうか。と私は尋ねた。 先生はこのように答えた。


偽善というものは その心というものが偽りの本心に依って相手の幸せなど全く願ってはいないのだけれどその果実としての幸せを奪い取るためだけに相手に施しを与えるということなのです。しかし本当の幸せというものは果実を奪い取ることで発現したりはしないものです。 と先生はおっしゃった。 そういうものですか。 と私は答えたのだった。


クリニックを出て帰路に着く。 電車で帰れば 10分ほどで着くが 歩けば 40分ほどかかる。 財布の中には あと 20円しかない。 私は思った。 疲労感が拭えないけれど 歩いて帰るしかないなと。 そうして クリニックを出て 駅の前を 通った時に 前を歩いていた 男が ズボンの後ろ のポケットに 財布をしまおうとしているところだったのだが 、その財布がズボンの後ろのポケットから抜け落ちて 道に落ちた 。 男は気づいてないようだ 。 私は 一瞬 その財布というものに 誘惑されたが 急いでその財布を拾うと こう言った。 あのすいません。 大きな声でそう言うと前を歩いていた男は 、はい、なんですか。 と 言った。 私は、財布落としませんでしたか。と言うと男はズボンの ポケットを確かめて あ、はい、 どうもすいません、ありがとう。 と言って私が拾った 財布を手に取った。 私は 財布の持ち主に きちんと渡したわけだが どういうわけか 電車賃すらもないけれど でも気持ちは晴れ渡っている感じがした。


次の診察の日私は先生に先日の出来事のことを話した 。


実は先生この前の診察の日の帰りにこのような出来事があったんですよ。何でしょうか。

実は帰る途中ある男が財布を落としましてね、その人は財布を落としたことに気づいていないんですよ。私は一瞬その財布に誘惑されて取ってしまおうかと思ったんですが、思い直して財布を拾って、男に、財布落としましたよ、と言って渡したんですよ。

その日は帰る電車賃もなくて歩いて帰るのは疲れるし、しんどいなと思ってたとこなんです。一瞬、財布からお金を取って 電車で帰ることも考えたんですけど それはしなかった。私はきちんと財布を男に渡しました。 そうですかと先生は言った。


先生、そうすると不思議なんですが私はとても満たされた気持ちになったのです。 帰りは結局歩いて40分かかりますが、何か気持ちが晴れ晴れとしていて家に着いた後も気持ちが良いのです。そうですかと先生は言った。先生、先生がこの前おっしゃった他人を幸せにすることで、それは自分に返ってくるというのはこういうことなのでしょうかと聞いた。

先生は それは一例ですよと答えた。


私は、先生、では私はこれからできるだけ他人に尽くして生きるようにしますと言った。 先生はしばらく黙った後それはまたちょっと違いますねと答えた。 私は違うのですかと思った。私は先生に聞いた。何が違うのでしょうか。 先生はこう答えた。


他人に尽くして尽くして尽くしすぎるということは実はそれはまた違うのですよ。 人間というものは必要な時に他人の力になるということは大事だけれど、自分を犠牲にしてまで他人に尽くすというのは、そこに一種の陶酔感を覚えて一つの私的な自慰行為であって 実は行き過ぎた利他精神なるものは、それこそがナルシシズムの代表例なのですよ。という。私は疑問に思った。しかし先生、先生はこの前他人を幸せにすることこそが自分を幸せにすることと同義だとおっしゃったじゃないですか。先生は、確かにそう言いました。と答えた。では先生、他人を幸せにすることは良いことではないですか。と改めて私は聞いた。先生は言った。

他人を幸せにするということは 結果として自分が幸せになるということを兼ねる行為だとしても、 相手を幸せにすることに夢中になってそれが自分を幸せにするための反射鏡として利用するというのは、それは間違いなのですよ。と言う。

なぜならばそれをすればするほど、相手は自分はこれほどまでも助けを借りなければ生きていけない人間なのだと思ってしまう。つまり自分の無力さというものを自覚させるがゆえに、自分は弱い、頼りない人間だと思ってしまうということがあるものですよ。と先生は言った。


私はこういった。先生つまり人間というものは助けられてばかりでは駄目だということなのでしょうか。 先生は黙っている。

先生、私が思うに人間は 助けてもらうことが時として必要ではあるけれど いつも助けてもらうばかりではその人は 変わっていかない 。

だから必要最小限の助けというものを 得ることは、どの人間も必要とすることだけれど、私は最小限の 助けというものを得ることができたなら、次は自分が他の人に対して与える助けというものも最小限に留めておくべきなのですか。と言った。

先生は、そうですね。その通りだと思いますよ。と言った。


先生逆に助けることも助けられることも 必要最小限にとどめるということは実は最大限助けることより余りあるほど助けることで、また助けられることでもあるのでしょうか。と尋ねた。 先生は全くその通りですね。と言った。

先生は次のように言う。


私は医者という仕事をやってますが、患者さんを助けるのが仕事だけれど、実はほとんど助けないのですよ。ほとんど力にはなれないということを経験の中で知ってますからね。助けなければ助けないほど患者さんは自立していくわけですが、しかし全く助けなかったら医者としては失格です。成り立ちません。 助けるということは実は助ければ助けるほど助けることになるということではなくて、必要最小限助けるということが実は最大限助けることで、照夫さんのおっしゃる通りですよ。と言った。


先生、では私は先生に助けてもらって頂いてますが先生は私を出来るだけ助けないように助けようとしてらっしゃるのですか。と聞いた。先生はそうですよ。だって考えてみてもごらんなさい。ここでただお話してるだけなんですよ。 お話ししているに過ぎないわけです。具体的には何の物理的な助けにはならないのだけれど、しかし、誰でも出来るような会話ということが助けることとしては微力ではあるけれども少しは照夫さんにとっては役に立ってるわけでしょう。と先生は言った。

私は、はいその通りです。と答えた。先生ありがとうございます。と私は言った。


お礼には及ばないのですよ。と先生は言った。 なぜでしょうか。私は先生にお世話になっているのに。と言うと、先生は次のように言った。


私は患者さんからいろいろなことを教わっています、日々診察する中で。患者さんは大概、私にありがとうございました、と言って診察室を出るわけですが、むしろ、ありがとうございました、と言うべきなのは私の方で、患者さんから毎回多くのことを教わっています。

本当はお礼を もらうには及ばない存在なのですよ。 と先生は言う。

私はそれはどういうことでしょうか。と尋ねると、 先生は次のように答えた。

つまり、患者さんの言動なり考え方というものを聞くと、いかに人間には普遍的な悩みというものがあり普遍的な悩みの原因というものがあり、また普遍的な悩みの解決の道というものがあり、つまりは回復に至る一連のプロセスがあるわけです。


全ての患者さんが快癒に至るというわけではないのだけれど、しかし人間というものは、誰もが皆違うのだけれども、同じような道のりで回復のプロセスを踏んでいくのを目の当たりにして、私はいつも人間というものの有り様の類似性みたいなものを患者さんから教わるのです 。


その中で得た考えの一つが、今話した、助けるということは実は度が過ぎてはいけない。ということなのですよ。

患者さんを助けること が同時に私が患者さんから助けてもらっているというのは事実だけれど、患者さんが医者である私を助けすぎているというのはおかしいでしょう。と先生は笑いながら言った。


私は笑いながら言った 。つまりオーバーヘルプ は いけないということなんですね、と。先生は少し黙った後に、 そうですね、 オーバーヘルプは確かに良くないですね。 同じようにオーバードーズも良くないですよ。と笑顔で言った。


私は笑った。そうですね。気をつけます。 お願いしますね。と先生は言った。


でも先生、私は 本当にオーバードーズしないかどうかわかりませんと言った。先生は そうですか。 私は助けにはなれないかもしれませんが、牛乳だったら助けになれるかもしれません 。どうぞ 冷蔵庫という診察室にいつも 牛乳という白衣より白い見た目の名医を常備しておいてください。と先生は言ったのだった。



終わり


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