隣の部屋は少し危険

内月雨季

第1章

 隣の部屋は少し危険だ。

 毎晩九時くらいになると線香のような、煙草のような甘い匂いがしてくる。

 だからできるだけ近づかないようにしていたのに。それなのに。

「ほんとはこんな事したくないんだけどねー」

 ……捕まった。


         三時間前


 早くしないと待ち合わせに遅れちゃう。多忙な彼とのせっかくのデートなのに……。三十分も寝坊してしまった私が悪いんだが。

 急いで用意した服を着てヘアメイクをして、玄関のドアを開けると、隣人がちょうど部屋に入ろうとしていた。

 気まずい……。

「こんにちは……」

 適当に挨拶を済ませて早く立ち去ろうとする。実際待ち合わせもあるし、おしゃれもしているから、向こうだって私にこれから用事があることぐらい見たらわかるはずだ。別に早く立ち去ろうとするのは不自然なことじゃない。

 ただ左手に持っている少し大きめのレジ袋が目に入って視線がそっちに行ってしまった。危ない危ない。

「ちょっとまって」

 背筋が凍った。視線に気づかれた? どうしよう。どうしよう。無視する?

「す、すいません。急いでるので」

「あんた、この中身が何かわかってるだろ」

「……はい」

「こっち来て」

 そう言って腕を強引に引っ張られた。

「え、ちょ」

 怖い。どうしよう。逃げなきゃ。どうしよう。

 家の中に連れ込まれる。

「何するつもりですか……? 放して……ください」

「あんたもしかしてこれからデート? 邪魔して悪い」

 え? もしかして、良い人……?

「そうです! だから、放してください」

「でもこっちとしてもあんたをこのまま帰すわけにはいかないから、許して」

 そりゃそうだよね……。生きて帰れるかも怪しいのに。

 そうこうするうちに、畳が敷かれた部屋に着いた。

 そっと視線を巡らせる。布団などはきちんと仕舞われていて、背の高い本棚がある。私の部屋と同じ間取りだ。うまくいけば隙を見て逃げられるかも……。と思いながら、こっそり隣人を盗み見る。

 よく焼けた肌に筋肉質な体。背は百八十センチくらいだろうか。真っ黒なショートヘアにはっきりとした二重の目。まっすぐな鼻に、形が整いぽってりした唇。歳は大学生くらいだろうか。とても薬物をやるような人には見えない。

「そこ座って。動いたら殺す。逃げようとか思わない方がいいよ」

 そんなこと言われたら座るしかない。あいにく私は護身術なんてやったことがないのだ。

 隣人がどこかに行ってしまった。と思ったら茶色いものを持ってきた。

「よいしょっと」

 腕をつかまれて後ろに持っていかれる。腰の辺りで重ねられてガムテープを巻きつけられる感覚がする。痛い。口にも貼られるかな。

「ほんとはこんな事したくないんだけどねー」

 ガムテープが巻き終わる。口に貼られそうになったらこいつの指を噛もう。……と思ったら貼る気配がない。

「……? あの、貼らないんですか? 口に」

「口に貼ったら喋れなくてつまんないじゃん」

「はあ……」

 さっきからこの人はなんなんだろう。殺すと言ったかと思えば急に懐っこくなる。ちょっと怖い。

「で、あんた名前は?」

「……早乙女、あや」

「綾瀬の綾?」

「文って書いてあや……」

 まずい。焦って本名を言ってしまった。

「かわいい名前……」

「どうも……。あなたは?」

「西園寺いと」

 これが偽名かどうかわからない。でも一応聞く。

「いとは普通に糸?」

「いや、伊藤の伊に、都でいと」

「珍しい名前……」

「でしょ? 結構気に入ってるんだ」

「西園寺はいくつなの?」

「二十」

「まだ若いのになんでそんなものに手を出してるの?」

「てことは文は俺より年上なんだ?」

「……二十五」

「まじか。まだ大学生だと思った。出身大学は?」

 これ以上情報を渡すのは危険すぎる。嘘つくしかないか……。

「K大」

「えー残念。俺K大落ちてW大なんだよね」

 私も実はW大なのですが。

「っだから、なんでまだ大学生なのにそんなのに手を出してるわけ? 結構な頻度で使ってるよね?」

 もう捕まってしまったからにはこいつに関係することはある程度話してしまおう。個人情報は絶対に言わないけどね。

「そこまでわかってるんだ。やってる理由なんて友達に誘われたからに決まってんじゃん。頭いい大学でも、こういうことってあんのよ? ていうかあんた今まで警察に通報してないの? 何回か匂ってくることあったんじゃない?」

「それは……」

 実は何回か通報しようか迷った。でもまだ若そうだしいつも挨拶してくれて感じも良いから、少しは目を瞑ってあげようと思った。

「まだ大麻だから大丈夫かなって」

「さすがおねーさん。大麻がそこまで危険じゃないのわかってるう」

「あんまり調子乗んない方がいいわよ」

「は? 何」

 やばいやばい。調子乗ってるのは私の方だ。ちょっとまって。そのナイフ何。怖い。早くしまって。

「ふふっ。ビビったでしょ」

「あなた結構サイコパスだね。すぐ殺すとか言って」

「まあこういう性格だから手を染めちゃったのかもねー。もうちょっと言動がまともだったら関わることもなかったと思うよ」

「……これから私をどうするつもり?」

「んー。シャブ漬けでもいいし、監禁でもいいし、俺に何されたい? なんでもいいよ」

「……逃げるって選択肢は?」

「あるわけないじゃん」

 そう言ってへらッと笑う。

 こいつは狂ってる。でもその瞳はまっすぐで曇ってない。おかしいな。私のときは、何も知らない友達にも心配されるくらい、おかしくなっていったのに。

 ……こいつは道を外れた方が性に合っているのか、それともこんなものじゃ壊れない何かがあるからなのか。

 知りたい。西園寺伊都のこと。どうしたら知ることができる? どうしたらあなたを救える? 仲間になったらそれができるだろうか。でもまた手を染めなくちゃいけなくなるだろうか。

 でも。

「……シャブ漬けで」

 伊都の口角が静かに上がる。

「そういうと思った」

 ……どういうこと?

 次の瞬間、右腕の中に冷たい金属が細い痛みとともに入ってきた。どうやらもう用意していたらしい。

 じわじわと懐かしい感覚がしてくる。ふわふわと心地良くなってくる。しゅわしゅわと脳が溶けていく感じ……。

「気分はどう? おねーさん」

「悪くない」

 次の瞬間、誰かの唇が、私の唇に触れた……気がした。

 



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