第5話 どんぐりを埋めた人

「おかえり」

「ただいまー!」


 木の下で待っていた紗也佳さやかの元に、唯央いおが走り込んできた。彼は背負った園リュックと首から提げた水筒を素早く降ろすと、それらを紗也佳に投げ渡してくる。


「ちょっと! 唯央! 投げないの!」

「たっちゃん達と氷鬼してくるー!」


 投げ渡された荷物をかろうじて全て受け止めた母を尻目に、息子は再び園庭の中を走り回り始めた。降園後一時間は、園庭で子どもたちが自由に遊べるのだ。遊び足りない子供達は、この時間を無駄にしない。

 

 その間迎えに来た親達は、園庭で子供を見守りつつ、雑談で時間潰しをすることになる。


「いつもここからが長いんだよ」

「本当にね」

「暑いのによくあんなに動き回るよねぇ」


 子供を待つ親達は、日陰を求めてアラカシの下へと集まってくる。雑談の内容は、もうすぐ切り落とされてしまう巨木についての話題となっていた。


「この木陰がなくなっちゃうの、結構死活問題じゃない?」

「気持ちのいい日陰を作ってくれてるもんね」

「セミの抜け殻見つけたり、秋には沢山どんぐりつけてくれて。子供にも良い遊びをたくさん分けてくれてたのに。寂しくなっちゃう」

「そうか。どんぐり遊び、できなくなっちゃうのか」


 うだるような暑さと午後の疲れも相まって、自然と皆ため息が漏れた。


「理事長先生も悲しむだろうね」

「お兄さんが植えたどんぐりが、大きく育った木なんだもんね……」


 あの日の保護者会に参加していなかった者にも、既にアラカシの伐採とその歴史についての話はすっかり知れ渡っていた。


「理事長先生にお兄さんがいたなんて知らなかった。しかも戦死されていたなんて」

「きっと家族にとっては、お兄さんそのものみたいな存在だったんでしょう。切ないね」


 走り回り跳び回る子供たちは、シラカシの太い幹に抱きつくようにして、風を切る身体の動きを止めた。

根の影にダンゴムシを見つける子供の笑い声が聞こえる。

ある子は、長細い葉の裏にセミの抜け殻を発見して歓声を上げていた。


 平穏にしか繋がらない無邪気な音に包まれながら、紗也佳は過去に思いを馳せていた。


 空想のその場面に巨木はなく、その代わりに小さく盛り上がった土があった。傍らに立つのは、唯央と同じくらいの少年である。


『理事長には、五歳年の離れたお兄さんがいました。お兄さんがちょうど年長さんと同じ六歳の頃に、園庭のあの場所にどんぐりを埋めましてね。それが成長して、あのアラカシになったんですよ……ええ、すごいですよね。子供が遊びで拾ってきたどんぐりは、あんなに立派な大木になるんです』


 以前、物理に詳しいある人から「過去も現在も未来も、時間は同時に存在する」という話を聞いたことがあった。今私達が体験している世界では、時間は一定方向にしか流れていないように思えるが、そうではないのだと。


 そうであっても、残念ながら紗也佳は過去に行けないし、体験していないことは記憶として垣間見ることすらできない。

ただできるのは、こうやって思いを馳せることだけだ。不自由なものである。


「お腹減ったー! おやつ食べたい。お母さん、帰ろう」


 腰に飛びついてきた唯央を受け止めながら、「もう!」と唇を尖らせる。


「人が感傷に浸ってるときに。あんたはいつもマイペースなんだから」

「え?」


 とぼけた声に思わず吹き出しながら、紗也佳は「帰ろう帰ろう」と木陰から抜け出した。友人たちに「また明日ね」と手を振った。

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