第3話 理事長先生
『理事長先生のお祖母様が、近所の子どもたちを集めて面倒を見始めたのが、始まりだったらしいよ。この辺、昔は農家ばかりだったから。農繁期には大人は子供の世話なんて、とても見れなかったんだって。私の母も、うろちょろする時期は腰に縄つけられて、柱に縄端を結び付けられてたって言ってた。今同じことやったら、虐待って大騒ぎだよね』
そんな話を聞かせてくれたのは、ママ友の一人だった。彼女の息子は唯央と同じ年長組で、母親である彼女自身もあすか幼稚園の卒園児だった。そんな親子が、この幼稚園では珍しくない。
『幼稚園として始まったのは戦後からだけど、形としてはもっと前からあったみたいよ。場所もずっと変わらないしね』
なので親子二代どころか、祖父母の世代から世話になっているという人もいる程だ。
転勤族の父を持ち、幼い頃から各地を点々としてきた紗也佳にとっては、同じ土地に根を張った生き方のように感じられる。どこか憧れを抱かせる話だった。
『理事長先生、最近遊びにこないね。調子悪いのかな』
『もうかなりご高齢だもの』
『心配だね』
最近はそんな話題が母親達の間でよく交わされた。バスでの送迎を行わない、今どき珍しいこの幼稚園では、行き帰りでの親同士の歓談の機会が多い。
理事長とは、この幼稚園を立ち上げた初代園長のことである。真っ白な髭をサンタクロースのように整えた長身の老爺で、大正の生まれだ。
三年前の唯央の入園式では、まだしっかりした口調で祝辞を述べていた。車椅子から立ち上がることはなかったが、その明朗な話し方は、九十を超えた老人を思わせるものではなかった。調子の良い日にはよく園に顔を見せ、園児達が遊ぶ姿を微笑を浮かべて眺めていたものだ。
『理事長先生、背が高くてスタイル良くてね! 今は車椅子に座りっぱなしだから分からないかも知れないけど、脚が長いの。肩車してもらうと、すごく遠くまで見通せる気がして楽しかったなぁ。よく順番待ちの子供の行列が出来てたよ』
自身が現役園児だった頃のママ友の話である。別の者は、
『理事長先生、いつも走ってたよ。おいかけっこでも何でも、子供の中に入って一緒に遊んでくれるの。先生なんだけど、お友達みたいに遊べる、そんな大人だったな』
こんな風に理事長との思い出を語った。
要するに、子供好きで子供と遊ぶことが上手な、保育者の鑑のような存在だったのだ。
彼は園長職を自分の息子に譲った後は、煩わしい事務仕事や外部との付き合いから開放されたとばかりに、気ままに保育現場に顔を出して楽しそうだったという。そんな日々が、数十年続いたのだ。
それが今年に入ってから、めっきり姿を見なくなってしまった。現園長によると、冬に患った風邪をきっかけに、入退院を繰り返すようになってしまったらしい。
「九十七歳かぁ」
過去に聞いた彼の年齢を反芻して、紗也佳は自分を守るように枝葉を広げるアラカシを見上げた。
「理事長先生とは、双子みたいなものだね」
呟いた独り言は、子どもたち賑やかな遊び声によって、あっさりかき消される。
誰もその言葉を耳にする者はいなかった。そのことを理解している紗也佳は、もう一言付け加えた。風に揺らされ、ざざざと鳴った葉音が、何だか不満げに鼻を鳴らしたように聞こえたからだ。
「失礼。あなたの方が少しお兄さんか」
きらきらと顔に落ちてくる木漏れ日が、嬉しげに紗也佳の顔を照らした。緑の葉越しに見える白い輝きが眩しい。見上げた紗也佳は顔を下げ、視界いっぱいに映った茶色の幹に触れていた。
やるせない気持ちが押し寄せて、ため息が漏れた。
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