ゆっくり読んでも遅いということはありません(吉本隆明)

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僕は主に文芸批評ということをしていましたので、それについての勉強法あるいは研究法についてお話ししましょう。

例えば、『源氏物語』を角川文庫で読んだとします。そうすると、その中で必ず数カ所あるわけですよ、おやっ、これはちょっと、ほかの本にもこれと似たところがあったな、とか、このことについて詳しく書いてある本を読みたいな、と思うところが。そうしたら、ほかのものを連鎖させるんです。

(…中略…)

連鎖反応でみんなつながってるぞみたいに思ってやれば、ゆっくり読んでも遅いということはありませんよ、というのが正直なところじゃないでしょうか。

連鎖で考えれば読む本も自然と決まってきます。はじめはここが必要だから、引用したいから、そこだけ読んでおけばいいや、ということで引用していると、そのうち、これはどこかにもあったな、というんで別の本をみる。僕はそんなことでひとりでにやってきたんです。別に無理してやってるわけではないんですね。

(…中略…)

それ以外なんの秘訣もない。勤勉でもないし、時間があればあるほどやるということはあり得ないということは経験上の実感です。

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吉本隆明『老いの幸福論』


ほかに、「暇があればたくさん読むと思うのも間違いで、暇があれば遊ぶだけです」とも言っていて、ここらへんの感覚はすごくよくわかる。わたしも暇があれば遊ぶだけだ。


大学の先生たちは意外とあまり本を読んでいない。学問の世界は専門がものすごく細分化されていて、一般人が聞いたこともないようなマイナーな学問分野の中に、さらに無数の学問分野が入れ子状にひしめき合っている。そうしたドマイナーな学問分野を専門として選んでしまえば、読むべき本や論文はおのずと限られてくるのだ。


吉本さんは専門家ではなく批評家なので、そういう風に分野を限定するということはしない。だからといって、あらゆる分野の本をすべて読むなんてこともしない。自分の関心の「連鎖」に従って、次に読むべき本を選んでいくのだ。しかし「分野の限定」にしても「連鎖」にしても、読むべき範囲を無際限に広げないという点では同じだ。結局のところ、人間はみな大したことがなくて、万巻の書を読める人なんていない。自分の限界を自覚するからこそ、自分にできることだけに力を入れることができるし、時間が余れば遊ぶこともできる。


吉本さんの言葉は決して人を追い詰めることがない。たくさん勉強した人がそうでない人に対して「そんなことでは全く話にならないね」とマウントを取る光景はネットなどでよく見かける。しかし、吉本さんは「ゆっくり読んでも遅いということはない」と言う。よく引用される吉本さんの言葉で「10年毎日休まずにやっていれば必ず一丁前になる」というのもあるけれど、これもまた、人を追い詰めないアドバイスだ。


吉本さんには、人はみな同じようなものだという発想が基本にあると思う。それはたぶん、吉本さんが親鸞について論じる中で身につけた発想だ。誰でも一生のうちに一度だけ念仏を唱えれば、誰でも往生できると親鸞は言う。たくさん修行した聖人だろうが、生きているあいだに悪事ばかり重ねた人だろうが、死の前ではみな平等だ。そこに「修行すればするほど往生しやすくなる」というような意識高い系の思想を持ち込んでは、死後の世界にまで格差を持ち込むことになってしまう。人間なんて、仏からみればみな同じようなものなのだ、というあの世からの視線を持ち込むことで、格差から解放されることができる。

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