言葉もまた天然知能なのです(郡司ペギオ幸夫)

まず、郡司ペギオ幸夫『天然知能』から引用。


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ところが、言葉もまた天然知能なのです。言葉を並べることで、組み合わせどころか、逆に外部の、想定外の意味が召喚されるのです。

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次に、高橋悠治『カフカノート』から引用。


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ことばは意味や解釈で言い換えるのではなく、そこから浮かび上がる音と影のような姿、夢見るような自分の声でない声、音階からはずれていく歌、遠くからきこえてくるような響き、唐突だが抑制された身振り、反復されながらずれていく動作、目の前で夢を払いのける手を感じながら、はこばれていくだけ。夢見る人のいない夢、突然の転換と停止。断片を断片として、始まりもなく終わりもなく、はじまったものは途中で中断され、流れの方向が変わる。

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郡司さんは理論生物学者で、高橋さんはピアニスト。小説家でない人たちの方が小説のことをよく分かっているのではないか、と思ってしまう文章だ。


上に挙げた2人の文章はどちらも「ことばのずれ」みたいなものについて述べていると思う。つまり、ことばは自分の考えていることを他者に正確に伝達するための小包みたいなものなのではなくて、解釈のずれを無限に引き起こす一種の媒体として捉えられている。そうしたことばのずれが感じられないと、小説はとても平板で、動きのないものになってしまう。


いわゆる「社会人」になると、こうした「ことばのずれ」を最小限に抑えることが要求される。契約書みたいに、誰が読んでも同じように解釈できる文章を使わないと、ビジネスで大きな損失を被ることもある。でもそれは、人間の身体にとってはとても不自然なことなのではないだろうか? 本当は、ことばはずれるのが当たり前なのではないだろうか。幼い子どもはそういう、ずれたことばを平気で使う。わたしは仕事をしていて、わけもなく気持ちが重苦しくなることがよくある。「社会人」が使う言葉の不自由さに疲れているのかもしれない。


子どものずれたことばに大人が素直に反応すると詩になる。以下は、藤井貞和『ピューリファイ!』所収の詩だ。


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子供


舌のまだよくまわらない子供が

「やきぼそ」といったので

おれは

やきそばのかわりに

ほそい「やきぼそ」をいためて食うたさ


子供が「おひねる」といったので

おれも

お昼寝しないで

おまえとまくらをならべて

「お日寝る」ばかりしていたさ


(…中略…)


おもしろいコマーシャルがあるねえ

地面がいびきをかいて

もちあがったりひっこんだりして

「土地はねていませんか?

すみともふどうさんです」


地面だって、ふとんをかぶって

ねていたいときがあるだろうねえ

おひねる、おひねる

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