文学は自己慰安(吉本隆明)
僕は文学というのは、根本的に自己慰安だと思っています。自分をなぐさめるために書く。偉大な文学者に聞いてみればきっとそう言うに違いないと僕は思っています。僕は偉大ではないですけど、そういう風に思うことだけはやめまいと思っているわけです。
吉本隆明 講演「ふつうに生きるということ」より
コメント:
雑誌BRUTUSでずっと前に吉本隆明特集があって、そこに引用されていた数々の吉本発言から孫引きしたもの。
表現するのは楽しいことだ。一人で書いていても楽しいけれど、それだけだと何となく寂しいから、誰かに見てもらいたいという欲が生まれる。でも、そこで相手の反応がすごく良かったり、逆にすごく冷ややかだったりすると、どうしたらもっと評価してもらえるだろうか、ということを気にするようになる。そして気がついたら、表現することが前より楽しくなくなってしまっている。
そうやって自分を見失ったときに、吉本さんのこの言葉は、元の自分に立ち返らせてくれる素晴らしい道しるべになる。
ただ、この「自己慰安」というのは、必ずしも「癒やし」という生やさしいものではない。結果的に癒やされることがあるとしても、そうやって自己慰安から生まれる作品は、他人から見るとおそろしく孤独なものになりえる。それは、自己慰安とは、その人が自分の孤独と向かい合うということでもあるからだ。吉本さんの初期の詩集を読むと、そのことがよくわかる。
以下、現代詩文庫の『吉本隆明詩集』から引用。この時期の吉本さんの詩はすべてを拒絶し、すべてから拒絶され、孤独はほとんど鋭い刃物のような危うささえ感じさせる。
ぼくを気やすい隣人とかんがえている働き人よ
ぼくはきみたちに近親憎悪を感じているのだ
ぼくは秩序の敵であるとおなじにきみたちの敵だ
きみたちはぼくの抗争にうすら嗤いをむくい
疲労したもの腰でドラム缶をころがしている
きみたちの家庭でぼくは馬鹿の標本になり
ピンで留められる
ぼくは同胞のあいだで苦しい孤立をつづける
ぼくのあいする同胞とそのみじめな忍従の遺伝よ
ぼくを温愛でねむらせようとしても無駄だ
きみたちのすべてに肯定をもとめても無駄だ
ぼくは拒絶された思想としてその意味のために生きよう
吉本隆明「その秋のために」『吉本隆明詩集』所収より抜粋
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