第4話
社会の歯車と労働者を揶揄する言葉がある。社会という巨大な機関を駆動させるため労働者は日々歯車になって回り続け、いつかは摩耗して新しい歯車と交換されてお役御免という構図を指しての言葉だと僕は考えている。
そして僕のような非正規雇用の契約社員の場合は歯車にすらなれないのが現実だ。巨大機関の社会を回す潤滑剤、油である。
歯車を始めとして機関の部品の隙間に入り込んで潤滑を助け、回転する機関の保護をして汚れていき、やがて汚れきった段階で新しい潤滑油と交換されてポイっと捨てられる油。そういう立場にあるのが非正規雇用者という存在だ。
歯車になれるだけマシというのが今の社会なのだ。銀河鉄道999のアンドロメダ星もビックリの社会情勢が現代の日本である。人は機械化しなくても歯車やネジになれてしまうのだ。何も考えず社会に労働力を提供する部品って訳だ。
そんな部品にさえなれない、何時かは捨てられる潤滑油の僕はと言うと、今日も今日とて社会の巨大機関の潤滑油を務めている。
「――でさ、あの時大岡の奴が言ったんだよ、ありえねーって」
「マジでか。そんな話になるなんてなぁ」
「――Si,nos divertiamos mucho. Cuando era pequeno,a veces salia con mi padre por ka manana temprano en la barca.Era muy divertido. Nos banabamos y ,a veces, pescabamos.Y tu Elena,donde veraneabas?」
「――Ga si Matsumoto makulit super kulit araw araw ...」
現在は昼休み休憩中で、場所は派遣先の工場内にある食堂。だから現在工場内の様々な部署の従業員が一斉に集まって食事をしている。仲間内で集まってお喋りするせいで食堂内は騒がしく、日本語以外でもスペイン語とかフィリピンで使われているタガログ語などが飛び交っている。
国際色豊かな職場、と言えば聞こえは良いが実際のところは人件費を安くしたい企業側とお金を稼ぎたい外国人側の思惑が産んだカオスな空間でしかない。
食事時は独りで静かに豊かに食べたいのが僕の信条なので――そもそも食事を共にする人間などいない――自分が座るスペースをさっさと確保すると食事を始める。
ここの食堂は外部委託している食堂従業員が作っており、味はそこそこ、お値段は安く、量も悪くないと平均的な企業の食堂になっている。日替わりでメニューが替わり、本日は鮭のムニエルを中心とした定食になっていた。
トレイでまとめられた定食にさっそく箸を付け、僕は周囲の雑音をスルーしながら無心で食事を進める。舌に感じる味に印象に残る物は無く、食事は空腹を満たすためだけの補給作業に成り果てていた。
そういえば、ここ何年か食事に楽しみを見出した記憶が無いな、と不意に思うが不毛な考えなのですぐに打ち切った。貧乏人にとって食事はカロリー摂取以外の目的は無く、機械が燃料を補給しているようなものだ。ファストフードやカロリーメイトを始めとした栄養補助食品なんてその最たる例だろう。
高カロリー高タンパク質のファストフード中心の食生活だと当然ながらデブる。今時の貧乏人は肥満と糖尿病に苦しむのがトレンドなのだ。対して金持ちは、適切な食事とジムでの運動を行い、金と時間をかけて健康的な肉体を手に入れている。ステレオタイプな金持ち像は肥満体だが、実際はスマートな体型をしているのだ。嘘だと思うならネットで公開されている世界の富豪の写真を見てみるといい。
かく言う僕も割と不摂生な生活をしているせいで肥満とはいかなくても、27にして早くも体にガタがきているように思える。
交代勤があるため週替わりで昼夜逆転生活になるし、金がないためロクな食生活を送っていない。ああ、こりゃガタがくるのも当たり前だ。この分だと三十代辺りで大病でも患って安い病院であっけなく死んでしまうかも。僕の未来はお先真っ暗だ。
閉塞感を感じる何時もの暗い未来予想。ただ、ここ最近は変化があった。これが閉塞感を打ち破る鍵になるのか、もしくは余計に悪化する因子になるかはまだ分からない。
鮭のムニエルを箸で割り裂いて口に運び、ご飯を口に入れて一緒に咀嚼、ある程度良く噛んだところで味噌汁で胃袋に流し込む。以上のことをさほど意識せずに作業的にこなしていく。箸を持つ手とは反対の手は、取り出したスマートホンを操作してメールBOXを開く。普段は広告のメールしか来ないBOXには、今日珍しく個人からのメールが入っていた。差出人は結城花蓮、内容は待ち合わせのお知らせだ。
『17時に赤久保のベシアにあるマックで待ち合わせ。色々と教えてあげるからよろしくね』
昨日出会ったばかりの僕と同じ『Angel War』のアプリを起動させて天使になった女の子。あの後、お互いのメールアドレスを交換してすでに何回かメールのやり取りをするようになっていた。
僕が天使になってまだ一週間の新人に対して、結城は半年の経験と実績があるというので天使としての様々なノウハウを学ぼうと手を組んだ相手になる。向こうも見返りに手を組める戦力が出来たので、良い取り引きだったろう。
今日にでも早速動くつもりらしく、送られてきた文章は短めで気がはやっているのが窺える。それでも年頃の少女らしく記号や絵文字が入っており、文面だけ見ても若々しさが伝わってくる。
指定された待ち合わせ場所も時間も問題ない。近所のショッピングモール『ベシア』内にあるファーストフード店は何回か利用した事があるので勝手は知っているし、時間も今日は16時の定時上がりなので余裕で間に合う。
『了解。よろしくお願いする』
スマートホンを操作して問題ないと返信する。結城よりも短く、装飾も一切無い素っ気ない文面だが僕は気にせず送信した。僕には絵文字や記号を使って文面を飾るセンスは無い。
アプリを使い天使の少女に変身する僕とは違って、結城は元から中学生の少女だ。世代が違えば話題も合わない。どこで正体がバレるか分からない以上は、慎重に接触しないとダメだろう。接触しないという選択は無い。ステップアップのために必要な事だからだ。
今日から始まるだろう結城の天使としてのレッスンに思いを馳せながら僕は食事を再開……ああ、いつの間にか食べ終えていたか。味に全く印象が無かったので食べ終えていたのに気付かなかった。
食事を終えて食器を返却口に返し、スマートホンで時間を確認する。後二十分は休憩時間はある。それまでは食堂でゆったりと過ごすつもりだ。
休憩時間が終われば憂鬱な仕事時間が待っている。しかし、それが終われば『Angel War』の時間だ。最近の僕はこの天使の時間に確かな楽しみを感じていた。そのためならば社会の潤滑油でもやってやろうという気になるぐらいには。
食堂の椅子に深く腰掛けた僕は、仕事の後にやって来る天使の時間を思う。後四時間強、待ち遠しいものだ。
□
「キリン、待った?」
「いいや、大した待ってはいないから気にしないで」
まるでデートの待ち合わせみたいなやり取りだな、などと僕は暢気な感想を最初に持った。結城との接触二日目の開始だ。
指定の時間通りに結城花蓮はやって来た。僕はというとその十五分前に集合場所のモールにあるマックに来て、周辺の状況を確認するところから始めた。日常的に利用しているモールだが、天使の視点で何か見落としがあるかもしれないからだ。
結城は学校帰りから直接来たのか昨日と同じ制服にダッフルコート姿で、対する僕も天使体装備のレザー風のジャケットとパンツ姿だ。場所が違うだけで昨日の焼き直しみたいな風景になっている。
天使体への変身はモールに入る前にカメラや人気が無い場所で済ませており、僕は一人の少女の姿で結城と向かい合っていた。
社宅扱いの自室からここまで自転車で十分ほどの近所。僕と違って正真正銘の少女で学生の結城がこの場所を指定するという事は、彼女もこの近所に住んでいる可能性が高い。だからこそ身元バレに一層気をつけないといけないと改めて思った。
ファーストフード店の隅にある二人用の小さなテーブルを挟んで、それぞれのトレイには僕がコーヒー単品、結城はコーラとアップルパイが載っていた。店に来て何も注文しないわけにはいかない。
席に着く前、結城は軽く周囲を見渡してこちらの会話を聞いていそうな人はいないか確認する仕草をした。今の時間帯は仕事帰りにしても学校帰りにしても微妙に早い時間帯で、マック店内はもちろんモール全体でも極めて空いており聞き耳を立てる人間は居ない。僕は交替勤で働くため時間が早いのだけど、結城はどうしてこの時間に来れたのか少し不思議だ。
用心深く席に座った結城の視線は、テーブルの上のトレイに移った。自分のコーラとアップルパイ、僕のコーヒー単品の対比が気になったらしい。
「コーヒーだけなの? 他に何か食べないの?」
「きゅう……じゃない、小遣いが少ないし、界獣を倒してBPをトレードしようにも軌道に乗ってないから」
「ふーん、大変そうね。なら、界獣退治が捗るようにしなくちゃ」
「ええ、改めてよろしく」
危うく給料が安いから、とか言ってしまうところだった。繰り返しになるが身元は極力明かしたくないし、不審がられても拙い。結城の前では天使仲間になろうとしている少女キリンとして振る舞わなくては。
「じゃあ、そうね……座学から始めようか。キリンはヘルプ機能を使って色々と知識を集めているみたいだけど、おさらいと認識のすり合わせも兼ねてね。天使に変身して気合いが入っているところ悪いけど勉強から入るわ。いいかしら?」
「分かった、お願いします」
そうして始まった結城の天使講座は手堅く座学から開始された。彼女が指摘したように僕は『Angel War』を理解しようとヘルプ機能を駆使してきた。そのお陰で僕は最初からある程度天使の戦いというものを知ることが出来た。ただこれは、マニュアルを読んで分かった気になっているだけであり、やはり実践して理解するには先人からの活きたノウハウが必要だった。
こう考えてたから結城からの話は真剣に耳を傾けるに値すると考え、コーヒーを一口飲んだ僕は姿勢を正した。安物で薄く苦いだけのファーストフードのコーヒーも意識を引き締めるには役に立つ。
「まずは、コレね。知っていると思うけどコレが基本ステータスの表示画面。私達個人個人の天使体の基本的情報がここにある」
「一般的なゲームと違ってステータスの数値とか表示されてないですね」
「そこはリアルな部分ね。天使体になる事で肉体の色々な能力は上がっているけど、素の部分は元の肉体と同じなのよ。肉体の色々な能力は単純に数字として表せるものじゃないし、力で足りなくても技術でどうにかしてしまえる場面だってあるわ。それらを考えるとこのステータス表示は現実に即したものでしょうね」
【結城 花蓮】
位階:大天使
固有スキル:絶対切断
BP:200,600P
たったこれだけの情報が結城の見せてくれるスマートホンに表示されている。これが『Angel War』の基本的なステータス画面だというのだから驚くほどにシンプルである。それにしてもBPの数値の高さは半年分のアドバンテージを考えても多いように思える。効率の良い狩りの仕方でもあるのだろう。だからこそ彼女の話は聞く価値があると思うのだ。
【雪代 キリン】
位階:天使
固有スキル:――
BP:100P
これが僕のステータスになる。結城のステータスと比べて貧相に見えるのは気のせいではないだろう。
後、名前の表示は後から変更も出来るとヘルプにはあったので昨日の内に本名から名前を変えている。ゲーム的にはフレーバー以上の意味は無い機能だけど、現実として戦闘を行い、金銭のやり取りもあるなら名前を伏せる意味は大きい。僕のように素性を隠したい人間は結構いるはずだ。
そして気になる項目としては『位階』と『固有スキル』。位階は何となく理解できる。結城の大天使の位階と合わせて考えれば、神秘思想家偽ディオニシウスが提示した天使の階級が用いられているのだと思う。きっと大天使の上には権天使や能天使があって、九つの階級、もしかしたら三つのヒエラルキーも導入されているかもしれない。要するにゲームにおけるレベルやランクみたいな物だと推測できる。
オタク的な雑学知識で位階についてはここまで考えが及んでいる。だが、固有スキルについては少し不明だ。普通のスキルなら別画面で見られるし、修得もそのページ行う。ここで別に表示してあるのは特別な何かがあるのだろうと思われる。ヘルプ機能を使っても表示される説明は今一つ不親切だった。ここはやはり経験者に質問をぶつけるのが一番だろう。
「それで結城さん、質問良いですか?」
「固いわね。花蓮で良いわよ、こっちもキリンって呼ぶから。で、質問は何かしら?」
「一応天使の先輩で、教えを受ける側なのでこのままで。質問ですが、この位階と固有スキルの意味って何ですか? ヘルプでも詳しく説明されなかったので」
「そこね。位階はまあ、あまり説明しなくても察しがつくと思うけど、ゲームで言うランクみたいなものね。そして固有スキルだけど――」
ざっくりと言ってしまうとその天使だけがもつ必殺技みたなものね、と説明が返ってきた。結城はパイをかじりながらより詳しい説明をしてくれる。
天使はBPを消費してスキルを獲得する。そのスキルを使って戦闘を優位に進めてさらなるBPを稼いで強化していく。これは一般的なゲームのキャラ強化と同じ流れだ。この時BPを消費して獲得出来るスキルは、BPさえあればどの天使でも獲得が可能なもので天使達の間では『汎用スキル』と呼ばれている。
この『汎用スキル』とは反対に、『Angel War』を始めた時から保有しているのが固有スキルになる。その天使個人のみが保有するスキルで、似たようなスキルは存在するが基本的に同じスキルは無くオンリーワンの能力になるそうだ。能力の内容も汎用スキルには無いユニークなものだったり、強力なものだったりと結城の言うように必殺技めいたものだという認識も間違ってはいない。結城の『絶対切断』という固有スキルも必殺技の言葉通りに強力な攻撃スキルなのだそうだ。
「僕の固有スキルの部分、これは固有スキルが無いという表示になるのですか?」
「そうね。基本的に『Angel War』を始めた時からデフォルトで固有スキルを持っているのが普通なんだけど、まれに条件を満たさないと解放されないスキルもあるって聞いたことがあるわ。私も初めて見るから断定できないけど、貴女のそれは多分そういうものでしょうね」
「となると、必殺技は当面お預けか」
「でも、悲観する程でもないと思うよ。あくまでネット上での噂だけど、こういう風に解放条件がある固有スキルって強力なものが多いって聞くわ。楽しみにとっておくのも良いと思うの」
結城は前向きに言っているが、僕はそこまで思考がポジティブになれない。まずその満たすべき条件が分からないし、本当に強力かどうかも分からない未知のスキルに変な期待をする気も起きない。こういうのは最初から無いものと考えて、獲得した時に初めて考えれば良いだろう。
つまり、疑問に思った位階と固有スキルは今のところ僕には関係の薄い話だったようだ。
「位階に関してはさっきも言ったようにレベルというか、強さの指標みたいなものかな。位階が上がると覚えられる汎用スキルも増えるし、固有スキルも強力になるから積極的に上げていきたいわね。次に武器なんだけど、キリンってどんな武器が来たの?」
「小型の拳銃ですけど、その言い方だとこれも天使ごとに違うのですか?」
「ええ、人目もあるから詳しくはフィールドでね。お察しの通り、武器の種類についても天使ごとに違うわ」
次に始まったのは天使が戦闘で使う武器についての話だ。当たり前だがここはショッピングモールの中であり、空いていると言ってもカメラや人目はあって武器を取り出しての説明は出来る訳がない。それでも経験者による解説はヘルプの何倍もの価値があるものだ。集中して拝聴しなくては。
コーヒーをもう一口。すでに中身は温ぬるくなって、苦味が増したコーヒーは飲むに耐えなくなってきた。
「天使の武器は実在する武器が元になっている物が多いけど、界獣への効果は段違いに高いわ。天使の中には家から持って来た猟銃で界獣を撃ったという話があったけど、あまり効かなくて何発も撃ったらしいわ。界獣は天使の武器じゃないと効率良く倒せないのよ。スキルの『付与』で界獣に効くようにも出来るけど、あれは使い終わった道具が消滅するし効果も天使の武器と変わらないから対費用効果からして微妙ね」
「……なるほど」
「まとまったBPが手に入って強化をしたいなら強い装備を買うのが一番手っ取り早いわ。強い武器で界獣を効率良く倒せるし、良い防具なら安全マージンを多く取れるようになる。この辺りはゲームのRPGと変わらないわね。本当にリアルにゲームをやっているみたいだわ」
何か思う所があったのか、結城は食べ終えたパイが入っていた紙容器を片手で弄びながら複雑な表情を見せた。深く聞くと面倒臭そうな地雷の気配がする。僕は見えている地雷は踏まない主義なのでこのままスルーする事にした。
代わりに考えるのはBPの使い道について。結城のアドバイスからすると装備の刷新が今後のステップアップの第一歩らしい。一応購入する装備の候補はすでにピックアップしており、結城にアドバイスを仰げばより完璧になるだろう。
「実はすでに購入予定の装備はあって、結城の意見が聴きたいのですが」
「良いわよ。どんなの?」
「こういうのですけど」
「――ふぅん……いいわね。でも弾数が少なすぎない?」
「そこはオプションでこういうのが。それ込みで予算内に収めるつもりです」
「なるほど。それにしてもキリンに割り当てられた武器のラインナップって銃火器が多くて物騒ね」
「物騒じゃない武器って無いと思いますけど」
「ぷっ……確かに」
結城にスマートホンの画面に出した購入予定の武器を見せて意見を伺うと悪くない感触が返ってきた。なら購入は決定だ。
結城の冗談交じりの言葉に僕も冗談交じりの言葉を返して、場が和やかになっていくのを感じる。不思議だ。他人とまともに会話をしたのは何ヶ月も前で、それも派遣会社の社員を相手に契約の更新のために一言二言ぐらいだった。なのに今の僕は割と人と話せているのが不思議だ。自覚が無いだけで会話に飢えていたのだろうか?
ともあれ、購入を決めた装備をBPを消費して購入ボタンをタップ。続けて買った装備のオプションも購入。一週間かけて貯めたBPが盛大に消費されていく。いや、これも投資の一つと考えるなら単純な消費ではない。消費した以上の成果を上げれば良いのだから。
購入した装備品はまだ装備していないため変化は何も起こっていない。だから本当に購入できたのか、購入した意味は本当にあったのかと急に不安がこみ上げてくる。この不安を解消する方法は一つ。実際に装備を手にして実戦に投入することだけだ。
「じゃあ、座学はこの辺にして次は実践に行きましょうか。買った武器の試し撃ちも兼ねて」
「――了解」
結城の天使講座は座学から実技へと移る。飲み終わったコーヒーを載っていたトレイごと片付けてモールの外へ。
外に出るなり強く冷たい冬の風が長くなった僕の髪を舞い上がらせる。僕が住んでいるこの地域は冬になると強烈な風が吹きつけることで有名だ。派遣社員として始めてここに来た時にはこの冬の烈風に驚かされたものだ。
この一週間天使に変身するたびに思うのだけど、風でバタつく髪が気になって邪魔になる。戦いの時に思わぬ障害になる可能性を考えればいっそのこと切ってしまおうか? いや、切ったところで変身の度に元に戻る予感がする。
髪を押さえながら漫然とそんな事を考えていると、後ろから少し遅れた結城が声をかけてきた。
「遅れてゴメン。これを買ってて……はい、あげる」
「え? これって」
「貴女が髪を気にしているのを見てね。気にしなくても良いわよ、そこの百均で買ったのだし」
結城が手渡してきたのはヘアゴム。ファストフード店の隣にある百円均一の店で買ってきたのだというそれは、装飾もないシンプルな黒いゴム製品だ。それを笑顔で渡してきた彼女は僕が髪を邪魔に思っているのを見抜いている。良く人を見ているものだ。
買ってきた物を断るのも失礼なのでありがたく貰う。「あ、ありがとう?」と戸惑いながらも礼を言って結城の手からヘアゴムを受け取る。受け取ったのは良いが、これでどうやって髪をまとめるのかは分からない。職場で女性の従業員が器用にゴムで髪を束ねている場面を何回か見ているが、じっくりと観察した訳でもないのでどういう動きなのかも分からない。
結城は僕のそんな戸惑いも察したようだ。
「ひょっとして髪のまとめ方が分からない? じゃあちょっと貸して、教えてあげる」
「あ、ああ、うん……」
僕からヘアゴムを半ば奪うように持っていくと、僕の後ろに回って髪を弄りだした。髪を引っ張られる感触が頭皮に感じられ、他人の手で体を触れられている感覚が非常に落ち着かない。肩に軽くかかる程度の長さを持った今の僕の髪が結城の手によって手際よくまとめられて、十秒もしない内に髪型が整った。
「はい、出来たわ」
「あ、ありがとう」
間抜けな声色で結城に二度目の礼を言う。考えてみれば誰かに面と向かってお礼を言った記憶はここ数年無かった。だから慣れない言葉に口は思うように動いてくれない。
モールのガラスを鏡にして自分の姿を見れば、ここ一週間で見慣れ始めた天使体の少女の姿が映る。そして少女の髪は頭の横でまとめられて触るとぴょこぴょこと跳ねている。ポニーテールの変形、サイドテールという奴だろう。
このくらい髪がまとまれば、多少の風でも髪で視界がふさがる事は少なくなるだろう。なるほど、ヘアゴムはこうやって使うものなのか。
僕がガラスに自分の姿を映していると、背後から結城が近付いて来て僕の肩に手を置いた。ガラスには戸惑う表情の僕と、笑顔の結城が並んでガラス越しに視線が合う。
「じゃあ、行きましょう」
「わ、分かった」
結城の手は肩から手へ。繋がれた手は引かれてモールの外へ。――天使講座実技編の始まりだ。
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