九 天空の社殿

 芦ノ湖。

 湖沿いの道を車で走って箱根園の有料駐車場に停めた。

 雛子が最後の一日を過ごすと決めた目的地は箱根神社の奥の院『箱根元宮』だった。

 短大生のときに初めて訪れた場所だ。壮大な景色に感動した。あのときは『ひとり卒業旅行』と称して寒々しい二月の下旬に訪れた。雪をかぶった富士山と芦ノ湖の眺望がとても美しかった記憶がある。

 

 そして人生最期となる今日。

 晩夏ばんかの天空の社殿の景色を目に焼き付けて、彼岸ひがんへと旅立つ予定だった。けれど残念なことに深く濃い霧に包まれて視界は最悪だ。富士山もまったく見えない。

 そのせいなのか。観光客は少なめだ。

 駒ヶ岳山頂まではロープウェイに乗って空中散歩する。ロープウェイが山上に移動する。車窓からの眺望は深い霧のせいでほとんど見えない。同乗していた観光客の中年男性はため息を漏らし、高そうな望遠カメラをリュックの中に仕舞い込んでいた。

 山頂に到着して駅舎から出ると、辺り一面が濃霧で真っ白だった。伸ばした手の指先さえも見えないほどの深い霧で包まれていた。

 風が強い。晩夏とはいえ少し肌寒かった。


 澄明ちょうめいな空気だ。

 霧に覆われた真っ白な風景はヘブン(天国)だ。汚れた下界とはかけ離れている。

 深い濃霧は『死』への旅路を殊更に連想させた。それなのに恐怖やわびしさよりも感慨かんがいまさっている。

 元宮に向かう歩みは死路を辿たどっているのかも知れない。けれどなぜだか気分が良くて『生き返る』とさえ感じてしまう。

 なんて神聖なのだろう。

 天空社殿の頂上を目指して、階段を一歩ずつ丁寧に登る。

 視界が悪い。一寸先は闇の如くに濃い霧に覆われている。

 途中に『馬降ばこういし』を視界に捉える。思わず写真を撮ろうとスマホを取り出して、ふとむなしい行為だと気づく。

 もうすぐこの肉体は。私という存在は。この世から忘れ去られ。消え去るのだ。

 

 頂上から階段を下りてくる人影がうっすらと見えてきた。一本前のロープウェイに搭乗して参拝を済ませた観光客が天空社殿から下りてきたのだろう。

 雛子は馬降石の脇にけて人影が通り過ぎるのを待った。

 濃霧でぼんやりしていた人の輪郭が徐々に明らかになる。近づいてきて、姿が明瞭になって、瞳に映されていく。

 三人だ。親子だ。

 

 ……あの少年だっ!

 

 心臓が早鐘を打つ。

 あの少年が弾む足取りで両親と階段を降りている。壮大な草原の参道を歩いている。

 思わず凝視してしまう。三十日間探し続けて夢にまで見た少年がすぐ目の前を歩いているのだ! 雛子はひざがガクガクと笑って全身が震えて声が出ない。

 すれ違いざまに少年と視線が合わさった。恵林寺のときと同様に不意にペコリと頭を下げられた。

 雛子は咄嗟とっさに反応できずに呆然ぼうぜんと立ち尽くしてしまう。ただひたすらに通り過ぎていく少年の横顔から後ろ姿を瞬きもせずに見つめていた。

 少年の姿は濃霧のせいですぐに見えなくなってしまった。

 ハッと我に返って、追いかけようと手を伸ばして一歩踏み出した。

 その刹那。階段の遥か下方から。何やら大きな物体が駆け昇って迫り来た。あまりの勢いにおののいて思わずたじろいだ。

 そして雛子の目の前に、その物体はピタリと静止した。

 

 それは光り輝く白馬あおうまだった。

 

 白馬にまたがっていたのは見目みめうるわしい男性だった。三十日前に恵林寺の庭園で出会った『あのシャーマン』だった。ロココ調のウエストコートとブリーチズ。ロングブーツに白馬ときたら! まさに『白馬はくばに乗った王子様』そのものだ。

 雛子は震えながら確認する。途切れ途切れに言葉を絞り出す。

 「……あの? 少年に会え、ました。ミッションクリア、ですか? えっと、シャーマン、なれる? わたし、今日、死ぬ。……シャーマン、なりたいです」

 不自然なほどカタコトの日本語になってしまった。しかし必死に熱願ねつがんした。

 白馬に乗った男性は華やかに笑った。

 「私の名は『ゲイル』。極等万能祭司四人衆のひとりである。

 お前は死後。天上界の外天がいてん院『藍方らんぽうせい』に迎え入れられる。では後程のちほど。また会おう」

 そう端的に告げると。ゲイルは白馬と共に颯爽と天空を駆け抜けた。光の筋をたなびかせて遥か彼方の空の向こうに消え去った。

 

 雛子は不可思議なる現象をすんなりと受けれていた。心はすうっと穏やかになった。

 粛々しゅくしゅくと元宮をお詣りした。神々に真摯しんしに御礼を伝える。

 「二十二年間の人生、まっとうできました! ありがとうございました!」

 腰を折り曲げて深々と頭を下げた。

 ロープウェイでくだる。

 やはりもうすでに、あの少年の家族の姿はなかった。

 

 駐車場に戻ってレンタカーの運転席に乗り込んだ。

 ……こんなに元気だけど? 本当に今日死ぬのかな? シャーマンになれるのかな? 

 少し喉が渇いたからペットボトルのお茶を飲もうかな……。

 心臓がズクンッ! 大きな音を立てた。

 

 雛子の生前の記憶は、ここで、途切れた。

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