六 恵林寺
休日の水曜日。
勤務先の不動産屋の定休だ。まだ梅雨の明けきらない七月半ば。しとしと雨の降る早朝。レンタカーを借りて少し遠出をする。
今日の目的地は山梨県の恵林寺だ。
自宅の西東京市から青梅街道をひたすら進む。奥多摩を抜けて
武田信玄公の菩提寺である恵林寺手前の駐車場に車を停めた。雨は上がって青空がのぞいていた。穏やかな風に流される厚い黒雲からは天使の
「おおっ! 縁起いいかも!」
軽快な独り言を漏らして参拝に向かう。
今日のファッションは中学時代から着用しているよれよれジーンズとTシャツ。つま先が擦り切れた男性用スニーカーである。Tシャツは妹マコのお下がりだ。
日差しが強くなってきた。日焼け止めをケチったことを少し後悔した。顔だけでなくて首回りや腕にも塗るべきだった。髪は
開山堂の前に立って真剣に祈る。
「どうか私をシャーマンにしてください!」
朝方が雨模様だったせいだろうか。境内では散歩する老夫婦を見かけたくらいで
いつもなら一日に数か所の寺社を慌ただしく巡るのだけれど。今日は空いているし特別だ。たまには一か所を満喫してみようかと思えて
拝観料を納めて。古い木製の靴箱に
しかし、まだ履ける。家族からは『馬鹿の大足』だと
踏むとギイギイ音が鳴る『うぐいす廊下』を歩き始めると、ちょっと楽しくなった。おのずと心が
うぐいす廊下の先には一組の家族の姿があった。五歳くらいの男の子とその両親だ。
男の子はふいに振り返って雛子の顔をジッと見つめた。視線が重なるとペコリと頭を下げてきた。雛子は思わず驚いて。だけど慌てて頭を下げた。顔を上げると男の子はすでに背中を向けていた。
少年は、うぐいす廊下を音を立てないように抜き足、差し足。そうっと歩く。
だけど忍び足をしていても高い
穏やかな家族の光景はなんとも微笑ましかった。なぜか胸の奥がズクンッ! 音を立てて
……もしかしたらほんの少しだけ。仲の良さげな家族が
うぐいす廊下を抜けた奥には武田不動尊が
家族が立ち去ると、雛子は不動尊像のすぐ目の前に着座して祈った。
「どうか私をシャーマンにしてください!」
真っ暗なご胎内巡りを通り抜けたときには先ほどの親子の姿はすでになかった。
ひとり貸し切り状態の恵林寺の庭園を木製ベンチに腰掛けてゆっくりと鑑賞した。
……今までは急ぎ足で寺社巡りをしていたけれど。こうした
静かな空気が
雛子は空気感の変化から不思議な『何か』を察知した。そしてこの異様な超常的アンビアンス(雰囲気)は錯覚ではないと確信した。
目の前には若くて見目麗しい長身の男性が
儚い存在感しかない身体は、透けているのだった。
年齢は三十歳前後くらいだろうか。身長は百九十センチはありそうだ。艶やかな髪は後ろで一つに束ねられている。
一斉に多くの思念が去来する。
……ついに見えてしまった! あの世と交信できる能力が開花したのだろうか。この世の現実という呪縛から解き放たれたのだろうか。もしかしたら! シャーマンへの道筋が拓かれたのだろうか!
雛子はゾワゾワしながらも歓喜の念が抑えきれず紅潮する。目の前に立つ美しい男性がギロリ、
『お前はシャーマンになりたいのか?』
思いがけない問いかけに雛子は目を見開いた。
……この男性は私の心の中を見通しているのかもしれない!
「はい! シャーマンになることが私のたったひとつの夢なのです!」
男性は意味深にニヤリと口角を上げた。
『シャーマンの能力を授かりたいのであればチャンスミッションを与えてやる。
ミッションは、うぐいす廊下で挨拶を交わしたあの少年と再会すること。三十日以内に達成できたなら、お前にシャーマンとしての能力を伝授してやろう。今のこの瞬間より三十日の間にミッションをクリアするのだ。
そしてお前は今日から数えて三十日後に死ぬ。定められた寿命だから必ず死ぬ。命尽きる最期の一瞬まで藻掻いて足掻いてみるがいい』
そう言い残すと男性はすうっと消えてしまった。
雛子は
三十日後に死ぬと言われた衝撃や恐怖からではない。シャーマンになれる
……やった! 遂にチャンスが到来した!
そもそも現世に未練などない。大層な夢もない。未來に期待も希望もない。執着している人間もいない。早死にしようが長生きしようがどちらでも良いのだ。
それよりも! 無謀な夢だと思われたシャーマンへの道に活路が示されたことは奇跡だ。感激で涙が
さあ、こうしてはいられない!
頭の中では、身体の透けた長身男性の言葉を
『ミッションは、うぐいす廊下で挨拶を交わしたあの少年と再会すること。三十日以内に達成できたなら、お前にシャーマンとしての能力を伝授してやろう』
さっきの親子はまだ恵林寺の敷地内に居るだろうか。焦る、焦る、焦る!
宝物館、食堂、売店、駐車場。境内の敷地を
遅かった! もうどこにも。あの少年の姿は見当たらなかった。
肩で息をして呼吸を整えた。雛子は迷いなく決意する。
今すぐ仕事を辞める。
例え
どうせもうすぐ死ぬ。深く思い悩むことはない。わずかばかりの貯金など使い果たしたって構わない。レンタカーはクレジット決済で延長した。恵林寺の駐車場から退職代行業者に電話した。
シャーマンへの道のりは甘くないはずだから。すべてを投げうたなければ叶うはずがない! そう妙に納得して。気づけば即座に行動していた。
だけど手がかりが無い中での人探しは無謀だ。あの少年がどこに居住しているのか。名前はなんというのか。歳は幾つなのか。情報は皆無なのだ。
だけど、なぜだか、予感がする。
視線を交わしたあの少年と再会できる。
あの少年と何らかの形で運命が
そして私はシャーマンになる!
雛子には確信めいたハンチ(直感)があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます