第60話 名前
「たしかに見たことない。じゃあ、もしかして私たちはゾンビにならない?」
「では、ゾンビになってしまう条件がわからなかったのは、そもそもそんなものが存在しなかったから、ということでしょうかー?」
詩穂の言う通り人がゾンビになる瞬間を見たことはない。
けど、なった人ならいた。
「待て待て。それじゃ話が矛盾する。
「それはキミの知る知人たちじゃない。世界線が違う同一人物って言えばわかるかな? ドッペルゲンガーみたいなものさ」
「あっちの世界に自分と同じ人間がいるってのか」
「そうなる。キミ達のゾンビもいるかも知れない。こちらの世界に来ているかどうかは別にしてね」
自分のゾンビか。決して会いたくない相手だな。
「とにかく、キミ達が、この世界の人々が、ゾンビになることはない」
「……それを証明する手段は? 納得がいくものなら上を説得できるかも知れない」
「そうか、証明さえすれば」
今回の作戦が物料投下で終わったのは、俺たちにゾンビ化の恐れがあったから。
それがないと証明できれば航空機に乗せてもらえるかも知れない。
この街から脱出することができる。
「どうなんだ? ボイス」
「証明には時間が掛かると思う。ゾンビ化の原因はウイルスだ。ゾンビパニック映画の定番さ。噛まれたり体液が粘液に触れたりしてウイルスに感染するとゾンビになるんだ」
「なのにゾンビになんないの? あたしたちって」
「あぁ、僕たちにはゾンビウイルスに対する抗体がある。これはあちらの世界の人類が獲得できなかったものだ」
「抗体……」
「ゾンビウイルスは元々両方の世界にあった。流行した時期が違ったのか、進化の過程に生じたズレなのか、時の運なのか。とにかくあちらの世界の人類はゾンビウイルスを克服できなかった」
「じゃああっちの世界ってのはすでに……」
「何世紀にも渡って抵抗していたようだけど、恐らくは全人類が絶滅しているだろうね」
あり得たかも知れない、自分たちが歩んでいたかも知れない、一つの結末。
人間という種族が絶滅し、ゾンビという歩く死体が闊歩する未来。
きっと、いま俺たちが置かれている現状よりも遙かに、比べものにならないほど悲惨な過程を経てそうなってしまったんだろう。
想像するだけで胸が苦しくなる。
「キミ達がいる施設のどこかにゾンビウイルスに関する資料があったはずだ。それを手土産に交渉するといい。まぁ、さっきも言ったように時間が掛かると思うけどね」
「そう……だな」
「資料があっても実証しなければ意味がない。動物実験から始まり、あらゆる条件下での反応を記録し、倫理的な問題のクリアも必要だ。ほかにもまだまだ盛りだくさん。民衆を納得させるための時間と風評被害や差別に対する対策もとなると」
「道は遠いな……けど、一歩を踏み出さなきゃ永遠に前には進めない」
「その通りだ」
交渉が成立しても迎えが来るのはきっとかなり先の話になる。
自衛隊の人たちも、俺たちも、明日をも知れぬ身だ。その日が来るまで生き延びて居られるか正直わからない。けど、遠くても希望があるという事実は勇気をくれる。
心の支えになるはずだ。
「私からも質問、いいですかー?」
「あぁ、もちろん」
「では、この施設はいったいなんなのでしょう? なぜここにパラレルワールドに関する資料がこんなに?」
「ここは……そうだね。そろそろ話してもいいか。ここは僕の友人が建てたんだ」
「ボイスの」
「ボイスに友達なんていたんだ」
「はっはー、今のは傷ついた」
咲希の口が滑ってしまった。
俺も思ったけど口には出さないようにしてたのに。
「けどまぁ意外かも知れないけど居たんだよ、その昔ね。彼は昔から世界がこうなることを予期していたんだ。私財を投げ打ってこれらの資料を集め、その時期がいつなのかを賢明に言い当てようとしていた」
「なにものなんだ? その友人は」
「ただの変わり者さ。最初はどこにでもいる終末論者だった。けど、不幸にも本当の終末論を知ってしまったんだ。なにが切っ掛けだったのかは聞き出せず終いだったけど、彼の努力が成果がこの施設の正体さ。キミ達の来訪によって彼も報われたことだろう」
「……その方のお名前はなんと言うんですかー?」
「
花尾千尋。顔も声も好きな物も知らないこの人のお陰でわからないことがわかった。希望を持てた。生涯、忘れられない名前の一つになることは間違いない。変わり者なこの人に感謝しよう。
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