ぐるぐる宇宙

@robot_akira

D→E

八月一三日


「酸素の残量、予測通り。えーっと、食料も持ちそう。これで今日の分の報告を終わるね。本日のメインパーソナリティーは高橋楓でした! サンキュー!」

 勢いよく、マイクの電源ボタンを押して接続を切る。

 凝った体を伸ばすために椅子に座ったまま、両腕を頭の上で組み、ぐーっと背伸びをした。

「ふぅ……」

 連日の報告のマンネリ化から後半は少しふざけてみた。私は飽き性なのだから許してほしい。まあ、松戸は怒らないだろう。たぶん。

腕を伸ばしきったまま周りを見回すと、銀色の壁に、いかにも機械らしい機械が並んでいる。そして横に広がった楕円形の窓の外には、漆黒の闇の中にぽつぽつと微かな光が散らばっていた。

私は今、宇宙にいる。ちょうど太陽系を抜けたあたりだ。


 私はただの酒カス・ヤニカスの留年間近の限界大学生である。

 そんな私がなぜ、広大な大宇宙を漂っているのか。事の顛末は三日前まで遡る。

八月一〇日


「高橋! 宇宙旅行に興味ないか⁉」

 微妙にまだ夏の面影が残っている昼下がり。

その男は下宿先の私の部屋の前に来た。

額に汗を浮かべているだけでなく、ワインレッド色のシャツの脇や胸元が汗で色濃くなっていること、冴えない黒縁の眼鏡を掛け直そうとしている動作から、急いで私の部屋まで来たことが伝わった。

「興味ないです。お引き取り下さい」

 そう言ってドアを閉めようとする私を彼は慌てて引き留めようとする。


 彼は松戸高志という。大学の写真サークルの同期だ。学部は理工学部。専攻しているコースの詳細を聞いたことがあるが、文学部の私にはどこかの国の古の呪文のように聞こえ、唯一わかったことはなにやら難しそうな研究を行っていることだけだ。

 そんな松戸に「なぜ写真サークルに入ったのか」と聞いたことがある。すると彼は、

「研究の際に記録写真を撮る必要がある。しかし、僕は写真を撮るのが壊滅的に下手だ。だからこのサークルで写真の腕をあげたい!」

 と、熱意たっぷりに語っていた。

 松戸が撮った写真を見せてもらったこともある。……チンパンジーに撮らせたほうがもっと上手い写真を撮るだろう。

 松戸は理工学部の研究室にも所属していて、同じ学問に励んでいる仲間たちと日々、様々な実験を行っていた。

 ある日、バイト終わりにカップラーメンをすすりながら、テレビを観ていると松戸が鳥人間のパイロットとしてお手製の飛行機に乗り込んでいた。

「なにやってんの」

 松戸が乗っていた飛行機は助走し、離陸すると同時に落下を始めた。

『記録は五二センチです!』

 うなだれる鳥人間チーム。

 しかし、松戸だけは悔しさを浮かべることなく、沈みながら自分たちの飛行機の改善方法を考えているように感じた。

 またあるときは、大学のグラウンド内をお手製のバギーで走り回っていた。

 しかし、大学に許可を取っていなかったようで、教授や職員から大目玉を食らったようだ。

 とにかく、松戸は変人なのだ。そんな人が私の部屋に来た。

「で、なに?」

 外だとご近所さんの迷惑になるので、松戸を部屋に引き入れ、とりあえずジョッキに入れた麦茶を出しながら聞いた。

 松戸はそれを怪訝な顔で見た後、勢いよく、ぐいっと飲み干した。

「単刀直入に言おう。宇宙旅行に行ってほしい」

「わからん、わからん」

「頼む!」

「わからんて」

 テーブルに額がくっつきそうなほど、頭を下げた松戸を見ながらそっと煙草に火をつけた。

「……煙草は体に毒だぞ」

「うるせえ。脳のニコチン器官が煙草を求めてるんだよ」

「そんなのがあるのか⁉」

「あるわけないだろ、バカかお前は」

「な、ないのか……」

 わかりやすく落ち込む松戸を見て、少し笑ってしまう。

「ったく、お前は騙されやすいなあ」

「そんなことはない、はずだ」

 私たちはいつもこんな感じだ。私がからかって、松戸が落ち込む。この心地よい関係が好きだ。松戸の方はわからないが、まあ話してくれるってことは悪く思われていないはずだ。

「それで本題に戻るんだが」

「宇宙旅行でしょ? そりゃ行けるなら行きたいけど、普通に考えて無理でしょ」

「それがもし行けるって話があったら?」

 嘘を言う男ではない。私をからかうユニークさも持ち合わせてはいない。

 そんな松戸の言葉に少しの驚きを覚える。

「珍しいね。君がそんな冗談を言うなんて」

「冗談じゃない」

「またまた~」

「本気だ」

「はーい、私は信じませーん」

「本気だって言ってるだろ!」

 普段の表情からは想像できないほどの真剣な表情。そんな松戸の言葉に思わず、「ごめん」と口から言葉がこぼれた。

「いや、こっちこそ大きな声を出してごめん」

 お互いの間を気まずい空気が流れる。誰かこの空気を、この沈黙を壊しておくれ。

『本日、東京湾にリュウグウノツカイが打ち上げられているのが発見されました』

『これで六日連続ですね。地球温暖化の影響でしょうか』

『そうですね。私の研究ではこのようなデータが——』

 テレビの画面ではニュース番組でキャスターがなにやら真剣な面持ちで話をしている。

「そ、そうだ! 桃鉄でもやろうか!」

 この空気を壊せる勇者は現れなかったため、私が勇者となるしかない。

「いや、やらない」

 はい、勇者死亡。どうしろってんだ。

「宇宙旅行なんだけど、本当なんだ」

 松戸は俯きながら、話し始めた。

「信じられないとは思うんだけど、今、大学に宇宙船がある」

「……え? まじ?」

「うちの研究室の隣に大きなガレージがあるのは知ってるだろ?」

「ああ、あの五二センチ鳥人間が置いてあるとこ」

「そう。今そこに宇宙船が置いてある」

「なんでよ⁉」

「……理由はまだ、話せない」

「なんでよ~」

「とりあえず、えーっと、今日の二一時にグラウンドまで来てほしい。俺の研究室のメンバーが集まっているはずだからすぐわかると思う」

「いや、私まだやるって言ってないし」

 松戸は信じられないものを見たかのような表情で私を見た。

「いやだって! 普通に怪しいし怖いでしょ!」

「そこをなんとか!」

 両手を合わし、再び頭を下げている松戸。

「え~、今日の二一時から観たいドラマあるしな~」

「うちのゼミの橘教授が『来てくれたら学部違うけど、特別に単位あげる』って言ってた」

「喜んで参加させていただきます」

 この時の松戸の安堵した表情は絶対に忘れることはないだろう。


 二〇時三〇分。

 とりあえず着替えと歯磨きセット、酒瓶、カートンで買ってあった煙草をバッグに入れる。なんせ初めての宇宙旅行だ。なにが必要なのか皆目見当もつかない。

『本日、墨田川では夏の花火大火が開催されております。』

『いや~、これがないと夏って感じがしませんなあ』

『そうですよね~。えっと、ここで速報です。菊池総理大臣の緊急記者会見がひら——』

 BGM代わりにしていたニュースを消し、私は部屋を出た。

 夏特有の蒸し暑さが体に纏わりついて気持ちが悪い。

 私の下宿先から大学までは歩きで一五分ほどである。寝坊しても取り返しがつくように大学から近くの下宿を探した。だが、今日は遅刻してはいけない雰囲気を嗅ぎ取ったため、余裕をもって家を出る。限界大学生ともなると、遅刻していいタイミングとしてはいけないタイミングを的確に嗅ぎ取ることができるようになる。素晴らしい才能だ。

 大学の正門をくぐると、左側にレンガ調の古めかしい校舎。右側には芝生で覆われたグラウンドがある。グラウンドはラグビーの試合ができるほど広大であった。そして、そのグラウンドの真ん中には白衣を着た教授と生徒が集まっていた。彼らは巨大な銀色の物体を囲むようにして集まっている。

「あ、松戸さーん! 例の彼女、来ましたよ!」

 松戸の後輩だとかいう黒髪でショートカットの女子が私を見つけ次第、大きな声で松戸を呼びだした。

「おお! 高橋!」

 しばらくした後、肩を大きく上下に揺らし、絶えそうになっている息で黒縁の眼鏡がずれている松戸が私の元へと駆け寄ってきた。

「はい松戸、これ」

「ん? なんだ?」

「差し入れ。でもこんなに人が多いって知らなかったからちょっと足りないかも」

 ビールにスルメ、柿ピーが入った袋を松戸に渡した。

 その袋を大事そうに抱えながら、嬉しそうに「ありがとう」と言った。

「ちょうど準備も終わったとこだ! こっちに来てくれ!」

 松戸は私の右手を掴んで銀色の物体へと走り出した。

 思ったよりも多くの人がいるんだな、などと考えているうちに銀色の物体の目の前まで連れてこられていた。

「これが言っていた宇宙船?」

「そうだ」

「まあ、これはなんとも……」

 全体的に丸みを帯びている宇宙船。だが、不思議なことに飛行機のような翼もロケットのような噴射口も存在していなかった。大福を銀色にしてそのまま巨大化させたような、不思議な宇宙船だった。

「本当に飛ぶの、これ」

 半ば、いや九〇パーセントほど不信感が募った。

「飛ぶ」

「すごい自信満々に言うじゃん」

 飛ぶと信じて疑わない松戸に驚きつつ、彼がそういうのなら飛ぶのかもなあとも思った。

 それほど彼の言葉には謎の自信が漲っていたのである。

「それじゃあ早速、乗ってくれ」

「え! もう⁉ 早くない⁉」

「さあ! 急いで!」

「いやでも、乗るって言ったってどこから?」

 そう、この宇宙船には入口がない。大福に入口がないようにこの宇宙船にもないのだ。

「そこのパネルに右手をかざして」

 そんなアニメみたいなことあるかかいな。

 言われた通りに外板に同化して見えにくいパネルに右手をかざした。

 一拍置いて、ウイーンと機械的な音と同時に目の前の外板が開いた。

 そんなアニメみたいなことありましたわ。

「え、どうなってんのこれ⁉」

 とりあえず宇宙船の中へと足を踏み入れてみた。宇宙船の中は外の空気と違って、ひんやりとした空気が流れており、夏だというのに少し肌寒かった。

「おい、松戸これって——」

 振り返った私は自分の目を疑った。松戸が左目から一滴、静かに涙を流していたのだ。

「あ、ああ。見ての通り宇宙船だ。さあ、早くコクピットへ」

 その涙を隠すように袖で拭った松戸は笑顔で私をコクピットへと促した。

「松戸は乗らないの?」

「うん。俺は地上でやる仕事があるから」

「そっか。あ!」

 白衣を着た研究室の面々の中に橘教授を見つけた。

「橘教授! 約束通り単位くださいねー!」

 橘教授は言葉を発さずにただ右手をあげた。

「高橋」

「ん? どうした松戸」

「コクピットに座ったら絶対にシートベルトを付けろよ。絶対にだぞ」

「わかってるって。私、飛行機でも座ったらまず一番最初にシートベルトを付ける女だよ?」

「そっか、ならよかった」

 突如、ウイーンと機械的な音と共に扉が閉まり始めた。

「お、おい! ちょっと乗っちゃったけど、まだ心構えはできてないぞ!」

「高橋!」

 松戸が私の名前を呼ぶ。いつものように、されど、少しだけ憂いを含めて。

「今までありがとうな! 本当に、ほんっとうに、楽しかった!」

 バタンと扉が閉まる。

「なんだったんだ、今の」

 まるで永遠の別れじゃないか。私は今から飛ぶかどうかわからない宇宙船に乗って宇宙を旅するだけなのに。いや、それは普通に考えたら永遠の別れにならなくはないか。

 いやいや、待てよ。

 それをわかって私をこの宇宙船に乗せたということは相当、松戸は私のことが嫌いなのではないか?

「だとしたら最後に『ありがとう』って性格悪すぎるだろ、あいつ」

 頭の中の松戸を二回ほど殴ってから私はコクピットへと向かった。

 宇宙船に入ってすぐ右手にコクピットらしき椅子があったため、迷うことはなかったが、いつまでこの飛ぶかわからない宇宙船の茶番を進めるのだろうか。大がかり過ぎてツッコめなかったぞ。

 私はとりあえずコクピットの椅子に座った。

 目の前にはよくわからないメーターやスイッチ、レバーなどが乱雑に設置されている。しかし、目の前の窓は黒いカバーのようなもので覆われていて外の景色が見えない。

 これじゃあ外の景色が見れないじゃないか。

 幸いシートバルトは普通の車と同じような作りだったため、迷うことなく装着できた。

 ここで私は致命的なミスに気付いたのである。

「えっと、どうするんだこの後」

 この先のことを何も聞いていない。どうやって操作し、宇宙へと飛ばすのだろうか。

 機械音痴を極めた私に未知の乗り物を操縦するスキルなんてものは備わっていない。

「ちゃんと教えてくれよ~松戸~」

 再び外に出て、捜査の仕方を聞くためにシートベルトを外そうとした瞬間、ウイーンとなにかが起動する音が聞こえた。

メーターの針が動き出す。ランプが赤く光る。

『只今から、当機は目的地へと向けて離陸致します』

 機械的な女性のアナウンスと共にエンジン音が後方から聞こえた。

「え、オートでやってくれるかんじ? よかった~」

 自動で捜査してくれるのであれば私はなにもする必要がない。安心した束の間、体が浮き上がる心地がした。

「飛んでるの⁉ もう⁉」

 外の景色が見えないため、自分が今どれほど飛んでいるのかわからない。

「えっ、てか本当に飛ぶんだ。これ」

 てっきり松戸の冗談だと思っていたのに。

 いや、待てよ。

 今の状況では自分が本当に飛んでいるのかはわからない。何故なら、外の状況を確認する手段がないからだ。

 まだ今の段階では大掛かりなドッキリ説がある。さしずめテレビのドッキリ番組の協力でもあったのだろう。

 そう思っていた私を嘲笑うかのように、ウイーンと機械的な音と共に窓の外側にあった黒いカバーが外れていく。

「うっそ……」

目の前には灰色の月がでかでかと見えていた。


『あ~、テステス。聞こえますかー?』

 宇宙へと飛び立ってから数十分後、コクピットに備え付けられていたスピーカーから松戸の声が聞こえた。

「聞こえる! 松戸! これはどういうことよ!」

『今、目の前には何が見える?』

 いや、私の話は無視かい。

「えっと、たぶん月が見える」

『たぶん?』

「いやだって、もしかしたら目の前の窓が実はモニターで月の映像を写しているのかもしれないじゃん」

『安心してくれ。それは本物の月だ』

「なんでそんなことが言えんのさ」

『地上から君の乗っている宇宙船の現在地を計測しているからな。今、君は地球と月のちょうど真ん中の位置にいるよ』

「本当か~?」

『あ、もうシートベルトは外していいよ』

「あ、うん」

 シートバルトを外すと体が宙に浮き始めた。

「わっ! なんだこれ!」

『無重力ってやつだよ』

 慌てふためく私に松戸が笑いながら言う。

「これが無重力か」

 体が予想よりも自分の意思とは関係なく、ふわふわする。まるで舞空術を身に付けたかのようだ。

『今の内に宇宙船の後方まで行って、そこの窓からの景色を見ておくといい』

 松戸に言われた通りにコクピットを出て、宇宙船の後方へと向かう。

宇宙船自体の広さはそこまでないのであっという間だ。丸い窓が壁に設置されており、私はそこに顔を近づけた。

 私はその時、声を発するという機能を一時的に失った。

窓から見える澄んだ青色のビー玉。所々、緑の部分があり、白い靄が無造作に色を覆っている。

 気づけば私の頬を涙が伝っていた。


『君はそんなに涙もろい人だったのか……』

「うるさい、ぶっとばすぞ」

 一〇分ものの間、窓の景色を眺めていた私は松戸からの『おい、遅いぞ。なにかあったのか』という騒々しい言葉によって現実へと引き戻された。

「ってかいろいろ聞きたいことあるんだけど」

『わかってる』

「これは本当に宇宙にいるってことでオーケー?」

『オーケーだ』

「なるほど。本当はなるほどじゃないけど、じゃあもう一つ質問。なんで私なの? 他にもっといたでしょ。宇宙船に乗る人」

『……いずれわかる。今は答えられない』

「なんでよ」

『なんでもだ』

「ふーん」

 こういう時の松戸は意外と頑固だ。普段なら酒を飲ませて口を割らせるのだが、今はそれが出来ない。悔しい。

『えーと、これから君に一日に一回、宇宙船の酸素量と異常の有無、君自身の健康状態を報告してもらう。コクピットに備え付けてあるマイクの横の赤いボタンを押した後に、マイクがあるからそこに向かって話しかければ大丈夫だ。その宇宙船に取り付けた時計で十二時になったら話し始めてくれ』

「ちょっ、ちょっとメモするからもう一回言って」

『す、すまない』

 どうやら松戸曰く、毎日十二時に報告をしてくれれば、他は何をしてもいいそうだ。つまり、ここからは暇との勝負になる。幸い、食糧庫には膨大な数の食料と飲み物。ベッドルームにはベッドにランニングマシーン。これで運動不足になることはない。もちろん、風呂場もトイレも付いていた。

 どのような原理でもろもろの機能が働いているのかは考えないことにした。考えてもわからないことは考えないに尽きる。私にそんな高尚な頭はない。

 ありがたいことにベッドルームには私が好きな本や雑誌、漫画が山のように置かれていた。読もうと思ってまだ読めていなかった本。どれも私の好みどストライクすぎて驚いた。

「やけに準備いいな」

 そして、いつまでこの黒い海を漂い続ければいいのか。

彼曰く、『一週間経つと、自動的に引き返すように設定してある。心配するな』とのことだ。往復を計算すると二週間はこの狭い空間にいなくてはならない。まあ、元々引きこもりがちだから問題はないが。

 ともかくこうして私の宇宙漂流記は始まったのである。


八月一四日


『今日も異常はないようだな』

 十二時の定期報告。松戸の淡々とした声がスピーカーから流れる。

「ないよー」

 初めは宇宙旅行に心躍らせていたが、四日目ともなると飽きてくる。世の中の宇宙を目指している人には申し訳ない。

『昨日は用事があってな。応答できなくてすまない』

「いんや別に。それよりもそっちの調子はどうよ。元気?」

『ああ、元気すぎてうるさかったぐらいだ』

「そっかー、いいなー、地球」

『地球が恋しい?』

「恋しいね。今ならロミオの気持ちがわかる」

『なんだそれ』

 松戸の笑い声を聞きながら、私はホームシックになっていた。無性に家に帰りたいのだ。

『俺も早く高橋に会いたいよ』

「え~自分で送ったくせに~」

『それもそうだな』

「本当だよ」

『それじゃあ今日の交信は以上だ』

「うん、それじゃあまた明日ね」

『ああ、また明日』

 プツンと音声が途絶え、コクピット内には静寂が訪れた。

 それにしても。松戸はあんなことを言う人間だったのだろうか。悔しいがちょっとキュンと来ちゃったじゃないか、ばかやろう。

「あー、帰りたい」

 誰も私の言葉に返す人はいない。

八月一七日


『——高橋、高橋。そこにいるか?』

「ごっほごほ、おぇ」

 唐突にスピーカーから流れた音声に私は不意を突かれ、晩飯のカレーでむせてしまった。米でむせるのってなんであんなに辛いのだろう。

『大丈夫か?』

「だ、大丈夫よ……」

『それならよかった』

「急にどうした? 私と話せなくて寂しくなったのか~?」

『高橋、今までありがとうな』

急にマジのトーンになるので私はまたしても不意を突かれた。

「おいおい、急にどうしたよ」

 呼びかけても返事がない。

「おーい、松戸。まっつどー」

 やはり返事がない。

『当機は只今より地球に向かって進路を変更を致します』

「び、びっくりしたぁ」

 松戸の代わりに流れてきたのは一番初めに聞いた機械のアナウンスだった。

「いや、松戸を出せよ」

 これではまるで言い逃げじゃないか。いや、言われ逃げか。

「なんだ、私はこの宇宙船と共に死ぬのか?」

 マイクに向かって話しかけてもスピーカーはなにも言わない。急にこの宇宙船で独りになった気がした。そして私はそれを払拭するかのようにカレーを勢いよくかきこんだ。


 結局、この一方的な通信を最後に松戸からの連絡が来ることはなかった。

八月二四日?


『当機はまもなく、着陸態勢に入ります。シートベルトを着用してください』

 あれから毎日、酒を飲みながら定期報告を続けたが、松戸からの返事は来なかった。

 まあ、それも問題はない。なぜなら今日、私は実星である地球に帰るのだ。実星なんて人生で言う機会はないだろうから非常にレアな体験をしたのだろう。

「結局、これなんの実験だったんだろうな」

 こんな疑問を払拭するかのように勢いよく宇宙船は大気圏を突入し、轟音と共に地面へと近づいていた。そして、シュウーーーーっと音を立てながら地面へと着陸した。

『地球に到着致しました。シートバルトを外してください』

「よっし」

 一体、どこに宇宙船が着陸したのか見当もつかないが、とりあえず外に出てみよう。思考よりも行動が勝ることもある。

 ドアが自動で開き、外へと足を伸ばす。

 なんか見覚えがある場所だな、と思いながら宇宙船の外へと出た。久しぶりの空気は信じられないほどに美味しかった。

「うわああああああああああああああああああああああ」

「うわああああああああああああああああああああああ」

 誰かの叫び声に反応して、思わず私も叫んでしまった。

「高橋! なにやってんだ!」

「えっ、松戸じゃん」

 松戸がいた。私の目の前で腰を抜かして座り込んでいる松戸が。

「松戸! 久しぶりだな! いや~宇宙旅行も悪くはなかったけど、やっぱり地元の星が一番だよな~」

「な、なんで! えっ、ってかその後ろのなに⁉」

「いやいや、宇宙船だって。松戸が急に誘ってきて乗ったんだよ。単位欲しさもあったけど」

「はぁ? なに言ってんだ。訳が分からんぞ」

「あ! それよりも一週間前のやつ! 急に『ありがとう』とか言ってきて急に連絡なしとかどういうことだよ。私相手ならまだしも、彼女相手にやったら女子会でいいネタにされんぞ。

これから気を付けろよな」

「いや一週間前に連絡とかしてないし。本当に何を言ってんだ?」

 会話が微妙に嚙み合っていない。何か、変だ。

「二週間前に宇宙旅行に送り出しただろ。大学のグラウンドで」

「あのな、常識的に考えても大学のグラウンドから宇宙船を打ち上げられるわけないだろう」

「いや、だって本当だし」

「何言っているのかわからないが、俺はもう行くぞ」

「えっ! 行くってどこに」

「ゼミだよ、ゼミ。橘教授がなにやら緊急で話したいことがあるんだとさ」

「夏休みももう終盤だってのによくやるねえ」

「夏休みはまだ一カ月くらい残ってるだろ」

 いや、そんなわけはない。私位の大学の後期の授業が始まるのは九月一日からのはずだ。他の大学より早めに始まるため、多くの人の不満を買い、近々、教授陣のストライキがあるかもしれないと噂が流れているほどだ。

「いやいや、八月二四日なんてもう終盤じゃん!」

「さっきから本当に何を言ってるんだ? 今日は八月一〇日だろう」

 蝉のうるさい鳴き声が遠ざかる。額を伝う汗がポトリと地面へと落ちた。


「えっと、松戸クン。こちらは?」

「あ~、えっと」

「高橋楓です。文学部の。以前、橘教授の授業を取っていました」

 真夏の暑さを凌げるオアシスである、冷房が効いている教室で橘教授と松戸、そして研究室のメンバーである皆さんの前で私は軽やかな挨拶をする。人生、挨拶が出来ればなんとかなると小学校の先生が言っていた。

「今日は聞きたいことがたくさんあって来ました」

「ああ、私の授業を受けてくれていたのか。覚えてなくて申し訳ないね。なんせ学生数が多いから、一人一人覚えるのが大変でね。あとうちのゼミは違う学部の子でも大歓迎だよ。それで何が聞きたいのかね?」

 長身で白髪に眼鏡、そして白衣を着た橘教授は分かりやすい授業をしてくれるが、話が長いで有名だ。

「私、宇宙旅行をしたんです」

「ほう、宇宙旅行」

「それで地球に戻ってきたら時間が巻き戻っていたんです」

「なるほど」

 橘教授は松戸をちらりと見た。

 その目は松戸に「この子は何を言っているの? 電波少女なの?」と語り掛けているようだった。

「本当です! 信じてください!」

「人間は誰しもね、空想と現実がごっちゃになる時期があるんだよ。何を言う私も学生の頃は空想に思いを膨らませ、学生生活を送っていたもんだ」

「宇宙船! あります! ガレージに!」

「ほう!」

 私が着陸した場所は宇宙船が飛び立った場所と全く一致していたのだ。寸分違わず。

 松戸の「ここにあったら目立つから一旦、ガレージへ」との助言もあり、無駄に広いガレージへと宇宙船を隠してきた。

「それじゃあ一人の若者の空想に付き合うとするか」


「うっそん」

 橘教授の気の抜けた声がガレージ内で響き渡る。

 ガレージへと移動した橘教授のゼミのメンバーは全員、目を丸くして楕円の形をした銀色の宇宙船を眺めていた。

「な、中へ入っても?」

「どうぞ」

 ドアが自動で開き、橘教授が宇宙船へと乗り込む。

 三〇分後、宇宙船から勢いよく橘教授が飛び出してきた。

「君! これは本物なのか!」

「本物ですよ」

 私は答えた。当り前だ。これに乗って二週間、宇宙を旅していたのだから。

「な、なんと……」

「えっ、橘教授、これは本物の宇宙船なんですか?」

 松戸が疑いの目を向ける。

「ああ、詳しく調べてみないことには分からないが、少なくとも現代の科学技術ではこの船を造るのは不可能だ」

「まじかよ」

「やばっ、ギネス取れるんじゃね?」

 橘教授の言葉に研究室のメンバー達が騒めく。

 その様子を見てどこか私は誇らしい気持ちになると同時に、胸の中を、黒い、なにかドロッとしたものが侵食していくのを感じた。

「それじゃあ私、本当に二週間前の地球に来ちゃったの……?」


八月一〇日


「それじゃあ話をまとめようか」

 ガレージから教室へと戻ってきた橘ゼミ御一行は冷房の効いた涼しい部屋で冷や汗を浮かべていた。

 それはそうだ。目の前に得体のしれない宇宙船に乗った未来人が現れてしまったのだから。

「つまり高橋クンは八月一〇日、つまり今日、先程の宇宙船に乗って二週間、宇宙を旅した。しかし、旅の途中で地上との交信が途絶えた。本来であれば、八月二四日に地球に戻ってくるはずが、時間が巻き戻っており、八月一〇日だった。これで間違いないかね?」

「はい、間違いありません」

 すると橘教授は腕を組み、天井を見上げてしまった。松戸を含めた他のメンバーも黙ってしまった。

 ここはやはり私の小粋なジョークで場を和ますしかないのか。

 ジョークが喉の中間を流れ出しているときに、研究室のメンバーの一人である、黒髪でショートカットの女子が手を挙げた。

「この人の妄想ってことはないんですか? それかなにかドッキリ的な」

 至極全うな疑問である。私も実際に大気圏を飛び出すまではそう思っていた。

「いや、それはないと思う」

「松戸」

 松戸がいつの間にかこちらの味方になっていることに驚いた。

「さっき俺らが見たのと、橘教授が言ってた通り、あの乗り物は現代のモノじゃない。それに高橋のスマホを見てみるんだ」

 そう松戸が言ったので私はスマホをショートカット女子に見せた。

「あ、日付」

 そう、私のスマホの日付は『八月二四日』を示していた。

「この高橋っていう女はな、ドが付くほどの機械音痴でスマホの時間を変えるなんていう高度なことは出来ないんだよ」

「おい、てめえ。合ってはいるが後で覚えておけよ」

 私の恐喝もどこ吹く風で聞き流す松戸はさらに続けた。

「それにこの女は人のことを騙せるような賢さもない」

「よし、歯を食いしばれ。たった今私はお前を殴ると決めた」

 私が松戸の胸倉を掴み上げた時、橘教授がおもむろに立ち上がった。そして、みんなが注目する中、チョークを手に取り、黒板に三つの丸を書いた。

「これは一つの仮説なのだが」

 そう言った橘教授は三つの丸にそれぞれ「A」「B」「C」と書いた。

「仮に高橋クンがいた世界を『地球B』としよう。高橋クンは宇宙船に乗って宇宙を旅した。二週間の旅を終え、戻ったのは『地球B』ではなく、時間の流れが異なる『地球C』であった」

 松戸が顎に手を当て、「なるほど」と呟く。

 私は頭を抱え、「わからぬ」と呟く。

「つまり図で表すとこうだ」

 橘教授は『地球B』と書かれた丸の中に八月一〇日。そして同じく八月一〇日と書かれた宇宙絵船を描いた。次に、『地球B』から『地球C』と書かれた丸へと繋がる矢印の途中に、八月一七日と書かれた宇宙船を、『地球C』と書かれた丸の中に八月二四日と書かれた宇宙船を描いた。最後に『地球C』の丸の中には八月一〇日と記した。

「このように君は時間が巻き戻ったのではなく、君がいた地球と異なる地球に来てしまったと言ったほうが正しいだろう」

 なるほど、宇宙旅行をしていたらいつの間にか二週間前の地球に来てしまったわけか。

 すると隣の松戸が挙手をして発言を求めた。

「橘教授。『地球B』のみのタイムトラベルという可能性はないのでしょうか」

 それは私も考えた。なにもこんなまどろっこしい『地球B』や『地球C』の話じゃなく、ただ単純に時間が巻き戻っただけではないのだろうか。理屈はわからないけど。

「その可能性は低い。もし仮に単純なタイムトラベルが行われたとしよう。宇宙船に乗って高橋クンが過去へと戻った。その過去で高橋クンが乗るはずであった宇宙船を壊したとすると、どうなる?」

「うーん、えーっと。過去に行けなくなる!」

 いや待て、それはなにかおかしいのでは。意気揚々と答えたはしたのだが、なにか違和感がある。

「あれ?」

「そう。そうすると高橋クンが過去に行った手段がなくなる。手段がなくなると、どのようにして過去に行って宇宙船を壊したのか」

「なるほど」

 わかるような、わからないような。

「過去に戻って、過去を改変した場合、未来が書き換わる。そうすると、本来の自分がいた時代が消える。時代が消えたら自分はどこから来たのか。つまり、矛盾が発生するってこと」

「なんとなくわかったような気がする」

 松戸のまとめてくれた説明をもってしても理解したかは怪しいが、まあ矛盾が起きているってことなのだろう。

「そして肝心なのは」

 橘教授が黒板に書いてある『地球A』から『地球B』へと矢印を引っ張った。

「この宇宙船が『地球A』から同じように『地球B』にやって来た可能性が高いということだ」

「ほうほう」

「このことから私の仮説は、高橋クンが乗っていた宇宙船は一基で数多くの高橋クンを乗せて地球を旅してきたということだ」

「私がたくさん⁉」

 そんなことがありえるのだろうか。あ、だからか。

「だから宇宙船にあった本のラインナップが私が気になっていた本ばかりだったのか……」

「橘教授!」

「うわっ、びっくりした」

 おい、松戸。隣で大きな声を出さないでほしい。びっくりしちゃう。

「それなら『地球C』にいる我々は次なる『地球D』へと宇宙船を飛ばさなければ、この時空の通りに反するのでは!」

 教室が騒めく。

「たしかに松戸クンの言う通り、この仮説が正しいのならばそうだ」

「高橋!」

 松戸が私の肩を勢いよく掴んだ。

「な、なに?」

「高橋はどんな経緯で宇宙船に乗ったんだ? それを詳細に再現しないと、この流れが変わってしまう!」

 松戸の勢いに思わず私は後ずさった。

「え~、そんなに覚えてないって……。ってか別にわざわざ宇宙船を飛ばさなくてもよくない? なにか困ったことになるの?」

 この地球に私がもう一人いるのだとしたら、私が二人になってもろもろ便利なのではないか。今までに「私が二人いればいいのに」って思ったことがすべて実現可能なのだから。

「それじゃあ君、どこに住むの?」

「既に高橋楓という人間がこの地球に存在している以上、住居を探すことや病院に行くことだって困難を伴うぞ」

 たしかに住民票を変更するのは面倒だし、保険証だって私の家にある。

「それに高橋、もし世間に同じ人間が二人いるなんて知られたら、連日カメラが付きまとい、注目の的になる。人見知りかつ引きこもりの高橋がそれに耐えられるのか?」

 それは、なんとも。

「それじゃあいっちょこの地球の私を宇宙へ送り出しとしますか!」


 私は今、私の家の前にいる。いや、正確に言えば私の部屋があるアパートの前だ。

 松戸に私がいた地球で松戸が訪問してきた時間を伝えたら、「あと一〇分しかないじゃないか!」と慌てて教室を飛び出したので追ってきたのだ。今頃、私の部屋では松戸が下手な口説き方で私を宇宙旅行へと誘っているのだろう。

「それじゃあ今日の二一時だぞ。忘れるなよ」

「はいはい、ほら準備するんだから早く出ていきな」

「あ、それはすまない」

 コンコンとアパートの階段を松戸が降りてくる。

「よっ」

 右手をあげて松戸に呼びかける。

「これで高橋は本当に来るんだよな?」

「来るよ。限界大学生の単位欲しさを舐めるな」

 松戸が信じられないものを見るような顔をすると、すぐ後に顔が青ざめた。忙しい顔だ。

「勝手に時間を二一時としてしまったが、大丈夫なのだろうか……」

「私も前の地球で二一時って聞いてたし、大丈夫だと思う」

 面白いことに私の地球の松戸とこの地球の松戸は同じ内容を私に話していたのだ。これはもう、この所謂『地球C』が『地球B』よりも遅い時間で進んでいることは明白である。

「この後はどうするんだ?」

 松戸が大学へと戻る途中で話しかけてきたが、その答えが思い浮かばなかった。私はあれから二〇時四五分まで家から出ていないので、その間のことなどさっぱりなにも知らないのだ。

「一旦、ご飯食べたい」

 腹が減っては戦はできぬ。

 大学の食堂は夏休みのため、やっていなかった。しかし、座席は解放されていたので私達はそこでコンビニで買った弁当を食べていた。

「それにしてもよかったのか?」

「なにが?」

「あの宇宙船、俺んとこの研究室のメンバーが調べることになって。今頃、宇宙船の隅から隅まで調べ上げてるぞ」

「まあ、元々私のものでもないし。ってか私が宇宙船に乗るときも松戸のとこの人達はいたから、都合いいんじゃない? 調べてもらうの」

「なるほど、現状がこの世界を超えた流れに最終的には繋がるのか……」

 松戸は顎に手をあててなにやらブツブツと独り言を始めた。

 私はその様子を見ながら唐揚げを頬張る。

 不思議なことなのだが、ふわふわと今にも体がどこかへと飛んでいってしまうような不思議な浮遊感を味わいながら唐揚げを食べている。もしくは唐揚げに何かそう感じさせる物質が入っているのかもしれない。

「——はし、高橋」

「わぁ! ごめん!」

 思わず箸で持っていた唐揚げを皿に落としてしまった。

「橘教授に呼ばれたからちょっと行ってくる」

 そう言うと松戸は残っていた弁当のおかずを勢いよく腹に流し込んだ。「なんかあったら連絡して」と言葉を残して、食堂を出て行ってしまった。

 唐揚げが、重くなった。


 二〇時五五分。『地球C』の私がここに来るまで五分。

宇宙船を囲んでいた研究室のメンバーから松戸が一人、私の元へと駆け寄ってきた。

「高橋、もう一人の高橋が来るからどこかに隠れていろ」

「え、なんで」

「急に目の前にもう一人の自分が現れたら驚くだろ。それに高橋は宇宙へと飛ぶ前にもう一人の自分と会ったか?」

「いや会ってない」

「それならどこかに隠れていた方が賢明だ」

 そう言って立ち去ろうとする松戸の腕を私は掴んだ。

「松戸」

「どうした」

「なんか目、赤くない?」

 松戸の目がいつもより赤かったのだ。なんなら少し腫れている。

「松戸、もしかしてだけど泣いてた?」

「な、泣いてない!」

「いや絶対に嘘だね。泣いてたね。どうした~? 楓お姉さんに話してみな~?」

「うるさい! さっさとどこかに隠れてろ!」

「どこかってどこよ」

「あ、松戸さーん! 例の彼女、来ましたよ!」

松戸の後輩だとかいう黒髪でショートカットの女子が大きな声で松戸を呼ぶのが聞こえた。

「うおっ! やべえ!」

 私は慌てて声の方向と逆向きに背を向けた。隠れる時間すらないじゃないか。

「そのまま見つからないようにしてろよ!」と、松戸は言葉を残して走り去ってしまった。

「そういえば」

 私が宇宙船に乗るときも松戸は様子が変だった。「今までありがとう」的なことを言っていた気がする。様子がおかしかったのは私と会う前からだったのか。

 そんなことを考えているうちに、この地球の私はいつの間にか宇宙へと旅立っていた。

「本当に飛んでった……」

「本物の宇宙船だったんだ」

「おい! ちゃんと動画撮ったか⁉」

「あれ? 高志は?」

「それがカメラの調子がおかしくて画面が真っ暗なままなんだ」

「は? それじゃあ撮れてないのかよ!」

 わいわいがやがやと騒いでいる研究室のメンバーの輪に入ろうとした途端、後ろから腕をグイっと引っ張られた。

「いって」

 ずきりと腕が痛む。

「おっと、これはすまない」

 私の腕を掴んでいたのは橘教授だった。それもひどく険しい表情の。

「今のうちに早くここから離れなさい。急いで」

「え、どうしたんですか? 急に」

 教室で話していた時と同じ人物とは思えない表情の橘教授に思わず私は身がたじろいだ。

「高橋、こっち来い!」

 声がした方向を見ると、松戸が両手にヘルメットを持って立っていた。

「松戸!」

 橘教授の手が緩んだ隙に私は松戸の元へと駆け寄った。

「松戸クン」

「橘教授」

 松戸は橘教授に向き合おうと深く頭を下げた。

「今までありがとうございました。お元気で」

「うむ。松戸クンも元気でな」

 そう言葉を交わした二人はお互いの手を握りしめ、抱擁を交わした。それを見ている私はさっぱり状況が分からなかった。何が起きてるのだろうか。

「でも高橋の腕に触っていたのは許してないんで」

「それは申し訳ない。高橋クン」

 呼ばれた私は橘教授を怪訝な表情で見つめた。この数秒でこの男への不信感が強まってしまった。当然だ。いたいけな女子大学生の腕を掴んだのだから。

「先程はすまなかった。でも人生で宇宙船が飛び立つ瞬間を見ることが出来て、非常に有意義な体験であったよ。最後にいいものを見れた。ありがとう。どうか元気で」

 私の中にあった不信感はほんの少し消えた。しかし、それと同時に引っかかる言葉を聞いてしまった。

「最後って、退職なさるんですか?」

「まあ広義な意味で捉えたらそうとも言えるかもしれないな」

 橘教授はそう言って、笑った。どこか悲しみを含んだ笑いを。

「ほら、もう行きなさい」

「はい。高橋、ついて来い」

 松戸は橘教授に一礼した後に背を向けて歩み始めた。慌てて私も感謝九割九分と恐怖一分の気持ちを込めて一礼をし、松戸の背中を追った。

松戸が向かっていた先は駐車場であった。

 停めてあった黄色のスクーターに跨り、ヘルメットを被る。エンジンをかけ、私の方をちらりと見た。

「乗って」

「え? 松戸って免許持ってたっけ?」

 私はこの男が運転しているところを見たことは一度もない。まして乗り物の免許を持っていたことすら知らない。つまり、非常に不安なのだ。この男の運転に命を預けてもよいのだろうか。私の直観は「NO」と言っている。

「乗れ!」

「は、はい!」

 乗ってしまった。勢いに負けてしまった自分が悔しい。

宇宙へと旅立つ時よりも心臓の鼓動が早いのを感じる。このままでは一生分の鼓動がこのバイクの上で尽きてしまう。落ち着け、私の心臓。

 予想の三倍の安全運転と速さで着いたのは私の家であった。

「送ってくれたの?」

「ああ」

「えっとー、上がってく?」

「ああ」

 どうしたこいつ。「ああ」しか言えない星人にもなってしまったのか。

 私の部屋に入り、乱雑に置かれているクッションを松戸にとりあえず渡した。

「はいよ」

 冷蔵庫にあった麦茶をジョッキに注ぎ、松戸に差し出す。

「ありがとう」と言って、松戸はそのジョッキを受け取り、クッションを下に敷いて座った。私もテーブルを挟んで向かい側に座る。

「どうしたの」

 松戸が先程の橘教授と同様に険しい表情をしていたので心配になったのだ。

「……あと一週間でこの地球は滅ぶ」

「は?」

 この夏の暑さでやられてしまったのだろうか。ご愁傷様すぎる。

「この時間ならテレビでも放送しているはず」

 私は恐る恐るテレビを点けてみた。

「うっそ……」

 どのチャンネルでも放送されている画面は同じであった。総理大臣があと一週間で地球が滅ぶと話している。絶え間ないカメラのフラッシュと怒号のようにも聞こえる記者の質問が一人の人間に向けられていた。

「橘教授は公表される前から政府に研究員として協力していたんだ。だから今日のゼミは地球がもう長くないということを俺ら生徒達に話そうとしていた。けど、目の前に現れた宇宙船と高橋が紡いできた流れを守るために話すことはなかった。俺以外の人には」

「なんで松戸しか聞かされてないの?」

「もし他の人が宇宙船が飛び立つ前にそれを知ってしまったら誰が乗るかで争いになる。それを防ぎたかったのだろう。俺が唯一、地球の滅亡を聞かされたのは高橋を守るためだ」

「私を」

「地球滅亡に対する恐怖や不安をぶつける相手として宇宙船に乗ってきた高橋を選ぶのは見当違いでもあるが、気持ちはわからなくもない。もしあの場に残っていたら、行き場のない暴言や暴力が高橋に降りかかっていたかもしれない」

「えっと、それは助けてくれてありがとう」

 言葉が出てこない。私はまだこの状況を飲み込めていないのだ。二週間前に宇宙へ飛びだし、地球に戻ってきたら時間が巻き戻っている。別の私が宇宙へと飛び立つのを見守り、今度はあと一週間で地球が終わるらしい。情報量多すぎじゃないか。私のちんけな脳みそじゃ処理しきれない。

「松戸は受け止めれた? 地球が終わるの」

「正直なところ、まだよく分かっていない」

「だよね」

「てっきりこの日常はこれから先も何十年と続くものだと思っていたから、急に『あと一週間で終わりです』って言われても受け止められる自信はないよ。きっと終わる時じゃないと実感できない」

「終わる時じゃないと実感できない、か」

 松戸のその言葉は私の中にストンと入ってきた。

世界が終わるというのに呑気な考え方なのかもしれない。本当はもっと人生の終わりについて見つめなければならないのかもしれない。

 今までお世話になった人や久しく会っていない幼稚園の頃の友人とかと会っておくべきなのかもしれない。

 本当ならば終わりを意識してもっと焦って、今までにやりたかったことをやるのが正しいのかもしれない。

それでも今は、その言葉に縋っていたかった。 

八月一三日


「おお~! キレーイ!」

 青々とした水面に陽の光が反射している。微かな潮の香りが鼻をくすぐった。

「日焼け止め塗らなくていいのか?」

「どうせあと少しで世界終わるからいいや」

 松戸がレジャーシートを敷き、日焼け止めを腕に塗りたくっていた。

 私達は今、海に来ている。私の家から松戸のスクーターで三〇分。あまり知られていないその場所は人も少なく、穏やかに過ごすにはうってつけであった。

「本当に泳がないのか?」

「泳がないよ」

「変わった奴だ」

「泳いできていいよ?」

「行ってくる」

 そう言って松戸は海へと足を踏み入れた。

「あっついな……」

 連日、猛暑を記録しているこの日本で、日陰のない浜辺にいるのは自殺行為だろう。

 幼い頃からどうにも海で泳ぐことが苦手なのだ。なにか得体のしれないモノが海底へと私を引き込んでしまう気がして。あと、海だからってはしゃいでいる陽の者達が生理的に無理だ。

あれから世界は大きく変わってしまった。

 残り一週間の人生。多くの人が自分の欲望を剝き出しにし、犯罪が多発した。都市はパニック状態になり、無法地帯と化した場所も少なくない。

 それにもかかわらず、私達は夏の風物詩を味わっている。それはもうのほほんと。

「海へ行こう」という私の連絡に松戸は二つ返事で迎えに来てくれた。決して足として使ったわけじゃない。たぶん。

「はぁあ~泳いだ」

「おつかれ~」

 個人メドレーから戻った松戸は持ってきたカバンから缶のおしるこを取り出した。

「この季節に……?」

「海に入った後はおしるこを飲むと美味いんだぞ。知らないのか?」

「いい、わかりたくない。ってかそろそろ時間なんじゃない?」

「いや、今日は定期報告はなしだ。せっかくの海だしな」

 そう言って松戸は海を見ながら小さく笑った。私はその姿から何故か目を離すことが出来なかった。

「それにしてもまさか松戸のスマホから連絡していたとはね」

 私が宇宙旅行をしている間の松戸からの定期報告。地球からはるか遠く離れた宇宙へとどのように連絡しているのか不思議で仕方なかったが、松戸の研究室のメンバーが宇宙船を調べるとその方法が判明した。松戸のスマホの番号が宇宙船に登録してあったのだ。しかもそのシステムはロックされていて他の番号を追加することは不可能であった。

「連絡は楽でいいんだが、なぜ俺の番号なのか、一体どうして、どのように登録したのか。あの宇宙船はわからないことだらけだな」

「ね、なーんにもわからないね」

 今となってはもう確かめる術はないが、孤独な宇宙旅行であの連絡に救われていたのは事実だ。感謝している。

「でも今日は何で海に?」

「え、夏だから? 夏なら一度くらいは来たくない? 海」

「なるほど」

 真上から照りつける日差しは私達の肌をジリジリと焼いていた。

八月一七日


「お、連絡終わった?」

「ああ」

 いよいよ今日、この世界が終わるらしい。

「それにしても本当によかったの? 最期が私の家で」

 松戸は人生最後の日だというのに私の家にやって来たのである。ビールとつまみを持ってきたので思わず家に入れてしまった。最期の地に私の家を選ぶとはなかなか変わった奴だ。

「まあ親はいないし、施設の人達にも挨拶は済ませたから。うん、ここがいい」

「ふーん」

「高橋こそいいのか? 家族と過ごさなくて」

「あー、うちは仲悪いから。虐待とかもあったし」

「そうか」

「そいじゃあ、まあ」

「うん」

「飲みますか」

 プシュッと、炭酸が抜ける音が二つ、部屋に鳴り響く。

「世界の終わりにかんぱーい」

「献杯じゃないのか」

「え、どっちなんだろ。まあいっか!」

 これが生涯最後のビールとなる。いやまああと数缶は飲むのだが、不思議な気持ちだ。

「それにしてもなんで高橋だったんだろうな」

「なにが?」

「宇宙船で地球を移動するのが」

 たしかにそれはそうだ。もっと賢く、社会的に地位のある人がこの体験をすれば地球の終わりを回避できたかもしれない。私なんかが地球間を移動したところでなにも世界は変わらないのに。

「まあ、でも気付けたからよかったよ」

「なにに?」

「うーん、秘密」

 そうだ、これは私の中だけの秘密だ。誰にも干渉されず、自分から干渉されに行くこともない不可侵の領域。それがたとえこの領域を創り出した本人であっても。

「高橋! 窓! 窓の外!」

 松戸の言葉に促されて窓の外を見る。

「あー、これはたしかに終わりだわ」

 空から落ちてくる赤い岩を見ても案外、私は冷静みたいだ。それかこの映画のような光景に

どこか心を打たれてしまったからなのかもしれない。

「松戸、ありがとうな」

 唐突に浴びせてしまった言葉に松戸は一瞬、間の抜けた表情をした。そしてその後、笑った。今までで見たことがない、されど一番とびっきりの笑顔で。

「ああ、こちらこそありがとう。高橋」

 笑い合う二人を白い光が包んだ。

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