第26話 トリガー

日本、某病院。


「鉄平様。そろそろ、御休憩されたらどうでしょうか。」


執事の関口が、鉄平の前にコーヒーをコトンと置いた。


鉄平は、パソコン一台とその横にタブレットを4つほど並べて、仕事に没頭していた。


前回、急激な頭痛にみまわれ、一旦大人しくしていたが、その後は一度もそういったことはなかったので、仕事を始めていた。

検査のほとんどが終わった今、あとは退院日が決まるのを待つだけであった。


「そうだな。そろそろ休憩しようかな。

ありがとう、関口。いただくよ。」


鉄平は、リビングテーブルの端に荷物を避けると、目頭を押さえながら休憩を始めた。


目覚めてから二週間以上経った。

寝たきりの時に落ちた筋肉も少しずつ戻ってきて、日常生活も問題ない。

昨日から、面会謝絶も解禁されて、部下が少しずつ見舞いに来ていた。

直属の部下だった権藤も、昨日やってきて、引き継ぎも終わり、社長業務に今は専念するだけになったので、だいぶ余裕もできた。


権藤との会話では、依の勤める会社との話が出ていたが、残念ながら鉄平が4日間を思い出すことはなかった。

何より、依から会社名を聞いたことがなかったのでトリガーにはまずならない。

報告書も目を通したが、依の名前は載ってなかった。

沢崎の名前と坂田の名前だけ...。

ただ、その報告書には依の手も加えられていたが。


交わりそうで交わらない運命。

残念である。

このまま、鉄平は依のことを思い出すことがなく日々が過ぎていくのか....。




トントン。


入り口がノックされた。

鉄平が、関口に目配せをし入室を促す。

「はい。どうぞ。」と、関口がドアを開けた。


「よぉーすっ!生還おめでとう!」


両手を広げて、近づいてきたのは鉄平の大学時代の友人だ。

そして、偶然にもこないだ依を助けた男、東条樹だった。

見た目が軽そうで落ち着きがあまりない為、年相応に見られないが、実年齢は、鉄平と同じ35歳。

大体、若く見られがちの男である。



「おー樹!来てくれたのか?ありがとう。」


ふわりとした笑顔で歓迎する鉄平。

軽くハグをして、ぽんぽんと背中を叩いて喜び合う。

穏やかな鉄平と、明るい樹は、なぜか馬が合う。

大学卒業後も定期的に会っている気安い仲間のうちの一人である。


すっ、と関口が樹にもコーヒーを入れ、テーブルに置いた。

樹は、目線でお礼をいう。

昔からいる執事とは、樹も顔見知りである。


「元気そうでよかった!

外傷がほとんどないのに目覚めないって、連絡もらった時は、ほんとに怖かったぞ。

こんなに急にダチが亡くなるなんて考えたことも無かったからな。」


「心配かけて、悪かった。」


「ほんとにな。まぁ、親父さんは残念だったが。」


そうだな...と、鉄平は泣きそうな顔で無理やり笑った。

しんみりした空気になる。

親の思い出は、あまりないが、それでも親だ。

悲しい気持ちは、なくならない。


樹は手に持っていた荷物を思い出した。

手提げ袋にいっぱい見舞いの品を持ってきていたのだ。


「これ、見舞い。もうなんでも食べれるんだろう?

じゃーん!アルファホーレス!!

このクソ甘いやつでも食べて、脳に栄養与えとけ。

あとは、ちょっとしたもんが、細々と入ってる。ほらよ。」


ニヤニヤ笑いながら、ぐいっと手提げを押し付けられたので、鉄平はありがたく受け取った。


アルゼンチンの有名菓子、アルファホーレス。

クッキーに、ドゥルセ・デ・レチェをたっぷり挟んで、チョコレートやココナッツパウダーや粉砂糖でコーティングされたもの。

甘党には、もってこいのハイカロリー菓子だ。


「アルファホーレス...。

樹。アルゼンチンに行ってたのか?」


「まあな。」


鉄平は、手提げの中身をテーブルの上に広げ出した。

お菓子に、文房具に、革製品。無難なラインナップ。

あと、スペイン語の情報誌。


鉄平が、情報誌をパラパラと流し読みをすると、ぱらりと何かが落ちた。


「あっ。」


なんか出てきたぞ。と、鉄平が拾うと名刺だった。

会社のロゴが見える。

じっくり見ることなく、樹に返した。


「ここ、僕の会社もこないだまで一緒に仕事してたぞ。樹も、取引してたのか?」


ん?そんなところに名刺入ってたか?と、身を乗り出し受け取り確認する。


「あー、この人ね。仕事は関係ないんだ。

アルゼンチンで会って、名刺交換したんだ。」


「は??交換した?樹が??」


訝しげな顔で、樹をジロジロと観察する鉄平に、ふはっ!と、笑う樹。


「あはは!違ぇーよ!ナンパじゃないっ...。ふはは。」


樹は、鉄平とは違った意味で、女性が嫌いだ。

依にもいったが肉食系が、ため息をつきたいほど苦手であった。

だからといって、女性不審ではない。普通に話して仲良くなって交際することもある。


そんな樹が、仕事も関係ない赤の他人の女性から名刺を受け取ったというので、何があったのかと疑いの目を向けたのだ。


「アルゼンチンの7月9日通りをな、ちょうど歩いてたら、日本人がスリにあって、助けてあげたんだ。

ナイフでスパッとポケット切られて盗られちゃってたわけ。

そのままだと、スカートの切れ目から下着が見える感じで、俺の上着を巻きつけてあげたんだ。

で、その後、上着はあげるって言ったんだけど、クリーニングに出して日本で返すってしつこく言うからさ。

自宅は教えられないし、じゃあ会社でってことにさ。

アルゼンチンの7月9日通りで、日本人特有のきちんとした名刺交換しちゃったぜ。」


楽しそうに笑いながら、その時のことを話す樹。


「そうそう、その上司が途中で血相変えて飛び込んできたんだけどさ〜。スッゲー美形で、あのレベルは凄いな!

アカデミアのダビデ像の横に展覧しても見劣りしないだろうなってくらいだったぜ。

だから、この子。俺の顔見ても過剰に反応しなかったんだなぁって納得ってわけで...。」


鉄平の目の前で名刺をひらひらする樹。

すると鉄平も自然と、名刺に目線が向かう。


「その会社の彫刻並み美形...。多分、沢崎くんだな。

僕もたまに彼に連絡とって飲むよ。会話をしてても、ウィットに富んでて楽し...。」


「ん?どうした?」


話している途中で、目を見開いて固まる鉄平。

その表情は、ごっそりと生気が抜け落ちたかのようだ。

どこかに魂が抜けて出ていってしまったと言っても過言ではないほど、ピクリとも動かなくなった。


鉄平の尋常じゃない様子に慌てて樹が、鉄平の前で手を振ったり、肩を揺らしたり、声をかけたが、反応がない。

そばに控えていた関口もただならぬ鉄平の様子に、すぐさまナースコールを押した。


「おい、鉄平!!どうしたっ!!」

「鉄平様!?気を確かに!!」


バタバタとドクターと看護師がなだれ込んでくる。

瞳孔チェック、脈拍、血圧をすぐさま測るが、その際も全く動かない。

鉄平の身に何がおきてるのか。


意識はあるのに、反応がないのだ。


とりあえず、ベッドに鉄平を移動させて目を閉じさせた。


その後、脳波や心電図を測定したが、心電図は問題なかった。

しかし、脳波だけは医者も困惑。

動きがないので、なだらかなアルファ波に傾くはずが、細かいベーター波がずっと出ている。


どうやら、鉄平はものすごい勢いで脳を使っているらしい。

こんなことは、普通あり得ない。


とにかくいろんな検査を再度した結果、生命維持機能は、問題ないことがわかったので、再度点滴生活になった。

医者も「意識があるし、目覚めている状態...。近い状態は、精神を病んだ患者さんの脳波ですが...、それとも違います。

今言えることは、ただ動き出すことを待つしかないでしょう。」としか言いようがなかった。




どうやら鉄平は、名刺の名前『立花 依』をしっかり見てしまったようだ。

これがトリガーとなって、記憶が戻るのか...?

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