第23話 まさかの記憶喪失
ピッ ピッ ピッ・・・
病室に心電図の音だけが響いていた。
だだっ広い病室の壁際にベットが一つ。
周りには、リビングがあったり、簡易キッチンがあったりと、設備が充実していたが、使われてる形跡はない。
どうやら、ここは病院の特別室のようだ。
そして、そのベッドの上に、一人の成人男性が横たわっていた。
外傷は頭に数針縫った傷跡のみで、他には、擦り傷も打撲痕も何もない。ただただ綺麗な体の男性が横たわっている。
なまじ顔が良いので、キスでもしたら目覚める白雪姫のようで、眠っているようにも見える。
しかし、この男は既に20日ほど目覚めていなかった。
事故にあったとき、頭を強く打ち付けたせいで、意識不明となっていた。
今現在、身体的にはなにも問題がないのに、起きる気配がない。医者も何もすることがない。
ただ、天井から吊り下げられた点滴で栄養を補給するだけ...。
いつ起きるか、誰もわからなかった。
しばらくすると、ガラッと病室のドアが開いて、知性的な中年男性がはいってきた。
白髪混じりの髪をオールバックにし、シワひとつないスーツを綺麗に着こなす。ピンと背筋を伸ばして歩く男。
隙のない高潔そうな雰囲気の男性だ。
その手には、花瓶に生けられた鮮やかな花を抱えていた。
それを、そっとベットサイドの机に置く。
「鉄平様、おはようございます。執事の関口ですよ。
今日は、向日葵をお持ちしました。匂い感じられますでしょうか。」
鉄平の体を横に向け、ベット横の椅子に浅く腰掛けると、今日もマッサージを始める。
血行をよくして褥瘡を予防する目的もあるが、刺激をすることで脳の覚醒を促していた。
今は、意識のない鉄平に、優しく話しかけながら手足にクリームを塗っている。
「昨日は16日でしたので、沢山の人が佐久間の家にお線香をあげにきてくれましたよ。
今、佐久間の家ではお花とか、お菓子が溢れかえってます。すごいですよ。起きたらびっくりすると思います。お花で2部屋埋まってます。
旦那様は、お外での人望は厚かったのですね。鉄平様との関係はいまひとつでしたが…。
今は、省吾様ご夫婦が、事故の日から滞在されて、家の事と会社の事を采配して下さってます。
本来なら家の事は私がするべきなんでしょうが、鉄平様の覚醒を心待ちにしている一族の総意により、こちらに通ってるんですよ…。私が一番、鉄平様と関係が深いですからね。
ところで、毎日毎日同じような話を聞かされて、うんざりしませんか?鉄平様。
はやく、『ほかの話はないのか?』と、起きて関口を驚かせてください。
あと10日で1カ月です。それまでに、意識が回復しなければ、省吾様がサクマの社長になります。
今いる子会社の社長の地位は、ご子息に譲るそうです。
ですが、一族はみな、鉄平様に社長になっていただきたいと考えております。
省吾様も、業務内容が全く違うから鉄平様に社長になってほしいそうです。
今は、副社長が代理で社長業務をしてますが、1カ月が限度です。
いま、起きて頂かないとサクマグループ全体で、人事異動が大幅に生じるので、色々うんざりだと、皆さん言ってますよ。
恨みつらみを聞きたくなければ、すぐにでも起きてください。」
慈愛にみちた口調と手つきで、もくもくと接する執事。
この執事は、鉄平が成人した時、父親から鉄平付きに代わった古参の者だ。
15年毎日、身の回りの世話を専任でしてくれていた。
父親に仕えていた時も、屋敷では小さな鉄平と関わっていたので、もはや息子のように鉄平を思っていた。
その執事が、「きっと、今日も目覚めないんでしょうけど…」と自嘲した笑みを浮かべた。
しかし、奇跡が起きる。
ピクリと鉄平の瞼が、動き始めたのだ。
そして、眉間に皺を寄せると、鉄平は苦しげに声を発した。
「せ、きぐち…。お前が一番、…恨みつらみが…あ、りそうだ、…ぞ。」
鉄平が、かすれる声でしゃべった。
「!? 鉄平さまっ!!」
がばっと、顔を覗き込むと、まだぼんやりしているようだが意識が戻っている鉄平がそこにはいた。
急いで、関口はナースコールを押して、鉄平が目覚めたことを伝える。
『あぁ!!よかった!!よかった!!』と、鉄平の手を握りながら涙を流す執事。
その様を鉄平は苦笑して見つめる。
心配かけてすまなかった、と謝りたくても、喉が渇きすぎてなかなか声が出せない。
「み、ず…。」
先立つものは、喉を潤すものだ。
関口は、『あぁっ、そうですよね!』と、ばたばたと水をもってくる。
鉄平は、少しずつ喉を潤すように水をのみ、ようやく関口に謝罪ができた。
その後、やってきた医者に診察されて、今わかる範囲では問題なしとされたので、明日から色んな検査をしていくことになった。
20日も寝たきりだったので、リハビリも始めるそうだ。
医者と看護師が出ていくと、ようやく人心地つけた。
「ふー。僕は、帰ってこれたんだ…。」
しみじみと、実感する。
起きてみたら、すでに事故から20日経ってることには驚いたが、目覚めた今は体も痛くもないし、頭もクリアだ。
これならすぐにデスクワークならできそうだと、鉄平は考えていた。
その時、関口から声をかけられる。
「鉄平様。」
ん?とゆっくり顔を関口の方へむけると、なにやら深刻そうな顔をしている。
「どうした、関口?」
鉄平がたずねると、ややあって重い口を開く執事。
何かよくない話があるみたいだ。
「実は...、鉄平様と同じ車に乗っていた旦那様なんですが、...お亡くなりになってます。」
痛まし気な顔で、父親の死を告げられた。
しかし、驚きはない。
「知ってる。
さっき、関口が言ってたじゃないか。お線香がどうのとか、叔父の省吾さんがとか。
聞こえてたよ。それに、多分、意識がない時、空で父さんにあった。」
目を見開き、驚く関口。
さもありなん。
鉄平は、それでも構わず話を続け、非現実的な出来事を聞かせる。
「天国の門らしきところに、仁王立ちで立ってた。
今まで僕に無関心だったくせに、すっごく怒られた。
何を言ってたかは、忘れたけど。
『生きろっ!』って、ひたすら怒鳴られたのは、なんとなく覚えてる。
それで最後に、思いっきりぶん殴られた。
そしたら、目が覚めたんだ。」
不思議だろ...?と、鉄平が苦笑する。
その様は、嘘を言ってるようには見えない。
関口は、信じる。
「そうですか…。旦那様が…。
ふふふ、最後の最後に父親らしいことをされたんですね。」
思わず笑いが込み上げてきてしまう。
執事が知る旦那様と鉄平の関係では考えられないが、それが本当なら随分旦那様は不器用な愛情を持っていたらしい。
「あ~確かに。そうだなぁ。」
鉄平は、幼少期から父親に抱きしめられたことも、怒られたこともなかった。
親子の関わりというのは、ほとんどなかった。
自分に関心がない父親だったから、普段から家で顔を合わせても挨拶するだけ。会話もないし、家で父親が何をしてるのかも知らない。逆も然り。
鉄平が同じ会社に入ってからは、信頼できる部下の一人としての立ち位置でしかなかった気がする。
それなのに、死んでから殴られ怒られるとは、おもしろすぎる。
「天国の門は、綺麗でしたか?」
「いや、まぶしすぎてわからなかった。
でも、なんか幸せだった気がする。長い夢を見ていたような…。
父さんに殴られたことしか覚えてないけど、何かあったのかな...。」
「そうですか。臨死体験が幸せ過ぎたから、もしかしたら起きれなかったんでしょうかね。
でも、お戻りになられて関口は嬉しいです。」
ありがとう、と素直に答える鉄平。
関口は、育ての親の一人で気を許せる人物だ。
自然とお礼も言える。
しかし、どうやら、鉄平は依との生活を忘れてしまっているようだ。
これは、想定外である。
「関口。
早速だが父さんの秘書の田口に連絡を取ってくれ。ここで、仕事する。俺のタブレットに、内容を送ってほしい。
あと、部下の権藤にも連絡を。
意識がなかった時の仕事の確認と、引き継ぎをする。」
「鉄平様....。」
関口は、呆れた顔で鉄平を見つめる。
「今日くらい、休んでいたらどうですか?」
誰も、責めませんよ...わたしは、鉄平様が心配です。
せっかく助かった命なんですから、お身体大事にしてください。今度は、過労で天国に行ってしまいますよ...。
私は、鉄平様の子供をお世話するのが夢なんですよ..。結婚もまだなのに...。と、くどくどとお小言をもらう。
「せっかく暇なんだ。頭だけは動かさせてくれ。」
うんざりした顔で、鉄平は言う。
暇も嫌だが、結婚の2文字も嫌だ。話題を反らせるために、尚も仕事を要求する。
しかし、関口はさっきまで鉄平が目覚めないところを心配しながら見てたのだ。
許可できない。
「鉄平様は、その頭が問題で、20日間も意識が戻らなかったんですよ!?」
「わかった、わかった。
じゃあ、何か違和感があればすぐやめる。だから、連絡をとってくれ。」
「わかりました!でも、絶対無理はしないでください!
私の夢を潰さないでくださいねっ!」
「それは、無理だ。
僕は、女性は...無理だ...った.。クっ!」
「鉄平様っ!!」
急に頭を抱えて、苦しそうにうずくまる鉄平。
慌てて関口が、ナースコールを押そうとする。
「待てっ!大丈夫だ..、押すな。治る。」
「ですが...。」
鉄平は、本来、女性が苦手の独身主義。
依に出会ったことで結婚願望が変わったが、今は依の思い出をまるっと忘れているため、結婚には否定的になってる。
だから、無理だと答えようとしたが、言ってる途中で脳裏に何かが浮かんだ。
すごく大事なことだった気がする。
何か、大事なことを僕は忘れている??
何か、浮かんだ...。女性?
ハッキリとわからなかったが、誰かが浮かんだ。
なぜだが、心が温かくなる。
思い出さなければならない気がするし、胸が切ない。
意識が、変わった気がする。
今は、結婚なんか絶対にしないと強く思えない。
どうしたんだ?
鉄平は無意識下で、依との想い出を反芻したようだ。
それでも、依のことを思い出さない。
もっと、何かきっかけがあれば思い出すかもしれないが、今はまだ無理みたいだ。
しばらくすると、頭痛が治った。
関口もほっとした顔を浮かべる。
だが、鉄平の心にはぽっかり穴が空いたように、虚無感がずっと燻ることになった。
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