第22話 課長は諦めない
お盆休みが明けて会社が始まった。
「立花。この書類を、第1の友部に持って行ってくれ。その際、簡単にこの部分を説明してくれると助かる。」
課長から書類をもらい、依は隣の部屋に位置する第1営業部へ向かった。
休み明けの課長は、相変わらずかっこよかった。彫刻のような均整がとれた身体と、神が恩寵を与えたに違いない神々しい顔は、今日も健在。周りに色気を振りまいている。
依も、久しぶりにセクシーな声で話しかけられて、ドキッとしてしまった。
それでも、他の女性社員よりも耐性があるので、ポーッとはしない。
休み前日は、あんなことがあったのでドギマギしてしまったが、鉄平と出会った現在の依は、課長のことを意識することなく通常運転に戻っていた。
なので、冷静に沢崎の指示にも淡々と返事をし、踵を返したわけだが....
この依の態度に、沢崎は焦っていた。
なんだ?
立花の雰囲気が変わった?
休み前は、顔を赤く染めて俺を意識してくれてたのに。
何があった??
あの時、押せばいけると、たしかに確信があった...。
だから、今日仕事が終わったら食事に誘って、結婚を前提とした交際を申し込んで、婚約者としての立場を確かなものにしようと思ってたんだが...。
もしかして時期尚早か?
考える時間を与えれば立花のことだから、休み中に心の整理をつけ、仕事とプライベートの公私の切り替えを完璧にしてくるとは思っていたが....。
それにしたって、何か違和感がある。
立花の目の中に、俺を男として意識していた部分が全くなくなった気がする。
そもそも告白する以前から恋情ではないにしても俺に対して好意的な感情が目に現れていたのがわかっていたから、あの日はホテルに連れ込んだ。
その時も、手応えはかなりあった。
翌日の目には、小さな恋愛感情も色情も、確かにのっていた。
成功確率は、8割を超えていたと思う。
なのに...、なんだ?
達観したような目になった。
俺に向ける視線が、坂田とか同僚に向けるのと同じ部類になった気がする。
マズイか?もう少し揺さぶってからまた告白した方がいいか?
沢崎は、高速で演算処理をするように計画を検討し始めた。
とは言え、目線一つで、依の気持ちを見抜く手腕は、さすがである。
だが、依を欲する気持ちが強すぎて、止まることが出来なかった。
もう直ぐ手に入れられるところまできていたゆえに、今更引き下がるという選択肢は沢崎にはないのだ。
沢崎はタイミングよく依が一人になるタイミングで、約束を取り付けた。
そして就業後に、食事に連れ出す。
今ふたりは、夜景が綺麗なレストランにいた。
依と今日付き合えると思っていたので、気合を入れて予約していたのだ。
「課長。ここ、すっごく高そうなんですけど...。
わたしには不相応すぎて恐縮なんですが。」
依は、気後れしていた。
目の前には、美しさが天元突破したような男がいて...、右側には、光り輝く夜景があり...、テーブルの上には、年代物のワイン...。そして、前菜からキャビアなどの高級食材がふんだんに使われている高級料理。
わたしがいるべき場所はここじゃない感が半端なかった。
だが、沢崎はそうは思わない。
惚れた欲目かもしれないが、自分の横には依が似合うし、こういうラグジュアリーな場所でも依は見劣りしない。
「そんなことないぞ。
立花の雰囲気は、落ち着いているし上品に見える。
ちゃんと、TPOも弁えてて、違和感はない。安心しろ。」
沢崎は、フッと微笑む。
そして、すっと、ワイングラスを持ち上げ、喉を潤すように赤ワインを飲んだ。
喉仏がコクっと上下するのが、依の目に映る。
課長の色気が、やばい。
やばい、やばいと、語彙力が低下するほどの攻撃力があった。
思わず、ギュッと体が跳ねる。
どうやら課長は、自分の武器を最大限に利用して陥落させようとしているらしい。一つ一つの動作、表情に隙がない。グイグイ迫ってくる。
でも、依にはもう鉄平がいる。
実は、今朝起きて横に鉄平がいなかった時、一瞬、4日間のことが夢だったかと思った。
でも依の部屋には、猫足のバスタブも、大量の古着もあった。
何より、鉄平が置いていったスリーピースのスーツが壁にかかっていた。
これだけは、妄想でどうにかなるものではない。
依が買ったものではないからだ。
鉄平さんは、夢じゃない。来年また会える。と、何度も言い聞かせた。
鉄平さん大好き。
だから、課長がどんなに色気を出そうが、距離を縮めてこようとしようが、無駄なのだ。
それでも、人外の美しさで迫られれば、バクバクしてしまう。
「立花。ちょっと、ごめん。」
課長が、料理が下げられたタイミングで席を立った。
ナプキンを椅子に置くだけの動作なのに、どうしてか課長が輝いて見える。
筋張った腕がナプキンをたたむ姿、椅子を引く姿、こちらに向かってくる長い脚。
全てが芸術品で、ほえぇ〜と見惚れる。
ん?だけど、なぜこっちに向かってきたの?課長?
依は、頭にハテナを抱えながら、課長の一挙一動を観察する。
すると、依の背面に回った課長が、依のネックレスに触れスルッと位置を調整した。
課長の顔が、気づいたら依の顔の真横にきていた。
直しながら耳元で『ズレてたぞ』と囁いてくる。
最後に、長いピアニストような綺麗な指で、依の首をつぅーっと触れてきた...。
全ての動作が、ゾクゾクと官能を呼びおこそうとしてくる。
依は、赤面するのが止められないし、体がぴえっと硬直してしまった。
そして、沢崎が最後のダメ押しをしかける。
依の耳元で沢崎が微笑んだ。
その際、わざとフッと空気を漏らすような音を依に聞かせた。
課長...色気が、兵器です。
ネックレスがズレてると一言言ってくれれば、自分で直したのにぃ(泣)
わざとですよね!?わかってても、ドキドキが止まらないです。
依の心臓が痛くなった。
そして沢崎は、赤面し恥ずかしがってる依のリアクションを見て、心の中でほくそ笑んでいた。
このまま攻めていけばなんとかなりそうだと、手応えを感じる。
だが今日は告白の返事を催促しないでもう少し様子をみた方がいいと勘が告げる。
当たり障りのない会話をして、今日は送っていこうと決めた。
しかし、この後余計な一言で諦念せざるを得ないことになった。
機嫌良く依との会話を楽しんでいた沢崎が、黒のブレスレットについて聞いたのだ。
ただそれだけだった。
それが、決定的な依の返事になるとは知らず。
「立花。それ。どうしたんだ?」
トントンと、左の手首を叩きながら依に聞く。
その仕草も、指の角度・腕の筋の出方も計算されているかのように、美麗で芸術である。
沢崎は、いつも何もつけない依がブレスレットをつけてることが朝から気になっていたから、軽い気持ちで聞いただけだった。
指摘された依は、自分の左手を見る。
そこには、鉄平に3日間ずっとつけてもらっていた黒のバングルがついていた。
「そのチャーム何か文字が書いてあるだろう?
依のYか?」
ここでも、沢崎はわざと下の名前で呼んだ。
わざとらしくでもなく、スマートに呼べる時は名前で呼んでくる。さすがである。
そして、普通の女性なら『名前を呼ばれちゃった!』と舞い上がるところなのだろうが、依にとってこのバングルは特別なもの。
名前云々よりも、鉄平との日々が次々に思い出されて、意識がそこに向かなかった。
ふわりと慈しむような笑みを浮かべ、バングルを見つめる。
沢崎は、その表情を見て、綺麗だ...、と見惚れてしまった。
しかし、すぐさまハッとする。
愛しいものというような顔でバングルを見る依に、危機を感じた。
なんで、そんな顔をする?
休み前は、そんな顔見たことなかった...。
休暇中に、本当に何があったんだ!?
沢崎は、焦燥でジリジリと胸を焦がす。
「ふふ、これですか?これは、YじゃなくてTです。」
「T?」
「はい。元々つけてた人の名前がTだったんです。
だから、T。
来年また返すまで、わたしが着けておく約束をしたんです。
ちょうど、立花のTですから。」
「来年?」
沢崎の心がざわっとする。
なぜ、そんな幸せそうな顔でそれを見る?
俺を見ろ。
俺を意識してくれ...。
「はい。来年です。その人、お盆にしか会えないんで。」
寂しそうに笑う依を見て、立花の大事な人なんだと理解した。
「ちなみに、聞いていいか?その人は、男かい?」
自信家の沢崎でも、この時ばかりは緊張で口が乾いた。
ポーカーフェイスは得意だから、情けない顔にはなってはいないが、心中は...切迫して苦しかった。
嫌な予感がしている。
そして、残酷にも、依の答えは...『YES』だった。
「はい。男性です。」
依は鉄平の姿を思い浮かべて、ふにゃりと顔を緩めた。
沢崎は、その顔を見て、表情が抜け落ちた。
依は、今、告白の返事をするべきだと思い、まっすぐ沢崎を見つめる。
その様は、ピンと背筋が伸びて、意思が固い面持ち。
覚悟を決めたような強い視線が、沢崎を射抜いた。
周りではしっとりとしたクラシックが流れていたが、気にならなくなった。
今は、依の言葉だけがハッキリと聞こえる。
「休み明けに、答えをということでしたが。
すいません。わたし、課長とは付き合えません。」
やっぱり...と、沢崎は思った。
「ん。そうじゃないかとは思ってた。
今日会った時、雰囲気が違ったから。
あの日、ホテルから帰る時は、俺に少し恋情があったよな?それが全く感じられなかった。」
「はい。あの時は、お付き合いをしてみようという気持ちが、大きかったです。」
「じゃあ、なぜ?そのバングルの男に出会ったから?」
「そうです、ね...。」
「はぁ...。元々、その人とは知り合いだった?
俺の見立てでは、立花にいい感じの男の影は全くなかったと思ってたんだけど。違う?」
「その通りです。13日に出会いました。」
沢崎の心理眼は、的確だった。
多分、鉄平に出会わなければ、今頃交際していただろう。
「13にち...。ついこないだだな。
俺の勝手な思い込みかもしれないが、立花はよく知らない人物とは付き合わないと思っていたんだが、これは間違ってたか?」
依は目を見開き驚いた。
「そ、そうです。よくおわかりで...。」
「だよなぁ。決め手は?そいつが短期間でいいと思った決め手はあるのか?
俺は、立花に本気だからこのままじゃ諦められない。そいつに俺が負けたと、納得させてくれないか。」
普段自信に溢れている課長が、苦しそうに笑いながら懇願する姿にぐらっと一瞬きた。
課長も、ちゃんと人間だった...と、初めて依は思った。
こんな姿を普段から見せてくれていたら、違う未来があったのかもしれないと、ほんの少しだけ思えた。
「決め手ですか...そうですね、どれってハッキリ言えないんですが...。
しいて言うなら、ピッタリ合うようなフィーリングでしょうか?
隣にいて、緊張しない。それこそ、家族のような感じがしました。」
「家族?」
「はい。」
「それは、ちゃんと異性として見ていないんじゃないか?」
確かに、この言い方だとそう考えられても不思議じゃなかった。
課長の目に、希望を見つけた光が少し灯ってしまったのがわかった。
これでは、いけない。
ちゃんとしなくちゃ。
依は、恥ずかしさを我慢して沢崎にちゃんと気持ちを伝えることにした。
「異性として、わたしはちゃんと好きになったん...です。
あの、家族と言いましたが、えっと...それは、前世があるなら夫婦だったんじゃないかなぁと思えるほどしっくり来て。
彼も同じ気持ちでいてくれて...。」
前世とかいい歳して恥ずかしい。
以前は、非現実的なことを信じるような自分じゃなかったから余計に恥ずかしい。
「前世...。」
沢崎も、依の性格上そんなことを言うとは思ってなく、唖然としたようだ。
「変ですよね...。でも、理屈じゃないんです。彼以外は考えられないんです。だから、ごめんなさい。」
深々と頭を下げて、ハッキリと断った。
沢崎は、ゆっくりと断られた事実を咀嚼する。
隙はないかと、依の様子をしっかり観察していたが、どうやら無理そうだ。揺るぎない意志を感じた。
今は、引こう。
「わかった。これは、無理そうだな。
だけど、しばらくは君を想うことを許してほしい。」
人生を一緒に過ごしてほしいと思った唯一の女性が依だ。
なかなか気持ちをリセットするのは、難しい。
それに、隙あらば攻める気持ちもまだある。
「あと、来年までソレ預かってるって言ったけど、遠距離なのか?」
依のバングルを指差して、問いかける。
「遠距離...。そうですね。ある意味、遠距離です。」
寂しそうに笑う依。そんな依に、沢崎は庇護欲と独占欲が沸いた。
俺ならそんな悲しい顔させないのに...。
やっぱり、立花を捕まえたい。
1年間会えないような男になんか渡したくない。
断られたが、相手の男がいない今がチャンスだ。
要所要所で踏み込んだら、立花の気持ちをソイツから俺に向けさせることができるんじゃないか?
まだ諦めない。別れさせてやる。
結局沢崎は、虎視眈々と狙う方向にあっさりと舵をきることにした。
狼に睨まれた子羊。
ガブっと食べられなければいいが.....
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