episode2

俺は胸元を掴み、その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。

冷たい雨が容赦なく降り注ぐ中、荒れる呼吸を抑えようとするが、全くうまくいかない。胸の奥で鳴り響く動悸が、ドクドクと容赦なく俺を攻め立てる。頭の中で何度も言い聞かせる。落ち着け、落ち着けってんだよ。もう20年以上も前のことじゃねえか。俺は、これでも大人になったんだ。過去に囚われてどうする。


だが、体は正直だった。あの瞬間、親父が傘を構えたあの動作――それだけで俺の全身は過去の記憶に引きずり込まれた。あの頃の痛み、あの頃の恐怖が、体の奥底から蘇る。まるで、それが昨日の出来事だったかのように。


「なんてな、冗談だ」


親父の声が、雨音の中で響く。俺がしゃがみ込む姿を見て、何か思うところがあったのか、親父は傘をゆっくりと下ろした。その動きには、さっきまでの威圧感はなく、どこか穏やかさすら感じさせるものだった。妙に落ち着いた声色でそう言われると、さっきの豹変ぶりが何だったのか問い詰めたくなる。


「お前さんには、悪いことをしちまったと思ってる。まだ治ってねぇんだな」


親父の声は、どこか沈んでいた。雨の中で、彼の目がどんな表情を浮かべているのか、俺にはうまく読み取れない。だが、彼が本気で後悔しているのか、それともただの気まぐれなのか、そんなことはどうでもよかった。


「は、はは…」


俺の喉から漏れたのは、乾いた笑いだった。

それ以外にどう返せばいいのかわからなかった。

情けない。自分が情けなくて仕方がない。


「…てっきりもう、大人になったんだから平気になったと思ってた」


親父はそう言って、無造作に頭を掻いた。

困ったような表情が一瞬浮かんだ気がしたが、すぐに雨粒に紛れて見えなくなった。


俺もそう思っていた。俺も、もう大丈夫だと思っていた。だが、胸の鼓動はまだバクバクと鳴り止まない。額からは汗が雨と混じりながら流れ落ちる。濡れた衣服の不快感と、親父の視線が絡み合い、嫌悪感が胸の中で渦を巻く。


「あ、そうだ」


親父が突然何かを思い出したように、顎に手を当てた。


「は…?」


「今、思い出した。俺、お前さんに話したいことがあったんだった」


「話したいこと?」


俺がそう返すと、親父は深く頷いた。

その仕草が妙に真剣で、俺は思わず眉をひそめた。


「…お前さん、裏社会しごとに興味とかあるか?」


その言葉を聞いた瞬間、俺の思考は一瞬で停止した。

何を言ってやがる。この状況で仕事の話?


「だって、お前さん28歳にもなるってぇのに定職就かずの浪人なんだろ?」


図星だった。確かに、俺は28歳。普通の人間なら家庭を築いていてもおかしくないし、仕事も落ち着いて趣味を楽しんでいる年齢だ。だが俺は、少し人付き合いが苦手なだけで、バイトだってサボっているわけでもないし、何度もクビになったわけでもない。


「…それはそうだけど、実家に収入は入れてるだろ。それに、ちゃんと週五でシフトに出てるし、別に金に困ってるわけでもねえ」


俺がそう返すと、親父はしゃがんでいる俺の腕を掴んだ。その手の力強さに、俺は思わず顔をしかめる。


「…どうしてもよぉ、衛。お前さんに頼みたい仕事があるンだよ」


親父は懇願するような声でそう言った。腕を揺さぶられるたびに、俺の頭の中で疑念が膨らんでいく。


「…じゃあまず腕離せよ。痛え」


俺がそう言うと、親父はぱっと手を離した。


「おお、悪ぃ悪ぃ。いつもの癖が出ちまった」


親父は笑みを浮かべる。その顔を見て、俺はため息をついた。親父がこういう顔をするときは、ろくなことがないのが俺の経験上わかっている。


「…仕事内容も話してもらえないのに、引き受けるわけねえだろうが」

「おお、そうかあ…」


親父はついうっかりしてたとでも言いたげな顔をした。


「でも、仕事内容は」


親父は急に真剣な表情になり、周囲を見回し始めた。

まるで何かを警戒しているようだった。


「…悪いが、どこで聞かれてるかわかんねえ。ちいと場所を移したい」


その表情は、親父には珍しく真剣そのものだった。

へらへら笑うのが日常茶飯事の親父が、こんな顔をするなんて。

もしかしたら、割と深刻な話なのかもしれない。


「なんてったってこの仕事は機密事項トップシークレットだからな」


その言葉を聞いた瞬間、俺の中で渦巻いていた動悸は静まり、代わりに妙な好奇心が湧き上がってきた。なぜこの言葉に惹かれるのか、自分でもよくわからない。


「…とりあえず、その表情かおを見るに仕事の話はして大丈夫そうだな。今から俺の仕事仲間に迎えに来てもらう事にするわ」


そう言うと、親父は腰ポケットから携帯を取り出した──。


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