4-4.まつろい

 ――次の日、真昼九つ十二時になっても加賀男かがおは戻ってきていない。


 空に浮かぶは金色の小望月こもちづき。掃除も洗濯も終えた真鶴まつるは、彼から借りた懐中時計を眺め、自室でぼうっとしていた。


天乃あまのさま……まだかしら」


 先程から同じ言葉と嘆息ばかりが漏れる。


 一日くらいで帰ってくる、と加賀男かがおはいったはずだ。まだ半日ちょっとしか経っていない。食事のときも落ち着かず、ツキミに心配された。


 太股に首を載せ、気持ちよさそうに目を細めているこがねをおざなりに撫でつつ、時計の音に集中する。一分一秒が、とても長い。


 加賀男かがおがふゆといることを考えただけで、胸が靄がかる。この気持ちもまた知らないものだ。


「待つ身が辛いと昔の人はよく言ったものだわ」


 呟いて、また大きなため息を漏らした直後。


「ひいさま、ひいさま」


 ふすま越しにツキミが話しかけてきた。


「ツキミさん、どうなさったんですか?」

「みつやさんがきてますの。美味しい食べ物の匂いがしますの」

「みつやさんが? 今行きますね。応接室に案内をお願いします」

「はいなー」


 真鶴はこがねを見る。声で起きたのだろう、彼もまた金色の瞳をこちらに向けていた。


「隠れて見回りをお願いできる? こがね」


 頭をくすぐりながらそういえば、こがねは大人しく真鶴まつるの側から離れ、首をもたげた。


 小紋こもんの着物の裾を払い、懐中時計を帯に入れて立ち上がる。


 すでに道程みちのりも、間取りも頭の中に入っていた。迷うことなく応接室へとおもむく。


真鶴まつるです、失礼します」


 一声かけて中に入れば、お茶を運んだらしきツキミが、みつやの側で目を輝かせているのがわかった。


「やあ、真鶴まつるちゃん。こんにちは」

「こんにちは、みつやさん」

「美味しそうな匂いがしますの! 何持ってきたんですの?」

「ツキミちゃん、相変わらず鼻がいいねえ。ちょっと待っていてくれたまえ」


 苦笑したみつやが、机の上に置いていた風呂敷をほどく。中から出てきたのは、パンだ。しかも十個はある。


「木村のジャムパンだよ。まあ、先んじてのお祝いにと思ってね。現世うつしよで買ってきたんだ」

「お祝い、ですか?」


 パンを目の前に喜ぶツキミをさておき、真鶴まつるはみつや近くの椅子に座った。


加賀男かがお祝言しゅうげんを挙げるんだろう? あと念話ができたって。それの、お祝い」

「ま、まだ、正式におさの皆さまに認められたわけでは……」

「あれ、そうなの? 鬼の花街かがいじゃそう聞いたけど」

「とりあえずは、保留です」

「そうだったんだねえ。ってツキミちゃん、よだれよだれ。垂れそう」

「はっ……失礼しましたですの!」


 ツキミが慌てて手拭いで口元をぬぐう。


 待ちきれない様子の彼女へパンを一つ手渡しし、みつやは扉の方を見た。


加賀男かがおは?」

「ふゆさまのところへ、霊気れいきの調節をしに」

「あの女のとこに? よく行かせたね」

「お仕事ですから。星帝せいていというお立場を邪魔するわけにはいきません」

「なるほどね……仕方ない。パンは全部平らげてしまおう。ツキミちゃん、僕たちは一個でいいから、あとは全部食べていいよ」

「いただくですの! ひいさま、お部屋で食べていいですの?」

「はい。ゆっくり休んで下さいね」

「じゃあ、これ。真鶴ちゃんの分」

「いただきます、みつやさん」


 みつやは自分と真鶴まつるの分のパンをとり、残りを風呂敷ごとツキミに渡す。


「ひいさまのお茶もありますの。ごゆっくりどーぞ」


 一つ、可愛らしくお辞儀をし、ツキミは鼻歌交じりに退室していった。


 ジャムパンを少しかじり、飲みこんだみつやがカーテンの下りた窓を見つめる。


「それにしても霊気れいきの調節か。明日は満月だからね。僕たち裏華族うらかぞくの人間もそうだけど、見目を変えるものや体調を崩すものもいておかしくはない」

「わたしは花と念話ができて、はじめての満月を迎えるのです。一体、どんな髪色になるか……不安で」

加賀男かがおにどう思われるか心配してるのかい?」

「はい……」

「髪がどんな色になっても、あいつなら褒めそやしそうだけど」


 みつやの言葉に何も返答ができず、パンを一口、食べた。アンズの甘酸っぱさが口腔を満たし、香りが鼻から通り抜けていく。


「みつやさんも、寿々すず家の血を引いてらっしゃるなら、目と髪の色が変わるのですよね?」

「髪は紫紺。目は紫に変わるよ。急患がいるときは、非常に困る」

「普通一般の方が見たら、驚いてしまうでしょうね」

「まあ、満月の夜は基本的に休んでるよ。加賀男かがおの様子を見なくちゃいけないし」

「天乃さまが、何か?」

「え、何、あいつまだ真鶴まつるちゃんに話してないの?」

「はい、聞いていません。どこか体調を悪くされるのでしょうか」

「うーん……」


 パンを食べ終えたみつやが、こめかみを指で叩いて難しそうな顔を作った。机にあるツバキの水差しを揺らす勢いで、真鶴まつるは身を乗り出す。


「教えて下さい、みつやさん」

「……末路衣まつろい

「え?」


 渋々、といった様子でみつやは口を開いた。真摯な顔つきで。


「まつろわぬものたちはね、満月で力を暴走させてしまうことがあるんだ。それが、末路衣まつろい天岩戸あまのいわとってところで休めば大抵は治るけど、加賀男かがおの場合、そうはいかない」

「何か、もっとひどい症状が……?」

「万が一、末路衣まつろいで力を暴走させたとき、天岩戸あまのいわとを使おうとしてもだめなんだ。逆に霊気れいきを全て吸い取られる。天照大御神アマテラスオオミカミが隠れたとされる場所とは、加賀男かがおは相性が悪くてね」

霊気れいきを吸い取られる……死んでしまう、ということですよね?」

「それは知ってるんだね。そのとおり。だからぼくが結界を張る役目としているんだ」

「よかったです。みつやさんはそのために」


 対処法がある事実に、真鶴まつるは胸を撫で下ろす。


「うん。とはいえ、加賀男かがおも今まで末路衣まつろいをしたことなんてないから、大丈夫。酒を飲まない限りはね」

「お酒、ですか。確かに今まで飲んだ姿は見たことがないです」

「代わりに甘いものを持ってきたわけだけど。それにしてもあいつ、遅いなあ」


 と、みつやが机に突っ伏した、ときだ。


真鶴まつる、何か変だよ』

「ツバキのお方……?」


 真鶴まつるがツバキから思念を受け取った直後、それは訪れた。


 館全体が微かに揺れる。


「地震?」

「これって……」


 顔を上げる二人の前で、ぱらぱらと天井から埃が舞い散った。途端、全ての明かりが消え去る。たちまち暗闇が辺りを制した。


「えっ……」

「ひっ!」


 みつやが大きな悲鳴を上げる。次いで、物音。どうやら椅子から転げ落ちたようだ。


 カーテンを下ろしていたせいで、月明かりも入らない。


「ツキミさん、ツキミさん? 鬼火は……」

「……い。怖い、怖いっ」


 暗闇に目が慣れない中、立ち上がる真鶴まつるをよそに、みつやが声と息を荒げた。


「みつやさん、大丈夫ですか? どうしましょう……」


 ツキミの力が、なんらかの理由で消えたのだろうか。鬼火は必ず一つ、どこの部屋にも残されているはずなのに、今はそれすらない。


「怖い、助けて……! いやだ、暗いのはいやだっ」

「みつやさん、落ち着いて下さい。大丈夫です、わたしがいます」


 真鶴まつるはなだめるようにささやき、みつやの近くへとしゃがみこんだ。その刹那――


「母様……!」

「え?」


 呟くみつやに、強い力で抱き締められた。彼はそのまま真鶴まつるをかき抱き、震える手に力をこめる。その息はとてつもなく荒く、全身から汗が噴き出していた。


「かあさま、怖い……暗いのはいやだ……怖いのは、いやだっ……!」

「みつやさん……大丈夫、大丈夫。一人じゃありませんよ」


 そっと、こがねにそうするように、真鶴まつるが頭を撫でた途端だ。


 突然電灯が復活する。その光は強烈で、思わず真鶴まつるは一瞬、瞳を閉じてしまった。


 まぶたを開ける。みつやはまだ目をつぶったまま自分を抱き締め、離そうとしない。


 抗うこともできない力の入れように、真鶴がもう一度口を開きかけたそのとき――


「何を、している」


 強張った声がして、顔を扉の方へ向けた。


 そこには、恐ろしいほど無表情の加賀男かがおが、いた。


「あなたさま」

「何をしていると、聞いている」

「これは、あの」

「ま、これはひどいところを。いいえ、あなたたちにとってはお楽しみだったのかしら」


 加賀男かがおの後ろから、ふゆの声が届く。嘲りと侮蔑をこめた声音が。


「違います、これは」

真鶴まつるさん、誠実であれといったはずですわ。なのに、他の殿方と抱き合っているなんて。これは加賀男かがおさまに対する裏切りも同然」

「……君と俺は、同じ思いだと……そう感じていたのに」


 加賀男かがおが、力なく笑った。自嘲するような笑みに、真鶴まつるは必死で首を横に振る。


「やはり君も、まともな裏華族うらかぞくの方がいいか」

「あなたさま、聞いて下さい。誤解なのです、違うのです」

「黙りなさいな、小娘! 加賀男かがおさまのお心を傷付けておきながら、よくも!」


 ふゆの叱咤に、びくりと身が震えた。


 ようやく光に気付いたのだろう、みつやも目を開き、はっとした表情を作る。


真鶴まつるちゃん……か、加賀男かがおっ。誤解! これは――」

「もう、いい。二人とも現世に戻れ」


 失望と傷心、その二つをにじませた声で、加賀男かがおがゆらりと手を振るった。


「君の幸せがみつやにあるというのなら、それでいい」

「違うのです、あなたさま!」

「……君は姉君の元に帰れ。話は、つけておく」


 どうして、と真鶴まつるは思う。


 どうしてこんなときに、こんな大事なときに、自分は表情一つ変えられないのだろう。


 焦りも何も、届くことはない。


 指二本の刀で加賀男かがおが空気を切り裂いた、刹那。


 強烈な目眩がして、真鶴まつるは意識を手放す。


 その中で、まぶたが下りるさなか――ツバキの花がぽとりと、落ちるのを見た。

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