第5話 躁鬱と邪悪な星

 マサハルは、次第に精神的に病んできていた。それを、かすみは知る由もなかった。

「仕事が忙しいだろうから、連絡を取るのを控えているだけだ」

 と思っていたのだが、それにしても、そろそろ入社して半年になるのに、マサハルから連絡が来ることはなかった。

「一体、どうしたんだろう?」

 と少し不安になっていたが、なぜかさほど、気になるということはなかった。

 実際にそれほど、好きだったのかどうか、自分でも分からないと思っていた。

 そんなかすみだったので、敢えて連絡を取らなかったのは、

「自然消滅でもいいか?」

 と思っていたことを思い出した。

 正直、自分も仕事のことで、

「マサハルにかまってはいられない」

 という意識があったこともあり、マサハルの存在すら忘れていたのだった。

 普通だったら、どんなに忙しくても、いや、むしろ忙しいからこそ、つき合っている人のことをちょっと思い出すだけで、頑張れると思うのではないだろうか?

 それがないということは、本当に忘れていたといっても、正直な気持ちではないだろうか?

 それを思うと、マサハルのことは、半分、どうでもいいと思っていたふしがある。それよりも、今の会社に、気になる男性がいるくらいだった。

 遠距離とまではいかないまでも、気持ちの上では遠距離恋愛と変わりはない。遠くないだけに、架空の距離が却って遠く感じられ、平行線が、歪な形になっていくのであった。

 かすみが、マサハルに対しての気持ちが薄れていくのに反し、マサハルの方は、かすみのことが気になって仕方がなくなっていた。

 結婚というものを考えなくなると、かすみという女が忘れられなくなっていく自分を感じた。

「かすみが、年を取ったところなんか想像もできない」

 と思っていたが、想像したくないと言った方が正解であろう。

 だから、かすみという女は、

「今だけの女でいいんだ」

 と思っているようだ。

 それは、本当に今だけという意味ではなく、

「今がなければ先がない」

 という意味でもあり、とにかく、今だけ何とか自分の女でいてほしいという考えだった。

 それは、鬱状態になっていることから、そんな風に考えるようになったのだ。

 つまり、

「先を見ることができない。見ることが恐ろしい」

 ということになるのだ。

 鬱状態になると、まわりが見えなくなるとよく言われるが、マサハルの場合は少し違う。まわりが見えなくなるわけではなく、一つのことが異常に気になってしまうので、まわりを見ることが怖いのだ。

 まわりを見てしまうと、気になっているものを見失ってしまいそうで、だから、目が離せないというところが本音であろう。

 ただ、まわりも、いつもと違っているということも事実であった。まず、色が違う。同じ色なのだが、角度によって、あるいは、日光の当たり具合によって、色が違って見えるというあの感覚である。

 色の違いで一番分かりやすいたとえは、信号機の色だった。

 信号機の青い色、あれは光の当たり具合、あるいは、昼と夜とで明らかに違っているのを感じる。

 昼の明るい時間には、緑色に見えるのだ。そして、夜になると、真っ青に見える。似たような感覚を覚えた人もいるのではないだろうか?

 また、赤信号も色が違って感じる。昼間は、ピンク掛かった赤に感じるのだが、夜にあると、真っ赤というか、濃い紅色に見えるのだ。

 それが、鬱状態の時に感じることで、さらにいえば、夕方に訪れる、倦怠感。あれも、鬱状態の特徴であった。

 マサハルは最初は気づかなかったが、ただの鬱状態だけではなく、躁鬱症にも罹っているようだった。

 鬱状態がある程度までくると、躁状態に変わり、また一定の期間、躁状態を過ごせば。今度はまた鬱に戻ってくる。まるで普通の状態を忘れてしまったかのようである。

 躁鬱が定期的に襲ってくるということをイメージできるシチュエーションが、

「トンネルの中」

 というイメージであった。

 ハロゲンライトのようなまっ黄色のトンネルの中で、ずっと走っていると、途中から、暗い色が混ざってくる。本当は暗い色ではなく、トンネルの中だから、いくら黄色であっても、暗いはずなのに、急に暗くなるというのは、

「出口が近い」

 ということであった。

 出口が近いのに、暗いというのは、黄色以外の色が侵入してきたことで暗く感じるというだけなのだが、その色が入ってきたことで、トンネルから抜けるのだということが分かる。

 そして、次第に、トンネルの奥に、白い小さな点を発見すると、それが出口であるということは、本能的に分かるのか、一瞬白く見えた光が、あっという間に、眩しさを帯びるほどの光となって感じられるのだった。

 そして、そのトンネルの黄色い光が、出口の白い色に侵食され、黄色が、どんどん白色仕掛けているのを感じるのだ。

 これで抜けられるという思いから、黄色と白い色との関係にまったく目がいかないのだろうが、後から思い出すと、そのコントラストがハッキリと思い出されるのだ。

 それは、定期的に見ているという感覚があるからなのか、それとも、

「鬱状態から躁状態に抜ける時というのは、大体わかるものだ」

 という意識があるからなのかと考えるのだった。

 正直、自分の中では後者であり、躁状態から鬱状態に入る時は分からないが、鬱状態から抜けて躁状態に入る時は分かると思っていた。その理屈を自分に納得させてくれたのが、この、

「ハロゲンランプのついたトンネル」

 なのであった。

 表が、躁状態で、トンネルの中が、鬱状態だと思えば、すべての理屈を説明できるような錯覚に陥るのだった。

 トンネルの外からトンネルの中に入る時というのは、トンネルから抜ける時のように、出口が見えるわけではない。表の景色を覚えていて、

「この景色を見ると、その先に、トンネルがあったはずだ」

 ということが分かるからである。

 つまり、躁状態の時というのは、まわりのすべてが分かっている状態であり、鬱状態に陥ると、まわりが皆同じで、自分がどこにいるのか分からない。早く抜けてほしいという思いから、どうしても、正面に集中してしまい、一瞬暗さを感じるという、白色を探そうとするのである。

 見つかった瞬間、歓喜の声を挙げるかも知れない。その瞬間、スパークでも起こったかのように、光が一気に目の前に飛び込んでくるので、目の錯覚を覚え、それまでの記憶が打ち消させてしまうかのようになってしまう。

 トンネルのまわりの黄色い色を覚えていないというのは、そういうことなのだ。

 だから、逆に、今度は抜けきって、躁状態に入った時、また襲ってくる鬱状態に気持ち悪さを感じながら、

「できれば、入る瞬間が分かった方が、対処のしようもあるのにな」

 と考えるのだが、そうは問屋が卸さない。

 明るいところから暗いところに入るのだ。光を発するどころか吸収する力がある光は、決して、

「人間の思い通りになんかなるものか」

 とでも言わんばかりであった。

 どうして、鬱状態から抜ける時だけ分かるのかというのは、疑問だった。本来なら逆の方がいい。

「気が付いたら、鬱状態を抜けていた」

 と感じる分には、別に気にする必要はないが、急に鬱状態に入ってしまっていれば、心構えもなく、いきなりトンネルの中の黄色い光に心を奪われることになり、それが、さらなる強い鬱状態を招くことになる。

 もっと言えば、

「最初から分かっていれば、鬱状態に、そう簡単に入ることもないのではないだろうか」

 とも考えられるのである。

 躁状態と鬱状態は、それぞれにスパイラルを描くのであるが、その先に見えるものは、鬱状態から、躁状態に抜ける時にしか分からないということになるのである。

 マサハルは、その時、長いトンネルの中にいた。

「普段なら、もうそろそろ抜けていてもいいはずなのに」

 という思いを抱くのだが、その時の鬱状態はかなり深いのか、かなりの粘着質であった。

 粘着を振りほどこうとすればするほど、出口が見えてきそうな気がしない。脇道があるわけでもないのに、どこか脇道を見つけなければ、永遠に鬱から抜けることはできないような気がした。

 その時に感じたのが、身体のダルさだった。

 倦怠感と言ってもいいのだが、それが子供の時の記憶のようだった。

 その記憶というのが、まるで時代錯誤のようなもので、学校からの帰り道すがらにある公園で、皆で遊んでいるのだ。

 その公園は、空き地と言ってもいいイメージで、ブランコや滑り台、鉄棒などの遊技だけではなく、滑り台の下には、砂場もあった。

 しかも、そこからさらに奥には、土管がおいてあり、三つあるのだが、下二つに上一つという、当たり前の形の構造をしていた。

 ただ、この形は、アニマなどで見る、

「昭和の公園」

 だった。

 もちろん、昭和などという時代を知る由もないマサハルが、昭和の公園をイメージするというのは、アニメなどで子供の頃に見た、昭和の公園をいまさらながらに思い出したからなのだろう。

 昭和では、皆近くの公園、あるいは空き地に行って野球をしたりして遊んでいるというイメージがあるが、マサハルにも、その印象はあり、もっと言えば、

「夢で何度も昭和の公園で遊んだというのを見た気がするんだな」

 と感じていた。

 夢で見るということは、それだけ意識しているということであり、土管というのも、印象深かったのである。

 そんな昭和の公園で遊んでいて、夕方になると、皆疲れて、家に帰るというシチュエーションであった。

 皆、お母さんが迎えに来ていたので、まだ小学生の低学年くらいなのだろうが、どんどん皆減っていく中で、最後まで向かいに来なかったのが、マサハルだった。

 なぜなら、マサハルは夢の中で、すでに大人になっていたのだ。

 大人のマサハルを親が迎えに来るはずもない。

 そんなことをしていると、夕方になってくる。西日が、まるで、ロウソクの消える前の勢いのように、強い光で刺してくる。トンネルを意識することによって、黄色い色が暗い色だと認識するようになったが、その前は、西日の黄色い色が黄色という色の力強さと感じていたのだった。

 マサハルは、親が迎えに来ないことを分かっていて、一人で遊んでいると、次第に疲れてくるのを感じた。

 汗もにじんでいる。

 この時、自分が夢を見ているという感覚はなかった。なぜなかったのかというと、汗が滲んでいるのを自分なりに感じていたからである。

「夢というものは、味や感触、痛みなどを感じるものではない」

 と思っているので、黄色い色も錯覚であり、夕日だということで、黄色いのだと勝手に思い込んでいるのではないだろうか?

 だが、その時の夢はやたらとリアルで、まず、風が吹いてきて、滲んだ汗が風によって心地よく感じさせられる思いと、さらに夕方ということで、特に身体のダルさ。倦怠感を感じさせられるのだった。

 そして、風の強さに逆らうように、身体が敏感になっていき、風邪を引いた時のような、けだるさと、肌寒さから、痛みもこみあげてくるのだった。

 その思いが、痛みではなく、感覚のマヒを巻き起こす。指先が痺れていたり、何かにのしかかってこられるような感覚は一体どこから来るというのであろう。

 その身体のダルさが、次第に、夜を感じさせるのだが、

「ひょっとすると、これは、躁状態から鬱状態に変わっていく時の、感覚なのではないか?」

 と感じた。

 これが、トンネルの出口と対象になっていて、夜がトンネルの中で、昼が、トンネルを抜ける時の前もって分かる時の表の明るさだと思うと、表の光を吸い込んでしまう夜というのは、恐ろしいものだと感じるのだ。

 昔、天体学者が、

「まったく光を発しない邪悪な星」

 というものを創造したということであった。

 そもそも、星というのは、自らで光を発するか、光を発する星に照らされ、その光の恩恵を受けて光るかのどちらかである。つまり、物体があれば、光を持った星が光らせてくれるというものである。

 宇宙という者は基本的に暗黒だ。

「だけど、地球は明るいじゃないか?」

 という疑問を持たれる人もいるだろう。

 このような疑問は確かに当然と言えば当然で、ただ、これはちょっと考えれば分かることである。

「そう、地球にはあるが、宇宙にないものを考えればいいだけで、それが何かというと、もうお分かりのように空気である」

 ということである。

 空気には、小さな塵などがあり、光がそこに触れて反射することで、光が見えるのだ。そう、水面に光が乱反射した時、見える光のようではないか。

 そして、ちょっと考えれば分かるようなことでも、まずは疑問に感じなければ、永遠に知ることのない疑問である。それができるのは、当然人間だけだ。他の動物にはできないが人間にできることはたくさんあるのだが、その中で、

「疑問に思うこと」

 というのは、人間の発展という意味では、一番大きなことなのかも知れない。

 なぜかといって、疑問に思うこととして、人間が一番感じることは、

「その疑問が、科学や文明の発展には不可欠だ」

 ということである。

 疑問を持たなければ、興味を持つこともない。つまり、興味を持つことと疑問に感じることは、背中合わせではあるが、その二つが噛み合うからこそ、文明や化学の発展があるのだ。

「リンゴが木から落ちるのを見たニュートン」

「人間が浴槽に浸かった時に、水があふれたのを見た時のアルキメデス」

 など、その時に、

「何でだろう?」

 と思ったことが、いろいろな法則を発見させ、その法則に基づいて発展してきた文明の上に生きているのだ。

 それを思うと、

「歴史というものは実に偉大だ」

 と考えさせられることだろう。

 余談となってしまったが、星というのは、自分からであったり、他力本願で光り輝いているからこそ、その存在を知ることができるのである。

 だが、宇宙には、そんな星ばかりではないと提唱した天文学者がいた。

 自ら光を発することもなく、光っている星の恩恵で、光るわけではない星の存在を創造したのだった。

 つまり、他の星が光っていても、その光を吸収する星の存在である。

 宇宙は暗いのだから、星自体が光らなければ、その存在は見えないままである。そんな星が宇宙に存在しているとすると、そばを通っても、その存在を見ることはできない。

 真っ暗な夜道を歩いていて、まったく気配もなく、光もない人間が、前から歩いてくれば、どれほど不気味だというのだ。

 それが宇宙という単位で存在しているというのだから恐ろしい。一つの星がどれほどの質量を持っているのかを考えると、

「もし、そんな星とぶつかったら?」

 と想像しただけで恐ろしい。

 相手は見えないだけに、その軌道もまったく見当がつかない。何しろ見えないのだから、捉えようがない。もし見つけたとしても、次の瞬間どこにいるか分からないのだ。

「ひょっとすると、人間のように、意思を持った星だったらどうだろう?」

 その意思や本能で、見つからないようにしているのだとすれば、厄介だ。

「そんなマンガみたいなことはないだろう」

 と言われるかも知れないが、そもそも、他の星とは違う性質を持っているのだから、意思がないといえるだろうか? カメレオンの保護色のように、自分を守るために、わざと見えないようにしているのだとすれば、人間との知恵比べにでもなるだろう。だから、このような星を創造した天文学者は、この星のことを、

「邪悪な星」

 という分類付けをしたようだ。

 最近のマサハルは、

「自分が、この邪悪な星と同じようなものなのではないか?」

 と考えるようになったのが、鬱状態にあえいでいる時であった。

 負のスパイラルに乗って、鬱状態の時というのは、絶えず、悪いことばかりを考える。つまりは、

「負の螺旋階段を回るようにして、落ちて行っているのだ」

 と考えるようになったのだった。

「鬱状態と躁状態、どちらが長いのだろうか?」

 と考えてみたことがあったが、結論としては、

「同じなのではないだろうか?」

 という思いだった。

 悪いことの方が、長く感じられたりするものであるが、実際に考えてみる時というのは、冷静になってからのことなので、躁状態の時に考えることである。

 つまり、鬱状態というのは、考えている時には、

「遠い存在となっている」

 ということなのだ。

 遠くに見えるものは、えてして、長く見えるものなので、逆の作用からか、短く見積もってしまって見るくせがついている。そうなると、鬱状態も、意外と短いものなのかも知れないと思うと、実際に経験した時の長さがまるでウソだとでもいうのかという気持ちの反発を産むことになってしまうのだった。

 それは、なるべく避けたいという考えから、

「最初から仮説を立てて、それを矛盾なく考えていけばいいのではないか?」

 と思うようにして、そこで立てた仮説が、

「鬱状態も躁状態も同じ」

 だということであった。

 だが、少し柔軟にも考えてみた。それは、

「昼と夜の長さが、年間を通せば一日一日微妙に違う」

 ということだった。

 ただ、それは地球に地軸という理由があるからのことであるが、もし、少し違っていたとしても、そこにはれっきとした理由が含まれているということを自分で納得できれば、それでいいと思うのだった。

 だが、いろいろ考えてみると、やはり結論の、躁状態と鬱状態の時間の長さには変わりはないということであった。

 違うと思うのは、自分の精神状態によるものであり、もし、どちらかが短くてどちらかが長いということになるのであれば、きっと、

「鬱から躁状態に変わる時に、予感めいたことが起こることはない」

 と思うのだった。

 ただ、そう考えると、最初に躁状態なのか、鬱状態なのかに入り込んでしまった時の長さは、そのスパイラルを抜けるまで、まったく同じだということを示している。そして、その状態に入り込む時も、抜ける時も、自分の知らない何かの力が働いているのではないかと思うのは、無理もないことなのだろうか? その時、思い出したのが、この、宇宙に創造された、

「邪悪の星」

 の存在だったのだ。

 躁状態と鬱状態がグルグル回っているのを、同じ宇宙の発想として、

「二重惑星」

 と呼ばれるものを想像していた。

 一つの恒星に対して、地球のような惑星が回っているのだが、その惑星は、ちょうど兄弟星のように、一定の軌道をお互いにグルグル公転しているという発想だ。

 だから、片方の星が表に出ている時は、裏の星は隠れていて、逆の星が表に出ている時は、もう一つは隠れている。その時に、両方を観測することはできないというもので、二重惑星の存在は、公的に知られているわけではないということであった。

 ただ、理屈的にはありえることなので、

「想像上の星」

 ということを言われているが、これも、例の、

「邪悪な星」

 と同じように、密かに宇宙に存在している星の中の、ごく一部なのだろう。

 五月病の間に、陥った躁鬱状態になったマサハルは、一人の時間、孤独というよりも、一人でいることが、恐怖なのだということに気づいたのだ。

「孤独が怖いわけではない。孤独を誘う存在が、恐怖を感じさせるのだ」

 ということを感じた。

 躁状態と鬱状態が、交互にやってくる状態を、まるで、螺旋階段のように感じた。

 一度上ってから、また下りてくる。それを繰り返している間に、若干でも上がっているのか、下がっているのか、それとも、現状維持なのか、まったく分かっていない。

 だが、その謎を解くカギが、

「鬱状態から躁状態に抜ける時が分かるという、トンネルでの感覚が、その答えを誘っているのではないか?」

 というものであった。

 ということになると、

「普段の精神状態は、鬱状態よりも上ではないか?」

 と思うのだ。

 きっと、上に少しずつ上がっているのだ、上がっていることで、その本当の躁鬱からの出口に待っているのが、普段の精神状態なのだとして、徐々に上っていたのだとすれば、普段の精神状態というのは、

「躁状態よりも、鬱状態よりも上だ」

 ということになるのだろう。

 そう考えると、躁状態も鬱状態も、

「負の状態だ」

 と言えるのではないだろうか?

 それを考えると、

「負のスパイラル」

 というのは、この躁鬱のスパイラルの先にあるものではないか?

 と考えられるような気がしてきた。

 スパイラルというのは、らせん、らせん状という意味だというではないか、螺旋階段のようにグルグル回りながら落ちて行ったり、上がっていったりするのは、まさに、躁鬱を繰り返している状況に似ている。そして、宇宙における、

「二重惑星」

 の発想にも通じるものがあるのではないか?

 そんなことを考えていると、自分が今落ち込んでいる状態も、ある意味、どん底に近く、後は這い上がるだけだと考えれば、その理屈も分かってくるのではないかと思えてきた。

「あと少しで、負のスパイラルから抜けられる」

 と思うと、それまでの自分の生きてきたことや、生き様が走馬灯のように、巡ってくるのであった。

 その中に、果たして、かすみはいるのだろうか?

 マサハルはその中に、一人の女性を想像できたのだが、どうも、かすみではないような気がする、

 その顔はシルエットになっていて、まるで、幼稚園や小学校で見た、影絵のようではないか? 完全なシルエットであるが、そこに光は感じない。いや、光を使って、影を作っているのだ。

「だから、邪悪な星とは違うんだ」

 という意味である。

 その女の子は、マサハルのことを癒してくれる。想像の中だけでの癒しであるが、顔を想像することはできなかった。

「想像できないのなら、創造してやる」

 とばかりに、自分でも絵を描いてみた。

 その時、

「俺って思ったよりも絵が上手なんじゃないか?」

 と感じた。

 今まで、かすみの絵やマンガを見て、

「上手だね、俺にはとってもできやしないや」

 と言って、投げ出していたのを思い出したが、その時のかすみの顔が、

「あなたには無理よ。できるのはこの私だけ」

 という風に見えた。

 それはまるで、かすみが、自己顕示欲を高めるために、マサハルを利用しているのではないか?

 という発想に似ていた。

「俺にだって、自己顕示欲はあるんだ」

 と感じるようになっていた。

 もちろん、かすみは、そんなマサハルの心境の変化に気づくわけなどあるわけはなかった。

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