第4話 ご乱心

 五月病というのは、一種の鬱病のようなものだといってもいいだろう。それまで何をやってもうまく行っていた人が、急に歯車が狂って、何をやってもうまく行かなくなるような感じが、五月病ではないかと思える。

 五月病には、大学時代を思い返して、

「あの時はよかったな」

 と思いふける場合もあるだろうが、会社で上司から、

「まだ、学生気分が抜けていないのか?」

 と、罵声を浴びせられることもある。

 そんな時、

「社会に出てから、右も左も分からないのだから、上司が導いてくれないと」

 などと思っていると、余計に、深く入り込んでしまうのではないだろうか?

 会社の人間というのは、そんなに甘くはない。特に、大学を出てからすぐの新入社員は、「学生気分が抜けない」

 ということは分かっている。

 なぜなら、自分が経験者だからだ。

 それにしても、自分が言われたりされたりして嫌だったと思うことを、数年も経たないうちに、してしまうのだろう? 非常に不思議な気がするのだ。

 世の中には似たようなことが多い。

 例えば、子供の頃は、よく親を中心とした大人から嫌な思いをさせられた時、

「自分が親になったら、決してそんなことは言わない」

 と思うはずだ。

 そして、

「あんな大人、親には絶対にならない」

 と誓ったはずなのに、自分が親になると、子供の頃に感じた思いをすっかり忘れて、自分の親が自分に言ったことをソックリそのまま、自分の子供に言っている。

「大人になって、子供のことを思うからいうんだ」

 と大人になった自分がいうだろう。

 しかし、子供を叱る時、少しでも、自分が子供の頃に親に対して感じたことを、少しでも思い出しているだろうか?

 どちらかというと、子供が煩わしいので、叱りつけることで、自分の権威を見せつけることで、有無も言わさずに、従わせようという意識でしかないのではないだろうか?

 そんな大人になった自分を、子供の頃の自分が見て、何と思うだろう?

 きっと、

「大人になんか、なりたくない」

 と思うに違いない。

 そもそも、大人になって、何がいいことがあるというのか。結婚して、子供ができて、母親は、子供ができれば、生むまでが大変で、生まれてきたらきたで、寝る暇もないくらいに育児に大変だ。

 共稼ぎともなると、男も家事を手伝わなければいけない。イライラして、子供を自分たちの気分で、叱りつけるようなそんな家庭、

「なるほど、子供がトラウマになるわけだ」

 と言っても過言ではないだろう。

 五月病というのが、

「大人になるために、通らなければいけない壁だ」

 というのであれば、大人になることの意義がどこにあるというのだろう?

 親になって子供を一人前にする? そのために、会社で馬車馬のようにこき使われて、行きたくもない接待をさせられ、家族からは、

「家庭を顧みない」

 と言われる、昭和からの家庭もあれば、平成以降は、そもそも結婚を考えない。結婚しても、成田離婚する。

 子供ができたとしても、それは、

「できちゃった婚」

 であり、子供を人質に、結婚しなければならなくなっただけのことである。

 結婚が本当に、人生における幸福の絶頂なのかと言われると、

「結婚は人生の墓場だ」

 と、昭和の頃から言われていたように、絶頂なわけはないだろう。

 結婚すると、一人の女に縛られる。家族を養っていかなければいけない。子供ができると、子供に対して責任が生まれる。ちょっと、浮気心を起こそうものなら、修羅場となる。

 そんなものは、人生の絶頂だといえるのだろうか?

 確かに、結婚することで、家族を持ち、一人前の男として、まわりから認められる。

「だから何だというのだ?」

 大体、一人前の男というのはどういうことなのか?

 確かに、恋愛をして、

「この人なら」

 と思える人と、一緒になる。これだけなら、人生の絶頂と言ってもいいかも知れない。

 ただ、結婚はゴールではない。出発点なのだ。

 ここがゴールなら、好きな人と一緒になった時点で勝ち組と言えるだろうが、家庭をこれから持たなければいけない。

「恋人としてであれば、ずっと見てきたが、これが、妻や夫として見た場合に、どう感じるだろう?」

 もっと言えば、

 セックスだってそうだ。

 好きな相手を結婚したとしても、

「もう女房以外を抱けない」

 ということに、呪縛を感じる人だっているだろう。

 それは、旦那に限らず、奥さんだってそうだ。

 結婚する時は、

「身体の相性がバッチリだ」

 と思ったとしても、これから、何十年も、一人の女だけで満足しろと言われて、果たしてできるものだろうか?

「美人はすぐに飽きる」

 と言われるではないか。

 どんなにおいしい食事であっても、1カ月毎日食べていれば、果たしてどう思うだろう? 何とか、1カ月くらいなら、我慢できるという人もいれば、3日ともたないと思っている人もいるだろう。

 それなのに、何十年もである。

 しかも、自分も年を取っていくのと同じで、相手も年を取っていくのだ。まったく同じであっても、1カ月もたないのに、同じように年を重ねていく相手だと思うと、違った意味での感情が生まれてくるかも知れない。

 それは、年相応の感情であり、その感情がお互いに、つかず離れずのいい関係であれば、

「老いても、末永く夫婦生活を営んでいける」

 というものであろう。

 どうせ、年を取れば、自然と性欲もなくなっていくものだ。セックスに変わる、お互いへの思いやりがいかに夫婦の間で芽生えるか? それが、結婚の醍醐味なのかも知れない。

 ただ、このような幸せな余生を送ることができる夫婦というのは、ごく少数に違いない。そもそも、結婚というものを考えた時点で、

「結婚はゴールではない。スタートラインなんだ」

 ということを理解したうえで、結婚を考えたのだろうか?

 親が反対したり、口うるさくいうのは、自分たちの経験から来るものなので、理解しなければいけないことなのかも知れないが、自分の子供時代のことを棚に上げて、子供を叱りつけるような親に、どれほどの説得力があるというのか、親を見れば、自分の将来が見えてくるという人もいるが、どこまでがそうなのだろう?

 五月病に罹ったマサハルは、その時、結構広範囲でいろいろなことを考えていた。

 普段なら想像もしないようなことを考えるのだが、この時もそうだった。

 自分の将来のことや、親との確執などが、走馬灯のように頭を駆け巡り、将来に思いを馳せて、まったく何も考えようとしないで、五月病にもかからずにいる能天気な連中に、苛立ちを覚えるのだった。

 何をどうやっても、自分の考えた方のその後を想像しても、出てくる答えは、悲惨でしかなかった。

「正面から見ても、裏から見ても同じだというのは、逃げ道のない洞窟に入り込んでしまったのと同じで、一体どこから入ったのか、そのあたりの基本から分からなくなっていると言わざるを得ないのだろう」

 と、考えていた。

 マサハルの親戚のおじさんは、バツ3だという。

「そんなに、結婚と離婚を繰り返していれば、結婚も離婚も嫌にならないんですか?」

 と中学時代に聞いたことがあった。

「そうだね、基本的には、もう、いいやって思うんだけど、そういう時に限って、現れちゃうんだよ。結婚したいと思う女性がね。しかも、相手もそんなに悪い気がしていない。それを思うと、結婚してもいいなって思うんだよ。そうなると、してしまうのが結婚というものでね。だけど、その時に感じると思うんだ。ダメだったら、別れればいいんだってね」

 と、いうのだった。

 実に、楽天的な考え方で、聞いていて、呆れてくるくらいだったが、それも、きっと、

「感覚がマヒしてくるんだろうな?」

 と感じるのだった。

「子供はどうなんですか?」

 と聞くと、

「いや、最初から子供はいらないと思っているから、子供のことを考える必要はない。だから、避妊もちゃんとするし、それよりも、一緒にいること、それだけでいいって感じなんだよな。若い頃のような、ドギドギした感覚はないからね。精神的には落ち着いたものだよ」

 というので、

「じゃあ、新婚というよりも、ずっと、前から一緒にいたという感覚なんですか?」

「そうだね、その通りなんだ。だからね、ずっと一緒にいたという気持ちでいるから、少し慣れてくると、お互いにそれぞれを生きなおそうかって気分になっちゃうんだよね?」

 というので、

「それって、熟年離婚の人の考え方ですかね?」

 と聞くと、

「そういうことになるのかな? 相手も気持ちは同じだったりするので、別にどちらから引き留めるというようなことはない。少しでも、同じ時間を過ごせて楽しかったといって、別れを告げるのさ。だから、離婚しても、そんなにきついなんて思わないんだよ」

 というおじさんに、

「でも、離婚って、結婚の何倍もきついっていうじゃないですか? そんなに簡単に別れられるものなんですか?」

「そもそも、離婚ありきで、結婚しているというところもあるからね。一緒にいたいから、一緒にいる。離れたくなったら離れる。それでいいんじゃないかな?」

「何とも、楽天的にしか聞こえないので、いいわけじゃないかって思うくらいなんだけど、実際はどうなんですか?」

「うーん、結婚した時の気持ちが、最初から言い訳を含んでいたようなものだから、離婚の時は、スムーズなものだよ。お互いに、楽しかったね。ありがとうっていうだけさ。離婚がきついというのは、お互いに離婚したいと思ったとしても、財産分与であったり、親権の問題だったりで揉めるからきついんだよね。でも、わしが結婚した相手は、皆そんなことには興味もないし、最初から、共有という感覚はなかったのさ。好きなもの同士が一緒に、楽しく暮らす。それを目的にしていれば、別に、離婚の時にきつい思いをしなくてもいい」

 とおじさんは言った。

「じゃあ、結婚というのは、何のためにするんでしょうね?」

 と聞くと、

「確かに最初に結婚する時は、この人と、一生添い遂げようと思うんだけど、一緒にいるうちに、お互いのプライベイトな部分が見え隠れする。結婚する相手にだって。一つや二つ隠しておくような秘密を持っているだろう? そこが、次第に分かってくると、この人は自分に隠し事をしているという気持ちになったりする。だから、疑心暗鬼になって、信用できなくなる。そうなると、離婚まではまっしぐらさ。お互いがお互いを信じられなくなるまでに、あっという間だからね。何と言っても、昨日まで、一番の理解者だと思っていた人が、一番信用できない人になったり、怖い人だと思うようになったりするのだから、話し合いなんかできっこないのさ。離婚するしかないというところまで行くんだけど、じゃあ、いざ離婚となると、どうすればいいのか分からない。結婚の時は、二人で協力してだったけど、離婚の時は、少しでも自分が特になるように別れるという意味で、実に露骨で、あからさまな態度を、見たくなかった態度を見なければならなくなる。それが、離婚が辛いと言われるゆえんなんじゃないかな?」

 と、おじさんは話してくれた。

「何度も結婚したり離婚するというのは、やっぱり疲れそうな気がするんだけどな」

 と聞くと、

「最後は慣れなんじゃないかな?」

 と、おじさんはいうのだった。

 そんな話を聞いていると、結婚というものが本当にしないといけないものなのかと思うようになった。

「一緒にいたいと思っている人と、一緒にいるだけではいけないのだろうか?」

 結婚や離婚を繰り返すくらいなら、結婚しない方がいいに決まっている。それを分からないおじさんでもないはずなのに、それでも、結婚したいと思う時があるのだろうか?

 確かに言われてみれば、最初にかすみと付き合い始めた時、漠然とであるが、

「俺は、この女と結婚するんだろうか?」

 と感じたような気がした。

 ただ、それも一瞬で、一緒にいるだけで楽しいと思うようになると、結婚という言葉が頭の中で、幻になってきた。

 よく世間では、

「結婚を前提にお付き合い」

 というではないか?

 では、

「結婚を前提としないお付き合い」

 というのはあるのだろうか?

 あくまでも結婚することを前提としないと付き合うことができないのであれば、それこそ、

「友達以上恋人未満」

 と言えるのではないだろうか?

 そうなると、

「結婚を前提としたお付き合い」

 というものをしている人のことを、恋人だということになるのだろう。

 彼氏、彼女の関係のことを、

「友達以上恋人未満」

 というのであれば、彼氏、彼女のままで、ずっといられればいいと思う。

 何も、結婚する必要などないのではないか。

 でも、結婚を、おじさんは、

「ゴールではなく、スタートラインだ」

 と言った。

 それは、マサハルもその通りだと思う。それなのに、好きになって付き合い始めて、

「結婚を前提としたお付き合い」

 に発展し、

「結婚してください」

 と言って、プロポーズして、そこから、双方の家族に許しを得て、婚約という儀式を経て、初めて、結婚することになる。

 実に結婚するまでの道のりは、こうやって考えると、一般的な形式は結構いろいろあるということだ。

 これだけあれば、結婚した時、

「結婚がゴールだ」

 と思っても無理もないことかも知れない。

 しかも、結婚式の一連の流れもあれだけの大イベントではないか。

 教会か、神社で結婚式を経て、披露宴を行う。披露宴の下準備も大変だ。双方からどれだけの人を呼ぶか? 招待客の人数バランスから、席順、人数によって、規模の問題。さらには、余興なども自分たちで考える。さらには、引き出物まで……。

 祝ってもらうのではなく、披露宴は、読んで字のごとく、

「結婚したということを、親せきや自分にかかわりのあるまわりに、宣伝、いや。宣告する儀式なのだ」

 と言ってもいいだろう。

 一種のバカ騒ぎに過ぎないが、本当は、結婚した二人の決意と覚悟の表れでなければいけないだろう。だが、一部のカップルは、この時がピークである人だったりする。

 それが、

「成田離婚」

 と呼ばれるもので、結婚してから、初めての共同生活、いや、それも始まる前から、式を終えて、新婚旅行に行っている間に、すでに、離婚への道を歩んでいることになるのだ。

 確かに、結婚前に、同棲をしていたり、

「押しかけ女房気どり」

 となって、旦那になる人の住まいで、食事を作ったり、夜を共にしたりという、

「半同棲」

 をする人もいるだろう。

 だが、成田離婚の中には、そういう人たちも一定数いるようなのだ。だから、成田離婚の定義のようなものとして、新婚旅行で、

「初めて、一緒に暮らしてみて、相手の今まで見えなかった性格であったり、性癖が見えてきたことで、たった今まで有頂天だった気持ちが一気に冷めてしまった」

 という人が、喧嘩になって、挙句の果てに、成田離婚に発展するというのが、よくある話だったのだ。

 つまり、

「結婚」

 というのは、婚約とも違う特別なものだということだ。

 結婚してしまうと、離婚しない限り、一人になることはできない。つまり、結婚するには、覚悟が必要であるということは、理屈でも頭でも分かっているのだ。分かったうえで相手を見るから、結婚前では許せたことも、結婚してからでは許せない。それだけ、

「家族になった」

 という感覚になるからではないだろうか?

 では、家族というのは、どういうものなのであろう?

 この場合では、夫婦になることから始まり、子供ができて、子供を一人前に育て上げる。これが一番の仕事である。

 それを考えると、確かに結婚というのは、ゴールインなのかも知れない。それは、カップルとして、恋人としてのゴールという意味で、結婚してしまうと、恋人は、家族というものに変わってしまう。この変化は、それまでの恋人関係とはまったく違ってしまう。

 旦那は世帯主であり、奥さんは、配偶者という立場になる。そして、法律的にも家族として認定され、給与にしても、当然家族として認定される。

 恋人の間までは、他の誰かを好きになっても、たとえ浮気をしたとしても、倫理的に微妙であったが、結婚した夫婦が、浮気をすれば、不倫ということになり、倫理的には許されないことになるのだ。

 結婚して、夫婦になることで、

「恋人を自分だけのものにできた」

 という気持ちは、そのまま裏を返せば、

「一生この人だけを愛さなければいけなくなった」

 ということと同意語であることを分かっているのだろうか?

 もし、分かる時があるとすれば、それは、夫婦の営みに、

「飽きを感じてきた時」

 だといえるのではないだろうか?

 男も女も、相手に対して飽きが来るというのは、人間の本性として無理もないことだと思う。

 だからと言って、結婚しているのだから、他の人を抱くということは、倫理上許されない。それは、不倫とまではいかなくても、浮気であっても同じこと。

 とは言いながら、

「一回くらいの浮気なら、大目に見よう」

 という寛大な奥さんもいるだろうが、それが悲劇を生むことだってある。

 男の方も、

「一回だけなら許してくれるんだ」

 という、バカな勘違い男もいるだろう。

 もっとも、こんな男であれば、さっさと離婚した方がマシだといえるだろう。

 ただ、問題なのは、一度だけの浮気を許してしまったことで、対等だったはずの夫婦関係に乱れが生じ、

「旦那はずっと奥さんに頭が上がらない」

 という関係を、ずっと抱えていくことになる。

 奥さんはそんなつもりはなくとも、旦那の方が、頭が上がらないと思うと、大きなプレッシャーとなり、さらにストレスとなり、その苦しみから逃れたい一心で、また浮気をするかも知れない。

 ただ、今回は、浮気ではなく不倫になる可能性は高い。なぜなら、一度きりの身体の関係だけでは済まなくなるからだ。

 何しろ、奥さんに対しての劣等感から逃れたい気持ちで、癒しを求めているのだから、肉体的な関係ではなく、癒しを求めるということは、心を奪われているといってもいいだろう。

「一度、浮気をした人は、一度許しても、何度も繰り返す」

 と言われているが、それも、今のような考え方であれば、それも当然のことではないだろうか?

 それを考えると、結婚するというだけで、

「一瞬の気の迷いからの間違いも許されない」

 ということだ。

 たとえ、その時、許されたとして、

「ああ、許してくれたんだ。よかった」

 と、ほっと胸をなでおろしたとしても、結局は自分で自分の首を絞めてしまうことになり、結局、遅かれ早かれお破局を迎えることになるのだ。

 ということであれば、

「最初から結婚なんかしなければよかったんだ」

 と思うだろう。

「結婚は人生の墓場だ」

 と、結構昔から言われていたが、最初は、

「何て大げさな」

 と、嘲笑していたが、冷静に考えてみると、笑い事ではないと思えてきたのだった。

 普通、結婚もしたことのない人間がここまで感じるということはないのだろうが、この時のマサハルは、まるで自分が、予言者であるかの如く、将来の自分が見えたような気がした。

 融通が利かないところがあるのは、それだけ真面目に考えているからであって、真面目に考えるがゆえに、余計にまっすぐしか見えないのだ。

 まっすぐに見てしまうと、その先にあるものは、悲惨な運命しかない。彼を五月病に陥れた精神状態も、これと同じ作用だったのかも知れない。

 ただ、彼がこのことを感じるのは、五月病に罹っていた時よりも少し先で、五月病は、永遠に続くものではなく、辛い時期ではあったが、ある程度の時期が過ぎれば、自然と治っていくのだ。

 これを、マサハルは、

「まるでワクチンの副反応のようだ」

 と感じた。

 数年前まで流行っていて、まだ鎮静化したわけではない、世界的なパンデミックを引き起こした、伝染病の恐怖の頃、ワクチンというのが、大きな影響を与えたが、そのワクチンの副反応には、かなりの個人差があったが、ほとんどの人が大なり小なり影響があったのだ。

 副反応という言葉は、聞きなれない言葉であったが、

「副作用の中で、ワクチンや予防接種などに限って起こるものを、特別に副反応と呼ぶ」

 というのが、定義だということだった。

 副反応では、熱が出たり、吐き気、嘔吐、倦怠感などの、さまざまなものがあり、一つだけの人もいれば、すべての状態になる人もいる。

 しかし、これは、身体の中の抗体とワクチンとの、相互作用による反応なので、すぐに治るものである。(個人差によって、亡くなる人もいるかも知れないが、本当に稀なケースである)

 五月病というのも、ある意味で、自分が大学を卒業してから、就職した時に、一緒に抱いた、覚悟というものと、実際の厳しさが、自分の中で反応し、鬱状態のような苦しみを与えているのかも知れないが、これも、厳しさが、覚悟を飲み込むのか、それとも、覚悟が厳しさを飲み込むのか、どちらにしても、長くは続かないものである。

「永遠に続くかも知れない」

 などということなどありえるはずもなく、一過性のものだといってもいいだろう。

 だが、これが結婚ということになると、一生ものなのだ。

 下手をすると、五月病の時のような鬱状態は、離婚しなければ、解消しないものなのかも知れない。

 それを思った時、離婚を考えるのだろう。しかも、自分、あるいは、相手のどちらかに決定的な後ろめたさがあり、お互いの関係が、平等ではなくなってしまっていれば、それは、もう離婚しかなくなってしまう。二人だけの問題であれば、それほどのことはないかも知れないが、子供がいれば、簡単にはいかないだろう。

 マサハルはそんなことを考えていると、自分の精神状態がおかしくなってくるのを感じた。

 抑えの利かない感情がこみあげてきて、

「こういう気持ちを、ご乱心とでもいうのだろうか?」

 と考えるようになった。

 ストレスと鬱状態がどこから来ているのか、何とも言えない状態だといってもいいだろう。

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