第3話 マサハルの五月病

 かすみは、マサハルの仕事の方が落ち着いていないということもあって、マンガの方に少しずつだったが、のめり込んでいった。そのマンガは、ミステリーを描くようになっていた。

「ミステリーであれば、小説の方がいいのでは?」

 と思ったが、その頃には妹の典子が小説を書いているということを知っていたので、いまさら小説に舵を切りなおすという気にはならなかった。

「私はあくまでも、マンガを描くんだ」

 と思っていた。

 最近では、マンガを描いても、マンガ用の投稿サイトも増えてきて、発表の場が増えてきた。しかも、マンガは、

「日本独自の文化」

 だということもあり、小説を読む人口よりもはるかに多い。それだけ、大衆に愛されているといってもいいだろう。

 ただ、そのせいもあって、

「自分の作品が、埋もれてしまうということになりはしないか?」

 という問題が、当然のごとく存在した。

 確かに本屋にいけば、文庫本もたくさんあるが、それ以上に、マンガは相当な数ある。

 小説は、昔の本も結構あり、文庫本の中には、マンガを文庫化したものもあり、それらのコーナーもあったりする。

 マンガの場合は、小説に比べて、最近の作家が多いのではないか? もっとも、小説も、最近読まれるのは、ケイタイ小説であったり、ライトノベルと呼ばれるような、青春小説や学園もののような、

「気軽に読める小説」

 が多いのかも知れない。

 逆にマンガの方が最近は、いろいろなジャンルもあり、そのせいもあってか、地上波などでドラマ化されるものの原作は、ほとんどといっていいほど、マンガだったりする。ワンクールに何十作品もがドラマ化されるが、小説を原作とするものは、1、2作品くらいではないだろうか?

 それだけ、マンガの世界が、かつての小説の世界を侵食しているといえるのではないだろうか。

 逆にいえば、文字を読む習慣がなくなってきたというのか、

「ビジュアルに訴える」

 という形が強くなったといってもいいだろう。

 別に、マンガを否定するつもりもないが、少し寂しい気はする。何と言っても、小説というのは、

「想像力のたまもの」

 であり、文字だけだと、自分で勝手に想像できることで、その幅が広がるというのは、小説の醍醐味だったはずである。

 それがマンガになると、どうしても、作風は、絵のタッチに左右されてしまう。劇画調であったり、少女漫画的な描き方であったり、ギャグ漫画の様相を呈した絵のタッチは、作家の印象を深めるもので、だから、逆に、作家の書くキャラクターが決まってくると、最初に発表した。あるいは、読者の立場から見れば、最初に読んだマンガというものの印象が強くなるだろう。

 例えば、

「最初に見たものを、親だと思い込む」

 という鳥のような性質である。

 それを思うと、

「マンガを見ていて、変な錯覚を起こさないだろうか?」

 と思うのだ。

 一人のマンガ家が描くものは、いろいろなジャンルがあるが、タッチは変えることはできない。

 中には、強引に変えようとしている人もいるかも知れないが、あくまでも強引なやり方であって、うまくいくものかどうか難しい。それこそ、

「二兎を追う者は一兎をも得ず」

 ということわざのように、ならないとも限らないし、人によっては、

「器用貧乏」

 という言葉があるように、

「二刀流」

 などに手を出して、結果、うまく使われるだけ使われて、結局損をするのは、自分だということになりはしないだろうか?

 ただ、さすがにプロの人は違うようだ。同じタッチで、まったく別ジャンルでも、違和感を、読者に与えないというテクニックとして考えられるのは、

「どのマンガにも、主人公の印象が強烈に刷り込まれている」

 ということであった。

 主人公の顔が似ているとしても、まったく違うマンガであれば、衣装も違うし、性格の違いから、逆に別人だということを確立できるようで、それをうまく使えるのが、プロの漫画家ではないかと思うのだった。

「残念ながら、自分にはできないな」

 と、かすみは感じていた。

 同じジャンルで、主人公を同じにするのであれば、結構描けるのではないかと思うが、これはジャンルが違えば自信がない。

 ミステリーの探偵と、恋愛小説における、不倫相手であったり、不倫された旦那であったりなどのキャラクターを生かせるような描き方は非常に難しい。

「それができるくらいなら」

 と、いつも考えているのだった。

「いずれは、プロになりたい」

 という思いは心の中に持っている。

 だが、プロになってしまうと、

「自分が描きたいものを思うように描けなくなるのではないだろうか?」

 という思いが強くなってくる。

 これは、小説家というものが、昔から抱いている永遠の悩みのように思えていたが、それはマンガ家においても同じことである。

 ただ、これも、才能や実力がなければ、誰にも認めてもらえず、嫌でも、アマチュアでしかないのだ。

 だが、アマチュアであっても、マンガを描くことはできる。今の仕事に不満があるわけではない。基本を仕事において、趣味として、自分の人生の幅を広げるという意味で、マンガを描くということは普通にありだった。

 最初の頃。

「マンガを描きたいな」

 と思ったのは、

「絵を描いていてもいいのだが、絵はどこまで行っても、平面でしかないが、マンガであれば、そこにストーリーという別の次元の発想が生まれてきて、それは、新たな二次元半とでもいうような次元を作ることができるのではないか?」

 と、考えたのだ。

 今の時代における、

「2.5次元」

 という考え方とは少し違うものではないだろうか?

 2.5次元という世界は、

「イラスト・アニメ風2次元の世界と実際の人間・実写による3次元の世界の、何らかの狭間を指す単語である。2.5次元とは、2次元的なイメージの3次元への投影か、またはイメージ自体の錯覚的・部分的な3次元化に適用される。ただし、一般には人物または人格が存在するイメージにしか適用されない」

 というものらしい。

 つまりは、精神的なものや、憧れのような要素があるというべきなのだろうか?

 かすみの考える、

「二次元半」

 というのは、絵とマンガの間に、ストーリー性という、動的な発想が入ってくることで、三次元ではない、動的要素を証明しようという発想なのであった。

 この考え方は、小説を、ドラマ化するというような発想にもつながってくるようで、ただ、そうなってくると、2.5次元という世界とも、切っても切り離せない世界に入っていくのではないかとも思えるのだった。

 そういう意味で、マンガと絵画、マンガと小説というそれぞれには、次元の狭間のようなものが存在するのではないかと思うのだった。

 マサハルの仕事は、かすみが思っているほど、うまくいっているわけではなかった。どちらかというと、仕事はうまくいっておらず、上司からも、あまりよくは思われていなかった。

 無難にこなしてはいるのだが、融通が利かないところがあり、うまく言えば、自分で満足できないところが、変にストレスを抱える形になってしまって、前に進んでいかないのだ。

 上司からは、そういう部下はあまり好かれない。融通が利かないということは、ある意味、言われたことしかしないということであり、上司からすれば、

「子供の遣いじゃないんだから、自分で考えて動いてくれないと」

 ということになるのだろう。

 子供の遣いというと、たまに付き合った女性から、

「あなたは、まるで子供の遣いのようだわ」

 といわれたことがあった。

 それがどういう意味なのかよく分からなかった。しかし、相手から言われた、

「子供の遣い」

 というのは、ただ、

「子供だ」

 といわれたのと同じだと思えてならなかったのだ。

 上から見下ろされているように見えて、その時だけは、自分が見下されていることに本当は腹が立ったのだが、言われていることがもっともだと思えてしまうと、こみ上げてくる怒りや憤りのもって行きどことがなかったのだ。

 小学生の頃は女の子から、歯にものを着せないい方をされたものだが、中学時代以降は、相手も気を遣ってか、あまり強い皮肉は言わなくなった。

「これが大人の考え方なのだろうか?」

 と感じた。

 だから、自分も、小学生時代までのように、相手に非がある場合でも、強めに言わないようにしていた。下手に思ったことをそのまま言ってしまうと、気が付けばまわりが敵だらけになりそうで、怖いのだった。

 そもそもマサハルに営業のような仕事ができるはずがないと、かすみは思っていた。だから、

「あなたが、営業って、大丈夫なの?」

 と、就職期間中によく言ったものだ。

「大丈夫さ」

 と、短く一言いうだけだった。

 その言葉には、どこか剣があり、煩わしいと思った時に相手にいう言い方なのだろうが、それが短いこともあって、どこまでの気持ちなのか分からない。そのせいで、怒っているのかどうなのか、想像もつかないようだった。

 だが、これだけ短いと、そもそも融通か利かない性格のため、怒っているのは、目に見えて明らかなことだった。

 だが、マサハルは、自分でも、何に対して怒っているのか分からない。だからこそ、怒りを表に出したいのに、出せなかった。誰に対しての怒りなのかもわからなかったからだ。

 誰か、決まった相手に怒りをもって、その人に対して怒れるのであれば、理屈に合うような気がした。しかし、決まった相手というわけではなく、マサハルは、それが分からないことでの、自分への怒りだと思うと、理解できる。

 ただ、理解はできても、納得できるわけではない。それが営業というものだった。

 相手は、こちらの足元を見て商談してくる。いかにうまく商談できたつもりでいても、相手がだますつもりでいれば、こちらは信じるつもりなので、コロッと引っかかってしまうのだ。どこにあるのは、

「交わる平行線」

 であった。

 平行線というのは、交わることがないといわれているが、どちらかが作為を持っていれば、交わるのだ。それは、境界線を、結界だと思い込み、そこから先がないものだと勘違いするからではないだろうか?

 結界というのは、あくまでも自分の理屈で定めたものなので、人が介在しているものには、影響を及ぼさないのである、

 だからこそ、

「交わることのない平行線」

 であっても、交わることがある。

 交わらないのは、同じ次元や空間に存在するものであって、人の心というのは、そういう意味で、同じ次元や空間ではないのかも知れないといえるのではないだろうか?

 人間関係などというのは、一歩間違うと、まったく噛み合わなくなるもので、特に男女間というのは、結構、大きかったりする。

 特に、よく言われるのが、

「さっきまでは、自分のことを分かってくれる、一番の理解者だと思っていたのに、一歩歯車が狂うと、これ以上辛い相手はいない」

 とことになるというのだ。

 これこそ平行線であり、うまく行っている時は、隙間なく重なっていることで、すべてがうまく行くのだが、それが少し崩れてしまうと、永久に交わらないものとなってしまう。

 だから、仲のいい男女であったり、夫婦が、簡単に別れてしまうというのは、この平行線が、永久に交わることはないとお互いに感じることで、別れに繋がるのではないだろうか?

 付き合いが長かったカップルも、危ないかも知れない。

「俺たちは、一度も喧嘩なんかしたことないからな」

 と男がいうと、

「そうね」

 と女性がニコニコしながら答えたとする。

 男の方は本音であり、喧嘩がなかったのは、二人の相性がよかったのか、それとも、自分がうまく相手を引き付けているのかということを考えているのだろう。

 しかし、女性の方は、

「何言ってるのよ。私の方が歩み寄ってあげているから、今まで喧嘩にならずに済んだんじゃないの?」

 と思うだろう。

 女の方で、歩み寄れるだけの力が私にはあるんだから、

「何も相手は、あんたでなくたっていいんだ」

 と、思っていたとすれば、女性側にはかなりの精神的な余裕があるので、まだうまくやっていけるかも知れない。

 しかし、

「何を好き勝手なこと言ってるのかしら? 私がいなければ、何もできないくせに」

 と、思われると、精神的な余裕がなくなっていることから、別れる可能性は高いのではないだろうか?

 大学時代までは、二人とも精神的に余裕があったが、就職してからというもの、お互いにそれどころではなくなり、余裕などどこに行ってしまったというのだろう?

 特に、マサハルの方が追い詰められているようで、五月病のようなものに掛かり、本当はその寂しさから、かすみを頼りたいと思ったのだが、精神的に辛い時は、逆に、

「もし、かすみが、自分のしてほしいと思っていることをしてくれなかったら、却って、辛いだけだ」

 と思ったのだ。

 今までの、かすみはといえば、本当に、

「痒いところに手が届くようなタイプであり、何も言わなくとも、何でも気づいてくれる。言い方は悪いが、都合のいいところがあった」

 と思っていた。

 日ごろから、かすみのことを都合のいい女だと思ってきた証拠なのだろうが、かすみも、今までは、

「それでもいい」

 と思っていた。

 都合のいい存在を相手に与えられる、そんな女性になったと考えると、

「そんな女性が、大人の女性なのではないか?」

 と感じるようになった。

 だから、相手に尽くすことは、自分が大人の女であることの証拠だと思うようになると、相手に対して逆らわない、三行半の女性が、大人の女性ではないかという、時代錯誤とも思えるような考えを持っていた。

 最近は、その考えに疑問を抱くようになった。大人の女ということへの定義に疑問を抱いたわけではない。昭和のような考え方に、疑問を覚えたのだ。

 しかし、平成から令和にかけて、かなり急速に考え方が変わってきている。

「偏っている」

 と言ってもいいかも知れないが、そのスピードにはついていけないのだった。

 だが、それでも、自分が感じた、

「大人の女」

 というものに対しての疑問の方が大きかったので、次第に、心がマサハルから遠ざかっていった。

 だが、遠ざかるまでもなく、お互いに距離は遠いままだった。

「このまま、自然消滅してしまえばいいんじゃないか?」

 と思えた。

 だが、そんな気持ちは、相手に伝わるものなのか、連絡のない間に、これ幸いと、かすみの中で、マサハルに連絡をしないという行動は、気休めのようなものだったが、

「自然消滅に繋がりそうだ」

 という楽天的な考えになってくるのだった。

 だが、自然消滅というのは、想像しているより楽なものではない。ある意味、お互いに無意識であっても、タイミングを合わせなければいけないところがある。なぜならば、

「自然に、違和感なく消滅する」

 ということを前提にしているからだ。

 お互いの歯車が噛み合わないと、必ず、どちらかの力が強くなる。そうなると、強い方は、弱い方を引っ張るという理屈は当たり前のことであり、それが、中心をずらしてしまうことになる。

 中心がずれると、バランスが崩れてきて、力の弱い方が、なぜ引っ張られるかということに気づいてしまうと、自然消滅では済まなくなる。

 消滅させることが不可能であれば、抹殺するしかない。消滅であれば、まわりに迷惑はかけないが、抹殺ともなると、

「いずれは、自分も」

 ということで、力関係の均衡が壊れてしまう。

 そうなった時、今度は今までまったくかかわりのなかった人から、謂れのない誹謗が向けられることになるのではないか?

 あるいは、村八分にあってしまったりして、気が付けば、孤立してしまっている。そうなった時、ストレスがマックスになってしまうのではないかと思うのだった。

 マサハルは、かすみからの誹謗をどう考えるであろうか?

 誹謗というと、陰で、こちらが分からないように、悪口を言ったりする場合に使われる言葉で、

「誹謗中傷」

 などと使われえる。

 今の時代は、ネットの普及で、SNSなどによって、一人が誹謗し始めると、次第に文句をいう人が増えてきて、集団意識によるものから、誰もが一人の意見に群がるように、支持し始めるのだった。

「本当は俺も文句言いたかったんだよな。それを、言い出してくれたおかげで、俺たちも言える」

 というのが、集団意識だ。

「赤信号、皆で渡れば怖くない」

 などという言葉が、そのまま集団意識として言われるようになるのだ。

 だが、世の中には、

「言い出しっぺの意見が、必ずしも正しい」

 と言えない場合もあるだろう。

 一人が言い出して、

「俺も、俺も」

 と言って、皆がハイエナのように群がってきて。しかし、実際には最初に言い出した人の言い分が正しかったというわけではないと判明すると、きっと、クモの子を散らすかのように、皆立ち去ってしまい、そこに取り残された人間が、まったく悪くもないのに、そこにいたというだけで、ひどい目に遭ってしまう。

 最初こそ、皆で盛り上げようとしても、その道が間違っていたと知ればクモの子を散らしてしまう。だが、誰もが、自分が最初に逃げ出したいと思うことで、その場はパニックになることだろう。そのままいれば、自分が犯人にされてしまう可能性。あるいは、流れ弾が当たってしまって、命を落とすことがあるくらいである。

 しかし、最初から、傍観者として眺めていれば、逃げ遅れることはない。だが、逃げる必要がない時は、到底真ん中に居座ることもできない。

「見極めさえできれば、いいだけのことではないか」

 と考えるのだが、これだけまわりにたくさんの人がいれば、自分だけが見極めたとして、思うようにいかないのが、関の山である。

 かすみは、相手がマサハルくらいだったら、

「周りに惑わされることなどない」

 と思っている。

 マサハルは、かすみが、

「自分から遠ざかろうとしている」

 と考えるようになっていた。

 それは、被害妄想のようなものがあるのかも知れないが、実は、自分が仕事に馴染めないという理由をつけて、なかなかかすみと会おうとしないことから、

「かすみが何か不審がっているのではないか?」

 と、感じたのかも知れない。

 そのうちに、マサハルは五月病と呼ばれるものに罹っていた。まったく会ってもいないし、なるべく連絡を取ろうとしなかった、かすみには、そんなことは、まったく分からなかったのだ。

 ただ、五月病に罹ってしまったマサハルは、人恋しいという気分ではなかった。

 実際の五月病というのが、どのようなものなのか、ハッキリとは分からなかったが、

「大学時代と、社会に入ってからのギャップに気づいたことで、その隙間を何とか埋めようとして、もがく時に感じる、精神的なショックのようなもの」

 と言ってもいいだろう。

 確かに人恋しくないと言えばうそになるが、相手が、同じ同級生であれば、皆同じ環境なので、話を聞いてもらえるかも知れないが、自分がそのショックから逃れるための役に立つとは思えない。むしろ、皆自分の主張をすることで、その醜さを思い知ることになるのではないかと思うのだ。

 では、大学生だったら、どうだろう?

 もっとハッキリと、受け入れられるものではない。なぜなら、自分がもう大学を卒業しているからだ。

 大学を卒業し、社会に出たからギャップを感じているのであって、いまさら大学生の中に入っても、現実逃避でしかないし、戻ることは許されないことがハッキリしているのであるから、大学生は羨ましく見えるだけで、嫉妬の対象でしかないではないか? と思えてくるのだった。

 大学を卒業することができたから、ここにいるのだ。大学受験を終えて、大学生になった時とは違うのだ。

 そんなことは最初から分かっていたはずだ。

 四年生になって、就職活動を始めた時、

「働かなくてはいけないんだ。もう大学生ではいられないんだ」

 ということを分かっていて、しかも、そんな本当はもっと遊んでいたいという気持ちを打ち消して、就活をしなければいけない。

「就職できなければ、どうなるのか?」

 想像しただけでも、恐ろしい。

 今の時代は、成績がよくても、有名大学を卒業できても、就職できない人がいる。どんなに有名大学であっても、就職率、¥が100%なんて、聞いたことがないだろう。

 もちろん、有名大学に入れば、大企業を目指すというのは当たり前のことで、例えば、

「東大を出ていて、マグロ漁船に乗っている」

 という人の話を聞いたことがあるだろうか?

「職業に貴賎なし」

 という言葉があるが、この場合のマグロ漁船というのは、俗語としての意味である。

 つまり、

「どんなに優秀であっても、上の下であれば、中の上にはかなわない場合がある」

 と言えるのではないだろうか?

 マサハルはそれほど優秀ではなかったが、性格的に律義で真面目なだけに、一度思い込んでしまうと、なかなか立ち直れなかったりする。それが、

「融通が利かない」

 と言われるゆえんであり、なかなか、まわりから受け入れられる性格でもなかったのだ。

 それを思うと、マサハルは、ある意味ここまで、順風満帆に来ていたようだ。

 だからこそ、かすみも、

「この人なら」

 と思って付き合うようになったのだ。

 マサハルという男の性格は、嫌いではない。どちらかというと、

「男に尽くすタイプ」

 と言っていいかすみだからこそ、マサハルのような堅物でも、うまく行っていたといってもいいだろう。

 そういう意味では、

「大学時代であれば、これほどお似合いのカップルはいないかも知れない」

 と、目立たなかったが、それだけに、皆から、変なウワサを立てられることもなく、平静に見えていたに違いない。

 マサハルとかすみの間に、マサハルの、

「五月病」

 という問題が出てきた時、気を遣って、話をしようとしなかったかすみは、もし、全体を見ることができていれば、

「あれが失敗だったのかも知れない」

 と、その時のことを悔やむに違いない。

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