第2話 次女の典子
三宅家の次女は、典子という名前であった。彼女は、大学の三年生で、姉のかすみと同じ大学に通っていた。
姉のかすみが、商学部だったのに対して、妹の典子は、文学部に在籍している。今年三年生ということは、来年には、就職について考えていかなければならないのだが、今のところ典子の選択肢としては、二つあった。
一つは、今は趣味としている小説執筆であるが、
「いずれはプロを目指したい」
という思いから、今のところ、そちらの方が最有力候補というところであろう。
大学一年生の時、ある出版社の新人賞に応募し、大賞は逃したが、入賞はした。
それが、彼女にとっての最初の投稿作品だっただけに、有頂天になってしまったのも無理もないだろう。
実際にまわりも、
「すごいじゃないか? 初投稿で入選なんて」
と言ってくれた。
姉のかすみも喜んではくれていたが、それが本心かどうか、典子は怪しいと思っていた。
かすみと典子の姉妹は、それほど仲がいいというわけではなかった。
こちらかというと、仲がいいわけではなかった。
得てして、兄弟や姉妹というのは、さほど仲がいい方が目立つので、仲がいい方が多いような気がするのだが、実際はどうなのだろう?
かすみも典子も自分の友達や知り合いで、同性の兄弟がいる人は、その仲があまりよくないと言われている人が多いようだった。
実際に、子供の頃からを思い出しても、仲がいい、兄弟や姉妹は、ほとんど見たことがない。
だが、いがみ合っているような姿を見たというわけではないだけで、仲が本当に悪かったのかどうかは疑問であるが、ハッキリと分かっているところであれば、
「仲がよく見えていた兄弟であっても、ちょっとしたことでひずみができて、喧嘩になったり、修復不可能に近い状態になることすらあった。
子供の頃に仲たがいしてから、いまだに口も利かない兄弟もいるという。
「仲がいいからこその喧嘩だ」
と言われることが多いが、その通りなのかも知れないが、それは、言葉の使い方が違うような気がする。
「仲がいいから喧嘩になるのではなく、相手の気持ちがわかりすぎるくら分かるので、あざといこともすぐに分かる。そのようなわざとらしさを、兄弟であるがゆえに、許せないのだ」
と思っているのではないだろうか。
それを思うと、
「血の繋がりなんて、一体何なのだろう?」
と思うことがある。
相手のことが分かりすぎることで、埋めることのできない結界だってあるのかも知れない。
まるで、
「帳簿の誤差の原因を調べる時、誤差の数値が少ないほど、見つけにくい」
と言われているのと同じではないか?
プラスマイナスが影響する帳簿の世界なので、数値が小さいほど、細かいプラスマイナスが影響しているからこそ、このような複雑な形になるのであって、
「それを解明するのは、一から計算しなおさないと難しい」
ということなのであろう?
つまり、姉妹兄弟の関係なんてそんなものなのかも知れない。確かに基本的には、仲がいいというものなのかも知れないが、それだけに、一度こじれるとお互いの気持ちが分かるのか、お互いに相手が怖いのだ。まるで、すべてを見透かされているかのように感じると、どうすればいいのか分からなくなり、結局、前にも進めず、後ろにも下がれないという、まるで、吊り橋の上で、まったく身動きができなくなってしまったかのようである。
攻撃にも守りにも転じることができない場所にいるということは、そのすぐ近くに、結界が存在しているということなのかも知れない。
結界というのは、自分でもよく分かっていないものであり、見えないだけに厄介だ。そのくせ存在だけは分かっているので、攻略する必要性と含めて、十分に検討する必要がある。それだけに、姉妹兄弟の間の争いは、難しいのではないだろうか。
誰がそこに入り込んでも、それは他人であり、しょせんは表からしか見えないのだ。
だから、
「兄弟の争いなんだから、そのうちに仲直りするさ」
と言って、他人事になるしかない。
もっとも、当事者も、他人の干渉を願ってはいないだろう。他人との喧嘩や争いであれば、場合によっては、他人の干渉によって、仲裁してくれることを願うこともあるだろうが、身内であったり、兄弟間の争いに関しては、他人の干渉を受けるのを嫌がる人もいるに違いない。
この二人の姉妹にもそんなところがあった。
「姉妹なのに、似ていないわね」
と、子供の頃から言われていた。
それは、顔が似ていないというわけではなく、性格的なものが似ていないということだった。
どうかすれば、正反対のところもあり、他人に言わせればそういうことになるのも仕方がないだろう。
それゆえに、他人から、
「似ていないわね」
という余計なことを言われてしまったことがあったので、余計に姉妹関係において、仲裁に入られたりなどするのを拒むのは、このあたりに原因がある、
そう思って考えるから、余計に、姉妹間のように、近しい存在ほど、こじれてしまうと、どこに原因があるのか、他の人とこじれてしまった時よりも分かりにくいというものがあるのだ。
まずは、押してみて、距離を縮めようとしてもうまく行かない。近づいているつもりでいれば、いつの間にか離れていっている。それは、近づいていた意識はあるが、実際には、相手を追い越してしまったことに気づかなかったのだ。
それであれば、相手の背中が見えるはずなのに、相手の正面からしか見えない。なぜなら、相手も同じことに気づいてこちらを見るからだ。
さらに、相手も同じように、
「相手は、自分には決して背中を見せない」
と思っているようで、それは、お互いに通り越したことに気づいて振り向く瞬間が、まったく同じタイミングになっているからだということだったのだ。
それだけ、お互いが、光と影のような存在で、まるで、二重惑星のようになって、それぞれ同一距離でつかず離れずの公転を繰り返しながら、太陽の周りをまわっているかのようではないか。
それこそ、前述の、宇宙戦艦物の、アニメに出てきた。どこかの、二重惑星のようではないか?
あの惑星は、設定としては、
「善と悪」
の惑星であった。
実際には、お互いに寿命を迎えた惑星で、片方は、運命を受け入れようとしている星で、片方は、あくまで、生き残りの道を模索して、強力な軍隊による独裁政権で、宇宙に君臨するものであったが、それを、一刀両断に、
「善悪」
として、見てしまっていいのだろうか?
それが、一番の問題だったのだ。つまりは、喧嘩をしているとしても、どちらかが、善で、どちらかが悪だということで、決めつけていいのだろうかということなのである。
そういう意味では、兄弟げんかは、特に善悪という目で見てはいけない。危険だといってもいいだろう。
そんな二人が、一触即発状態になぜなっていたのか、他の人には分からなかっただろう。それは二人が表に出さなかったからというのと、
「恥になることを、自分から表に出すようなことはしたくない」
という思いからであった。
恥になることということが、どういうことになるのかということを、元々二人に教えた張本人である、人たちが、恥になるようなことをしているのだから、そもそもの原点から狂っているのである。
というのは、二人が行っていた高校に通う先生と、自分たちの母親が不倫をしていたのである。
母親は、2年前、つまり、かすみが、大学3年生の時、そして、典子が、まさに大学に入学してすぐくらいの頃に、父親と離婚していた。
かすみは、父親のことが嫌いだった。とにかく厳しいところがあり、何かというと、妹の典子を贔屓するのだ。それは、霞にしても、たまったものではない。逆に、典子は父親から可愛がられているので、母親よりも父親派だった。
母親は、結果として、先生とくっつくことになるほど、尻軽だったといってもいい。そのことを、最初から見抜いていたのは、典子だった。
典子は、そのことを父親に進言した。だから、父親は、典子を贔屓しだしたわけで、ある意味では、典子の行動が、家族の崩壊をもたらしたことになるのだが、まさか、典子も家庭の崩壊を願っていたわけではない。少しでもいい方向に行けばと感じたのは、当然のことであり、自分の意図しないところでこんな風になってしまったことに、今度は大人というものが、いかに子供を無視してのことなのかと憤りを感じたりした。それでも、父親だけしか味方になってくれる人がいないわけで、父親に近づくのはしょうがないことであろう。
姉のかすみは、そんなことが裏で起こっているなどまったく知る由もない。当然典子が口にするわけもない。そうなると、
「父親を憎み、母親の肩を持つ」
という態度に出ても、無理もないことであった。
しかし、実際に両親の離婚問題が勃発すると、
「何とか、それは阻止しないといけない」
と思っていた。
それは、妹の典子も思っていることだろうと思ったが、どうやら、典子は、離婚には賛成だったようだ。
離婚は簡単に成立した。ただ、大学生である二人は、それぞれに独立して生活をしているので、
どちらが親権を持つかというのは、形式的なものでしかなかった。
姉のかすみの方は、すでに成人と迎えるところまで来ていたので、関係はなかったが、妹の典子の方はまだ、18歳だった。
その頃はまだ。成人が二十歳だったので、話し合いで、親権は父親が持つことになった。
こちらは、実にスムーズだった。
なぜなら、父親を、典子が贔屓していたのは分かっていたので、母親が親権を放棄するなど、簡単に想像がつくものだった。
そういう意味では、離婚の話が進むうちに、スムーズに離婚が成立したのだった。
最初は離婚というものに、違和感があった家族の面々だったが、離婚が成立してしまうと、皆それぞれに、
「せいせいした」
という感じであった。
そんな家族関係というのは、世の中にはごまんといることだろう。まだ、円満な離婚で、借金があるわけでもなく、しかも、子供たちはすでに落ち着いている。それを思うと、両親が揃っていて、家族が円満だった時期なんて、とっくの昔だったのだということを感じるのだった。
ただし、そんな節目を、あまりにも簡単に通り過ぎてしまったので、人間関係は、冷え切ったままであった。却って、もっと揉めた方が、お互いに納得できるところまで話さなければならないのではないだろうか。そう思うと、今の凍り付いてしまった人間関係を無視しての、形式的に進んだ離婚というのは、果たして、円満だったといっていいのだろうか?
それを考えると、かすみはどこか納得がいかないが、典子の方は、
「これでよかったんだ」
と思っている。
そもそも、母親を毛嫌いしていたし、母親と似たところがあると思っている姉のことも嫌いだった。
典子は、それからしばらくして、小説を書くようになった。姉がマンガを描いているというのは、何となく分かっていたが、小説を書くという気になったのは、そのせいでも、姉に対しての対抗心でもなかった。ただの偶然だといっていいだろう。
しかし、典子の書く小説というのは、ドロドロとしたものが多かった。
と言っても、オカルトであったり、ホラーのようなドロドロとしたものではなく、人間の中の心に潜むドロドロとしたもので、不倫であったり、愛欲のようなもの、さらには、異常性癖などが、得意分野だった。
だが、実際には、そんなことを経験したことはなかった。しいていえば、母親の醜さが、一種の反面教師として描けばいいという思いはあった。
そもそも、典子は真面目な性格で、勧善懲悪なところもあるので、ドロドロとしたものを描くのは苦手ではないかと思われた。
だが、意外と書いてみると、書き上げられるもので、逆に知らないだけに、すべてが想像によるものということで、無駄な先入観はなかった。それだけに、
「想像は妄想なんだ」
と考えることで、ドロドロとしたものが書けるようになったのではないかと思われた。
小説の書き方は、当然我流である。学校では、ノベルクリエーションという名前のサークルに所属していた。
その名のごとく、
「小説の創造」
ということであった。
この、創造という言葉を、想像として膨らませ、さらに、そこから妄想へと広げるのには、さほど難しくなかった。
小説というのは、当然誰に習ったものでもない。本を読んで、本というものに興味を持つ段階で、
「自分にもこんなものが書けたらいいな」
と感じることがなければ、小説を書いてみようなどとは、思わなかったことだろう。
実直で、勧善懲悪的な考えを持っている典子には、
「人まねは絶対にしてはいけない」
という意識があった。
ただ、真似る意識がなく、自然と似てしまっていたのであれば、それは、
「真似をしたことにはならない」
という考えを持っていた。
典子の中で、
「モノマネであれば、それは自分の表現が根底にあり、芸術の伝導であり、個性を表現することとして、十分に容認できるものであるが、サルマネという、真似をしているという意識がないことで、まわりから、二番煎じだと思われることを意識もしないで、自分がただ似ていないだけだいうような意識にとどまってしまうというものは、決して自分ではしたくないことだ」
と考えていたのだ。
人のものを、考えもなく真似をする。それは、ウケればそれでいいという安直な考えが、最初に始めた人の勇気や、その人の個性、まわりが認めた事実すら、否定することになるのだ。
そのことを考えると、
「二番煎じは悪だ」
と考えるようになった。
小説の世界には、二次創作なる言葉がある。マンガの世界にも存在はするのだが、今では、立派なジャンルとして君臨していることは認めざるを得ないのだろうが、正直、典子には許せないところがあった。
「ただの二番煎じで、サルマネではないか?」
と考えるのだ。
だが、全員が全員ただ、真似ているだけではない。中には、リスペクトという形で、原作に敬意を表す形で、しかも、原作者の許可も得て、後悔している作品がある。本当なら許されるのはそこまでなのだろう。それ以外は、ただのサルマネでしかないと思う。
それでも、典子は、そのリスペクトですら、否定的な考え方になっている。なぜなら、そこに、小説として大切な柱が、人のものだということが一番の問題だからだろう。
勧善懲悪の観点からいけば、二次創作は、どこをどう見ても、悪でしかないという考え方である。
そこまで、凝り固まった考えをしなくてもいいと思われがちだが、姉のかずみは、逆の考えだった。
「二次創作ができるということは、原作を読み込んでいて、しかも、真似るというテクニックを持っているのだから、それはそれでありだと思う」
と常々言っていた。
それはマンガを、かすみが描き始める前から感じていたことであって、このあたりでも姉との性格の違いを考えさせられるのだった。
典子には、その考えは承服できることではなかった。姉だって、口では二次創作を肯定しているが、果たして本心はどうなのかということを考えてしまう。
「私の姉なんだから、当然、簡単に肯定なんかしないわ」
と思うが、逆に、
「姉だからしそうな気もする」
と、次第に姉というものが分からなくなってきた。
典子は、ドロドロした小説を書き始めたのだが、最初は、純愛の恋愛小説を書こうと思っていたのだが、恋愛小説という部門の作家を検索して小説を読んでいると、どうも純愛の作家はほとんどおらず、有名どころは、愛欲や、異常性癖、あるいは、不倫ものなどのような小説が多かった。
それは、
「純愛小説がないわけでなく、売れる小説が、ドロドロしたものが多いんだ」
ということであった。
20年くらい前から、ライトノベルなどというものが出てきて、純愛小説も若干変わってきた。純愛小説というのは、学園ものであったり、青春小説などのジャンルに入ってきたのかも知れないと思ったのだ。
確かに、30歳過ぎの男女を描くのに、純愛小説というのも、どうかと思う。もちろん、そういうものもあるだろうが、売れる売れないで考えると、本当に売れるのかと言われると、考えてしまう。
もっとも、今は昔の時代が違い、結婚適齢期というものが、20代前半から、30前くらいまでではないかと言われていた時代があった。
結婚適齢期というのは、本当に精神的なものからなのかと思うことがあった。確かにこのくらいの年齢に、普通なら一度くらいは、結婚を夢見る時期であるのは認めるが、やはり、結婚というものを考えると、
「短大を卒業するのは、20歳や21歳くらいと考えて、そこから就職し、最初の一年は仕事で忙しく、その後というと、24歳くらいから、結婚を考えるのが一般的だったのではないだろうか、ここから、今度は30歳前後というのは、30代中盤になると、
「初産でこの年齢というと、高齢出産」
ということになり、母子ともに危険を考えると、どうしても、30前後までを結婚の年齢と考えるのが普通であろう。
それが結婚適齢期の考え方であるが、時代が進むにつれ、成田離婚に代表されるように、離婚率がかなり高くなってきた。時を同じくして、世間では、
「男女雇用均等」
という考え方から、女性が縛られる時代ではなくなってきたといってもいいだろう。
そうなると、
「女性が結婚して、家庭に入るなどという時代ではなくなってきた」
ということになり、
「結婚しない女性」
が増えてきた。
女性が結婚しないのだから、当然、男性も結婚できない人が増えてきたのだろう。しかも、離婚率は高くなり、バツイチになると、余計に結婚適齢期などと言う言葉が、死後になってくるのであった。
もちろん、女性にとって、結婚というと、夢の一つであるのは間違いないことであろうが、昔とはずいぶんと考えが違ってきた。そもそも、昭和というと、結婚は義務のようなところがあり、
「嫁いだ家の跡取りを産むのが、嫁の義務」
とまで言われていた時代があった。
そのうち、恋愛が自由になってくると、平成になった頃から、性格の不一致が顕著になったりして、恋愛期間中には分からなかったことが、婚姻届けを出した瞬間から、分かってくるということで、新婚旅行から帰ってきた成田空港で、すでに離婚が決まっていたという、
「成田離婚」
などという言葉が生まれたのだった。
そう考えると、結婚適齢期と言われていた時代というのは、それほど長くはなかっただろうか? 昭和40年代くらいからと考えると、20~30年くらいということか、昭和が終わってから、今までで、すでに、30数年経過しているのだ。それを思うと、
「結婚というのは、一体何なのか?」
と思わざるを得ない。
しかも、そこに至るのが恋愛だとすれば、恋愛や結婚は、本当にいいものなのかと疑ってしまうのだ。
しかも、企業で、女性の役職も増えてきて、それが、結果として少子高齢化に繋がってきてもいるということで、ここに、時代の矛盾が存在していることになる。
「男女雇用均等法」
によって、女性差別がなくなって、男性と同じ道を歩んでいいようになってくると、女性は、
「嫁に行き、跡取りを産む」
などどいう制約から放たれる。
そうなると、
「離婚率も高いのに、結婚もしなくなる」
ということになり、子供を産んでも、今度は、
「その小さな子供を誰が見るのか?」
ということになる。
そうなると、保育所ということになるのだろうが、
「待機児童」
などという問題になってくると、今度は、子供を産んでも育てられないということになり、
「少子」
になってしまう。
政府も、女性の職場での活躍の場を設けるという問題と、少子高齢化という問題を一緒に考えなければならず、この矛盾した問題をいかに解決するのかが難しいところである。
そうなってくると、小説界にも、恋愛小説の中での純愛などというものが、
「本当にウケるのか?」
ということになってくる。
それどころか、そんな純愛のようなものが、
「存在するのか?」
ということになってくると、小説で、純愛系の恋愛小説を見つけるのは、結構大変になってくるだろう。
何しろ、ほとんど存在しないものを書くのだから、想像して書くことはできても、果たして読む人がいるのだろうか?
ということである。
ただ、アマチュアであれば、それもありではないか? プロになって、出版社との二人三脚で本を売るということが至上命令となっているのであれば、なかなか出版化というのは難しいだろう。
アマチュアであれば、そんな制約はない。作家の想像だけで、いくらでも書ける。ネットの投稿サイトであれば、いくらでも発表ができる。もちろん、倫理に反していなければである。
そういう意味では、愛欲系の小説の方が、不倫であったり、異常性癖であったりと、アブノーマルな小説だったりすることで、倫理的には危ういものが多いのではないだろうか?
そうなると、R―18なる、設定にして、官能小説の中に入るのではないだろうか?
官能小説という文学は、実は結構難しいものだと言われる。
「小説の書き方」
のようなハウツー本の中には、いくつかのジャンルの小説の書き方が書かれているが、その多くがミステリーや恋愛小説のようなものが教材となっているが、その中に、官能小説も入っている。
何と言っても、いくら、R―18にしたとしても、制約はいくつもある。いわゆる、
「放送禁止用語」
なるものは、使用してはいけないだろうし、それこそ、放送倫理に近いものだといえるだろう。
そもそも、放送禁止用語というものは、倫理的にアウトだというだけで、法律で裁かれるものではない。逆に、憲法で守られている、
「表現の自由」
を盾にすることもできる。
だが、逆に同じ憲法にある、
「基本的人権の尊重」
「法の下の平等」
というものに抵触する場合は、裁判などで争われることが多いだろう。
判例として、どちらが強いのか難しいところであるが、少なくとも、大衆ウケは絶対にしないということは間違いないだろう。
そんな事情もあってか、典子は、小説では、恋愛の愛欲を描くようになった。
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