入らなければ出られない

森本 晃次

第1話 絵画とマンガ

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年4月時点のものです。


 今年大学を卒業し、地元の企業に、事務員として就職した三宅家の長女のかすみであるが、彼女には大学時代から付き合っている彼氏がいて、入社後数か月は、まだまだ研修期間中とはいえ、

「しばらくは、会社の仕事に集中しよう」

 と言い出したのは、彼の方だった。

 彼の名前は、マサハルという。大学3年生の時に知り合って、1年と少しの付き合い、お互いに、就職活動前に知り合ったことで、まともなデートはあまりしたことがなく、つき合いの期間の割には、そんなに距離が近づいているわけではなかった。

 マサハルは、性格的に融通が利かないタイプだった。それこそ、

「不器用ですから」

 という、昔どこかで聞いたことがあるCMのようなセリフが思い出されるのだった。

 マサハルという男と付き合うようになったのは、同じアルバイトをした時だった。

 三年生の試験も終わり、春休みのアルバイトで、偶然同じになった。どちらから声を掛けたのか、正直思い出せないが、かすみの方だったのかも知れない。

 もし、相手から話しかけられれば、忘れるはずはない。それだけ、かすみは自分に自信がなかったからだ。

 それに引き換え、マサハルという青年は大学でもいつも、誰かから声を掛けられていて、軽い性格ではないと思えるのに、返事は、

「本当に心からしているのだろうか?」

 と感じるほどだった。

 甘いマスクなのは間違いないので、挨拶はほぼ女性であった。男性と話をしているところを見たことがない。これは逆にいえば、

「心から明かしあえるような深い友達はいないのではないだろうか?」

 ということであった。

 女性が好きだというよりも、男性と話すのがあまり好きではないと言った方がいいだろう。

 一度、大学で、

「美少年」

 がいたのだが、彼が、クラスメイトだったようで、彼が声を掛けてきた時、露骨に嫌な顔をしているのを見た。

「あんな露骨に嫌な顔をしているのを初めて見た気がする」

 ということであった。

 さすがに相手が女性であれば、黙っていても表情が和らぐので、それで女性にばかり挨拶をしているように思えた。決して、女性が好きだというだけのことではないような気がするのだった。

 男色、衆道などと言う言葉は聞いたことがあった。

「戦国武将には、多い」

 という話を聞いたことがあったが、有名な戦国武将のほとんどが、男色だという。

 そういう意味では、秀吉のように、女好きというのは、却って珍しく、当時としては新鮮だったのかも知れない。

 その割には、正室以外に側室もいたりして、男色であっても、女性が嫌いというわけではなかったのだろう。

 今の時代は、男色を隠すという目的で、カモフラージュのために、結婚するという話もあるくらいだが、小説はマンガの世界では、BLなどと言われて、美少年のラブがジャンルとして確立されている。

 だから、BLとは、美少年同士のメルヘンでなければならない。そうでないと、R18の世界となり、成人映画と同じ扱いになってしまうのではないだろうか?

 マサハルの性格からすれば、男色はありえない。彼も端正な顔立ちではあるが、BLに合いそうな顔をしているわけではない。どう考えればいいのだろうか?

 ただ、一つ言えることは、彼が、

「実直で、勧善懲悪に見える」

 というところであった。

 ということを考えると、男色というものに対して、頭から否定しているということではないだろうか。

 ということは、彼のいう勧善懲悪というのは、

「そのものの本質に触れることなく、その言葉だけで、嫌悪感を抱いているだけではないか?」

 と思うのだ。

 もし、そうだとすれば、

「何て、あさましい考えなんだろう?」

 と感じる。

 ただ人に合わせているというだけで、人が右だと言えば右。左だといえば左というだけだということになる。

 そんな人間のいうことなど信じようと思うだろうか? 自分の考えは入っていないのだから、少し強く突き詰めたとしても、その人の答えは、決まっていて、

「皆がいうから」

 という答えしか返ってこないだろう。

 もしそのまま突き詰めればなんと答えるだろう?

 そういえば、以前、詐欺まがいの電話がかかってきたという人が言っていた言葉を思い出した。

「あなたは、課金のかかるサイトを見たので、課金されています。7日以内に。所定の講座に振り込んでくださいという趣旨の電話はかかってきたという。もちろん、いまさらそんな詐欺に引っかかるわけもなく、電話を掛けてきた相手に、あなたは、誰に電話を掛けているんですか? と聞くと、相手は、この番号の電話の人にですっていうんだ。だからこっちも、あなたは名前も知らない相手に、請求するんですか? こっちも、知らない電話番号から掛かってきて、名前も知らない相手に振り込む必要なんかありませんよっていってやったんだよ。こっちの名前を言えないやつに請求もくそもないからね」

 と言っていた。これと同じで、都合が悪くなると、何も答えられない。そして、最期には黙って電話を切ってしまうということになってしまうんだよ」

 と言った。

 この詐欺も場合は、どうせ、アルバイトかパートでベルだろう。マニュアルがあって、その通りにいわされている。

「相手が手ごわかったら、さっさと電話を切ってしまいなさい」

 と言われているに違いない。

 詐欺グループとしても、こっちを疑っていて、お金を払うはずもなく、ただ、時間だけを引き延ばして、やり込めてくるような相手にかまっている必要はないからである。

 元々、電話番号も適当にどこかで調べたものをリストにして、片っ端から、同じ内容のものを電話させているのだろう。

 中には、スマホも持ってない。昔のガラケーの人もいるだろう。電話を掛けるだけでしかしたことのない老人だっているかも知れない。

 そんなものは関係なく、相手が怪しんできたり、年寄りであったりしたら、さっさと切ってしまって、次に行く方が、効率もいいからである。

 もし、電話を掛ける方も、掛けた数で給料が決まるなどという契約になっていれば、さっさと打ち切った方がいいに決まっている。

 何しろ、調べた電話番号はハンパではないだろうから、さっさとかけるに越したことはない。どうせ、引っかかるような人はほとんどおらず。一部の気の弱い人や、押しに弱い人間が引っかかるくらいである。

 この場合も。騙される人は、

「相手の言葉を信じて疑わない人」

 なのである。

 気が弱い人は、相手の言葉を信じるしかないのだ。それは、

「自分が信じられない」

 からであり、自分を信じられる人は、まず、相手が信じられる人かどうかというのを、もし、詐欺でなかったとしても、初めての人であれば考えようとするのに、それができないのは、自分のことを考える余裕がないからだ。

「自分のことばかりの、ジコチューな人と、どっちがたちが悪いのだろう?」

 と真剣に考えてみたりした。

 やはり、自分のことを考える余裕もないから、自分が信じられないのであり、ジコチューが迷惑を掛けないのであれば。そっちの方がまだマシなのかも知れない。

 マサハルも、かすみも、大学を卒業するまでは、ほとんど意識もしていなかった。それは、お互いに学生時代に彼氏、彼女ができて、ある意味、

「一人前だ」

 という意識があったからだ、

 特にかすみの方は、

「学生時代に、誰とも交際をせずに、社会人に出ることは、学生時代を無為に過ごしてきた証拠だ」

 と思うほどだった。

 これは、かずみの方が気持ちとしては大きかった。確かに、他の人と同じでは気に入らないと思っていたかすみだったが、絶えず、その気持ちを四六時中持っているわけではなく、

「基本的な考え方」

 ということであった。

 それこそ、四六時中、人と同じでは同じだと思ってれば息が詰まる。そもそも、人と比べるということは、

「人のことを理解しなければ、及ばない考えだ」

 ということなので、人と何が同じで何が違うかを見極めるために、一度は相手の懐に入らなければどうしようもないということだ。つまりは、

「入らなければ、出られない」

 という理屈に繋がってくるのである。

 だから、かずみは、そういう意味でも、

「すべてという言葉を、100%という言葉はイコールではない」

 と思っている。

 それは、

「すべて」

 という言葉には、伸びしろがあるという意味である。

「100%」

 というと、そのものだけのパーセントという意味であり、すべてという言葉には、その件に関わること、そのすべてを含んで、

「すべて」

 と呼ぶのだ。

 だから、パーセントにすれば、100%ではなく、120%、いや、150%になるのである。

 そういえば、昔のアニメに、宇宙戦艦ものがあったが、そこで、その戦艦の必殺兵器がエネルギーを充填する時、100%ではなく、発射に必要な割合は。

「120%」

 だったので。

「どうして、120%なんだろう?」

 と、そんなことを考えることが無駄だと思いながらも、疑問として残っていたが、今この時考えた。

「すべてと100%というものは違う」

 と考えた時、その理由が分かったような気がした。

 アニメの原作者が同じ思いを持ってマンガを描いたのかどうかは分からないが、このように考えてみると、発想が膨らんでくるようで、もし、そうだったのだとすれば、ゆっくり話をしてみたいものだった。

 そんなことを考えていると、

「私もマンガか小説を書いてみたいものだわ」

 と、かすみは思うようになっていた。

「仕事も少し落ち着いてきたし、マサハルさんは、まだまだ大変そうだから、今の間にやりたいことをやっておくのもいいかも知れないわ」

 と思うようになっていた。

 絵に関しては、小学生時代から、実は結構好きだった。誰にも言っていなかったが、小学生の頃、一時期であるが。

「マンガ家を目指してみたいな」

 と感じたことがあった。

 あくまでも、一人での妄想であったが、それでも、マンガ入門なる本を読んでみたりして、自分なりに研究してみた時期があった。部屋は小学生の頃から、自分の部屋が与えられていたので、密かに何かを始めることもできた。だが、さすがに小学生では、実際にやってみようというところまでは気持ちが進んでいないのも事実で、結局、中途半端な状態になってしまったのだった。

 マンガ家を目指してみたいと思ったが、何をどうしていいのか分からない。

 まずはとりあえず、素人から出発して、本やネットで、ハウツーを勉強するというところくらいまでは考えがついたが、そこから先は、お金がかかることに関わってくるだろうから、せめて、学校で美術部か、マンガ関係の部活でもあれば、ということで、高校に入ると、最初は美術部に入部したが、

「どうも、堅苦しい感じがする」

 と感じた。

 というのは、美術部で習ったことは、確かに絵を描くということに関しては必要なことだ。

 特にキャンパスの上にいかに描くかということでいえば、バランス感覚と、遠近感などについての、いわゆる昔からあるやり方を忠実に教えてもらうという感じであった。

 だが、それはあくまでも、

「マニュアル」

 であり、

「誰にでも当て嵌まるような、ありきたりな表現に過ぎない」

 というものである。

 つまり、自分のやりたいようにするというゆおな、創造性というものに欠けるものがあるのだ。

 マンガと絵画では、基本的に違うもののような気がした。

 絵画はあくまで、目の前にあるものを忠実に描くものであって、一枚の絵に凝縮される。いわゆる、

「静止画」

 と呼ばれるもので、マンガの場合は違う。

 四コマ漫画にしても、雑誌に連載されているものにしても、基本的にストーリーが存在し、描いたものが流れているという、

「動画」

 とイメージして作るものである。

 それが、パラパラ漫画のようなものになり、それがアニメーションとして発展してきたのだとすれば、こちらは絵画からの派生ではあるだろうが、あくまでも、別の次元で発展してきたものだといってもいいだろう。

 ある意味、言い方を変えると、

「やっと時代が、マンガやアニメに追いついてきたのだ」

 と言ってもいいのではないだろうか?

 絵画は、基本的に目の前にあるものを忠実に映し出す。つまり小説でいえば、ノンフィクションである。

 しかし、マンガは、断罪によっては、実際にあったことも含まれるだろうが、基本的には、架空の感覚、フィクションと言っていいだろう。

 ただ、一つ気になるのが、マンガはいくらフィクションであり、想像豊かなものであるとは言いながら、その描き方には、一定の法則のようなものがある。

 そのため、例えば人の顔のタッチなど、基本的に誰かに似てくるというのも仕方のないことなのかも知れない。

 それも、漫画の種類、ジャンルによって違う。

 ギャグものであったり、恋愛もの、ハードボイルドやサスペンスのような劇画調のようなもの。

 つまり、作家に個性はあるが、マンガ家を目指して描く時、人は自然と誰かの描き方に似てくるのだ。

 それは、作家を目指す時、たいていの場合、誰かを師匠として、

「こんなマンガ家になりたい」

 と思って、その作品を見ているうちに、自然とタッチが似てくるものである。

 考えても見れば、毎年、マンガ家を目指す人がコンクールに数多くの人が出品してくるのだから、同じようなタッチになっても仕方がないだろう。しかも、それがジャンルに別れていると、そのジャンルごとで実際に成功している人は、一握りしかいないのだ。

 最初から素人を師匠として描く人はいない。そうなると、雑誌に連載されている作家のタッチを自然と真似るのは、人間の本能、いや、本性だといってもいいのではないだろうか?

 これは小説家でも同じだろう。文章が似てくるのも、プロが見れば、すぐに分かるというものではないだろうか?

 ただ、マンガなどは、一目でわかるものなので、見た瞬間の印象がそのまま見た人の印象として入り込んでしまったとしても、無理もないことだろう。

 かすみが、実際にマンガを描こうと思うようになったのは、いつからだったのか分からないが、高校生に頃には、マンガ家になりたいという、確固たる意志を持っていたのは、確かだったようだ。

 ただ、どんなマンガを描きたいのか? 最初はよく分からなかった。だから、いろいろなジャンルを少しずつ、そして満遍なく描いていくうちに決まってくるのではないかと思ったのだ。

 高校に入ると、マンガを描きたいと思っている連中も意外と多く、マンガ部なるものが存在したのは、かすみにとっては、幸運だったのかも知れない。

 もちろん、マンガ部と言っても、いろいろな人がいる。

 いずれはマンガ家を目指すという人が、半数近くであろうか? 他には、ただ絵がうまいと言われていたが、自分の絵が、絵画とは違うという発想を持っている人や、

「自分で、物語を描きたい」

 と意識はあるが、文才があるわけではないが、マンガだったら描けるかも知れないと思った人だった。

 以前、美術部の人に一度聞いたことがあった。

「絵画って、目の前のものを忠実に映し出すだけで、俺には何が面白いのか分からないんだけど、一体何がそんなに惹きつけるものがあるんだい?」

 と聞いてみると、

「絵画は決して、目の前のものを忠実に描き出すだけではないのさ。俺は、絵画や芸術を、個性だと思っている。つまり、モノマネがいかにうまくできるかなどという低俗なところにとどまっているわけではないと思うんだよ」

 というではないか?

「じゃあ、個性でいろいろ変えていると?」

 と聞くと、

「そうだよ。それも、見ている人には分からないところを大胆に省略してみたり、意外な手法で描いてみたりね。それを、真似て描いているだけだと思って見ている連中がたくさんいればいるほど、俺の勝ちだと思っているのだ」

 というではないか。

 そして、さらに彼は続けた。

「例えば、どこかで個展を開いたりするだろう? その時って、何十から、何百という作品を展示することになるよね? その時にだって、作品を適当に並べているわけではない。並べるには、そこに作者の思いが結構あるのさ。当然中には、時系列に沿って並べている人もいるだろう。だんだん作家の腕がよくなってきたり、今の個性に近づいてくるのが分かるからね。だから、それも個性なんだよ。だけど、そうじゃない場合って、作者の意図が必ずそこには含まれていて、作者なりの理由があるはずなんだ。そう考えると、絵描きというのも結構面白いだろう? だがら、絵画というのは、ノンフィクションでありながら、架空性を秘めているという意味もあって、俺は個性だって思うんだよな」

 と言っていた。

 その人は、将来美大に進んでいったが、さすがにすごい人だと思っていた。

 だが、高校時代に美術部に所属していて、真面目に絵画に打ち込んでいた人は、話を聞いてみると、ほとんどの人が、似たような話をしてくれた。

「結局は、個性なんだな?」

 と思うと、他の芸術と呼ばれるもの、小説であったり、音楽、それらのものも、個性がその実力に大いに影響を与えるのだと思えたのだ。

 マンガにしたってそうだ。

 小説を書いている人には、マンガというのは、どうもあまりよくは思われていないようだ。

「マンガというのは、視覚によって、人間の気持ちを誘導するものであり、絵のタッチによって大いに、内容も変わってくる場合があるだろう? 似たような内容を描く人が数人いても、絵のタッチがまったく違っていたり、逆に、似たようなタッチであっても、ジャンルがまったく違うなどという人もいるだろうからね。でもどうなんだろう? 絵のタッチがジャンルに合う合わないがあるんだろうな? そういう意味では、読む人の感覚は同じ作家に対して、まったく違う対照的な意見があったりするんじゃないかな_

 と、小説家志望の人が聞いてきた。

「それはあるかも知れないよね。でも、小説には絵による錯誤はないから、完全な想像力によるよね? だから、想像もできないような小説は、小説であって、小説ではないと思うのは、ちょっと失礼かな?」

「そんなことはないよ。だから、小説を書くというのは、結構難しいものなのさ。マンガや絵画が、減算法のような考えだったら、小説は、加算法といってもいいかも知れない。何しろ、まったく何もないところからというのは同じでも、描写においては、言葉だけで想像させるには、言葉をいかに駆使して想像させるかだからね」

 というではないか?

 絵を描くことと、マンガを描くことはまったく違う。絵を描くことで、重要なことは何かというと、

「バランスと、遠近感だ」

 と考えていた。

 バランスというのは、例えば風景画にしても、人物画にしても、配置という問題がある、風景があれば、

「水平線の位置をどこに持ってくるか?」

 であったり、人物画であれば、それこそ顔のパーツのバランスが、その人の顔、そして表情をいかに映し出すのか? ということが大切だからである。

 また、このバランスにおいて、かすみは、独特の考え方を持っていた。

 それは、

「上下逆さまに見る場合って、どういう風に見えるのだろう?」

 という感覚であった。

 水平線を考えた時、分かりやすいのは、海と空が見えるような砂浜から、海を見た場合である。

 普通に見ると、水平線が自分の視界の中間くらいにあったりするのではないだろうか? もちろん、絵に描いても、忠実に描くのだから、当然、そういう感覚になるはずである。

 しかし、ここから不思議なのだが、上下逆さまに見ると、空が果てしなく広く、海が小さく見えてくるものだった。ここは個人差があるのかも知れないが、普通に見た時と、逆さから見た時、それは、天橋立で有名な、

「股覗き」

 に近い感覚である。

 だが、これは当然だが、絵を逆さにしても、見える光景は、

「ただ、ひっくり返しただけで、水平線がずれるような感覚はない」

 と言えるだろう。

 では、なぜこんなことが起こるのだろう?

 かすみの考え方としては、

「実際の光景が立体であるのに対し、絵というものが、平面であるからではないか?」

 ということである。

 これは錯覚であり、立体的なものを見た時、人間は平衡感覚を保とうとする本能があるので、股覗きなどをすると、

「その時に、脳に刺激が与えられるか何かして、錯覚を及ぼすのではないか?」

 と考えるのであった。

 ということになると、今度は、もう一つの疑問が出てくる。

 今のは風景画であるが、人物画において、絵を逆さまに見た時、まったく違ったものに見えるという心理現象があるという。

 これは、逆に、風景画と違って、実際に見る光景では、別におかしくは見えない。見えるのは、絵であったり、写真であったりするというのだ。

 つまりは、

「風景画と人物画では、三次元と二次元とでは、見える感覚が違う」

 ということであろうか?

 人物画や写真を逆さに見た時、異様に感じるという効果のことを、

「サッチャー効果」

 と呼ばれている。

 これは、かつての、イギリスの首相であり、

「鉄の女」

 と呼ばれた、マーガレット・サッチャーの写真で見た時に、言われるようになったことであるというのだ。

 このサッチャー効果というのは、

「局所的な変化の検出が困難になる」

 という特徴からの錯覚だと言われている。

 科学的に証明されていることなのかどうかは、諸説あるのだろうが、あくまでも学説なのではないだろうか?

 ただ、言えることは、二次元と三次元の発想において、広範囲を見る場合と、局所的に見ていく場合で、錯視が生まれてくるということになるのではないだろうか?

 それゆえ、サッチャー効果のことを、

「サッチャー錯視」

 とも言われているのである。

 これが、一つのバランスの問題だとはいえるのではないだろうか?

 さて、もう一つは遠近感であるが、遠近感は、前述のバランスの問題との絡みもかなりあるといってもいいだろう。

 遠近感というのは、そのまま普通に解釈すれば分かることだろうが、

「立体と平面」

 という問題が絡んでくる。

 つまり、遠近感というのは、別に表に出さなくとも、バランスの問題の一部として解釈することも可能なのだろうが、かすみの中では、

「遠近感というものを特別扱いするだけの理由が存在するのだが、それがどこから来ている発想なのかということまでは分かっていない」

 ということであった。

 それが分かってくると、絵画と、マンガの考え方の違いが分かってくるようになる気がしていたのだった。

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