斯くしてダムがありまして
末咲(まつさき)
斯くしてダムがありまして
シロウのおじいさんは、シロウが生まれる前から町外れでダム守をしていました。
学校の夏休みになりますと、家に居づらいシロウはおじいさんのお手伝いをしに行きます。おじいさんが泊まり込んでいるダムの管理室の掃除や料理を作り置きしたり、望遠鏡の使い方や見廻りの仕方などを学びます。
おじいさんと、灰色の高い高い壁の内部に設けられた長い長い階段を上り、ダムの天辺から外を眺めました。見渡す限りの水です。真夏の太陽はギラギラと降り注ぎ、宇宙服のような白色の冷房付き防護服越しからでも熱がじっとりと湿ってきました。
「おじいさん、頭だけ外してもいい?」
「だめだ。陽射しは体に悪いからな、夜まで待て」
「うん」
シロウは不承不承頷きました。風見鶏がカラカラと回っていますから、エアコンのような涼しい風が吹いていると思ったのです。
おじいさんの声は防護服の頭部に埋め込まれた情報伝達端末から聞こえます。ひび割れた大地のようなしわがれた低い声が、雑音混じりの甲高いラジオのようにシロウの耳へ届きました。
「地球はな、風邪なんだ。重い重い風邪だ。人間にも害がある。おまえも風邪を引きたくないだろう?」
「うん」
素直に頷きますが、しかし、シロウは知っています。地球が熱病に冒されたのは人間のせいなのです。学校のカリキュラムで散々教え込まれました。町がダムで囲まれていることも、ダムの外に広がるのは水ではなくて塩辛い海だということも。飲料水を人工的に産み出す技術が開発されなければ、人間はとっくに絶滅していたことでしょう。多くの島々や大陸が動植物ごと海没したように。
「あ」
シロウは手で庇を作り、遠くの水面に翻る影を見つけました。
「おじいさん、船だ!」
「何、」
シロウが指差すと、おじいさんは歴戦の猛者のような俊敏さで望遠鏡を覗き、情報伝達端末で防衛隊本部に向けて荒々しく叫びました。
「2時の方角に違法船だ! こっちに来るぞ!」
一拍置いて、けたたましいサイレンが鳴り響きました。シロウは動転しながら、おじいさんに手を引かれて階段を駆け下ります。
シロウの脳裏に父と兄の顔が過りました。
これから起きるのは生死を賭けた警告です。ダム守が守るのはダムですが、それは違法船から町を守ることに繋がります。町の中央にある自宅や学校で聞くサイレンと、防衛の最前線で聞くサイレンでは、身近に感じる危機感が全然違います。緊張と不安で、涼しいはずの防護服の中で嫌な汗が噴き出ました。
そう、地球のほとんどは海なのでした。
ダムのない町の人々は、かつて高山だった陸地やダムに守られた町を目指します。昔は受け入れることもあったそうですが、収容できる人数には限りがあります。今では許可された貿易船しか入港が認められていません。こちらの警告を無視する船はこの町を乗っ取る危険性があるのだと大人は誰しも口を揃えます。
でも、シロウは思うのです。
もしダムが溢れたら、僕らはどうなるのでしょう。ダムから人が溢れたら、僕らもああして海を彷徨い、何処かのダムに受け入れてもらうしかないのではないか。
ダムの周りは全部全部、海。
町はダムの中にしかない。
ダムが貯めているのは人間なのでした。
「いいか、シロウ。ダム守も防衛隊も名誉な仕事だ」
おじいさんはダムの内部にある管理室で頭部の装置を外しました。ダム守を長年勤めてきたせいか、防護服越しでも肌は焼け爛れ、目は半分見えていません。
「おれたちが町を守るんだ。居場所を失っちまうことほど恐ろしいもんはねえ」
シロウは震える声で恐る恐る尋ねました。
「あの人たちを受け入れることってできないのかな……?」
「十人受け入れたら十人出て行かなきゃならん。そういうことだ。それに、変な優しさや同情は相手のためにもならねえ」
「なんで、」
「ダム守や防衛隊に配属されるからだよ」
おじいさんの白く濁った瞳が魚のように揺れました。
「そして、真っ先に追い出されるのもおれたちだ」
「僕らは、」
僕らもかつて誰かを犠牲にしてこの町に来たの?
それは薄々感付いていたことでした。
シロウの学校でのヒエラルキーは底辺で、虐めこそないものの掃除や雑用を押し付けられるのが当たり前な立場でした。親しく話す級友はいますが、それは校内だけで、校外では見ず知らずの他人のように振る舞います。そもそも放課後は家族の代わりに家事や町内会の雑用をしなくてはならないので、シロウも級友を気にかける暇が無いくらい忙しいのです。
父は防衛隊に所属しています。先発隊として真っ先に違法船へ駆けつける危険な役割です。
母は地下農場で働いています。飲料水を精製する装置を管理する仕事を手伝い、地下植物園で水と泥と虫に塗れながら雑草を刈り、小麦やオリーブなどの実りを収穫し、鶏や羊などの世話をしたりと、様々なことを命じられる割に僅かな賃金しかもらえませんが、「今日はお給金の他に卵もいただいたのよ」と、泥が入り込んだ爪とあかぎれだらけの手に包み込んだ卵を嬉しそうに見せられたら、シロウは何も言えなくなります。
三人の兄は基礎学校を卒業後、防衛学校に進学しました。うち二人の兄は父と同じ部署に配属され、もう一人は在学中です。
「防衛隊はいいぞ、給金は農場より多くもらえるし、給食も品数が多い。でも、母さんの手作りのほうが美味いなあ。……おれたちが防衛隊にいるんだから、母さんの農場労働を免除してくれてもいいのにな」
苦笑いしながら町役場への不満を漏らした一番上の兄は、敵船の銛に肩を貫かれたのが原因で二年前に殉職しました。それでも父や次兄は防衛隊を辞することはできません。三番目の兄も科学者になる夢を諦めて、守るための戦い方を学んでいます。
シロウもいずれ防衛学校に進学するでしょう。もしかしたら、おじいさんの次にダム守を任じられるかもしれません。
ここは地獄なのではないだろうか。
シロウは家族の顔を思い浮かべながら、ぼんやりと堅牢な壁を見つめました。
だけど、ダムを目指す人にとって、ここは楽園に違いないのでした。
「ダム守も防衛隊も、名誉な仕事なんだよ」
おじいさんは己に言い聞かせるように低く低く繰り返しました。
ダムの中だと、サイレンはうわんうわんとくぐもったように聞こえます。誰かが耳の中で泣き叫ぶように、うわんうわんと泣いています。
了
斯くしてダムがありまして 末咲(まつさき) @suenisaku315
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