第10話 美術とエルフ

 昨晩のジェニファーの言葉が頭から離れなかった。 


 学校に登校した俺は自席に座って吐息をもらす。

 家にいても落ち着かなかった。いつもより一時間も早く家を出たから教室には一番乗りだ。

 朝の静かな教室は嫌いじゃない。なにか新しいことが始まりそうな、そんな気持ちになれる。


 誰もいない教室で、ふと水瀬さんの机に目を移す。

 俺の網膜には見る者すべてを虜にしてしまう神秘的なエルフの残像が鮮明に焼き付いている。


 隣にいるエルフはただの虚像? 本当の彼女の姿ではない? 俺だけが見ている幻覚?


 ジェニファーの言い分には説得力がある。

 だけど、俺は自分の視ている世界が幻覚だと思いたくない。俺の見ている水瀬さんが幻想だと思いたくない。

 もちろん現実的に考えればエルフなんて存在しない。そんなことは知っている。知っていた! だけど確かにいるんだ! 手を伸ばせば届く距離、すぐ隣に彼女はいる! 

 エルフがこの世界にいたっていいじゃないか!


 否定したい。

 そのための証拠がほしい。

 

 どうすれば確証を得られる?

 やっぱりにみんなに聞いてみるか? しかしどうやって……、口で説明しても上手く伝わらないのかも――。


 腕を組んで頭をもたげたそのとき、「お、おはよう……」と控えめな挨拶と共に教室にやってきたのは、水瀬さんだった。


 俺と彼女の目が合う。美しいエルフの瞳に見つめられて鼓動が高鳴っていく。


「……お、おはよう」


 どぎまぎしながら俺は挨拶を返した。

 そういえば、彼女の方から挨拶してくれたのは初めてかもしれない。


 椅子を引いた彼女は「早いね……、瀬戸くん」と俯いまま言った。


「うん、ちょっと早く起きちゃって……。水瀬さんも早いね、いつもこの時間なの?」


「わたしも少し、早く起きちゃって」


「そうなんだ、一緒だね」

「うん……」


 会話が止まり教室が静まり返る。

 他の生徒が来る気配はない。

 話題が思い付かない。

 

 会話ってこんなにも難しかったっけ?

 俺って今までどうやって人と話してきたんだっけ? 


 誰かと会話する、そんな単純なことさえ分からなくなってくる。

 彼女と話したい、けれど何を話していいのか分からない。焦りだけが募っていく。

 

 脳みそを必死に回転させている間に、ひとり、またひとりと生徒たちが登校してきて、いつもの教室の風景になっていった。


◇◇◇ 


 俺が視ている水瀬さんの姿が正しいのか間違っているのか、それを証明する方法を思いついたのは、午後の美術の時間だった。


「教室にある好きな物を自由に描いてください」


 美術の先生は言った。


 好きな物を自由にと言われても教室にあるものなんて限られている。

 机や椅子を描いても面白くない。

 ダビデ像みたいな上半身だけの石膏像が無難だろうか――。


 この瞬間、俺は閃いた。


 教室にある好きな物を描いていいのだ。

 つまり人物画でもオーケー。

 となれば水瀬さんを描こう。


 描いてみんなに俺の絵を見てもらい、評価してもらう。もしみんなの眼にも彼女がエルフに見えているなら上手い下手、似てる似てないの評価になる。もしも俺だけがエルフに見えているなら、みんなは狐に抓まれたような顔になるはず。


 よし、これなら確実に判断できる。

 

 クラスメイトが動き出して各々の描きたい者の前に椅子を移動していく。


 俺は水瀬さんを探した。窓際の角に座り、スケッチブックを開く彼女を見つける。彼女は花瓶を描くようだ。


 立ち上がった俺は椅子を持って彼女の隣に移動して腰を掛ける。


「え?」


 俺の方に顔を向けた彼女は翡翠色の瞳を大きく見開いた。


「せ、瀬戸くん?」


 状況が分からず目をぱちくりさせる彼女に、「俺は水瀬さんを描くことにするよ」と告げる。


「な、なんで!?」


 普段聞き慣れない水瀬さんの大きな声に美術室がざわめき始める。


「え? だって先生が〝好きなもの〟を描いていいって言ったから」


 ざわめいていた教室が今度は逆に静まり返った。どういう理由わけか、俺を見つめるみんなの視線に妙な緊張感がある。困惑気味の空気が漂っている。


「や、でも、困る……」そう言って彼女はスケッチブックで顔を隠してしまった。

 

「お願い、俺はどうしても水瀬さんが描きたいんだ」


 水瀬さんに詰め寄る俺の頭がぽこりと叩かれた。叩いたの美術の里見先生だ。その手には丸めた教科書が握られていた。


「こらこら、いくら〝好きな者〟でも嫌がっているんだからやめなさい」


「そ、そうか……、そうですね」


 肩を落とす俺に先生は、「人物画が描きたいの? なんだったら先生をモデルに描いてみる?」


 ふふんと得意げに鼻を鳴らした先生は、モデルよろしくポーズを取った。


「いえ、それじゃ意味がないので」


「意味がないって……」


◇◇◇


 結局、水瀬さんを諦めた俺はその辺にあったワインの空ボトルをチョイスして描き始める。

 しばらくすると、ユートがやってきて俺の隣に腰を下ろした。


「お前……、すごいな……。さすがアメリカンつーか、ちょっと尊敬したわ」

「尊敬?」


 ユートの意味が分からない賛辞は置いておいて、


「なあ、ユート……」

「あん?」


「いま自分が見ているものが実際は違ったとしたら、どうする? たとえばこの空き瓶が黄金の盃に見えたらユートはどうする?」


「なんだそりゃ?」


「いや……、なんでもない。気にしないでくれ」







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る