蒼の世界─極─



 ─1─


 ゆっくりと、瞼を持ち上げるように目を開けた。


 最初に眼前に映った景色は、見覚えのあるシャンデリアがぶら下がった天井───そう、ここはカフェプリムラの喫茶スペースだ。


 次に視界に映ったのは、口をガタガタと震わせながら気持ちが爆発する寸前になっている、父の姿だった。


「お父さ──────」



「蒼子ぉぉぉぉ!!!!ごめん!ごめんな!!本当にごめん!!!!」



 素貴は泣きながら、最初に言う事は予め決めていたかのようにそう言った。


「お父さん…娘が回復して最初の言葉はそうじゃないんじゃない?」


 蒼子は微笑みながらそう言って、抱きしめる父に抵抗すること無く体を委ねた。


「蒼子……良かった、本当に良かった…お前だけでも帰ってきてくれて……俺は………。」


 自分を挟んで父の向かいに座っているマスターが心做しか泣きそうになりながらそう言った。


「失うことには慣れた…のでは無かったのか?案外人間臭いでは無いか。」


 そうやって少しだけ口元を緩めながらそう言ったのは、見覚えのある着物の女性だった。


「あなたは…倭文…宵さん…?ですよね。」


 蒼子は過去の記憶で彼女を見ているが、どうにも昔実際に会った事があるという実感は湧かず、確かめるようにそう聞いた。


「あぁ、久しいな、素貴の娘。その節はお互い災難であった。」


 その節…が10年前の事を指すのか、それとも今回の件を指すのかは不確かだったが、おそらく前者なのだろうと思い、蒼子はゆっくり会釈した。


「蒼子、体は大丈夫かい?立てるかい?」


 普段から穏やかで優しい父だが、今は心做しか普段よりも丁寧で柔らかい感じがする。まるで腫れ物に触るかのような気さえして、蒼子は少しだけ抵抗したくなった。


「大丈夫だよ、もう何ともない。ほら、全然自分で立てるし、体も…むしろ前より調子がいい気さえするんだ。」


 そう言って蒼子は少しだけ勢いをつけて立ち上がると、素貴は少しだけ間を取ってから確かめるような口調で再び口を開く。


「蒼子…なんだか、少し落ち着いたかい…?雰囲気が変わった気がする。」


「え…?そうかな。私にはわからないけど。」


 蒼子が少しだけ不意をつかれたような反応を示すと、宵がちらりとマスターを見てから口を挟んだ。



「成程。どうやら上手くいった様だな。蒼子や──────


 ──────母は何か言っていたか?」


 宵の言葉に蒼子は思わず後退りする。


「え…なんで知ってるんですか…?」


 それに答えたのはマスターだった。


「心象領域、使えるようになったんだろ。皆そうだ。心象領域を発現すると、以前よりも個の人格が研ぎ澄まされた状態になる。前より落ち着いて見えるのはその為だ。んで、蒼子が心象領域を目覚めさせるとしたら、おそらく精神世界こころのなかで紫季と会ってるんじゃねえかっていう、宵の予想だ。その様子だと図星なんだろう。」


 宵がその様な予想を立てたのには理由があるが、それを説明しようとしたところで予想外の来客があった。


「当主よ!!!当主はこちらにいらっしゃるか!?」


 勢い良く店のドアを開放して飛び込んできたのは、着物を着た青年だった。


「お前は…キタルか…?」


 宵がキタルと呼んだその男性は、倭文来。倭文家当主である宵の兄にあたる人物の息子───宵にとっては甥にあたる人物だった。


「何かあったのだな。」


 宵の質問に来は肯定も否定もせず、そのまま説明を始める。


「本家が……本家がデミ・スピラナイトと思われる勢力の襲撃に遭いました!!!!」




 ─2─


「倭文家が……そんなバカな…!」


 素貴はそう言うと、カフェの隅に拘束していたある人物へ視線を向けた。


 蒼子はその視線の先を恐る恐るなぞっていった。


 ──────その先にいた人物を見て、蒼子は一切の迷いを見せずに突進し、拳を叩きつけようとした。



「蒼子…待て、一旦落ち着け。」


 その拳を、標的となった人物の前で間一髪止めたのはマスターだった。


「マスター、なんでこいつがここにいる。いいから手を離してくれないかな。」


「まあ待て。気持ちはわかるが、一旦説明させろ─────」


 マスターの妙に落ち着いた様子を見て、蒼子は1度拳を引き上げた。


 だが、事情を知らない蒼子がそうなるのも無理は無い。


 目の前で拘束されていた人物は───



「やぁ、蒼子ちゃん。久しぶりだね。元気になったみたいで…良かったよ。」



 優しくて穏やかなその口調も、今となっては感情の乗っていないペテン師の機械的なものとしか捉えられなかった。


「マスター、説明してくれ。どうして、がここにいる。」




 ─3─



 相手の目を貫くが如く、蒼子は目の前の人物───デミ・スピラナイトのリィンを睨みつけた。


「怖いなぁ、蒼子ちゃん。そんなに睨まないでよ。僕がいなかったら、君は助からなかったんだよ?」


「お前には何も聞いていない。次に口を開いてみろ。容赦無くその腹に風穴を空けてやる。」


 蒼子はピクリとも動かず、リィンを制した。


「蒼子、動けなくなってたお前が精神世界に潜れたのはな、こいつの心装の力だ。」


 マスターがそう言うと、蒼子は変わらず目線をリィンに向けたまま答えた。


「それは大体予想がついたよ。攫われた私が記憶を取り戻した時も今回も、自分の意思で精神世界に潜ってないからね。大方外部の力が働いたんだろうとは思った。」



「問題は、どうしてこいつが力を貸したのかだよ、マスター。」


 マスターは少しだけ俯いて口を噤んだ。蒼子の言う通り、何の対価も無しにデミ・スピラナイトであるリィンが力を貸した訳では無いからだ──────



 ──────相応の取引は避けられなかった。


「まて蒼子。お前の質問に答える義務はもちろんあるだろうが、今は後回しにして貰えぬか。」


 膠着する状況を打破したのは宵だった。



「おいリィンとやら、来の言っていることは事実か?」


 その質問をリィンは軽快に回避する。


「残念だけど僕に答える義務は無いよね?君達と取引したのは蒼子ちゃんを精神世界に潜らせる事だけだ。」


(取引…?)


「マスター、宵さん、一体こいつに何を───」


 蒼子の質問を再び口を開いたリィンが遮った。


「でもまぁ、無駄な濡れ衣を着せられるのも癪だ。いいよ、答えてやる───


 ───残念だけど、多分僕らじゃないね、それ。」



 拘束されているとは思えない程己のペースで証言するリィンに対し、怒りを見せたのは蒼子───ではなく、先に感情を吐き出したのは来の方だった。


「……ふざけるなよ貴様!!!私が嘘を言っていると!?どうして貴様にそんな事を言われる筋合いがある!?どうして貴様の言う事が信用に足ると!?」



 迫る来を誰も止めることは無かったが、当事者のリィンは冷静に対応した。



「僕達初対面だろう?そんなに強い言葉を使うものじゃないよ。第一印象が最悪になる───


 ───何も、君が嘘をついているなんて僕は一言も言ってないよ。事実、君は襲ってきた人達が僕らの仲間だと思い込んでしまうくらい、格好が似ていたんじゃないかな。」


 格好が似ていた。その言葉に来は言葉を失った。



「黒いローブに…スピラナイトによる襲撃……間違いなく貴様達だろう…他に誰がいる…?まさか瀬上家や没落した青峰家が襲ってくるとでも、貴様は言うのか!?」




 来のその言葉に、その場の全員が黙り込んだ。


 決して来の気迫に圧されたからでは無い。その場にいた、蒼子を除く全員が、来の放ったに引っかかったからである。


「先に言っておくが、僕やアーリーはそれなりに上の立場なんだよ。それに、実力者であるフレイ───青峰炎爾って呼ぶ方がわかりやすいかな?まぁ今は一色炎爾なんだけど。彼も重症を負った上にどこかへ行ってしまった。行方を晦ましてるんだよ。正直今の僕達に倭文家を攻撃出来るような余力は無いんだ。頭にくるけどね。」


 それは一部事実であり、ほとんどがリィンのハッタリだったが、その事に気がつけるものはその場に居らず。


「なぁ宵、こいつの言ってる事が本当だとしたら…。」


 マスターは頭の中で次の行動を思案した。



「あぁ、成程。私も海斗の事を言えた立場では無かったな───



 ───油断した。」


 宵の言葉を合図にするように、マスターと宵は外へ向かった。


「すまないが素貴、家に帰っててくれ。拘束してるから大丈夫だろうが、流石にリィンと置いてく訳にもいかねえ。」



「安心しなよ。僕は何もしないよ。正確には何も出来ないんだけど。」



「蒼子は…。」


 一瞬迷ったマスターの声に、素貴は激を飛ばした。



「蒼子は行かせない!!助けてもらった事は感謝している、この恩は親子共々絶対に忘れない!それでも…申し訳ないが、もう蒼子は巻き込まないで欲しい!」



 父の庇うような背中が、とても暖かく感じた。



「あぁ、素貴、何も引け目を感じることは無い、恩なんて気にするな、俺たちは当然の事をやっただけだし、お前の主張が最もだ。だから───」



 マスターの言葉は蒼子の次の言葉に掻き消された。



「私も連れてって。」




「蒼子!!!!!」




「お父さん、私ね───



 ───精神世界でね、お母さんに言われたの。」


「え…?」


「私が平凡である為に、私はこの力を使わなきゃならない。それはきっと今なんだと思う───


 ───私だけじゃない。私と、お父さんと…沙耶とか、それこそマスターに宵さん。私達の大切な人皆…私はもう傷ついて欲しくないし、傷つけたくないんだ。」



「だから──────」



 その瞬間、蒼子の目に光が灯った。


 強い炎が燃え盛るように、瞳の中を青色が塗り潰した。




「私はもう一人じゃない。私の中にはお母さんがいる。お母さんが、形を変えて護ってくれてるんだ。家に帰ればお父さんがいる。だから、私はいつだって、どんなに辛くたって帰るんだって思えるんだ、だから──────



 ──────私も行くよ。必ず帰るから。」



 あぁ、そうか。


 ずっと、娘は可哀想な子だと思っていた。


 望まない家系に生まれて、望まない境遇を周囲に押し付けられた。



 自分は必死に護っていたつもりだったけれど、結局自分の力では護り切れなかった。


 そうやって、自分の手から零れ落ちた驚異に晒されていく中で、自分の娘は知らぬ間に強くなっていたのだと、彼女の言葉を聞いて思い知らされたのだ。だから、父として次にかける言葉は決して庇護の句じゃない。次にかけるべき言葉は───。



「蒼子──────



 ──────行ってらっしゃい。父さん、待ってるから。」



蒼子の目に灯った青色の炎。


それは、かつて瀬上海斗の目が紅かったのと同じだった。



心象領域を覚醒させた者に現れる、極まりしスピラナイトによる影響、それが彼女に宿った力の証だ。

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