第60話 そして新しい朝が来る

 翌朝。カーテンの隙間から差し込む光に照らされて、俺は目を細めながらゆっくりとベッドから身を起こした。

 

「8時か……」

 

 スマホの画面を見てみると、時刻は朝の8時ちょうど。

 昨夜に沙菜さんを自分の部屋に帰した後、日付が変わる直前くらいには俺はベッドで横になって眠りについた。

 

 つまり俺は、8時間ほど寝ていたことになる。

 こんなに長く寝たのは久しぶりなので、昨日は俺もだいぶ疲れていたのだろう。


「……とりあえず、顔でも洗うか」


 俺は顔を洗って歯を磨き、外へ出て行けるよう着替えも済ます。

 そして荷物をまとめて部屋を後にし、隣の部屋のドアをノックした。

 

「おはよう、沙菜さん。もう起きてる?」

「……うん。今着替えるから、あと少しだけ待ってて」

「わかった。急がなくてもいいからね」


 ドア越しに聞こえる沙菜さんの声は、まだ少し眠そうだった。

 当然ながら、俺以上に昨日の沙菜さんは疲れていたようだ。

 

「……お待たせ」

「忘れ物は大丈夫?」

「うん。朝ごはんはどうするの?」

「朝から営業してる喫茶店で食べよう」

「お店、調べてくれたの?」

「さっき、ちょっとね。駅から少しだけ離れてるけど、観光客があんまり使わないから混んでないんだってさ」


 受付でチェックアウトを済ませ、俺たちはホテルを後にする。

 外の空気は思っていたよりも冷たくて、すぐにでも体が震えてしまいそうだったが、

 

「……見て、漆黒さん」

「ん?」

「ほら、そっち」

「そっち?」


 ホテルの裏の開けた空間にある駐車場。

 そこから見える風景を前に、俺は言葉を失った。

 

「――っ!」

 

 透き通るような青い空。

 眩しい光に照らされて輝く白い雲。

 そして何と言っても、それらを背景に佇む富士山の美しさ。

 

 この美しさを適切に表現する言葉なんて、今の俺には思い付かなかった。

 

「夏に見た富士山とは、少し違う感じがする……」


 沙菜さんが言った。

 俺は富士山を眺めたまま頷いて、

 

「……そうだね。どこか寂しい感じがするよ」


 俺がそう感じたのは、きっと今が冬だからだろう。

 草木は枯れて、夏に風景を彩っていた緑は失われている。

 これで雪でも積もってしまえば、風景を彩る色は更に少なくなるに違いなかった。


「でもまさか、こんな形で再び富士山を見ることになるとはね」

「うん……。でも、約束はしてたから」

「約束?」

「また冬に行こうねって」

「そういえば、そんな話をしてたような……」


 次の瞬間、沙菜さんの手が俺の手に触れる。

 沙菜さんの手は温かくて、とても滑らかで。

 気づけば俺は、そっとその手を握っていた。


「……今度はちゃんと、花火を見に行きたいね」

「うん……」


 沙菜さんはそう言って、俺の手を握り返した。


 

 俺たちは手を繋いだまま、目的地の喫茶店へと向かって歩く。

 そうして辿り着いたのは、三角屋根が特徴的な小ぢんまりとした喫茶店だった。

 

「いらっしゃい。好きな席に座ってくださいね」


 店に入ると、カウンターの奥にいるお婆さんから声をかけられる。

 その隣にはお爺さんがいることから、どうやらこの店は老夫婦が営む喫茶店のようだ。

 

 カウンター席には常連客が座っていたので、俺たちは少し進んだ先にあるテーブル席に腰掛ける。

 テーブル席の椅子はソファになっていて、立ち上がるのが嫌になるほど座り心地は最高だった。


「良い雰囲気の喫茶店だね」

「うん……。とても落ち着く」


 俺はアップルパイとブレンドコーヒー、沙菜さんはハニートーストとウインナーコーヒーを頼む。

 

 しばらくして、注文した品がテーブルに運ばれる。

 コーヒーカップとソーサーの模様は青を基調とした華やかなもので、俺は思わずスマホのカメラで写真を撮っていた。

 

 食事をしている途中、俺は沙菜さんに訊いた。


「そういえばさ」

「……?」

「俺のことは漆黒さんのままなの?」

「……っ! けほっ、こほっ!」


 不意打ちのような質問を受け、沙菜さんは思いっきり咳き込んでしまう。

 そして涙目で赤面しながら俺の方を見て、

 

「い、いきなり呼び方変えるのは、難しいから……」

「そうかな?」

「漆黒さんって呼ぶのに、慣れてるから……」

「俺だって爆乳さん呼びに慣れてるけど、昨日の夜から沙菜さんって呼んでるよ」

「~~~~~~っ!!」


 今頃になって沙菜さんと呼ばれることに恥ずかしさを覚えたのか、沙菜さんは声にならない声を出す。

 

 ……でも普通、爆乳呼ばわりされる方が恥ずかしいよな。

 

「とっ、とにかく、そのうち呼び方変えるから……!」

「そのうちって、いつ?」

「あ、明日……?」

「意外と早いね」

「やっ、やっぱり明後日で!」

「あんま変わらないと思うけど……」

「わっ、私にとっては変わるから……!」

「そういうもんか……?」


 まあ、気長に待つとするか。

 正直なところ、漆黒さんと呼ばれたままでも構わないし。



 食事を終えて十数分休んだ後、俺たちは喫茶店を後にした。

 河口湖駅に着き、駅舎の中のベンチで帰りの高速バスが来るのを待っている間、俺は沙菜さんに向かって言った。

 

「すっかり忘れてたけど、真之さんに連絡しないとね」

「お父さんに? お父さんとなら、朝にメッセージでやり取りしたよ」

「あ、そうなんだ。どんなやり取りをしたの?」

「昨日はちゃんと眠れたかだって。あと……」

「あと?」

「漆黒さんに変なことされなかったのかも訊かれたよ」

「………………」


 俺は一瞬だけ思考停止したが、

 

「……まあ、そういう心配するのも当然だよね。いいお父さんだね、真之さんは」


 すぐに冷静さを装い、余裕を感じさせる発言をした。

 それから続けて、


「それで、沙菜さんはなんて答えたの?」

「もちろん、何もされなかったって答えたよ」


 ……良かった。安心した。

 いやまあ、本当に何もしてないんだけど。


「でも……」

「でも?」

「夜遅くまで漆黒さんのベッドの上にいただけだよって伝えてから、お父さんからの返信が来なくなったの」

「……沙菜さん」

「はい」

「もしかして、わざとやってる?」

「……? 何のこと?」

「………………」


 どうしよう、俺は帰るのが怖くなってきたぞ!

 嘘ではないだけに、誤解を解くのが大変そうだ。


「あ……」

「帰りのバスが来たみたいだね」


 新宿行きの高速バスがバス停に到着する。

 このバスに乗ってしまえば、俺たちは日常に逆戻りだ。

 

 俺はバスへと向かう途中、沙菜さんの横顔を一瞥する。

 沙菜さんは名残惜しそうな表情で、駅舎の方を見つめていた。

 夏に河口湖へ行った時の帰りも、沙菜さんはそんな表情を見せていたっけ。


「また来れるよ」

「え……?」

「また一緒に、何度だって」

「…………うん」


 俺たちを乗せたバスが時刻表通りに発車する。

 このバスは俺たちを日常へと連れ戻すバスだ。

 結局のところ、俺たちはこれからも未来を恐れ、様々な不安を抱きながら、不器用に生きていく。

 

 ただひとつ違うのは、

 

「……? どうかしたの、漆黒さん?」

「いや、なんでもないよ」

 

 一緒にいてくれる人がいる。

 ただそれだけで、俺はどんな苦難も乗り越えられるような気がした。

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