四章「鬼」

 畳敷きの、装飾のない質素な大広間。

 三十畳以上はある、そのほぼ全てが人間の血で染まっている。

 床に重なるように倒れた男女、数にして二十あまり。

 その中心に立つ男一人の身の回りの世話をするための人数としては多いが、かつてこの国の頂点にいた者の処遇としては痛々しい程の凋落ぶりとも言える。

 血筋と時流と、政治的な状況によって物心もつかない年齢で即位した彼は、絵に描いたような飾り物の帝だった。最初は叔父が、次いで実の母が実質的な政のすべてを取り仕切った。

 スメラミコトたる彼のすべき事はただ、決められた事に頷く事、儀式で決められた通りの台詞を言うこと……つまりはただ国の頂点という立場に居る事だけだった。

 だが彼にはそうした自分の人生に不満や疑問などはなかった。

 生まれてからずっと、そのように生きてきたから。周囲の者全てがそうする事を求めていたから。

 だが。

 二度の政変を経て、男は謀反人とされた。国の頂点から真逆の地獄へと突き落とされたのだ。

 自分の立ち位置に疑問を覚えずに生きてきた男には、それがどうして起こった事なのかすら、よくわかっていない。自分の行動や思想と関係なしに、内裏の中枢に棲まう魑魅魍魎の如き者たちの暗躍と策謀の結果、罪人とされて都から遠く離れた異界へと島流しにされたのだ。

 そこでの軟禁生活はさして苦痛に感じるものではなかったが、身に覚えのない謀反の罪は晴らしたかった。自分には内裏を転覆させる意図などないし、再び帝位に返り咲きたいなどとも思っていないのだから。

 だからこそ、ここに配流されてより続けてきた大乗経の写本、五部から成る労作を朝廷へ恭順の証として送ったのだ。

 ところが、写本に呪詛が込められているのではと疑われ、紐解かれる事すらなく送り返された。申し訳なさそうに……いや、気の毒そうに首を垂れる従者の頭頂部を眺めていると少しずつ、現実が自分の心の中に沁みてきた。布に汚れが染み込んでじわじわと広がっていく様に、拭っても落とせない汚れが彼の全身を蝕んでいく。

 もはやどのような言葉も行為も届かぬ、という訳か。いや、最初から自分の言葉など届いていなかった。利用価値があるから帝の座に座らされていただけなのだ。だが、今の自分には何もない。何の価値もないどころか邪魔者でしかないのだ。

 男は悟り、絶望する。

 そして失意の中、自分の舌を噛み切った。

 激しい痛みとともに視界が紅く染まる。

 刹那、疑問が湧いた。なぜ自分は死を選んだ? なぜ自分は疎まれる? 宮中の思惑に従うだけ従って生まれてから死ぬまで……

 急激に膨らんでいく、怒りと後悔。


 死なぬ。このままでは死ねぬ!


 目の前に積まれた、恭順の証として書き上げた写本。その一つを掴み、薄れていく意識の中、男は自らの血で書き込んだ。

「この経を魔道に回向す」

 そうだ、奴らがそう疑うのなら実際に呪ってやろうではないか。

 この国の全ての民に災いあれ! 我は天狗となりてこの国を呪い続ける!

 既に瀕死の状態、口をきくことすらできぬまま、男はそう叫んだ。

 朱に染まった質素な着物姿が大広間に倒れる。異変に気づいた家中の使用人達が集まってきた時には男は息絶えていた。

「上様! 上様!」

 駆け寄る使用人たち。この館の主人たる男は微動だにせず大広間の畳に横たわっている。

「ああ……何と不憫な」

 朝廷から突き返された写経を男に渡した使用人頭の老人が男の手を取る。力ない、死骸の腕。讃岐のこの屋敷へ閉じ込められてより数年、ずっと写経を続けてきたその腕は少しずつ、冷たい亡骸へと変わろうとしていた。肉体労働を知らない、男性としては華奢な色白の腕。

 悲しみの中、老人は今後のことを考え始めた。まず、朝廷へ報せを走らせるべきであろう。元は殿上人であった方だが既に凋落した男の葬儀をどうすべきか。この屋敷の維持や使用人たちの処遇はどうなる? 老人以外の使用人は皆、この近くの里から集められた者たちだ。ただ家に返せば良いというものでもない。

 それに、そうだ。女どもの中には何人か上様のご寵愛を受けた者も居る。一人、臨月が近い娘も居たはずだ。そうなると落とし種の処遇も考えねば。

 諸々のことに頭を巡らせていた老人の耳に、しゅうう、という音が聞こえた。すぐ近くで、息の漏れるような音。だがそれは人間のものではない。まるで巨大な蛇か何かが発するような不穏な……


 ふしゅうううぅぅぅ……


「……!」

 間違いない。亡骸と化した男の口から長く息が吐き出されていた。

「上様……?」

 確かに死んでいるはずの口から漏れるその音は、まるで獲物を前にした大蛇のごとき不穏なものであった。他の使用人達も気付き、ざわめきが広がっていく。悲鳴をあげる娘も居た。それ程に不気味な音なのだ。明らかにこの世のものではない、彼岸から呼ぶ声のような。

 突如男の腕があがり、刀を握りしめた。

 ……刀? 老人の目は確かに、黒光りする鞘に納められたそれを見ていたが、その現実を認められずにいた。男を軟禁していたこの屋敷にはそんな物は絶対になかった。武器の類は特に厳しく禁じられていたので確かだ。

 だが、床に倒れたままの屋敷の主の手に一振りの日本刀が握られている。一体どこから降って湧いたのか、いずれ真っ当な代物ではない。明らかにそれはこの世の理から外れたものだ。

 男の目が開く。それは黒く澄んでいながらも奥に禍々しい怨嗟の炎を宿していた。すう、と音を立てずに立ち上がり、その目で広間に集まった使用人達を見回した。これまで毎日自分の身の回りの世話をしてきた者達をまるで道に転がる屑か何かのように無感動に。

「う、うえさ……」

 ずるり、と蛇が巣穴から這い出すように刀が鞘から抜き身を晒す。

 そして刀は血を欲した。男によって振り下ろされるたびに命が消えていく。腕で自らの頭を庇おうとした者も、とにかく逃げようと背中を向けた者も、絶望のあまり嗚咽する者も、誰であれその場にある命の全てを刀は奪った。

 血の海と化した大広間を無感動な目で見渡した男は、既にヒトではなかった。魔道へとその身を堕とした天狗……魔王たる大天狗である。

 動くもののなくなった場に興味を失なったかのように刀を無造作に投げ捨て、大天狗は自らを貶めたこのクニに災いを与えるため屋敷を出ていくことにした。屋根をぶち破り、そのまま天高く飛び去る。

 そうして無人になった屋敷の異変に気づいて里の住人達がやってきたのは翌朝のことである。

 まるで地獄のような情景に恐れ慄いたものの、放っておくわけにもいかない。屋敷の使用人は里からお仕えしていた者達であり、弔ってやりたい気持ちもある。本来であれば民草が勝手に敷地内に入ることは禁じられているので、都に異変が伝わる前に娘達の遺骸だけでもと数人が大広間に足を踏み入れた。そのうちの一人が、微かな声に気づく。

 大量の血と臓物に混じって、生まれたばかりの赤子が居た。

 どうやら既に臨月であった使用人の娘が死の直前に産み落としたらしい。あるいは死後、赤子が自ら生き延びるために這い出てきたか。

 この屋敷の主人であった男の忘れ形見であろう。衰弱していたが小さく産声をあげており、まだ助かるかもしれない。里の者たちは迷ったが、連れ帰り育てる事にした。

 赤子は女であった。さや、と名付けられ里長の家で秘密裏に育てられた。里の外には存在をひた隠しにして、家から出る事も禁じて。

 長じるにつれて彼女は異能を発揮し始めた。さやは未来を予知できたのだ。

 それは全て数年のうちに現実となり、一つも外れることがなかった。里の者はさやを生き神として崇めた。里に隠された、その存在を公にはできない神。

 中にはさやの存在を忌むべきものと考える者も居たが、その当時都を中心に国内で何度も起きた疫病や、地揺れや洪水などの災害が里にはなかった。もし、それらが大天狗によって起こされているとしたら? 娘のさやを大事にしておけば、この里は見逃されるのではないか、という打算もあって、反対派の意見は認められなかった。

 そうして、さやは生きながらにして神のように崇められ、里長の家の奥で秘密裏に暮らした。その当時としては非常に長寿で、八十を過ぎるまで健康に暮らし、最期は二十人以上のひ孫達に見送られて旅立った。


「それが儂じゃ」

 と、ソファの上で正座したみや……の姿をしたそいつは言った。大天狗が魔道に堕ちた時の虐殺事件を生き延びた忘れ形見、さや。櫛木家はその直系の子孫であり、現在までその予知能力を受け継いでいる。ただし、始祖たる彼女程の能力を発現させた者はなく、その時々の当主にのみ一子相伝に伝えられてきた門外不出の儀式によらなければ予知はできないのだという。

 場所は鎌倉の櫛木邸。二階の奥まった位置にある、現当主令佳の自室である。かなり広い、数十人の会合が開けそうな部屋の内装は完全な洋風になっていて、インテリアも昔のヨーロッパ映画にでも出てきそうな、どこぞの貴族が住んでそうな豪華でありながらシックなもの。

 屋敷の使用人(クラシカルな制服のメイド達)にもなるべく聞かれないようにという配慮から、家族である石塚も含めてSNKメンバーは裏口から忍び込むように入ってこっそりと当主部屋で密談している。部屋の隅でひっそりと佇んでいるメイド長以外には秘密の会合である。

 ところでこの集まりに俺は参加していない。抉奪の弓を撃った後に過労で倒れてそのまま例の病院に逆戻りしていたからだ。後日に天が「あたかもその場に居たかのような臨場感を伴う言ノ葉でお伝えしましょう」と聞かせてくれたのである。

 絹先輩も同じ病院に入院中。命に別状はなく、天が言ノ葉で冷凍保存しておいた右腕を繋ぐ手術も行われたらしい。

「まず確認ですが」

 櫛木令佳が口火を切る。貴族風装飾の椅子に姿勢良く腰掛けた彼女は威厳を含みつつ威圧感のない穏やかな語り口である。

「現場にいた者から見て、大天狗に何かをされたせいでみやが自分を先祖がえりしたと思い込んだ可能性はありますか」

 言われてみると確かに、その可能性も考えるべきだった。が、それはやはりその場に居なかったから思える事で、明らかにあの時みやは連れ去られた。それは確実だ。皆がそれを否定すると、

「そうなると、さや様。現在はみやの魂が抜けた体に憑依している状態なのでしょうか」

 自分の娘の姿をした先祖に彼女は問う。

 確かな事は、と顔をしかめて首をひねる。そうした仕草は明らかにみやではないと思わせるものだ。

「儂にも解らぬ。以前よりこの体におったような気はしているのだが……意識のようなものがはっきりしたのはみやが居なくなってからじゃな。それは確かじゃ」

 きっと予想通りだったのだろう、軽く頷くと、

「では。みやを大天狗から取り返したら元に戻す事は可能ですか」

 それも、とやや男っぽい仕草でさやは答える。

「大丈夫であろう、としか言えぬが……元の状態に戻るという確信はあるのう。みやが戻る場所は、今もここに」

 と、自分の胸を指す。

「ポッカリと空いておる。それはわかる」

 そうですか、と令佳は安堵の混じった息を吐く。では、と一同を見回し、

「みやが連れ去られた事は世間にはもちろん、櫛木グループ内にも一切秘密とします」

 会長、とナデシコが普段よりもかしこまった口調で言う。

「それはつまり組織内の協力はない、という事ですか」

 櫛木家は巨大組織であり数々の大企業をその傘下に持つが、その中に妖怪など怪異に対抗するための組織がいくつかある。スマホ型の武器を作った所や、がしゃどくろと戦った墓場の運営や結界を張ったりというサポートをする組織、それに妖怪退治のための人員も居てグループに分かれて今も活動している。俺の父さんが所属していたのはそのひとつだった。SNKはその学生版のような位置付けというわけだ。

「ですが、相手は大天狗です。我々だけで対処できるとは到底……一人、戦線離脱者も出してしまいましたし」

 忸怩たる思いを隠さずにナデシコは言う。相手は国難級の怪異であり、グループ総力で対応するべきだと主張している訳だ。

「まさかとは思いますが……御令嬢を切り捨てるおつもりではないでしょうね」

 ナデシコの視線が鋭くなる。みやの魂は連れ去られたが、代わりに遥か昔の先祖が体に入っているのだから代わりは務まる。このまま大天狗の事は放っておこうという選択肢もあるにはあるのだ。

「馬鹿な……いえ、言葉が過ぎましたが勿論そんな事は考えていません。櫛木の次期当主はみやしかおりません。そもそも、自分の娘を平気で妖怪の生贄に捧げる親など居るものですか」

 抑えても口調が少しだけ強くなる。

「むしろ逆です。現状を会議にかけたら、せっかく大人しく天に還った大天狗に手を出すリスクを理由に、みやをそのまま捨ておくように主張する者が確実に出ます。向こうから災いをもたらすならばともかく、こちらから藪蛇をつつくな、と。もちろん私の権限で強行する事は可能ですが、表立っては了承しても裏で妨害をしてくる事も考えられますし、そもそも話し合いや説得などしている時間はないのです。

 事件の報を受けてすぐ、私は『お伺い』を立てました。もしも堕天を行なうなら最適な星の巡りは七日後です。その後は何年先になるか」

 お伺い、とは櫛木家の当主が秘伝の儀式で未来予知をする事らしい。そして堕天というのは……

「会長。では、大天狗と正面から一戦交えるおつもりですか」

 ナデシコの言葉に、令佳は居住まいを正した。

「もちろん、実際に戦っていただくのは皆さんです。普通なら手を出すべきでない相手なのは重々承知。無理強いはできませんが」

 ナデシコ、天、滝先輩は躊躇なく頷いた。

「儂も、何かの役には立てるじゃろう」

 と、さやも手を挙げる。

「お母様。僕も雑用程度でしょうが、みやを取り返すためなら何でもやります」

 石塚も参戦表明。

「水無藻さんの息子さんはどうなのです? 倒れたと聞きましたが」

 玲佳の言葉に、

「何、ただの過労です。寝ればすぐに良くなります」

 簡単に答えるナデシコ。そして俺の意志は無視される。まあもちろん俺も賛成だが。

 何しろあいつは俺をかばって自ら大天狗に囚われたんだ。彼女の灰色の瞳に浮かんだ涙と、あの笑顔を思い出す。絶対に助け出さなければ。

「では、本当に時間がありません。今のままでは大天狗と戦うなど無謀でしかありませんから……皆さんにはしてもらわなければならない事が山ほどあります」


 都内の高級住宅街の中では普通……と言うより目立たない程度の洋風一軒家。門扉から数歩で着く玄関までの間にあるスペースがささやかな庭になっている。

「へえ、金持ちなんだな天の家は」

 俺の言葉に振り向いた彼女の顔はうっすらと呆れ顔をしていた。最近はかなり感情表現がわかりやすくなった我がクラスメイトである。

「……そういう、単純明快な思考がかえって戦闘時には優位に働くのでしょうか。わたしには真似できませんが」

 やらなければならない事のひとつとして、俺は倭家に招かれていた。バス停から徒歩十分弱、倭天の後について歩いてきた俺は今朝病院を退院してその足でここまで来ている。

「言ノ葉遣いとして生きる以上、普通の暮らしは出来ぬ。一般的な尺度で裕福だなどと言うのは軽率という事よ。刀哉、お主はもう少しこちらの世界の事を知らねばならぬな」

 刀尋がやれやれとばかりに言う。そう言われれば、まあそうか。

「……別に。自分達が特別だと言うつもりはないですが」

 どうぞ、と招き入れられた屋内も俺の住んでいるアパートはもちろん、そこいらの建売住宅とは違う、作りの良さが感じられるものだったが、壁に絵が飾ってあったり花や観葉植物があったりという装飾性のない、よく言えばシンプル、悪く言えば殺風景なものだった。

 まあ、この姉妹はインテリアとか興味なさそうだもんな……そう言えば。

「お母さんって……その」

 聞いてなかったが、もしや既に?

「……ああ、気を使わせてしまいましたね。ご心配なく。母は病気でずっと入院しているのです」

 いや、それはそれで大変じゃないか。

 リビングに通されるのかと思ったらその手前の廊下で天はしゃがみ込んで床に手を伸ばした。一見しただけではわからないように入っている切り込みの縁を持ち上げると取手になって引き上げられるようになっている。地下室だ。

「父さんは天井裏が良いと主張したそうですが、どうせ怪しげなことを夜な夜なやるのだろうから地下の方が静かで良いと母が譲らなかったそうです」

 そうですか。

「ではどうぞ。簡易的な階段なので踏み外さないように気をつけてください……父の作業場です。今は使用していませんが」

 ハシゴのような階段を降りると、そこは装飾こそないものの殺風景とはとても言えない部屋だった。四方の壁全てが床から天井まで棚になっており、それをほとんど埋め尽くすようにギッシリと書物が詰まっている。全てが毛筆で書かれた和綴じの本だ。

 どれだけ鈍い人間でも、ここに足を踏み入れたらそれらが普通の本じゃないことぐらいすぐにわかるだろう。オーラというか、圧というか。本の一冊一冊、いやページ一枚一枚が何かを主張しているような。

「ほう……流石、込められた呪力が桁違いじゃな」

 隣で浮かんでいる刀尋が感心したように言う。

 部屋のほぼ中央でナデシコがぼんやりと佇んでいた。

「これが、父上の残された『遺魂の書』だ」

 そう言う彼女の口調がいつもよりも硬いのに気になった。気のせいか青ざめた顔をしている。緊張しているのか?

「いこんのしょ?」

 俺の疑問には答えるつもりはないらしく、倭姉妹は黙々と何かの準備を始めた。壁一面の書籍を見回って微妙に位置をずらしたりしている。

 部屋の中に四本の燭台が置かれてロウソクに火が灯された。やがて準備が終わったらしく、ナデシコは部屋の隅から全体を確認するようにして、軽く頷いた。

 天は精神統一でもするかのように無言で目を閉じる。

「遺恨の書は、言ノ葉遣いにとって禁忌に近いものだ。善しとはされていないが明確に禁じられている訳でもない。そもそもそんな言ノ葉を編める者がほとんど居ない、という言わばグレーゾーンにある超高等技術だ」

 淡々とした口調でナデシコが説明を始めた。天は目を閉じたまま、ひゅうっと短く息を吐き出して止め、意を決したように宙に指を走らせて言ノ葉を記し始めた。

「一人の人間の人格、経験、記憶……その全てを込めて書き遺す。それが遺魂の書だ。整えた場においてもう一人の言ノ葉遣いの編む言霊と呼応し、呼び水にして現界する」

 ゆっくりとではあるが、いつもよりも確信を持っているような動きで指を宙に走らせる天。

「一人の人間の精緻な複製……わかりやすく言うなら『誰かをコピーしたAI、擬似人格』だ」

 宙に現れた文字は『開』。青白く輝き、一際強く輝いた後に消えるといういつもの過程を経て、そこに現れたのは。

「やあ。この書を開いたという事は深刻な事態になっているという事だろうから挨拶はなしで本題に入ろう……そこに居るのは水無藻刀哉くんかな? ずいぶん大きくなったね……あれから十年? そうか。僕が死んでから八年……なるほど、じゃあそろそろアイツが動き出したというところかな」

 部屋の中央あたりに肩から上だけを浮かび上がらせた、その人は出てくるなり一方的に話しだした。俺の隣の刀尋に、ずいぶんとご立派な姿になりましたね、などと話しかけている。相変わらずゆるい雰囲気だ。

「それじゃ弓、現状をかいつまんで報告してくれるかい」

 穏やかながら自信に満ちた語り口、柔和な笑顔を浮かべるその人は倭姉妹の父親、十年前に俺の能力を封じてくれた言ノ葉遣いの倭先生だ。ナデシコ……そう言えば弓ってのが本名だった……が時系列に沿って簡潔に状況を説明する。俺の能力のことやみやの魂が抜き取られたこと、絹先輩が戦線離脱した事や、みやの身体の中に現れた櫛木家の始祖、さやのこと。

「ふむ。なるほど奴も考えたね……そうなると今回は天に昇ったんだろうな。厄介だなぁ」

 倭の言葉に娘二人は頷いているが、俺には何のことやら分からん。すると先生は察したようで、

「以前、大天狗がみやちゃんを拐った時のことは覚えているかい?」

 俺は頷く。何度も夢にみた光景、あれは天狗隠しに遭ったみやを助け出した場面だったのだ。

「あの時、子供だった君は大天狗の姿を視た。怪異を視認する、という事は『それが、そういう姿でそこに在る』というのを認める事なんだ」

 ん? どういう事ですかセンセイ。

「つまりだね、一般の人に妖怪は視えない。妖怪が何か悪さをしても、そこに在ることがわからないから自然災害や病気、あるいは偶然起こった事故などのせいにして済ますしかない。それが妖怪や怪異をリアルから排除してしまった現代の世界なんだ」

 そう言えばそんな話を聞いたな。

「誰かがその姿を視ると……それは天狗でも子泣き爺いでも何でもいいのだけれど、そういう妖怪がそこに居る、という認識が生まれる。在るのか無いのか曖昧としていた存在が、視ることによって在ると確定されてしまうんだ。そうなれば、能力のある者なら退治したり封じたりといった対処ができるようになる。手が届くようになるんだ。ところが大天狗はずっと、国難級の災害や疫病を起こしていると信じられていながら誰もその姿を視た者が居なかった。それを」

 ガキの頃の俺が視てしまった……。

「そう、だからみやちゃんは還ってこれた。人間は天に昇れないから」

 天に?

「本来、天狗は天に在るものなんだ。はるか昔に大陸から伝わった時の天狗は空から音を立てて堕ちる流星だった。咆哮をあげて地へ災厄を運ぶ凶星……それが本来の天狗、天の狗の姿だ」

 俺の脳裏に、京の都へと夜空を焦がしながら堕ちる真っ赤な流れ星のイメージが浮かんだ。

「天狗の中でも位の低いものは山の神やその遣いとして土着しているのも居るけどね……ともかく、大天狗は天に昇るものなんだ。その天というのはいわゆる宇宙の事ではないのだろうけど、とにかくそうなったら僕たち人間は手が出せない。ところが」

 俺が視たから……

「そう。それによって現世の理に大天狗が縛られた……人間であるみやちゃんは天に昇れない。連れていけなかったんだよ」

 そういう事か。じゃあ本当に俺が子供の時にみやを助けていたんだ。

「うん。君は子供の時すでにとんでもない妖怪を相手にして、その企みを封じているんだよ。だから今回、大天狗は警戒して仮面で顔を隠して現れた」

 あの仮面はそういう意味があったのか。けど、それが仇になった。

「みたいだね。まさかそこでツッコミのスキルが発動するとは、人間というのは面白いものだね。それと、その後も良かった。姿を口に出して言う、というのは言ノ葉の力で存在を確定させ、更に他のみんなにもその効果を波及させる事になる。考えられる限り最良の対応だったと言えるね」

 だけど、と倭先生は表情を暗くした。

「大天狗ってのは日本最恐の怨霊のひとつと言っても過言じゃないのに、慎重なんだな。仮面で顔を隠すだけでなく、今回はみやちゃんをそのまま連れ去らずに魂だけを抜いて行った。人は天に昇れないけど魂だけなら話は別だ。今回は彼女を連れて大天狗は天に還ったんだろう」

 それじゃもう、どうしようもないのか……?

「いや。こちらにもまだツキが残っていたね、それが櫛木のご先祖様……さやさんって言ったかな? その人が魂の形でみやちゃんの体の中にいる事だ。普通、魂が抜かれた人はそのままだと死ぬ。器械で無理やりに生命活動を維持させていたとしても、時間が経つと限界がくるんだ。だけど、ご先祖さまが代わりに居てくれるからね。時間が稼げる」

 そう聞くと改めて肝が冷える。もし抜け殻のままだったらみやは少しずつ命を削られていたのか。

 会長が話してくれたが、とナデシコが口を開く。

「さやはどうやら輪廻転生のように何代かごとの子孫の中に復活していたらしい。今回のように表に現れた事はなかったそうだが、櫛木家には周期的に能力の強い娘が現れて、中には儀式によらなくても未来予知を行なえた者もいたという。そうした娘たちは多かれ少なかれ前世の記憶を持っていたそうだ。そして生まれながらにして全身の色素が薄く、瞳が青かったり、髪が金色だったり銀色だったりした」

 じゃあ、みやが生まれ変わりだというのはわかっていたのか。見ると倭先生は納得したような顔で頷いていた。

「なるほどね。まあ今まで確証はなかったんだろうけど、ご本人の登場で証明されたって事かな。一般的な生まれ変わりとはちょっと違うみたいだけどね」

 二人の魂がひとつの体に入った状態だった?

「さあ。ご先祖がみやちゃんの生まれた時から一緒に居たのか、それとも今回の非常事態で人格が発生したのか、その辺はわからないけど、みやちゃんの魂を取り戻しさえすれば元通りになるはずだ」

 そうなんだろう? とナデシコに問う先生。ええ、さやはそのように言っていましたがと答える娘。

 とにかく、みやを取り戻すためにはアイツを倒さなければならないわけだ。俺は大天狗の姿を思い出していた。仮面で隠された素顔は何故か思い出せない。十年前に視ているはずなのに。

 とにかく問題はあの圧倒的な強さだろう。レベルが違うどころじゃない、こちらの攻撃が届くことすらなかった。あんなヤツをどうやって倒せばいいのか……

「不安かい? そりゃ当然だよ。かれこれ八百年以上も国難級のあやかし、怨霊として畏れられていながら一度も退治されたことのない、それどころか十年前まで姿を視られたこともなかった相手だ。この国最強と言っても過言じゃない」

 余計不安にさせないでほしいんですが。

「ふふ、その為に遺魂の書があるんだよ。君が今も大天狗の姿を視る事ができたなら大丈夫。ヤツを倒す方法はある」

 さすが倭先生。頼りになるな。

「それじゃあ、大天狗を倒す方法を説明するよ。それは…… 」

 俺たち三人は肩から上だけの先生に注目する。

「ズバリ、堕天と視核だ」


 倭先生の擬似人格との会談が終わってすぐ、石塚とさや、滝先輩と合流した俺たちはナデシコの運転するミニバンに乗って東京を離れた。高速道路を北上し、群馬県の山の中へ。温泉で有名な街を越えて更に山奥へ大天狗に勝つための修行をしに。

 今日から五日間、それで大天狗に勝つ見込みができれば堕天、という術をやるらしい。

「このあたりか」

 ナデシコはクルマを山の中の少し開けた場所に停め、全員に降りるよう言う。

「あれが案内係らしい」

 見ると、手のひらに乗るくらいの大きさの折り紙が宙に浮いていた。やっこさん、ていうんだったか。+みたいな形の素朴な人型のあれだ。

「式神ですね。修行をしてくれるのは陰陽師でしょうか」

 天が期待しているような口調で言う。こいつって意外とミーハーなところあるよな。

「ついて行けば、いいんですよね?」

 滝先輩が警戒心を隠さずに言う。

 フワフワ浮かんだやっこさんに案内されて山道を歩く。大して傾斜がある訳ではないので疲れはしない。

 いつしかみんなが無言になって黙々と歩いていた。何かの呪術が使われていたのか、それとも単にそう感じただけなのか、ずいぶんと長い時間を歩き続けた。そして急に周囲の木々がなくなって視界が開けた。

 単に、高い木のない場所というだけなのに、久しぶりに広い場所に出たというだけで何やら神秘的な気分になるような……まあ、事実だけを並べるなら森の中の山道を飽きるくらい歩いたら広場に出た、というだけだ。

 そこに、丸太小屋と言えばわかりやすいか。ログハウスっていう感じではなく木材を組み合わせて作った地肌剥き出し建物が建っていた。小屋というと小さいものを想像するかもしれないが、普通の一軒家くらいの大きさがある。ただ、木製で装飾要素がまったくないというだけの家だ。

 フヨフヨと浮かんでやっこさんは俺たちをその建物へと誘う。

「……入って、いいんですよね?」

 滝先輩が誰にともなく訊く。

「まあ、式神が入れと言っているわけですから……」

 と、ドアに手をかける天。

 言ってはいないけどな、と心中こまかなツッコミを入れる俺。

「ドウゾ、コチラデス」

 いや喋れるんかい。

 入ってすぐに靴を脱ぐスペースがあり正面と左右にひとつずつドアがある。三部屋使っていいという事か。

「オニモツ、オアズカリシマス」

 フヨフヨ浮かんだやっこさんが言うが、こいつに手渡すわけにもいかないしな、とそれぞれの荷物を床におろしていると「ドーゾ、ドーゾコチラヘオイテッテクダサイ」とか言いながら手を貸してくる。いやどこが手なんだかわからないが、バッグのあたりまで飛んできて甲斐甲斐しく何かしているのだ。

 元々手ぶらのナデシコ以外の全員が荷物をおろして身軽になると、外から男の声が聞こえてきた。

「荷物置いたんやったら早よ出てこんかい!」

 野太い男の声。なんだか柄の悪そうな感じだ。

 全員、小屋から出る。やっこさんは先を飛んで仁王立ちしている男のもとへ。

「ワシは前鬼、こっちは後鬼。アンタらを鍛えるために喚ばれたモンや。よろしゅう」

 短く逆立った髪、つり気味の目と牙のような八重歯。全身から野性味を感じるルックスだ。顔立ちは彫りが深く、西洋人のようだが着ているのはカンフー服、中国拳法の道着だ。その腰には不釣り合いな日本刀が吊られている。

「……」

 その隣に立つ、後鬼と呼ばれた女性も同じくカンフールックで髪もお団子に纏められているのだが、顔に札が貼られていて見えない。ていうか本人も前が見えないはずの、中国の昔のゾンビ映画みたいな状態だ。札の表面には梵字らしき文字で何かが記されている。天やみやが使う札とはまるで違う。

「ちょいと訳ありでな、後鬼は口が利かれへんようなっとるけど気にせんといてや」 

 小柄で均整のとれた体つき、顔もほとんど隠れているし、人間というより人形のように見える。

「ほな」

 行くで、と言い終わらないうちに前鬼は腰の刀を抜き払って踏み込んできた。まったく反応できなかった俺の襟がぐいと後ろに引かれる。一瞬後に俺の鼻先を刃先が一閃する。

「あぶっ……」

 あのままだったら斬られていた。さやが後ろから引っ張って助けてくれたおかげで無傷だったのだ。

「何をする、刀哉を殺す気か!」

 さやが猛然と前鬼に食ってかかる。俺はとっさの事過ぎて怒るでも驚くでもなく、ただ唖然としていた。けどあのままだったら俺の頭は真っ二つに……いや、そこまで深くなかったか?

 前鬼はまるで気にする風もなく、

「何を甘ったれた事言うとんねん。大天狗に喧嘩売るんやろ? 命なんぞいくらあっても足りひんわ。あれくらい避けられんのやったらそのまま楽になったらええねん」

 滅茶苦茶だ。本気で殺す気だったのか?

「ええか、視核持ちの小僧。このチームの肝はお前や。どんな手ぇ使うてでもお前が大天狗の喉元に迫れたら勝ちの目ぇも出てくる。せやけど」

 と、前鬼は憐れむような目をした。

「お前はまるっきりの素人や。妖怪の核が視えとるんかなんか知らんが、それをまるで活かせとらん。そないしょうもない目ぇやったら抉りとったらええねん。その方が心の目で視るようになるやろ」

「だからいきなり斬りつけたってのか? 俺の目を潰そうと? 酷すぎるだろ、鬼! 悪魔!!」

「おいおい。失礼な事言いなや、なんや悪魔て」

 と、前鬼は真剣な顔になる。

「ワシは誇り高き大江の鬼の末裔やぞ」

 いつの間にか、前鬼の全身を赤黒い炎のようなオーラが包んでいた。目が金色に輝き、額には二本の角が。

「ガチで鬼なのかよ!」

 背後で抜刀、と小さくつぶやいて滝先輩が刀に手をかけた。さっきから小さな声でいつもの呪文みたいなのを唱えていたのは気づいていた。

「……」

 その右手を、いつの間にかすぐ近くへ移動していた後鬼が押さえる。

「な、何をするんですか!」

 ただ手を添えているようにしか見えないが、それだけで滝先輩は刀を抜けなくなっている。

「おいおい、外野が手ぇ出したらあかんでぇ。これは小僧を鍛えるための修行やさかいな。コイツが強くなれへんだら大天狗に勝つなんぞ夢のまた夢や。勝たれへん喧嘩を国難級の魔王に売って相手を怒らせてもうたら、どないな事になるかわからん。そない迷惑な事するくらいやったらここで死んた方がマシっちゅうもんやろ?」

 どないや、と抜き身の刀を肩に担いだ前鬼が言う。強くならなければ大天狗に挑む資格はない、ヘタに手を出して怒らせたらどんな災害が起こるかわからないから、ここで死ねって事か。一応理屈は通っちゃいるが自分の命がかかってるとなると素直に頷けないな。

「ならば、内野なら良いのじゃな?」

 さやが口を開いた。

「やれやれ、久方ぶりでうまく行くか自信がないのう……おい坊主、この体を頼むぞ」

 と、準備運動のように首を回しながら後ろの石塚に言う。

「な、何だ? 何を」

 急に全身が脱力して糸の切れた操り人形のように倒れるさや、つまりみやの体を慌てて石塚が抱える。

『邪魔するぞ刀哉』

 俺の頭の中でさやの声がした。いともたやすく乗り込んで来やがったぞ。

『儂の先見で相手の動きを読む。それに反応できるかどうかはお主次第じゃ。気張れよ』

 そうか、そうすれば相手の攻撃がどう来るか全部わかるってことか。それなら……

『ただし、お主の身体的な負荷はかなり大きくなるぞ。当世風に言うならめっちゃキツイ、というやつじゃ』

 目の奥にチリチリと痛みを感じて、思わず強く目をつぶる。しばらくして目を開けると視界が変わっていた。

 刀を構えた前鬼の姿がダブって見える。あたりを見回すと、全てがそうだった。山や木、地面に落ちている石は変わらず……いや、風に揺れる木の葉がダブった。

「これ……そうか、ちょっと先の未来が見えてるのか」

 めまいのような、寝ぼけてる時のような……何とも妙な感覚だ。地面がしっかりとしているのが救いで、平衡感覚が狂う感じではない。もう少しすれば慣れそうな気はするが……

『うーむ、もうちぃっと先まで見れぬものかの』

 残念そうにさやが言う。あまり無理すんな、俺の頭が心配だ。

「おお、さや殿流石でござるな! 拙者もなんとか参加できぬものか……」

 刀尋が興奮気味に言うが、勘弁してくれ。さや一人でも全身の倦怠感がひどい。

 ほう、と前鬼が目を細める。

「憑依……とも違うな。おもろいやんけ」

 ニヤリと笑った鬼は刀を納めた。

「それでどこまで戦えるようになるか見てみたくなったわ。ほんならコイツらと修行しい」

 と、懐から紙片を取り出してフッと息を吹きかける。するとそれらは小さな鬼になった。赤鬼と青鬼。背丈は人間の子供くらいだが、殺傷能力の高そうな武器を持っている。いくつものトゲがついた鉄の棒、鬼の金棒だ。当たったらタダじゃ済まないのは確実である。

 丸腰じゃあんまりやさかいな、と前鬼が自分の刀を放り投げてくる。慌てて受け取った。初めて触った真剣の重さと冷たさにちょっと驚く。

「なんや、刀を扱うんは初めてか。水無藻も平和ボケしとるんやな」

 前鬼が揶揄するが、そう言われてもな。

「何を言うか。水無藻の刀は守護の為のもの。真に必要な時にしか振るわぬのじゃ」

 なんか刀尋が言い返しているが、そうなのか? とりあえず刀を抜いてみようと思ったが、正直自分を切りそうで怖い。

『良い。どうせ大天狗相手ににわか仕込みの剣法など利かぬわ。まずは相手の攻撃を回避して懐に飛び込むことだけに専念するべきじゃろう。おい鬼、前鬼とやら。構わぬ、その式神どもに刀哉を襲わせるが良い』

 好き勝手言うなよと思っていたら、前鬼が

「そんならお言葉に甘えて」

 と、二匹の鬼に攻撃を命じた。さやの声って俺の頭の中だけで聞こえてるんじゃないのか?

 二手に分かれて金棒を振りかざして襲ってくる小鬼。とりあえずここは……

「逃げるしかねえ!」

 いくら先が見えるとしてもまだ役に立つレベルじゃない。いきなりは無理だ。俺は二匹の小鬼から全力で走って距離をとる。

 お手並み拝見やな、と俺を見送った前鬼はそうや、と滝先輩と後鬼に向かって声をあげる。二人はまだ刀を押さえられた膠着状態のままだ。

「そのまま、後鬼に遊んでもらい。せやけど、その刀の力抑えたままやったら殺されるで? 自分が刀の呪いに呑み込まれん程度に力を解放せえ。ええな?」

 その言葉が終わる前に後鬼が刀を押さえていた手を離す。抜刀した滝先輩が斬りかかるが、簡単にかわされてしまう。

 後鬼が自分の爪を振るって攻撃。妖刀で受け止める先輩。あの恐ろしい妖刀と素手で戦ってる後鬼もとんでもない強さだ。

「あとはそっちの言霊の姉ちゃんやな。アンタは」

 コイツらと遊んでもらい、と再び懐から数枚の紙を取り出し、フッと息を吹きかける。するとそれは五匹の大型犬になった。

「ひいっ、い、犬?!」

 天の顔から血の気がひいた。

「ああ……天は小さい頃から犬が苦手だからな」

 ナデシコがどうでもいい事のように言う。

「これほどの数の式神を同時に…… 高度な術式であるな」

 刀尋が感心している。

 式神犬は低く威嚇の声をあげ、揃って天を睨んでいる。

「そいつらは倒されん限り永遠に追い続けるさかい気張りや。まあ、簡単な攻撃術式で倒れるから安心しい。せやけど」

 と、また面白そうにニヤリと笑って、

「五分たつと倍に増えるさかい、急いで言ノ葉編むんやで?」

「ご、五分?! お札、お札……ない! なぜ?」

 慌てて自分の服のポケットを漁る天。

「ああ、さっき荷物預かる時に没収しといた。修行の邪魔になるさかいな」

 ドSの鬼はニヤニヤ笑いを隠そうともせず、

「さあ鬼ごっこや。捕まらんうちに倒すんやで? よーい」

 低く構えた姿勢で唸り声をあげる式神犬。

「どんっ!」

 きゃああああああああ!

 ガウルルルルルルル!

 えらい勢いで逃げ出す天。それを追う五匹の犬。

「これで良し……と。そっちのあんちゃんはミサキの姐さんの抜け殻のお世話で……別嬪の姉さんはどないする? アンタは戦闘要員ちゃうやろ」

 前鬼の問いにナデシコは黒髪を後ろに払って答える。

「私は自分のやるべき事をやる。あと六日で修行は終わるのか?」

「ああ。全員死なんかったらな」

 真顔で答える前鬼に、そうかとナデシコは踵を返した。

「六日後に迎えに来る。副顧問、あとは頼んだぞ」

 颯爽と、という形容が似合うくらいに堂々と俺たちを置き去りにして去っていった。

「……ええオンナやなあ。人間にしとくには惜しいわ」

 などと勝手な事を言いながら前鬼はその場で横になった。本体を極力休ませて式神に魔力を回すためだ。

 俺たち三人がいきなりの修行開始で居なくなったあと、魂の抜けた妹の体を抱えた石塚が残された。居眠りするように横になった鬼の隣で所在なく腰をおろし、深くため息をつく。


『どうじゃ刀哉、儂の眼は使いこなせそうか?』

 後先考えずに森の中へ飛び込んでとにかく走った。今あの小鬼どもとやりあっても絶対に勝ち目はない。ならとりあえず距離を取って時間をかせぐしかない。

「ああ、多分大丈夫だ」

 もうちょっとで馴染みそうな気がする。全く根拠はないが、何故か確信があるのだ。

『うむ、そういった感覚は大事じゃな。それなら何とか馴染むまで時間を稼ぐかの』

 さやの言葉に反応するかのように俺の胸の辺りが熱くなった。熱量、エネルギーのような力強いものが足の方へググッと移動していく。

「な、何だ?」

 両足に力がみなぎる。走るスピードが明らかに上がった。

『呪力を両脚に回した。身体強化の術式じゃな』

 おお、それは便利そうじゃんか。

『飛べ、刀哉』

 その言葉に反射的に反応して飛び上がる。ひゅうっと音を立てて視界を遮っていた木の上まで出てしまった。明らかに人間離れした身体能力だ。

「おおっ。気持ちいいな!」

 俺はそのまま木の上部に着地、ていうか着木。

「さて、と……」

 横枝に足をかけて周囲を見ると緑がずうっと広がっている。結構広い森なんだな。

『落ち着いておるな、刀哉。こんな状況で冷静さを保てるのはお主の長所じゃ。自分を見失っては勝てる戦さにも勝てぬ。期待しておるぞ』

 ありがとよ。さてこれからどうするか……。

『どうじゃ、視界は落ち着いてきたか?』

 言われて周囲を見渡してみる。

「なんて言うか……さっきまではただダブってたんだけど、今は連続的に見えてるな。スローモーション映像みたいに」

 風に流れる雲やそこらの葉が揺れる動きが軌跡になって残ってる感じだ。いやこれがこの先の動きなのか。ちょっと頭が混乱するなこれ。

『……まことか? それは既に儂が視るのと同じなのじゃが』

 よし、と言うさやの声が弾んでいた。頭の中でしているのだから妙なものだが、感情って伝わるもんだからな。

『ならば、あの小鬼どもと遊んでやるかの。ひとまず身体強化の術式は儂が展開しておく故に、あやつらの動きを先読みして避け続けてみい」

「この高さから飛び降りて、大丈夫なのか?」

 軽く二階建ての家の屋根くらいはありそうなんだが。

『強化しておると言うておろうが。そもそもここまで飛んできたのは自分であろうに』

 そういやそうか。納得した俺は飛び降りた。ほとんど衝撃もなく着地。

『さあ来たぞ。りある鬼ごっこの始まりじゃ』

 ガサガサと草をかき分けて近づいてくる足音。じゃあやるかリアル鬼ごっこ……って先に言われたな!


 それから五日間、朝から日暮れまで小鬼を相手に修行が続いた。毎日、日が暮れて辺りが暗くなると鬼は姿を消して終了になる。小屋に戻ると食事が用意されていて、あとはクラシックな木製の風呂に入って寝るだけ。夜が明ければ再び赤鬼青鬼が襲ってくるので暗いうちに起き出して握り飯を腹におさめてすぐ鬼ごっこの再開だ。そして昼ごろになると鬼たちは弁当を残して姿を消す。ちゃんと昼休憩があるのである。

 俺は完全にさやの先見の能力と身体強化の術式を使いこなせるようになっていた。単純に未来の映像が見えるのではなく、今の相手が一秒後にどう動く、二秒後にはこう動く、と連続してわかるのだ。

 これは見えるというのと違って感覚で伝わってくると言うか、動画が十倍速くらいに圧縮されて脳に飛び込んで来る感じだ。

 次は木の影から赤鬼、その動きに合わせるようにして逆から同時に青鬼が襲ってくる。それらの動く軌道がわかっている俺は最も効率的な動きで避ける。自分自身の動きも合わせて頭の中でシミュレーションが一瞬で出来上がり、その通りに動くことだけに集中して他は何も考えない。今の俺は他人から見たら人間離れした動きをしているんだろう。何しろ丸腰で二匹の鬼を手玉にとっているのだ。

 何度も攻撃を避け続け、次にこの角度でこちらへ動くと……

「はい終了」

 二匹の鬼は互いを金棒で打ちつけ、相討ちになった。昨日から俺はこうして小鬼を倒してしまえるようになった。消えてしばらくすると代わりの二匹が現れるのだが、今日はどうだ? あのドS鬼の事だからもっと数を増やしてくる事も覚悟していたのだが、昨日は二匹のままだったが。

「……また二匹か」

 先見で知った俺は呟く。

『うむ、既に刀哉の敵ではないが……あの鬼めは何を考えているのか、よくわからんのう』

 俺に集中させるためだろうが、普段さやはほとんど話しかけてくる事はない。一日の修行が終わるとみやの体に帰ってしまうので、ずいぶん久しぶりに話した気がする。

「そうだな」

 俺は言いながら完璧な動きで二匹の攻撃をかわした。

 他の二人はどうだろうか。夜、小屋に戻っても皆疲れきっているのでほとんど口もきかずに寝てしまうのだ。見たところ大きな怪我などはない事くらいしかわからない。

 それからもルーティンのように攻撃をかわし、二匹を三度相討ちにさせたところで日が暮れてきた。


『あーあー、テステス。聞こえますか……あなたの心に直接語りかけています……』

 夕暮れ時に聞き覚えのある関西弁が聞こえてきた。

『三人とも、よう頑張ったなあ。明日はいよいよ最終日いう事で卒業試験、見事合格した者には大天狗への挑戦権が与えられます! ほんで失格だった場合にはこの山に残って向こう一年タダ働きしてもらいます!』

 いやいや聞いてねえよ、なんだその罰ゲーム?

『うっさいわ、そういう契約になっとるんや。お前ら鍛えるためにどんだけワシの魔力使うたと思っとんねん』

 ちょっと咳払い。いや、テレパシーみたいなのでそんなの要るか?

『まあそういう訳で、泣いても笑っても明日が最後や。全員が合格するように期待しとるでえ! 以上や』

『では明日じゃな』

 前鬼のアナウンスが終わるとすぐにさやは俺の中から抜け出していった。なるべくみやの体の中にいた方が良いんだろう。

 卒業試験、どういうものなんだろうか。今までのように小鬼を相手にするのなら数を二倍や三倍に増やされても合格する自信はあるが……

 色々と考えながら小屋へ。食事と入浴のルーティンを終えて布団に入ったが、目が冴えて眠れなかった。体力を回復させるために寝ておかないと、と思うのだがそういう時に限って寝れなくなるもんだよな。

 窓の外が青白い月あかりで照らされている。俺はなるべく音がしないように扉を開けて外へ出た。人工の灯りがない自然の中だと月ってこんなに明るいものなのか、と思う。小屋の外はただの広場で何もない。俺はいくつか並んだ切り株を見つけてそこに腰をおろした。

「刀哉、眠れないのですか」

 振り返ると天と滝先輩も小屋を出てきていた。 ……ん、今刀哉って?

「ああ、そうですね。今までわたしは人の名前にも言霊が宿っているのでちゃんとフルネームで呼ぶべきと思い、実践してきました。ですが、前回の戦いで思い知らされたのです。急ぐべき時には急がなければならないと。グズグズして役立たずになるのはもう、嫌です」

 青白い月明かりの下でおかっぱ頭は表情を変えずに言う。

「物事はケースバイケース。急いでいる時には適当でも良い……いえ、むしろ適当に手早くやるべきなのです」

 まあ、そうだな。

「よって、普段の呼び名などどうでも良いので刀哉と呼ぶことにしました」

 まあ俺も天って呼んでるしバランス取れたよな、とか言っていると滝先輩が

「あ、あのじゃあ私も! 刀哉……くん? いやもう少し後輩に対してくだけた感じが良いですかね……刀哉ちゃん? 刀哉っち?」

 何でもいいです、好きに呼んでください。

「うん、じゃあ……刀哉くんが一番ハードルが低いかな……いやでも、ちょっと馴れ馴れしいかな。水無藻くんはどう思いますか?」

「水無藻くんでお願いします」

 そう言ってやる。無理は良くないぞ部長。

「ああ、そうですね。それが一番しっくりきます」

 などと胸を撫で下ろしている。

「ところで」

 俺は二人の顔を見て言う。

「明日の試験は大丈夫そうですか?」

 すると二人とも自信ありそうに頷いた。

「ええ、明日は犬が十匹でスタートですが。それくらいなら対応できる自信があります」

 はっきりと言い切る天。

「そうですね、私も。後鬼さんすごく強いですが今のルールのままで一本取るのはきっと、大丈夫だと思います」

 滝先輩も自信ありげだ。ていうか。

「二人共、試験内容教えてもらってんのかよ!」

 あの野郎……と前鬼のニヤニヤ笑いを思い出す。本当に性格悪い鬼だ。

 とは言え、そういう事なら俺も基本的に内容継続なんだろう。数増えるくらいはあっても小鬼を相手にするだけなら大丈夫だ。安心した。

「おや、何やら嬉しそうですね刀哉」

 天がこちらの顔を覗き込むようにして言う。

「これでも不安であったのよ。だから眠れずに寝床を抜け出してきたのじゃ」

 刀尋が余計なことを言う。うるせえよ。まあ事実だけど。

 では明日に備えてもう寝ましょう、と深夜の顔合わせは終了。寝床にもぐった俺はあっという間に眠りに落ちた。

 翌朝も夜が明ける前に目覚めた。すっかり早起きが習慣になってしまったなとか思いながら、いつの間にか部屋の外に置かれているおにぎりを手早く食べ終わる。


「おう、来たなあ。さあ卒業試験や」

 当たり前のように前鬼が刀を手に待っていた。

「えっと、アンタが相手ってことか?」

 そうやと頷く鬼。まあ、勝手に俺が思ってただけだけどさ……。なんか不公平だよな。

「何や、何をブツブツ言うとんねん。ワシを倒す、合格条件はそれだけや。お前武器はどないすんねん。相変わらず丸腰でやるつもりか? 死んでも知らんぞ」

 そう言われてもな。いきなり刀とか持っても扱える気がしないんだが。

「……どうやら、時が来たようじゃな」

 いきなり刀尋が言う。なんだよ急に。

「さあ望め、刀哉。拙者は水無藻の守護者。そして水無藻はこの国を護る、民を守る使命を持った一族じゃ。刀哉、お主は今何を望む?」

 いやだから何だよ、話デカくないか?

「かつて拙者は愛らしい羊さんであった。今はこうした姿であるが、これはお主が望んだもの。その為これまでは隣で見守って参ったが、今こそ共に戦う時なのではないか?」

 どういう事だよ。もうこれ以上頭の中に入られても困るぞ?

「なぜそう鈍いのじゃ! わかるであろう、ほれ……ほれ、アレじゃアレ」

 ほれほれとか言いながら腕を振り回しているが、わかんねえよ。何なんだ。

『時間が勿体ない。儂が代ろう』

 さやが入ってきて言う。

『刀尋殿。刀哉の……いや、我らの刀になってくだされ』

 あ、そういう事?

「うむ、刀哉と一体になっておるさや殿の望みということは刀哉の望みと言っても過言ではあるまい、心得た!」

 言うや、刀尋の姿が消えて俺の手の中に一振りの刀があった。

 これに化けたってことか。するり、と鞘から抜いてみると妙に手に馴染む。重さはあるが重すぎることもなく、手に吸い付くようにしっくりとくる。試しに片手で振ってみると軽々と振れた。

 お、これなら使えそうだと直感的に思う。

 キン、と音をさせて刀を再び鞘に収める。やば、かっこよくないか俺?

「あー、そろそろええか? やっとそいつ使うことにしたんやろ。武器はそれでええんやんな?」

 行くで、と前鬼は刀を抜き払って飛び込んできた。俺は右に避ける。空振りした鬼はすぐさま地面を蹴って鋭く刀を横払いにする。それもかなり低く、足元を狙って。

 俺はそれももちろんわかっているので刀の軌道を避けて後ろへ大きく跳躍し、相手との距離を稼ぐ。

「っっしゃらあああああ!」

 前鬼が刀を前に構えてその距離を一直線に詰めてくる。人間離れした鋭さの突き。俺はそれを避けずに鞘に入れたままの刀(刀尋)で地面をえぐって土を前鬼の顔めがけてぶつけた。

「わっぷ! 何しよんねん」

 超高速で突っ込んで来たところに真っ正面から目潰しを喰らった前鬼が文句を言う。口にも入ったみたいだな、気の毒に。

「何って、あんたがやろうとした事じゃんか」

 俺は先見でわかっていた。猪突猛進の突きはフェイク、俺が左右どちらかに避けたところへ刀で土を払って目潰ししする気だったのだ。

「ほう……おもろいなぁ。まさかここまでやるとは思わへんかったわ」

 にいっと、牙を剥き出して笑う。褒められるのは悪い気はしないが、明らかにやる気スイッチが入ってしまったらしい。

「先見はわかっとったけど、肉体強化の術式も使うとるな? お前、なんでそれを全部処理できんねん?」

 は? 何言ってんだ。

「どんだけの未来まで見とるんか知らんけど、それ全部飲み込んだ上で自分の動きを決めて肉体強化の術式展開しながら動いとんのやろ? どないな脳みそしとんねん」

 下手なこと言うと「見せてみい」とかって頭狙われそうだから無言を決め込む。ていうか俺だってわかんねえよ。何日も鬼ごっこ続けてたらこうなったんだし。

「ほんなら、もうちょい本気でやってもええか」

 前鬼の全身から放出される妖気が強まった。量もそうだが、明らかに色が暗く、それでいて光は強く。これって殺気……だよな?

 正直、尻込みする気持ちはある。だけど、

「こんなところでやられてたら、大天狗なんて相手にできねえよな」

 この戦いに勝ったら修行は終了、つまり次は最強の怨霊、魔王大天狗と戦わなきゃならないんだ。俺は、天と滝先輩が合格する事は信じていた。別に先見したわけではなく、ただ信じているのだ。

 つまり、問題は俺だ。どんだけ強かろうが、たかが鬼一匹相手に遅れをとっているようじゃ話にならない。

「ほう……たかが鬼一匹とは大きく出たやないか。ほならワシも鬼の誇りにかけてお前を殺さなあかんなぁ!」

 前鬼の全身を包む妖気が更に大きくなり、燃え立つ炎となった。炎は音を立てていくつもの剣を構えた腕に変化する。

「秘技、鬼流千手観音!」

 大量の炎の剣が一気に俺に襲いかかる。

「……ベタやけどな」

 と、前鬼が若干気まずそうに呟く。いやそういうのいいから。

 正面からだけとはいえ四方八方から一気に襲ってくる無数の攻撃は、どうやっても避けられない。先見で悟った俺は素早く後ろへ飛ぶ。

「そうやな、そうなるわなぁ!」

 自らの炎に赤々と照らされた鬼は嬉しそうに叫ぶと炎の腕を高速で回転させた。それは竜巻のようになり、一直線に俺へと向かってくる。

「うおっ!」

 俺は横へ逃れる。炎の竜巻はそれを追ってくる。まずい、攻撃範囲が広い上にスピードが速い。先見で分かっていても避けきれない。

「くそっ、距離を取るか」

 俺は後方の森へと逃げ込む。木に遮られて炎の竜巻も軌道が制限されるはずだ。

『いかん、刀哉! すぐに森から出ろ』

 さやが叫ぶのと同時に俺にも見えた。

「ド阿呆が! よう燃えるところへ逃げ込みくさって!」

 竜巻から無数の刀に戻った炎がミサイルのように俺の居る森へ撃ち込まれる。あちこちから火が出て一気に山火事に。俺は多少煙に巻かれたものの何とか森の外へ出られたが煙で目をやられた。視界が悪い。少し咳き込む。

 そして鬼がそんな隙を見逃すはずがない。

「だぁっしゃぁぁ!」

 前鬼の刀による一撃。ギリギリかわす事はできたが、その後に続く攻撃を避けるのが精一杯だ。わかっていても体が追いつかない。鬼の身体能力についていけなくなっている。前鬼の攻撃が来るたびに追い込まれていく。このままじゃやられる!

 煙で視界が悪い。目が痛い。吸い込んだせいで喉がぜいぜいと嫌な音をたてている。

『いい加減にせんか、刀哉何をしておる! 拙者を振るえ! 鬼を倒さねばお前が死ぬぞ』

 刀になっている刀尋が言う。そう言われても反撃する隙がない。

『望むのじゃ、刀哉! 拙者はお主の力になるために在るのだ!』

 それなら……

「この炎を消してくれよ!」

 矢継ぎ早に繰り出される前鬼の攻撃に向けて、闇雲に刀を振る。ぶおん、とすごい音がして突風が起きた。

「な……何やて」

 唖然とした表情の前鬼。全身を包んでいた炎が消え、無数の刀も無くなっている。

 よし、見えた!

 俺は刀尋の変化した刀を横向きに構え、身を低くして突っ込む。不意をつかれた前鬼は身をかわせず、俺の頭を狙って刀を振り下ろす。その動きも刀の軌道も俺にはわかっている。そこへ完璧な角度で自分の刀を滑り込ませるようにして弾き飛ばす。鋭い金属音を残して前鬼の刀は派手に吹っ飛び、離れた地面に刺さった。

 そのまま一気に刀を相手の首元へ突き上げ……静止。

「……ワシの負けや。お前ならひょっとしたら大天狗を倒せるかもしれん」

 前鬼は体の力を抜き、表情を緩めた。

「……合格、って事でいいんだな? そう言って油断させといてその足に隠してあるナイフで斬りかかったりしないだろうな?」

 俺は前鬼の喉元に刃を突きつけたまま言ってやる。俺がこのまま刀を引いたらコイツがやる行動を先に言っておく。嘘じゃアホ、って言いながらやるつもりなのだこの鬼は。

 前鬼は虚をつかれた顔になり、足首の小刀を放り出した。

「……これでホンマの丸腰や。ようやったな刀哉。勝ったと思った時には必ず隙ができる。そこまでギリギリのキワキワで戦ってきたんやさかい、必ずそうなる。そこもクリアしたな。合格や」

 両手をあげて、ホンマやガチやガチとか言いながら笑顔を見せる。先見でも危険はないし、何より全身の妖気がすでに緩んでいる。すでに戦う気がなくなった証拠だ。

『では儂は戻るぞ。最近留守にしすぎじゃ』

 言いながらさやが俺の中から出ていく。

「刀哉! 合格したのですね!」

 天が珍しく笑顔で走ってきた。どうやら彼女も合格らしい。

「妖刀の娘もくりあしたようじゃな」

 刀からミニサムライに戻った刀尋が言う。見ると滝先輩は対戦相手の後鬼と並んでこちらへ歩いてくるところだった。

「刀哉、さっきの刀……刀尋が化けていたのですか」

 天が興味深そうに言う。明らかに目が輝いているので、どうやらこういうのも好きらしい。

「どうやら全員合格のようやな」

 よしよしとか言ってる前鬼の横に後鬼が並ぶ。なんだ、卒業式でもやるのか?

「自分ら全員、ようやった! この勢いで大天狗いてこましたれ……って何や?」

 隣の後鬼が前鬼の袖を引いている。

「ああそうか……そうやな、修行は終わりやさかいな」

 と、彼女の顔のお札をはがす。現れた素顔は……え、普通に可愛いんだが。

「あ、あの……皆さま五日間お疲れ様でした」

 頬を少し赤らめながら言う。かなり舌足らずなので実際には「みなしゃまおちゅかれさまでした」という感じに聞こえた。

「え……後鬼さん可愛すぎ……」

 ずっと戦い続けてきた滝先輩が両手で口を押さえて言う。

「あー、まあこないな感じやからな。札で封じとかんと修行にならへんねん」

 なるほどな。

「おお、皆揃っておるな。もうすぐ迎えが来るぞ」

 石塚とさやもやってきた。先見でナデシコが来るのを知ったのだろう。

 いよいよだ。遂にあの大天狗と戦うのか……。俺は体の底から震えが起こるのを止められなかった。

 これは武者震いだ。

 そう、自分に言い聞かせた。前の俺とは違うぞ。見てろ。

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