二章「金槌坊/大地打」
「おお、目覚めたか刀哉。拙者はどうもこのすまほ、という奴の出す音が苦手でな。できれば鳴る前に起床してもらえると助かる」
わいら退治の翌朝である。
なし崩し的に関わってしまった、SNKという部活。見学のつもりが俺自身も異能の力(笑)ってやつが目覚めてしまった……いや笑い事じゃないなマジで。昨日は疲れ切って母さんと顔も合わさずに寝てしまったけど……
「ほれ、何をしておる。すまほを止めぬか。それは起床のための合図の鐘であろう? 無用の音は鳴らさぬに限るではないか」
目は覚めているが、身体的なものか精神的なものなのか起き上がる気になれず、布団に入ったまま天井をにらんでいる状態である。そこへ枕元でふわふわ浮かんでいるオッサン侍がアラーム音を鳴らしているスマホについて文句を言っているのだ。
「はあ……」
なんか、目が覚めたのにまだ夢の中だった、みたいな気分だ。
「どうした刀哉。体調が優れぬか? 昨日はいきなり能力を使ったからな、致し方あるまい。では今日は学校は休みにして……」
いやいや。
「そんなわけにいくか。妖怪退治で疲れたので休みますなんてわけにいかねーだろ。大体、母さんになんて言えば……」
刀尋に抗議しようと体を起こし、そこまで言ったところで気がついた。俺の能力は子供の時からのもので、それを封印していた。つまり、母さんは知っていたって事だ。
「……なあ、刀尋」
「うむ、どうした」
「母さんは、俺の能力を知ってるんだよな? ていうか俺に隠してたんだよな」
自分でもコイツに何を訊きたいのかよくわからないまま、質問を口にした。
「自明だな。本人に訊くが良かろう。父親のことも含めてな」
そうか、父さんもこんな能力があったってことか? あれから少し思い出してきたけど、あの時……櫛木みやに会った日、あのお屋敷に俺は父さんと二人で行ったはずだ。
覚悟を決めて俺はダイニングキッチンへ向かう。
「母さん……何これ?」
食卓の上に置かれた赤飯を見た俺は思わずそう訊いた。
「だって刀哉がやっと自分の能力を思い出したんでしょ? やっぱりお赤飯かなって」
味噌汁のネギを刻みながら母上はそうおっしゃる。
「いや、なんていうか……めでたいことなのか?」
ツッコミどころに困った俺は歯切れが悪くなる。
「とりあえず食べなさい。あまりのんびりしてると遅刻するわよ」
と、味噌汁の椀を俺の前に出してくれる。いただきます。
「……ねえ。刀哉はさ、自分にそういう力があるって知って、嫌だった?」
すとん、と俺の正面に腰をおろして母さんは言う。
「いや、なんて言うか……俺にそういう能力があるってのは、いざ思い出してみるとすごく納得できるって言うか。ああやっぱりそうだったのかっていう気持ちもあるんだ」
そういう意味では当然の事として受け入れているというか。
「……母さんはね。昔、妖怪に殺されかけた事があったの」
なんか急にすげえ告白きたけど。
「それを助けてくれたのが、お父さん。刀毅さんはあまり能力は強くなかったから、妖怪退治チームの中ではサポート役だったんだけどね。でも、あの人がいなかったら多分、母さんはあの時死んでた。ワンチャン廃人で済んでたかもしれないけど」
ひでえ二択だ。
「刀毅さん、結婚する前に言ったの。子供が産まれたら自分と同じような能力があるはずだって。水無藻は遥か昔から異能の力を引き継いできたから。自分みたいに弱い能力でも普通の人のようには暮らせない、きっと大人になるまでに辛い選択をさせる事になるって」
淡々と話してる母さんがさっきから必死で涙を堪えてるのがわかった。
「普通、十代初めから半ばくらいなんだって。異能に目覚めるのは。個人差はもちろんあるけど、でも刀哉は生まれた時から怪異を視る力があったの。それも、異常に強い力が。怪異を視れるだけじゃなく、それを現実に実体化させるくらい……」
そんな子供ほっといたらすぐにあの世行きだな。色んな意味で。
「それで、櫛木さんに頼んで能力を封じてもらったの。もう少し大人になるまで普通でいられるようにって……あ、別に刀哉が異常とかそういう訳じゃないけど」
実の息子に気ぃ使うんじゃねーよ。
だから、と母さんは俺が知る中で二番目くらいに悲しそうな顔になった。
「もし刀哉がその能力を持っているのが嫌なら、それは母さんのせい。お父さんはちゃんと注意してくれたのに、それでも子供を欲しがったのは私だから……ごめんね」
いや待てって。
「あのさ……朝っぱらから飯食いながら母親の泣き顔なんか見たくないんですけど?」
「ちょっと、母さんまだ泣いてないでしょう!」
いや泣いてるようなもんだろ。
「まあなんつーか。俺もこれからどうなるのかわかんないけど……でもとにかく今のところ生まれてきた事を後悔した事なんてねーし」
何言ってんだ俺は。
「うん、そうだな。少なくとも生まれてきて良かったと思ってるからさ」
俺の煮え切らない言葉に母さんは表情を明るくしてくれた。
「なら良かった。早く食べちゃいなさい」
そそくさと流し場へ戻って洗い物を始めた。
「拙者も安堵したぞ。お主が能力を否定してしまったら立つ瀬がないにも程があるからな!」
ああそうかい。そりゃ良かったよ。
「学校で仲間もできたんですって? 昨日刀尋さんから聞いたわよ。可愛い女の子ばかりだって」
何言ってんだコイツ。 ……ていうか。
「母さん、刀尋の事見えるのか?」
コイツは能力のある人間でないと見えなかったはずだ。そうでないと昨日の帰り道ですれ違った人全員に視力検査をお勧めしなくてはならなくなる。
「ああ、拙者がそう振る舞っている故な」
刀尋はわざと相手に気づかれるようにする事ができるらしい。そうすると能力のない人にもぼんやりした光の塊くらいには見えるようになるそうだ。
「とは申せ、拙者の言葉を聞き取れるのは微弱ながら能力のある証であろうな」
話は変わるが、とか刀尋が続けようとしたが、
「もうこんな時間じゃない! 早くしなさい刀哉」
という母さんの言葉に俺は慌てて茶碗の赤飯をかきこんだ。
「おい水無藻、昨日はどうしたんだよ! ずっと既読つかねーし、拉致監禁でもされてんのかと心配してたんだぞ?」
朝イチで中村に捕まった。校門をくぐって歩き出してすぐのタイミング、きっと俺のこと待ち構えてたんだろうなと思った。
「で、どうなったんだよあの倭って娘と? ちょっとアレな感じだけどルックスはかなりイケてる彼女と、どこまで行ったんですかぁ?」
さっき心配してたって言ってなかったかお前?
「あのなあ。天は俺を部活に勧誘してきたんだよ。信じらんねーかもしれねーけど……」
何しろ能力のない人には見えないモンと戦ってきたわけだしな。
「え! 天って、お前名前呼び? 呼び捨て? マジで? なんだよもう捨てちゃったのかよ!」
お前大声で何言ってんだ。さっきから周囲の視線がこっちに集まってきてんだよ。
「いや違うって! その部活の顧問がナデシコなんだよ。それで天は妹で、どっちも倭だから」
「姉妹両方と、だと……! 水無藻お前」
お前絶対わざとだろ!
そろそろ本格的に周りの目が気になってきたので強制的に黙らせようと決心した時。
「おっはよー、後輩くんっ! 昨日はお疲れだったねー!」
後ろから凄い勢いで背中に抱きついてきたちっこい先輩。
「巴先輩! ちょっと何やってるんすか」
桜並木道の生徒の流れの中で完全に悪目立ちしてしまった。
「何って、可愛い後輩とのスキンシップじゃ〜ん。またまたそんな事言って嬉しいくせに、うりうり」
とか言いながら肘で脇腹をグリグリしてくる。やめてくれ、そこは弱いんだ。
「てか、そんな事より!」
と言って、急に怒りの表情になる。なんなんだ一体?
「巴先輩ってなんなの! 絹お姉様と呼びなさいって言ったでしょ!」
そう言えば昨日言ってたな。いや呼ばねーよ。
「絹って名前あたしは好きなのにさ、誰も呼んでくれないんだよ! ねぇお願いだよぅ。後輩くんは呼んでくれよー」
なぜか懇願口調になる先輩。あのー、と恐る恐る中村が口をはさむ。
「あ、後輩くんの友達かな? 巴ですよろしく」
「中村っす。よろしくお願いします」
だからさあ、と再びこちらに矛先を向ける。じゃあ俺先行ってるわ、と関わり合いになるのを恐れたか中村は足早に立ち去ってしまった。
「絹って呼べよー。なあいいだろ兄ちゃん減るもんじゃねーし」
なんだよそりゃ。減らなきゃいいってもんでもねえだろ。
ねーねーと腕にすがってくる。いやマジでやめて下さい当たってますから。
「じゃ、じゃあ絹先輩……でいいすか?」
俺の妥協案にちょっと眉根を寄せた彼女はすぐに表情を明るくして、
「オッケー。それで手を打とう! じゃーねトーヤ。また放課後部室で!」
そう言い残して走り去った。ちっこいくせに足速いな。
俺は、あえて何事もなかったような顔をして歩き出した。
「刀哉、お主女難の相が出ておるぞ」
今まで我関せずって顔して黙ってた刀尋がニヤニヤしながら言った。うるせー。もうお前なんか友達じゃねえからな。
まだ入学して三日目で知人が少ないのが功を奏したか、その後話しかけられる事もなく正面玄関までたどり着いた。朝からなんでこんなに疲れてんだよ……。
ため息をつきながら自分の靴箱を開けて驚いた。
「なんだこりゃ……」
思わず呟いたのが小声で良かった。周りに知り合いが居なくて良かった。中村が先に行ってて良かった、と色々なことに心から感謝した。
「ん、なんじゃこれは。当世にしては珍しいあなろぐな文ではないか。なんと申したか……物理れたーであったか?」
横から覗きこんだおっさん侍が訳のわからんことを言うのは無視して俺はとりあえず下駄箱の中の手紙を人に見られないように急いでカバンに突っ込んだ。
「どうした刀哉。果たし状か?」
かもな、と小さく答えて俺は男子トイレへ。
「む、厠か。では拙者は外で待っていよう」
刀尋にはこいつなりのパーソナルスペースというのがあるようで、トイレと風呂にはついて来ないのだ。俺は個室で下駄箱に入っていた手紙を取り出す。
飾り気のない白無地の封筒だが、和紙か何かの高級な素材で出来ているようだ。そこはかとなく気品というか威厳のようなものが感じられる。表には綺麗な毛筆で水無藻刀哉様と記され、裏返すとそこには櫛木みや、と差出人の名が。銀髪の幻想的な雰囲気のお嬢様の姿を思い出して俺は正直、ちょっと鼓動が速くなった。
「いや、誰かのいたずらってこともあるしな」
今時下駄箱にラブレターなんて二十世紀じゃあるまいし、と思うがガチのお嬢様らしい彼女なら逆にあり得るような気もする。いやそもそも相手のアドレスも知らないんだからこうして手紙を渡すか、周りの視線を気にせずに直接話しかけるしかないわけだし、ひょっとしたら今もわりとこういう手段はアリなのかもしれん。
……どうなんだろうか? いや、ていうかどうでもいい。それより中身を確認してみなければ。なるべく丁寧に封筒を破いて中身を覗いてみると、折り畳まれた紙片が入っているだけだった。さっと目を通して元通りにカバンへしまい込む。あまり遅くなると刀尋や中村が怪しむかもしれん。
「とりあえず放課後、だな」
用は足してないが手を洗いながら呟いた。
極力存在感を消しつつ無心で歩いて教室にたどり着いた。教室に入って周囲を窺ってみるが特にこちらを注目しているクラスメイトは居ない。
窓側の内部生グループの中で、倭天は無言で無表情ないつもの姿勢で自分の席に着いていた。挨拶くらいしたかったのだが、何を考えているのかまっすぐ前見てるだけの彼女はこちらに気付きもしない。
近くまで行って挨拶するのもちょっとな、と思っているうちに「よお、お疲れ」と中村が話しかけてきたので自分の席に着く。そのまま雑談するうちに始業の時間になった。
正直、授業は上の空だった。元々学業に熱心な方ではないが今日は特に。何せ生まれて初めてもらったラブレターらしき代物だ。気にならないわけがない。時代錯誤なそれには格式高い文章で、いきなり手紙出してごめんなさいって事と放課後に第二視聴覚室ってところに来てほしいと書かれていた。そして最後に櫛木みやの署名。めっちゃ達筆。
中村にバレないように調べて第二視聴覚室の場所をチェックした。この教室のある校舎ではなく、音楽室や図書室などの教室が集まっている特別室棟にあるらしい。ナデシコの美術室もそこにあるので行ったことがある建物だった。
そして放課後。中村には用があるからとだけ告げて逃げるように教室を出てきた。横目で確認すると天が席から立ち上がってこちらを見て何か言いたそうにしていたが、気づかないふりをした。
「刀哉、どうした。山に行くのならあの娘と一緒の方が良いのではないか?」
ああ何かお札必要だったもんな。けど俺は今日もSNKに顔出すなんて言ってないぞ。まだ入部するとも言ってないし……いやこんなの引き連れてる奴がなに言ってんだっていう気もするが。
刀尋がなにやら言ってるのに適当に返事しているうちに校舎を出た。
「悪いけど先に部室行っててくれるか」
色々考えた結果、いっそストレートに頼んでみることにした。
「む、どうしたのだ。先に行くのはやぶさかではないが……」
首をかしげるミニ侍。
「何も聞かずに俺を一人にしてくれ」
なんだかんだ言って長い付き合い。最近まで見えてなかったとは言え、信用できる相手……のはずだ。
素直に聞き入れてふわふわと飛んでいく刀尋。その背中が寂しそうに見えてしまい、ちょっと悪いことしたか、という気になる。
……いや、それより急ごう。手紙には時間は書かれてなかったが相手を待たせていたら悪い。俺は特別室棟に向かって歩き出した。いや別に期待なんてしてないけどさ。だから早足になんてならないからな。
第二視聴覚室のドアを開けると、銀髪の美少女が居た。
「刀哉様……!」
俺の顔を見て椅子から立ち上がった彼女は表情を輝かせた。
「あ……えっと」
と、刀哉さま!? お嬢様ってやっぱりそういう呼び方が普通なのか? 思わず口ごもってしまった俺に、櫛木みやはちょっと表情を曇らせた。
「あ……あの、ご迷惑……でしたか? いきなり不躾な呼び出しなど……」
胸の前で両手を組み合わせて、祈るように目を伏せる。長いまつ毛が青みがかった灰色の瞳に影を落とした。絵画のような、なんて陳腐な表現が脳裏に浮かぶ。
「いや、別に迷惑ってわけじゃ」
「本当ですか!」
食い気味に目を輝かせて言葉を被せてくる。ええとまあ、本当だけど。
「良かった……」
と、自分の胸に両手を当ててお上品な安堵のポーズを見せる。
「長い、長い十年でございました。あの日、大天狗に攫われたわたくしを助け出していただいたあの時より、水無藻刀哉様……貴方をお慕い致しておりました」
舞台劇みたいに大仰な動作で自らの心情を吐露する。この娘ってこんなキャラだったのか。
正直だいぶ痛いのだが、何しろ見た目が二次元じみた美少女だからサマになっているのでリアクションに困る。
……ん? オシタイイタシテオリマシタ?
いやいやまさか、聞き違いだろうと思うが、お嬢様は両手を組みあわせてお祈りのようなポーズでズイズイと迫ってきた。
「あの、刀哉様には意中の方など……?」
物理的に距離を詰めて核心をついてくる。
まさかのストレートな展開だ。いやだって、下駄箱にラブレターだぞ? そんな昭和のマンガみたいな前フリなら当然肩透かしに終わると思うじゃんか。
「あー、いやあの。意中っていうか……その、ちょっと突然すぎてなんだか」
とりあえず時間を稼いだ方がいいんじゃないか、と俺は逃げの手をうつ。下手なこと言うと取り返しがつかない事になりそうな気がする。
俺の煮え切らない言葉に、櫛木みやは大きな形の良い瞳を更に見開いた。
「突然……そうで、ございますね。刀哉様にとってはそう感じられて当然ですわ。倭のおじさまが記憶を封じていたのでしたね」
そうそ、そうわよ。昨日までは普通の人のつもりだったんだよ俺も。
「あの、刀哉様……もしよろしければ日を改めて、またお会いいただけませんか? 少しずつ時間をかけてお互いを知り合っていけばきっと」
控えめな口調でまたグイグイ来たぞ。
「あー、うん。そうだな、えっとまあとりあえず」
態度を決めかねて時間稼ぎに全力を尽くそうとしていると突如、ドアが乱暴に開かれた。
その男は入室するなり勢いよく櫛木みやに詰めよった。
「みや! 何をやっているんだこんな……男と二人きりだなんてふしだらな」
血相を変えてそう言うのは副担任の石塚だった。
え。何これ、どういう状況?
「お兄様、わたくしはただ、刀哉様に自分の気持ちをお伝えしていただけです!」
どストレートに言い返す彼女に石塚は眉を顰める。
「いいかいみや、お前は櫛木家の跡継ぎ、いずれはこの国の行く末を左右する立場に就く身なんだ。それはわかるね?」
ん? 石塚が兄? ……そう言えばあの時の。
「後ろからずっとついて来てた人!」
思い出した、あの日俺たちを尾行してた兄貴だ。それが何で石塚なんて偽名使って教師やってんだ? 妹のストーカーかよ。
「水無藻の小僧、記憶が戻ったのだな。知らないなら教えてやる。お前らとみやが接触するのは危険だ。能力者は怪異を引き寄せる性質もあるからな。だからもう妹には近づくな。いいな? さあみや。行くよ」
一方的にそう言った石塚は、みやの腕を掴んで連れ出そうとする。ちょ待てよ、と俺が言うより早く、
「ちょっと待ったぁ!」
聞き覚えのある声と共に、開けたままだったドアから数人がどやどやとなだれ込んできた。
「話は全て聞かせてもらったぞっ! その手を離せシスコン教師!」
先頭に立って啖呵を切ったのは絹先輩だった。隣にはうむうむと頷きながら宙に浮かんでいる刀尋。その後ろに滝先輩と天。
「せっかく面白いところだったのに……じゃない、いくら兄だからって妹の行動を縛る権利なんてないはずでしょ!」
後ろに隠れるようにして身を縮めている滝先輩も小刻みに首を縦に振っている。まあ俺もそこは同感だが。
「話は全て……って、もしかして覗き見してたんすか?」
問題はそこだ。
「可愛い後輩を心配して見守っていただけよ!」
まったく悪びれずに言う絹先輩。
「うむ。しかも刀哉のぷらいばしぃに配慮して、別室にて言ノ葉の力で声を聞いていただけであるからな!」
むしろ褒めろと言わんばかりの刀尋。いやそれ盗聴っていう犯罪だからな?
盗聴の実行犯である天は相変わらずの無表情で、まるで無関係のような顔をしている。
「部外者は黙っていてくれ。お前らも知っているだろう、妹のことは」
彼女の腕から手を離さずに石塚は言う。
「その……大天狗のことでしょうか」
おずおずと滝先輩が声をあげるのに石塚は頷く。
「そうだ。お前らと関わって刺激したくない」
「何よそれ、あたし達が悪いみたいに! そもそも大天狗に狙われるのは櫛木家の血筋のせいなんでしょ? こっちのせいにしないでよ」
石塚の言葉に絹先輩が噛み付く。
「別にお前らのせいになどしていない。ただ、こちらの迷惑になるから関わるなと言っているだけだ」
神経質そうにメガネの位置を直しながら言う頬を妹の平手が打った。
「な……みや、お前」
「お兄様。この……ええと、団体の名称は存じ上げませんが、この方達は日々怪異と戦っていらっしゃるのでしょう? それも大した見返りもなしに、ただ自分たちに異能の力があるからというだけの理由で。そんな方々に対してあまりに失礼な物言いです。どうぞ謝罪なさって下さい」
「いや、彼らの活動に関してはもちろん認めているが、僕はただお前の安全をだな」
随分とトーンダウンした石塚の言葉に耳を貸さずにみやはもう一度、謝罪をと繰り返す。
「……失礼なことを言ったことに関しては謝る。だが、それと妹の身の安全を守ることは別だ。兄として、櫛木家の一員として、みやが君達と関わるのを認めるわけにはいかない。……みや。これは、お母様も同意見だ」
母親と聞いて彼女の表情が変わる。態度が目に見えて軟化した。少しの逡巡の後、兄の言葉に頷く。
「皆さま、失礼致します」
深々と頭を下げて出て行く銀髪美少女と平凡な風貌の兄。
その後に残されたSNKの面々の間に、微妙な気まずさが漂う。
……いや、俺はまだ入部したわけじゃないんだが、括りとしてはこっちかなと思っただけで他意はない。
「おい、お前らはいつまで油を売っているんだ」
第二視聴覚室の扉が無遠慮に開けられ、ナデシコが顔を見せた。
「元々、連絡事項を伝えてもらうはずだったのよ。てんちゃんに」
急げ、というナデシコの言葉に従って部室のある裏山へ向けて移動しながらの会話である。
「そしたらトーヤ、慌てて教室出て行ったって言うから。もし部室に行ってたら危ないから追いかけたの。そしたら刀尋のおじちゃんが一人で居たのよ」
それで何で盗聴してたんだよ。
「だって……気になるじゃん!」
まったく……いや、何か今気になること言ったな? 部室が危ないとか何とか。
「ああ、部室が妖怪に乗っ取られている」
前を向いたままナデシコが言う。乗っ取られて……? 俺の頭の中に昨日見た部室の内部が魔窟と化した様子が浮かんだ。
「いや、立てこもりと言った方が正確かもしれないな」
正直、とナデシコは言葉を続ける。
「大した怪異ではないとは思うんだが……実際に相対した記録が現存しないマイナーな妖怪というのはどうもな。昨日のわいらといい、ここのところ妙な具合だ」
妖怪に自分たちの部室を乗っ取られたにしては危機感の感じられない口調のナデシコに、当然気になるであろう事を部長が聞く。
「先生、あの……どんな妖怪なんですか?」
滝先輩の質問に、ナデシコは煮え切らない返事をする。
「確証がないんだ。九分九厘アレだろう、とは思うんだが……。万が一違った場合、間違った対処法を選んで取り返しのつかない失策を犯すかもしれないからな。先入観なしに相対してもらった方がいいと思う。それに……」
それに?
「『視る』事が得意な新人の力を見せてもらいたいしな」
と、俺に流し目をくれる。本人は多分、軽口をきいたつもりなんだろうが無表情な美人のそれは正直、若干の恐怖を感じさせるものだったので、はい頑張りますなんてつまらない返事をしてしまった。
「どう? なんか視える?」
いやまだ外だし。
学校の裏山、部室を視界に捉える位置。目測で十メートルくらい離れた場所から無愛想なコンクリつくりの小屋の様子を窺っているところだ。
「えー、だってトーヤすごいんでしょ? 昨日だってあたしらの視えないもの視えてたし」
そう言われてもな……期待に応えてみようと部室に意識を集中してみたが何もわからん。
「……先生、室内に入っても大丈夫なんでしょうか?」
滝先輩の言葉に、ナデシコは妹に問う。
「天、どうだ言ノ葉で探れるか」
やってみます、と例のお札を取り出す。そこにある文字は『探』。青白く輝き、宙に消えた。
「……既にこちらに気付いて警戒しています。正面から侵入すれば攻撃を受ける可能性は高いかと」
「そうか、やはりな……」
では、とSNKメンバーに指令を飛ばす。
「各自、充分に注意して入室する事」
え、それでいいの? ツッコミどころかと思ったのだが他の皆は頷いて自分の武器を用意したりしているのでどうやら俺が間違っているらしい。すると刀尋が口を開いた。
「あの小屋は窓がない。中に入るには正面の扉から入るしかないのだ。無論、物理を無視して壁をくぐるのも娘たちなら可能であろうが……小屋の結界はなかなか厄介な代物。込められた呪力はそう大きくはないが、術式がなんとも複雑で捻くれておる。あれを解きながら侵入するとなるとそちらにかなりの力を削がねばならぬ故、もののけの攻撃をまともに喰らうやも知れぬ」
あの部室もやっぱり結界が張られてるのか。
「要は、正面から警戒しつつ行くのが上策という事になるな」
なるほど。
「水無藻。護身用に持っておけ」
ナデシコが何やら黒い箱みたいなものを渡してきた。そこそこ重くて厚みのあるスマホみたいだが。
「何すかこれ?」
「呪力が遣えない者にも簡単な攻撃術式が擬似的に組める……いや。簡単に言うと、武器だ」
へえ、とスマホっぽい武器を起動してみる。画面に指紋マークが出たので指を当ててみた。
「そこから、攻撃対象に向けてフリックしろ」
言われた通りに操作すると、俺の指先と画面の間から赤い光の玉が飛び出して少し離れた木に命中した。
「おお、すげえ」
ナデシコは、あとは習うより慣れろと簡単に説明を終えた。
「水無藻刀哉さんは私たちの後ろに。危ないと思ったらすぐに逃げてください」
天が言う。この中で俺は素人だ、足手まといにならないようにしないとな。
「……刃に宿りし荒御魂よ、その魂を鎮め我に力を与えよ。まもりたまえ さきわえたまえ 我が名は……魔導歌」
滝先輩は例の呪文のようなものを唱えてから「抜刀」とつぶやいて刀を抜いた。
「あの刀はね。この国で一二を争う危険な妖刀なの。パイセン以外が手にしたら、一般人なら即死。あたしらでも危ないから、トーヤは触っちゃダメだよ」
絶対触りません。
「その分、力はすっごいけどね。しかも自分の呪力は刀を制御するためだけに使えるし」
その物騒な刀を構えた滝先輩を先頭に、絹先輩と天が後衛につき、その後ろに俺がついていくという布陣である。その更に後ろには入室する素振りを見せずにナデシコが控えている。
「あの……水無藻くんも先生と一緒に外で待っていた方が良いのでは……?」
滝先輩の言葉は、それでは彼の目が活かせない、というナデシコの一言で退けられた。
まあ確かに、何のためにここまで来たのか、って話ではあるな。
「……じゃあ、開けますよ?」
滝先輩が片手を部室のドアノブにかけて全員に確認する。
無言で頷く天と絹先輩もそれぞれ弓とお札を手にして表情に緊張を滲ませている。
ガチャリと音を立てて扉が内側に向けて開いていく。窓のない室内は暗く、そこへ今開いたドアの隙間から陽光が入り込む。
光から逃げるように、小動物のような影が部室奥の闇へ逃げ込んだ。
「今のは……」
中型犬くらいの大きさの、短い茶色の毛に覆われたイタチのような動物。今回は他の人にも同じように見えているらしい。
どうやら向こうから攻撃をしてくる気配はなさそうである。絹先輩が半身を部室内に入れて壁にある照明のスイッチを押した。
「あれ?」
カチカチと音はするが室内は暗いままだ。
「送電線でも噛みちぎったのでしょうか。また修繕費が嵩みますね」
後方に控えた顧問は、いいから集中しろと手を振る。
「水無藻」
ナデシコが何かをこちらへパスしてきた。俺は受け取った小型の懐中電灯で室内を照らす。揺れ動く丸い光が小動物型の妖怪を捕らえた。
「そこの角!」
俺の言葉に滝先輩が刀を構えるが、すばしっこい妖怪は部室の闇に再び隠れてしまう。
「水無藻、巴、下がれ。天、言ノ葉で室内を照らして、滝の援護に回れ」
え、と戸惑う俺の腕を絹先輩が引く。
「ボヤボヤしない! 戦場なんだよここは。指揮官の指示があったらすぐ行動しないと全員が危険になる事もあるんだから」
なんだよ、今日はずいぶん優等生じゃんか。
「室内では、小うるさい娘の弓は扱いづらい故な。妖刀遣いの娘を攻撃の要に置いて、言ノ葉遣いの娘に灯りと防御を任せるのは適材適所と言うべきであろう。どうやら妖は」
と、刀尋は言ノ葉で明るくなった室内を指さす。
「一匹だけのようであるしな」
テーブルの足の影から奥の食器棚の裏へと走る茶色い動物のような妖怪。
ほら早く、と促されて部室から離れてナデシコの近くへ。
「センセ、あたしはどうしたらいいの?」
バッグからノートパソコンを取り出して何やらやり始めたナデシコに絹先輩が聞く。
「抉奪の弓を用意。部室から対象が出てきた場合に備えて、状況に応じて『散』で足止めか『貫』で狙撃か、どちらでもいけるように呪力を練っておけ」
はい、と素直に頷き朱塗りの弓を構えた先輩。俺は二十メートルほど離れたここから部室の中の様子を見ようとする。
室内は言ノ葉の力で明るくなっているが、それだけだ。窓のない質素な室内で部長と同級生が立てこもりの獣と相対している背中が遠目に見えるだけ。俺の妖怪を視る能力ってのはどの程度なんだろうな。遠くからでも隠れている妖怪を見つけたりできれば役に立てるだろうに……
「水無藻、腕が疲れた。代わってくれ」
ナデシコがノートPCを渡してくる。立ったまま構えてるのは確かに疲れるだろう。
PCのディスプレイの中央に開いたウィンドウに部室の中の様子が映し出されていた。どうなってんだこれ。室内にカメラでもついてるのか?
「あの部室内は呪力的にこちらの管理下にある。物理ではなく呪術の縁結びによる効力でここに映し出している状況だ。つまりこれは映像ではなく現実の光景がそのままここにも在る、という事だ」
うん、わかんないっす。つまりカメラとかじゃないって事だな。
「それじゃ見えないだろう。二人の背中から写すように調整しろ」
後ろから画面を覗き込んだナデシコが注文をつける
へいへい。俺はタッチパッドを操作して映像を調整する。3Dゲームの要領で動かしていくと、結構ヌルヌルと動いて滝先輩と天の背中を捉えた。小さな標的がチョロチョロと動き回っているので、なかなか斬り込めないようだ。
「ほう。なかなか巧いではないか」
隣で浮かんでいる刀尋に褒められた。ありがとよ、まあ現代人なんでね。
「もうちょっと下げてよ、見えないじゃん」
いつの間にか後ろにやってきた小柄な絹先輩が言うが、それってかなり体勢きついんすけど。
「巴。お前は呪力の準備をして待機していろ。端末操作と室内の様子を窺うのは水無藻に任せておけ」
無表情でナデシコが指示するのに、なぜか絹先輩は妙に納得したような顔になった。
「なるほど、了解。じゃあトーヤしっかり視てるんだよ?」
そう言って弓を構えてこちらに背を向けた。
画面内に動きがあった。滝先輩が妖怪に向けて踏み込み、刀を一閃させたのだ。
しかし刀は空を切り、物陰に隠れているらしい小型の妖怪は姿を見せもしなかった。
チッと大きな舌打ちがした。振り返ると美術教師の不機嫌そうな無表情。この人バトルになると眼鏡かけるんだな。
「ずいぶん出力を抑えているな。どうせ滝のことだから室内を傷つけないようにとでも考えているのだろうが……部室ごと吹き飛ばす勢いでやってやればいいんだ」
いや流石にそれはやり過ぎでは。
「ほう、あの娘の刀はそこまでの呪いが込められておるのか」
刀尋の呟きにナデシコはちらと視線をやっただけで何も答えなかった。代わりに絹先輩が言う。
「由来もあんまり語っちゃいけないくらいにヤバい刀なんだって。まどっちは全部追体験してるはずだけど、一言も教えてくんないね」
ふむ、と刀尋は頷き、
「刀哉。あの刀に宿っている呪力は何色じゃ」
「ん? 紫だろ。かなり濃い」
そうか、と何やら納得した様子のサムライ。
「呪力の視覚化にはそもそも能力が必要であるが、更に色彩が見分けられるのだ、お主は」
ややドヤって言う刀尋。じゃあ他の人は色はわからないのか。
「そーだね。ただ光、ってだけかな。光の強さはわかるけど……ってか、おじちゃんわかってたんだトーヤの能力」
「無論じゃ。お主らはその辺りを試すために刀哉に監視をさせたのであろう?」
まあね、と視線は部室の入り口に向けたまま絹先輩が答える。モニターの中はまだ膠着状態を保っている。
「どうじゃ刀哉、あやかしの妖力は視えるか?」
刀尋の言葉にモニターに目を凝らしてみるが、
「うーん、光ってるのはわかるけどな……」
妖怪が隠れているあたりから光が漏れているのはわかるが、ただの白い光にしか見えない。
「まあ、妖力も呪力も常に強く放たれている訳ではない故な」
気にするでない、とか言ってる刀尋にちょっと気になった事を訊いてみる。
「妖怪は妖力、なんだな。で人間は呪力っていうのか。なんか、呪いって悪い力みたいだよな」
俺としては霊能力とか、そういう言い方の方が聞き覚えがあったんだが。刀尋は宙に浮かんだまま腕を組んで首を捻る。
「うむ、古よりそのように呼び習わすものであるな」
気になるなら説明してやるからモニターから目を離さずに聞け、とナデシコが口を開く。
「呪力というのは生まれつき人間が持つ力だが、本来それを使って何かをするようなものじゃない。放っておけば人体からゆっくりと排出されて自然に還っていく。それを自分の中に留めて濃度を上げて練り上げ、術として利用するのが呪術だ。人間が使うべきではない力、という事だな」
そういう事か。つまり禁忌の力を使っていると。
「邪馬台国の女王、卑弥呼は『鬼道』で民を惑わしたという。諸説はあるが、彼女がシャーマンのような能力で国の行末を決める指導者であった事は間違いないだろう。現在の占いなどという生やさしいものじゃない。一国の未来を決めるんだ。ヒトの為せるような業じゃなかったろうな」
普段通りの無表情だが、どこか熱を感じさせる口調で言う。
「ヒトの領域を超える者には尊敬や畏怖だけでなく忌み嫌う感情も起きただろう……滝の無銘の妖刀や、巴の抉奪の弓を『呪器』と呼ぶ。人間が体内に貯めておける量を遥かに超える呪力の込められた武器だ。その呪力がどうやって宿ったか、どういう種類の力なのかは様々だが、呪器は使用者を自ら選び、他の者には使えない……どれだけ望もうとな」
言葉の最後になんだか憂いの雰囲気が漂っていたように感じてナデシコを顧みる。
「ちゃんとモニターを視ていろ。別に大した事じゃない。いくら名前に言霊を込めようとも選ぶのは呪器というだけの話だ」
その時、モニター内の画像に変化が。
「お、出てきた」
食器棚の影に隠れていた妖怪が姿を表す。
キキッ、と甲高い鳴き声をあげたそいつは、それまで獣らしく四本足で立っていたのだが、急に後ろ足だけで立ち上がった。顔は口の部分が鋭く尖って前に出ており、鳥のくちばしのよう。そして二本足になった事で自由になった前足……いや、手と言った方が正しいか。その手には金槌が握られていた。妖怪の背丈くらいある、体の割にデカいトンカチだ。
その姿を見て、やはりとナデシコ。
「金槌坊で間違いないな」
何それ、聞いたことないと絹先輩が弓のつるを弾きながら言う。
「ほとんど情報のない妖怪だ。金槌を振り上げた姿を記した絵画が残されているだけで、どんな怪異なのかまったく記述がない。世間一般だけでなく、呪術者にも知られていない謎の妖怪だ。知られていないという事はこれまでに実害が出ていなかったという事だから、情報のない相手は無害であったり力の弱いことがほとんどなんだが……」
だが? 思わせぶりに言葉を切ったナデシコ。
「天、滝。距離を取れ。金槌坊とほぼ同じ外観で、同じく情報のない妖怪がもう一匹いてな。そいつの名は大地打」
どうやら呪力的なサムシングでスマホに向けて発した声が届いているらしく、慌てて部室の入り口付近まで後退する二人。それを追いかけるように金槌坊が振り上げたハンマーを部室の床に叩きつけた。
板張りの床が乾いた音を立て、床の基部のコンクリートがわずかに震えた。
「なんだ、そんなにパワーがある訳じゃ……」
言いかけた俺の声にナデシコの切迫した声が被さった。
「気をつけろ、まだ居るぞ!」
妖怪をスマホの画面で確認したらしい。その声に合わせるように棚の影からもう一匹、金槌を持った小動物じみた妖怪が部室内に現れた。最初から居て隠れていたのか、それとも増えたのか?
左右に分かれた二匹が交互に部室の床を打ちつける。甲高い打撃音がカンカンと響く。
「天さん、下がって下さい。一匹ずつ斬ります。援護をお願いします」
滝先輩が妖刀を構えて一歩前に出る。
「ん? ……ちょっと待って。この音、増えてない?」
絹先輩が周囲を見回して言う。俺も実は思っていた。徐々に音が増えているのだ、部室の中だけじゃない。大地打の名の通り、地面を叩く鈍い音があちこちから聞こえてきた。一体何匹居るんだ?
「な……何だこれは。怪異が増殖している……」
ナデシコのスマホにも映ってるらしいが、見るまでもなくどんどん音が増えていく。あっという間に山全体から打撃音が響いてきた。キキッという鳴き声もあちこちから聞こえてくる。一匹や二匹ならなんとも思わなかったが、どうやら山の中に無数に居るらしいそいつらのあげる声はとてつもなく不吉なものに感じられた。俺の腕に勝手に鳥肌が立つ。
「まずいぞ、滝、天。部室から出ろ! 包囲が狭まる前に退路を確保しないと」
部室内の二匹を牽制しながら二人がこちらへ駆けてくる。その間にもダン、ダン、という地面を叩きつける無数の音が近づく。その音の隙間を縫うようにキキッという、こちらを嘲笑するような声。
「巴、散の矢をばら撒いて包囲を詰めさせるな。天、周囲に防御壁をつくれ。力よりも範囲を優先して、なるべく大きな円にするんだ。滝、刀の出力を上げろ。山ごと吹っ飛ばすつもりでやれ」
はい、と各々頷くが、天が口を開く。
「姉さん。水無藻刀哉さんは脱出させた方が良いのではないでしょうか。数が多すぎるので護りきれるか不安です」
そうだな、とナデシコが同意する。
「よし、水無藻を飛ばせ。結界外の一番近い縁所へ行けば安全だろう」
わかりました、と天が札を構える。滝先輩は目を閉じて妖刀に何か呪文みたいなものを唱えていた。絹先輩はその場で回転しながらショットガンみたいな赤い矢を空に向かって撃っている。
俺だけ逃げるのか。ちょっと後ろ髪を引かれるような気分になった。
天の手の中の札と、空中に書いた文字が同時に強い光を発して俺の視界は真っ白になった。これでいいのか、と思ったが俺が居ても足手まといになるだろうし。だからこそ逃がされるんだろうし……俺は自分に言い訳をしていた。
視界が光に包まれて何も見えなくなったその時、どこかでキキッという鳴き声が聞こえた気がした。
視界が戻ると、周囲は薄闇に包まれていた。
「どこだ、ここ……教室か?」
いつの間に日が暮れていたのか? それともこの暗さも妖怪のせいなのか? とにかく俺は自分の教室に立っていた。窓の外は日没寸前、黄昏時の空だった。
みんなの事が気になった俺は裏山の様子を確認しようと窓に駆け寄った。
「何だ、あれ……」
黒根学園の裏山は……いや、裏山があるはずの場所は、真っ暗な闇に包まれていた。影になっているとかじゃなく、光がまったく存在しない、いやむしろ光を全て吸い込んでしまうブラックホールのように完璧な漆黒の靄のようなものにすっぽりと覆われているのだ。
あんな所に居たんだな俺。そしてみんなはまだ、あそこで妖怪と戦っているんだ。
俺は逃げてきて良かったのか? 視る事にかけては俺もちょっとすごいような事を言われていたのに。残っていたら何かの役に立てたんじゃなかったのか?
妙に悶々とした気持ちで禍々しい闇を見ていた俺の背後で扉の開く音がした。
「刀哉様……?」
振り返ると、驚きに目を見開いた美少女が立っていた。薄暗闇の中でも少ない光量を受けて長い銀髪が輝いていた。
「櫛木さん? なんでここに」
いえそのと言いながら櫛木みやは教室に入ってくる。
「何やら胸騒ぎと申しますか……嫌な匂いがしたのでございます。もしや怪異の類では、と」
もしやどころか。
「その通りだよ。今、裏山でみんながバトルの真っ最中。大地打っていうイタチみたいな金槌持った妖怪が大量発生しててさ。俺は邪魔だったみたいでここにワープさせられたんだけどさ」
なぜか卑屈な言い方になってしまった。それは、と胸の前で両手を組み合わせた櫛木みやが口を開く。
「ようございました。刀哉様がご無事で」
暗くてよく見えないが、きっと迷いのない瞳であろう事が容易に想像のつく声音だった。
「良かった……のかな。俺だけ逃げてきて」
俺の情けない言葉に被せるように櫛木みやは待ってください、と言った。
「感じませんか?」
何もない空間を見回すようにして言う。何がですか?
「匂います。 ……怪異が近くに」
え。その言葉を聞いてすぐに思い出した。ここにワープさせられた時に聞こえた、大地打の鳴き声。あれは、どこから聞こえた? 遠くの、俺たちを取り囲んでいた場所からか? それとも最初に現れた部室の中の二匹のどちらかか?
それとも……
キキッ。
「まずい! 俺にくっついて来たのか」
俺は咄嗟に櫛木みやの腕をひいて自分の方へ引き寄せた。今の鳴き声は廊下からか? 距離は? ここに俺たちがいる事に気づいているのか。
「……櫛木さん、ここで隠れててくれるか。俺にくっついて妖怪が結界から逃げて来たらしい」
俺はナデシコから預かったスマホ型の武器を手に握った。
「刀哉様は、どうするのです」
櫛木みやは俺の目を真っ正面から見つめて言った。
「あの方々から逃げるように言われたということは、刀哉様にはまだ怪異を撃退する術がないのでございましょう? それなのに、妖怪退治をなさるおつもりですか?」
暗闇の濃度が増す中、灰色の瞳が燃えるように俺を見つめていた。
「わたくしも櫛木の人間です。怪異から自分の身を守る術くらいは心得ております。 ……まともな人間では、ございませんのよ?」
そう言って微笑む銀髪美少女。俺は肩の力を抜いた。
「……わかった。実は俺も不安だったんだ。昨日初めて妖怪退治の見学したばっかりのドシロウトだからさ。さっきナデシコから武器はもらったんだけど正直、どうしたらいいか見当もつかない」
と、デカいスマホみたいな例の武器を見せる。そう言えば、と自分の制服のポケットを探るが、ない。自分のスマホをどこかへ落としてきたらしい。
「櫛木さん、スマホは? 誰か助けを」
俺の言葉に彼女はあら、と驚いた顔になる。
「刀哉様、学園内で携帯電話は使用禁止ですのよ?」
いや確かに校則はそうだけどさ。使わないで持ってるのはいいだろって誰も守ってねえよ、そんなん。
仕方ない。つまりは俺たち二人で校舎内にいる妖怪を退治しなけりゃならないって訳だな。 ……いや、最低でも彼女だけは脱出させなきゃな。大地打が結界から逃げたのは俺のせいなんだし。
「武器はこれだけか」
俺がスマホもどきを手にして言うと、櫛木みやは掃除道具箱をあけてモップを取り出した。制服の内ポケットから取り出したお札をその柄にペタリと貼り付ける。天が使っているようなものよりも小ぶりで薄いようだ。これで、とお嬢様は言う。
「妖に攻撃が届きます。牽制くらいの役には立ちましょう」
モップを両手で構えてなんかの拳法みたいな動きでヒュンヒュンと振り回す。こりゃ頼りになりそうだな。
「それと、刀哉様」
モップを薙刀か何かのように構えたお嬢様が言う。何でしょうか?
「え、ええと……その、できれば、でよろしいのですが……」
今度はなんだ? 急にモジモジとし始めて。
「あの……みや、とお呼び頂ければ!」
真剣そのものの表情で言われてしまって、俺は思わず吹き出してしまった。
「な、何か……おかしかったでしょうか? その、これから怪異に立ち向かうに当たって結束を強めると言うか、そうした効果を」
真っ赤になっているらしい彼女に言ってやる。
「オッケー、みや。絶対に妖怪をぶっ倒してやろうぜ」
親指を立てて、相棒と自分を鼓舞する。
「……っ! よ、呼び捨て……っ? は、はい! 刀哉様! 必ずや討ち滅ぼして見せましょう!」
なんか時代劇みたいだなと思いながら、俺はいつの間にか状況を前向きにとらえていた。なんとかやっつけてやろうという気になっていたのだ。きっと俺一人だったらこうはいかなかっただろう。
「なあ、さっきさ……」
俺の呑気な声を打ち砕くかのような突然の打撃音。
「な、何が」
音は教室の扉からだ。それを何か固いもので叩いた音。ガンッ、ガンッと一定の間隔で鳴る、それは。
「大地打だ……」
俺と一緒に結界の外へ出てきた妖怪が、今教室のすぐ外に居る。
「みや、とりあえず隠れるぞ!」
彼女の手を引いて教壇の影に身を寄せる。明らかに奴は俺がここに居る事を分かっている。つまり、こちらを狙っているという事だ。妖怪退治のビギナー二人が少しでも優位に立つには奇襲しかない。妖怪が教室内に入ってきて、こちらの位置がわからないうちに一撃を加える。できれば背後を狙えれば理想だが……。
「みや」
俺はパートナーに方針を伝えておこうと小さく声をかける。
「ひゃ、ひゃいっ?!」
キャラに似合わない素っ頓狂な声をあげる銀髪美少女。
「しっ、静かに! 気付かれたら隠れてる意味ないだろ!」
思わずきつい口調になってしまった俺の言葉に、彼女は身を小さくした。
「す、すみません……その、これだけ近くというのは」
いやそんな事言われたらこっちも意識してしまうじゃんか。小声で奇襲の方針を伝える。
その後もドアを打撃する音が続く。ほぼ一定の間隔をあけて、まるでそうするのが義務であるかのように淡々と加えられ、そしてその音が遂に止んだ。
ひしゃげた金属製のドアがレールから外れて内側へ倒れる。派手な音を立てて嵌め込まれたガラスも割れたようだ。
教室の床を歩く音に小さくカチリカチリと爪のあたる音が混じる。キキッという聞き覚えのある鳴き声。それがこちらを嘲笑っているかのように聞こえて正直、恐怖を覚えた。
これまではSNKという妖怪退治の専門家と一緒だった。いくらか関わったとは言え見学や手伝い程度だったのだ。
それが、今は自分と櫛木みやしか居ない。彼女は武器もなく(モップはあるが)、妖怪退治の経験もないようだ。対して体験入部とは言え俺は一応、経験者。
つまり、俺が何とかするしかないのだ。
大地打という妖怪を倒す。そして、俺の隣に身を寄せている美少女を助ける……まさか、こんなアニメの主人公みたいな事を経験するなんて思ってもみなかった。
教壇の影からそっと顔を出して様子を窺う。居た。教室の中央あたり、金槌を持ったイタチみたいな姿が薄闇の中に浮かぶ。こちらには気づいていないようだ。俺はスマホ型の武器を握りしめた。
向かって右側面の電源スイッチを押すと画面に指紋マークが出るので、そこにタッチしてスワイプする。頭の中で操作方法を復習しながら妖怪の姿を油断なく見つめる。あまり近すぎて気づかれてもまずい。ある程度近づいたらこちらに気づかないうちに一撃を加える。
上手くいくかどうか、まるで自信はないがやってみるしかない。大地打はこの教室のドアを破って入ってきたのだ。しらみ潰しではなく、いきなりここのドアを何度も叩いて壊した。明らかに俺たちがここに居るとわかっていなければそうはしないだろう。標的が俺なのか、みやなのか、あるいは人間なら誰でもいいのかはわからないが、とにかく俺たちが狙われている事は確かだ。
やらなきゃ、やられる。俺は覚悟を決めた。みやも息を潜めて妖怪の動きを見つめている。大地打はこちらの位置まではわからないらしく、ウロウロと教室内を歩き回っている。机と机の間を移動しているので死角が多く、こちらに気づきそうにないのは幸運だ。
段々と教壇の方へ近づいてくる。俺は完全に頭を引っ込めて相手の足音に集中した。明らかに人間のものではない、二足歩行の獣の足音。ひたりひたり、という音に爪の音が混ざっている妙な足音がこちらへ向かってくる。そして、止まった。俺たちが隠れている教壇のすぐ前だ。
隠れているのがバレたのか? じゃあ何で襲ってこない? そうじゃないなら、なぜ動かないんだ? ……俺たちが出てくるのを待ち構えているのか? そうなら奇襲のつもりが立場が逆転してしまう。
だけど……やるしかない。隣に視線を移すとみやが真っ直ぐに俺を見つめていた。やるしかない。最低でも俺が時間を稼いで彼女だけは逃そう。そう考えることで何故か少しだけ肩の力が抜けた。
よし。俺はスマホ型の武器を握り、息を吸い込んだ。一息に立ち上がり、妖怪に武器を向ける。薄闇の中そいつは、金槌を振り上げて踊りかかってきた。思ったより距離があったせいで奇襲になってない。しかも相手はすでに攻撃体勢。
「くそっ!」
俺は大地打に向けて呪力のビーム的なやつを発射する。
「キキッ!」
金槌が振り下ろされ、俺の攻撃は打ち消された。弱っ! なんだよ俺めっちゃ弱いじゃんか!
「キキィィ……」
まるで獲物を前に舌なめずりするかのような声を漏らし、一瞬の後に再び金槌を振り上げてこちらへ猛スピードで迫ってくる。
やられる、そう思った瞬間。
「はあッ!」
気合のこもった声と共にみやが手にしたモップを横殴りに一閃。見事に妖怪の足を捉えた。それは足払いの要領で相手の体勢を崩して転倒させた。金槌を抱えて教室の床に転がるイタチみたいな生き物。
「刀哉様、退却を!」
みやの声に従って俺たちは教室の外へ駆け出した。廊下を走って階段を下へ。とりあえず校舎の外へ出る。
「こちらへ!」
みやの指示に従って走り、俺たちは体育館へたどり着いた。校庭の外周に散在している照明灯がわずかに照らしている、真っ暗なそこの横手にあるドアをみやが鍵で開けた。
「ちょうど鍵を持っておりましたの」
室内へ入るとそこは用具室だった。マットやボール、ネットなどが置かれているそこを抜けて体育館へ。
「照明をつけるのは危険ですね」
わずかに輪郭がわかる程度の闇の中、彼女が言った。
「さて、ここにケモノ用の罠を仕掛けましょう」
なるほど今度こそ先手を取ろうってわけだな。
「その前に、先程の仮想呪器を見せていただけますか」
と、手を出す。カソウジュキ?
「あの……武器ですわ」
なるほど擬似的な呪器か。俺はデカめのスマホもどきを手渡す。
「刀哉様、この操作法はどのように伺っていらっしゃいます?」
ん。習うより慣れろ、だったかな。俺の答えにみやは軽くため息をついた。
「なるほど、それで……。刀哉様が妖怪と相対する事を想定しておりませんでしたのね。先程のようにすぐに呪力を放つのでなく、しばらく画面に指を当てたままにして呪力を貯めてから攻撃術式に変換してください」
つまり、ゲージ貯めてからじゃないと攻撃力が低いのか。それでさっきは簡単に弾き返されたんだな。
「ええ。充分に錬成してあれば、あやかし一匹を行動不能にするくらいはきっと」
と、用具室に向かい歩き出す。
「けど、なんでこの武器の事知ってるんだ?」
振り返った彼女は当然のように、だって、と答える。
「うちで作らせたものですから。以前に試作品を見たことがあります」
うち……櫛木の家か。そう言えばこの学校のオーナーだったんだよな。つまりSNKのオーナーとも言えるわけか。ナデシコが使ってたスマホやノーパソもそうだし、どこかに電話して結界とか依頼してたこともあったな。つまり、そういう事か。
「ええ。傘下の警備会社の一部署が怪異対処の担当になっております。表向きには存在しない部署ですが。そこがこの学園の部活のバックアップも行なっています」
そういうもんなんだな。裏の世界っつーか、本当にそういうのがあるんだ。
罠はシンプルにしましょう、刀哉様が狙いをつけられるだけの時間を稼げれば良いのですから、などと言いながらネットやらマットやらを物色し始めるみや。
「なあ、俺がこの武器使っていいのか? なんなら俺が囮になって、みやが攻撃するとか」
その方がうまく行くんじゃないかと思って言ってみたが、
「と、刀哉様……! ご自分を危険に晒してわたくしを」
なんかえらく熱のこもった言葉で返されてしまった。
「いや、なんか俺よりよっぽど詳しいみたいだしさ。その方が成功の可能性が高いなら」
ああ……ありがとうございます。わたくしは果報者です、と両手を胸の前で重ねてしみじみと言う。あの、俺の話聞いてます?
「ですが、その機器は既に刀哉様にしか使えないようにロックがかかっていますので」
そうなのか。まあ誰でも使えたら危ないもんな。
既に作業に集中し始めたみやは黙々と体育館のステージに縄やらネットやらを配置し始めた。手持ち無沙汰な俺は何となく周囲を見回してみる。だいぶ目が慣れたせいで上方の窓から射しこむ僅かな月明かりで体育館の中の様子は大体わかる。何の変哲もない体育館だ。
「さて、あとはあやかしが襲ってくるのを待つだけです」
みやが言う。意外と簡単にできるんだな。
「ええ、あまり凝った仕掛けを作るのは、うまく動作しない場合かえって危険です。シンプルに動きを止めることだけに限りました」
すとん、とステージの床に腰をおろすみや。少しだけ迷って、俺も隣に座った。
「これからどうするんだ、大地打をおびき寄せたりとかするのか?」
彼女を守るつもりが、いつの間にか立場逆転してるなと思いながらお伺いをたててみる。
「先程、あやかしはまっすぐにわたくし達を狙ってきました。教室は他にいくつもあるのに、あの部屋の扉を迷いなく殴打して。つまり」
あいつには俺たちがどこにいるか、わかるってことだ。どうやってかは知らないがここに俺達が居る事を嗅ぎつけていずれやって来ると。じゃあ今できるのは待つことだけか。
「なあ」
俺は気になっている事を聞いてみる。
「みやは、本当に今までに妖怪と戦ったことないのか?」
すると、なんだか自嘲的な笑みを浮かべた彼女はゆるゆると首を振り、
「ええ、実際のこうした事は初めてですが嗜みと言いますか……先ほども申しましたでしょう? まともではありませんの。櫛木という家は」
生まれた時から異能者になるべく育つというのはどういうものなんだろう。俺は自分の能力を忘れて十年も過ごしてきた。ほんの数日前まで異能とか妖怪とか考えもせずに生きてきた俺はきっと、幸せだったんだろうと思う。
すん、と小さくみやが鼻を鳴らした。来たのか。
「……ええ。そのようです」
薄闇の中、俺たちは各々のポジションについて妖怪を待ち受けた。
俺は罠の仕掛けてあるステージの袖に隠れ、みやはモップを持って隅の闇の濃いところに潜んで大地打を待ち構える。
やがて、開いたままにしておいた入り口に二足歩行の獣の影がさした。大地打が館内に足を踏み入れた瞬間、気合の声と共にみやが飛びかかった。
空を切る音と共にモップが妖怪を打つ。警戒していたのか相手は身をかわす。すぐに崩れた体勢を持ち直して金槌を打ちつけた。みやも攻撃を避け、素早く後退する。何とか罠の仕掛けられているステージまで妖怪を誘き寄せるのが彼女の役目だ。睨み合う両者。
正直、女子一人に相手をさせるのは気がひけるが、俺はここで居場所を悟られないように隠れているのが役目だ。息を潜めてみやの戦いを見守る。
みやは彫像にでもなったかのようにモップを構えたまま動かない。対する大地打は時折キキィと威嚇の声をあげたり金槌の先を動かしてみたりして相手の出方を窺う。みやは罠のあるステージを背にしているので、自分が動くよりも妖怪が動いてきた方がそちらに近づくからだろうか。
妖怪が一歩、足を前に出した。みやは微動だにしない。すげえな。
大地打がすっと身をかがめ、縮めた後ろ足を一気に跳躍させて彼女に踊りかかる。我慢比べに負けたのは妖怪の方だった。振りおろす金槌を最小の動きでかわし、鋭く払ったモップの柄が相手の攻撃の勢いを利用してそのまま吹っ飛ばした。一体どれだけの距離を飛んだか、そのままステージに転がされた大地打。無様に転がったその姿勢を直して立ち上がろうとするその足元。あと少しで罠の場所だ。
「……よし! こっちだ!」
俺はステージの影から出て床を叩いて注意をひく。ピクッと妖怪の首が動き、こちらを目で追う。さあ来い、一歩足を出せ!
……だめだ。さっきの攻撃で慎重になっているのか、こちらの誘いにのってこない。あと一歩、左へ足を動かせば罠にかかるのに!
「刀哉様!」
みやが槍投げの要領でモップを妖怪に向けて投げつけた。俺の方に気を取られていた大地打は不意を突かれて体勢を崩す。よろけて足を一歩踏み出したそこは仕掛けておいた罠の場所だ。
ステージの上からネットが落ち、妖怪に被さる。いくつかつなぎ合わせてサイズを大きくしてあるので罠の有効範囲が広く、しかもかかるとなかなか抜け出られない。大地打は焦ったような鳴き声をあげてもがいている。手に持っている武器は金槌だからネットを切ることもできない。
その様子を確かめて俺はスマホ型武器の指紋マークに親指を当てた。数秒で自分の触れている場所が熱くなってくる。小さく機器が振動を始めた。本来、最低でもこれくらいは呪力を貯めてからじゃないとまともな攻撃にはならないらしい。
大地打は相変わらずもがくばかりでネットから脱出できそうにない。
「もう少し……確実に仕留めないとな」
俺はどんどん熱くなる親指に更に力を込めた。
「刀哉様、あまり無理は……」
ステージ下まで来たみやが言う。何言ってるんだ。確実に一撃で仕留めないとまずいだろ。みやがあれだけ頑張って妖怪の動きを止めてくれたんだ。最後のとどめくらいちょっとは無理したっていいさ。俺の呪力をたっぷりと喰らいやがれ。
「キシャァアアアッ!」
苛立った妖怪が歯を剥き出して威嚇の声をあげた。よし、その鼻っ柱に喰らわせてやる!
何かカッコいいセリフを言いたかったが、何も用意してなかったので、とりあえず「喰らえ!」と標的に向けて指をスライドする。
俺の親指と画面の間から閃光と言ってもいいくらいの強い光が発生して、一直線に前方へ伸びた。それが大地打に達した瞬間、奴の自由を奪っていたネットに大きく丸い穴を開ける。そして一瞬後、光が消えたそこには何もなかった。
「刀哉様、やりました! 跡形もなく消し去りましたわ!」
正直、自分でも驚くような威力だった。俺もやればできる……あれ? なんだか頭がぐらぐらと揺れて……足元がふわふわして……全身に力が入らない。ステージの床に膝をついて、そのまま前のめりに倒れてしまった。
なんだか水の中にいるような感じでみやが俺のことを呼ぶ声が聞こえた。良かった……何とかこの娘を守ることができた……
「刀哉様! 危ない!」
急速に意識が戻る。至近距離にみやの顔があった。ぐい、と俺の身体を押しやる。
ぐうっ、というような彼女の苦しげな声と何か硬いものが床を叩く音。硬い何か……そう、金槌のような……
「!」
自分に喝を入れて、無理矢理に意識をハッキリとさせる。俺に覆い被さるように倒れている櫛木みや。彼女の銀髪に何か汚れが……いや、赤くベッタリとしたこれは血だ。血液だ。何てこった、ケガしてるのか。でもどうして。さっき妖怪はやっつけたのに……
キキッ。
視線をあげる。金槌を持って二本足で立つイタチみたいな動物が、黒目だけの目でこちらを見ていた。
……俺はどこまで馬鹿なんだ! 俺と一緒に結界の外に飛ばされてきたのが一匹だけだなんて誰が決めた? 山の中にあれだけたくさん居たんだから、むしろ一匹だけついてくる方が不自然じゃないか。その可能性を考えもしなかったなんて迂闊すぎだ。山の中の状況を見ていた俺は気づくべきだったのに! 俺が気づくべきだったのに!
「みや! 大丈夫か」
俺のせいだ。俺のせいでこんな怪我をさせてしまった。
「刀哉様……ご無事で良かった」
弱々しい彼女の声に妖怪のキキッという鳴き声が被さる。頭に血が昇る。視界が霞む。
大地打が金槌を頭の上に振りかざしてこちらへジリジリと距離を詰めてくる。今度は確実にこちらの頭を潰す気だ。
身体に力が入らないなんて言ってられるか。精一杯腕に力を入れて彼女の身体を引き寄せる。せめて次は俺が彼女を守らなくては。
手探りで床に落ちていたスマホ型武器を掴む。親指を当てて再び呪力を込める。それを見た妖怪は何やら興味深そうな表情をした。これが何なのかわからないということは、明らかにさっきのとは違う個体だ。その油断を突いてやる。
指が熱くなり、俺の視界が急速に暗くなっていく。腹の中から内臓が抜き出されるような気分の悪さを感じる。明らかにヤバいなこれ。でも、やるしかない。最悪俺がどうにかなってもみやだけは助けなくては……震える右手を無理矢理動かして妖怪へ向けようとする。体が言うことを聞かない。というより体がまだあるのかわからない。もう俺のなかには血液が一滴も残ってないんじゃないかと思った。
霞む視界の中、勝ち誇ったような鳴き声をあげて金槌を振りかざした妖怪が踊りかかってきた。
ああ、もう俺死ぬな。そう思った瞬間。
どこからか飛んできた、真っ赤に光る矢が妖怪を貫いた。
「トーヤ! 大丈夫?」
朱塗りの弓を持ったちっこい先輩がこちらへ駆け寄ってくるのがぼんやり見えた。何とか、やられずに済んだらしい事がわかって俺は我慢できずに目を瞑った。遠くから聞いたことのある声がいくつか聞こえた。
水無藻くん、櫛木さん……先生!
まずい、呪力の使いすぎだ。このままじゃ死ぬぞ、天。札はまだあるか
姉さん、どれを
……ああ、疲れた。もう二度と御免だな。妖怪退治なんて。
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