一章「わいら」

 森のような、樹木の繁った中に開けた空間。そこにある神社の社殿の階段にもたれるようにして小さな女の子が寝ている……いや、気を失って倒れているのだ。さらさらと音を立てて流れそうなくらいに綺麗な銀髪が夕陽に照らされて輝いていた。

 高級そうな白いワンピースはあちこち汚れて、靴も片方脱げてしまっている。

 きっと拐われた時に脱げてしまったんだ、と俺は思う。

 あの子がアレに拐われたのを、ボクはおじさんと一緒に助けに来た。 ……拐われた……アレって? おじさんって誰だ?

 ……そうだ、あの子は人じゃないモノに拐われたんだ。

 そして、ボクは


 聞き慣れた電子音で目を覚ました。枕元に置いてあるスマホをスワイプしてアラームを止める。ベッドの布団の中。確認するまでもない、見慣れた俺の部屋である。

「久しぶりに見たな、あの夢」

 子供の頃から何度も見た夢。神社のような場所に倒れている銀髪の女の子の夢だ。そんな子は知り合いにいない。居ないはずなんだが……

「なぜか、知ってる子なんだよな」

 そういう確信だけはある。夢に特有の理由のわからない確信。そこは前提条件、みたいな。何なんだろうなあれ。

 妖怪みたいなモノに拐われたあの子を探し出した。俺はそれを何だかぼうっとした状態で見ている状況……そんなの絶対に夢のはずなんだけど、頭のどこかが夢じゃないって思ってる。夢だけど夢じゃないと言うか。

「刀哉、二度寝してないでしょうね? 遅刻するわよ」

 ドアのノックと共に母親の声。すぐ行くと答えて温かい寝床から抜け出す。もう四月なのにまだ寒いな。

 ありふれた賃貸アパートのキッチンダイニングへ。朝食が用意された食卓につく。

「今日帰り少し遅くなるからね。家の鍵持っていって」

 二人分の弁当を詰めながら言う。母さんは近所のスーパーのパート勤務で、七年前に父が仕事中の事故で死んで以来、我が家の家計を支えてきた。

「何か夕飯作っとく?」

 俺も少しは料理ができる。簡単なやつだけだけど。

「大丈夫、そんなに遅くならないから。ご飯だけ炊いといてくれる?」

「了解」

 この春から一人息子の俺が高校生になったのを機にパートの時間を長くしたらしい。身体だけは気を付けてほしいと思う。

「若くないんだからな」

「なんか言った?!」

 いえ別に。まだ耳は遠くなってねーか。

 アパートの自転車置き場から愛車を出す。高校入学を機に新調したロードバイクだ。別に自転車が好きなわけではないが、三年間通学に使用するのに安物を買ってすぐに故障したり、自分の体力の消耗が多すぎたりするよりは良いと、電車通学だったらかかっていたはずの交通費も考慮して選んだ。それにこれなら節約じゃなく趣味で乗ってるんだろうと思われそうだからな、一石二鳥以上の効果がありそうじゃないか?

 外は晴れて風もなく、気温は低いけど小春日和って感じの天気だ。こういう日は自転車が気持ちいい。

 俺の通う私立黒根学園は小学部から高等部まで十年間の一貫教育校である。小学校からずっと通っている者も居るし中学や高校から入学してくる『外部生』も居る。俺は高等部からなので外部も外部、小学部からのお坊っちゃんお嬢ちゃんからすれば完全なよそ者だ。

 要はそこそこの金持ちが通う私立学校なのだが、そこに裕福とは言い難い母子家庭の息子がなぜ通っているのかと言うと……細かいことだが父さんは会社の業務中に死亡しているので保険やら何やらでそこそこの金はもらっているらしい。

 ともあれ、その理由は推薦入学なのだ。

 特別成績が良かったわけでもないし、スポーツや文化活動で一芸を持っているわけでもない俺だが、なぜか中学三年の夏休みの課題で適当に書いた読書感想文が学校の代表に選ばれて全国コンクールで努力賞という微妙な賞をもらった。そのお陰で黒根学園から奨学生として推薦入学の誘いがあったのだ。三年間の学費すべて免除という好条件で、しかも高校卒業後は黒根学院大学へ試験なしで入学できる。そこそこ名の通った大学だからいいことずくめの話である。当然ありがたく受けて入学させてもらったわけだ。

 昨日が入学式だったのだが、クラス分けも忖度があるのか教室の半分ほどが高校からの外部生で三割が中学から、残りが小学校からの金持ち、という構成であるようだった。

 よそ者として肩身の狭い思いをしなきゃならんのかと覚悟していたが、半分が俺と同類というわけだ。これが学校の配慮なら素直に感謝したい。

 黒根学園は東京西部の広大な敷地に建っている。住宅地から離れた場所なので周囲も静かで、敷地の裏側は小さな山になっていて自然もあり、環境は良好。

 快調に自転車を走らせて学園が近づくにつれて同じ制服を着た男女の姿が増えていく。約四十分ほどの通学時間は運動にもちょうど良い距離だ。

 やがて赤レンガの塀が現れた。この向こうは学校の敷地だが、自転車で立ち乗りをしても覗けないほど高い。やがて校門に到着。自転車から降りて門をくぐる。

 満開を少し過ぎてしまっている桜並木がまっすぐに続いている。すでに葉桜になっている箇所もあり、清掃員さんの念入りな掃除の後に散ったのであろう花びらが隅に集まっていた。

 かなり広い幅のそれは中央部分が車道になっており、自動車通勤の教師や配送車両等が通ることもあるので歩行者は左右に別れて歩く。特に線引きがあるわけではないが、自然にこの辺りまでが歩道、というようになっているのだ。

 そのまま生徒達の流れに沿って自転車を押して歩く。

 大抵の生徒はバス通学で、稀に運転手つき自動車での送り迎えという、ガチのお嬢様お坊っちゃまも居るが、それ以外は自転車通学で、俺は少数派ながらそう珍しくはないという勢力図。現に同じように自転車を押して歩いている同志の姿も散見される。

「水無藻~」

 後ろから声をかけられて振り返る。俺と同じくらいの背丈、前髪を自然に流したヘアスタイル、やや垂れ気味の一重まぶたが印象的な男子。昨日知り合ったクラスメイトの中村だ。

 おう、と気安く挨拶を返す。同じ高等部からの外部生同士として意気投合した俺らは既にマブダチ(死語)なのである。

 しばらく他愛のない会話を交わしつつ校舎へと歩く。それにしても郊外とはいえ都内によくこれだけの敷地を確保したもんだと思う。かなりの距離を歩いて校舎前までたどり着いた。

 校舎は歴史を感じさせるレンガづくりの三階建て……だが実は鉄筋コンクリートの建物をそれっぽく仕立てたものというのは昨日わかった。

「でさ、俺ら選択科目美術じゃんか? その先生が教師の中でトップクラスの美人なんだよ。ナデシコってあだ名が公式らしんだけどさ、その名の通りの和風美人でクールビューティーってか、なかなかM心を刺激されるっつーかさ」

 こいつの性癖はともかく、昨日入学したばかりの外部生なのになぜ、と思うくらいに中村は学園の情報に詳しい。

「お、お姫様の登校だぜ」

 中村の言葉に目をやると、黒塗りのあからさまな高級車が校舎前に横づけされたところだった。

 白手袋を嵌めた運転手が後部座席のドアを恭しく開ける。そこから降りてきた女生徒の姿に俺の目は釘付けになった。

 プラチナシルバーの長い髪、白く透き通るような肌、グレーにスカイブルーが混ざったような瞳。まるで二次元から抜け出てきたような美少女だ。周囲の生徒たちも一瞬息を飲むようにして彼女に注目したのがわかる。知りあいらしい数人の女生徒がご機嫌よう、と軽やかに挨拶した。

「ガチでやべえよな。あんな美少女がリアルに居るなんてさ……櫛木みや。この学園の実質的なオーナーの御令嬢だってよ。知ってたか?」

 櫛木家というのは経済界に大きな影響力を持つ名家だ、ということくらいは常識として知っていたが……

「い、いや。ふうんそうか」

 何とか興味なさげに聞こえるように相づちをうっておいたが、俺は内心動揺しまくっていた。

 彼女なのだ。

 何度も夢に出てきた、銀髪の少女。小学生の頃から見ている夢だから、そのまま成長すればああなる、というのが理屈じゃなくわかった。なぜかはわからないが確信だけはできる、奇妙な感覚。

 ……そうだ、俺は昔あの子と会っている。

 頭の中の靄がかかったような記憶に手が届きそうな感覚。理屈じゃなく、知っているのだ。思い出せないだけで。

「おい水無藻、大丈夫か?」

 中村が心配そうな顔で声をかけてくれた。

「ああ、うん。ちょっと腹の調子が悪くてさ」

 適当な事を言って誤魔化す。

「マジかよ、漏らすんじゃねーぞ」

「努力はする」

 下らない会話で笑いあう俺たちの方へ、櫛木みやが気づいたように視線を向ける。その、水色がかったグレーの瞳が俺の視線と合った時に、小さく見開かれたように感じた。

 まさか……

 だが、次の瞬間その視線は何事もなかったかのように逸らされた。

 気のせいか。まあ普通に考えて夢の中の美少女とバッタリ、なんてことあるわけない。

「なんだ、やっぱりお前もあのお嬢様が気になってるのか?」

 歩きながら中村が言う。俺に付き合って自転車置き場までついてきている。

「まあ、そりゃあんだけ綺麗ならな。ハーフなのか?」

 顔のつくりは日本人的だが、あの銀髪と瞳の色は日本人離れしている。

「いや、純粋な日本人だってよ。なんか遺伝子だか染色体だかの病気らしいぞ。産まれた時にかかって、生死の境をさまよったって聞いたな」

「よく知ってるな。どこ情報よ?」

「禁則事項です」

「なんだそれ」

「知らんのか……ったく、最近の若いもんは」

 上靴に履き替え、校舎内へ。外観のレトロさとは違って、中は割と現代的というか普通である。リノリウムの廊下をペタペタと歩いて階段へ。

 一年F組の教室は校舎の二階にある。明るく清潔ではあるが特に面白みはない階段を上がる。

 教室に入り、昨日ちょっと話したやつとか、何となく顔だけ知ってるやつとかに適当に朝の挨拶を振りまいておく。外部生はまだ知り合いが少ないから一人でいる者が多い。逆に内部生はほとんどが数人のグループに固まって談笑している。

 四十ちょっとの机が並んだうちの廊下側から二列目の前後に並んだ自分たちの席に俺と中村は座った。

 

 やがてチャイムが鳴ると、定刻に入室できるよう待機していましたと言わんばかりのタイミングで担任の川島が教壇に上がった。細身のメガネをかけて髪を刈り上げた、三十代半ばくらいの数学教師だ。ちなみに既婚者で二歳の一人娘が可愛くて仕方ないらしい。

 そして川島の従者のようにあとから入室し、そのまま教室の隅に立っている気弱そうな男が副担任の石塚尊だ。地味な紺色のスーツ姿で気配を殺すように裏方感を出しているが、まだ二四歳で副担任になっているのはかなり早い出世であるらしく、実は能ある鷹なのかもしれない。

「お早う御座います。私たちの自己紹介は昨日済ませていますので、今日は皆さんの自己紹介をしてもらいたいと思います」

 毎朝発声練習していますと言わんばかりの滑舌の良さで川島がそう宣言した。まあ、定番というかお決まりだよな。

「それじゃあ、相生さんから順番に」

 と、指名を受けて出席番号一番の女子が立ちあがった。

 ちなみに、何度か言っているようにこのクラスには高校から入学してきた俺たち外部生と、中学以前から在籍している内部生が居る。出席番号は五十音順で決まっているのだが、まず外部生のあいうえお順で番号が割り振られ、次に内部生のあいうえお順となっているのだ。つまり十九番までが外部生でその後が内部生と明確に分けられており、席順もそれに従って並んでいるので内部生は窓側の半分にまとまっているのだ。どういう意図があるのかはわからんが。

 だから自己紹介も外部生から始まるわけで、マ行二番目のポジションに居るこの俺の順番も割と早く回ってくるのである。俺の前の中村がそこそこいい感じに笑いをとって自己紹介を終了した。くそ、次の俺にプレッシャーかかるじゃねーか。

「えっと、水無藻刀哉です。出身中学は……」

 とりあえず可もなく不可もない自己紹介を終えた俺は、やれやれと着席する。

 そのあとは落ち着いて他のやつの自己紹介を聞いていた。内部生はホーム感あるなあとか思いながらぼんやり聞いてたらあっという間に最後の生徒の番になった。

 すうっと、音を立てずに立ち上がったのは肩の上で切り揃えた黒髪が日本人形みたいな女子だった。

「倭天です。天気の天と書いてそらと読みます。名前だけでも覚えて帰って下さい」

 まったくの無表情、無感情に芸人風の挨拶をすると、再び音を立てずに着席した。

 ……なんだ、今のは? 笑うべきなのか?

 どう受け取っていいのかわからない。とりあえず拍手? それとも愛想笑いでもしたほうがいいのか? ……そうだ、窓側のやつらは同じ内部生の彼女の事を知ってるんだろうから、そのリアクションを観察すれば……とそちらを窺ってみたが、みんなどう扱っていいのかわからないという顔をしていた。

 これは……スルーしかないな。

 教室内を静かな困惑の渦に叩き込んだ彼女は、そんな事にはまるで無関心にまっすぐ前を向いて無表情で座っている。

「それでは全員自己紹介が済みましたね。皆さんこれから一年間お願いします。今日は四限までで、どの教科も最初の説明、ガイダンスのような内容だと思いますが気を抜かずに、黒根学園の生徒としての自覚を持って学園生活を送ってください」

 なんだか大袈裟な締めをして川島先生は教壇を下りた。その後に付き従う石塚。

 なんとなく内部生とは交流しにくそうだし正直あまり興味がなかったのだが、さすがに最後の彼女、倭天のことは気になった。本当に名前は覚えてしまったしな。

 一限が始まるまでの短い時間に、なんやかんやと話しかけてくる中村に相槌をうちつつちょっと振り返って倭を見てみた。グループで群れている内部生の中で彼女は異質なようだ。ほんの五分ほどのスキマ時間とはいえ、誰かと会話することもなく無言で宙に視線を彷徨わせている。

 大きな黒目がちの瞳は切長の一重まぶたで、長いまつ毛が春の日差しに影を落としており、見た目だけならまるで絵画のように綺麗なのだが、まったくの無表情で何もない空間をただじっと見てるだけの女子高生ってのはちょっと不気味にも思えた。

 すぐに一限担当の英語教師が入室してきて、わざとらしくネイティブな発音で挨拶をしだしたので俺は視界からも意識からも倭という変わった女子のことは追い出した。

 二限、三限と授業は続く。担任の川島が言った通りガイダンス的な内容のものばかりだったので俺は割と気楽に聞いていた。

「次、美術だな。いよいよだなぁおい、興奮してきたな!」

 なんでだよ。

「忘れたか? ナデシコだよ、入学式の時ちらっと見たけどめっちゃ美人だったぞ」

「なに、お前年上好きなの?」

 すると中村は片手でサッと前髪を払って、

「美しいものに年上も下もないだろ」

 いやなんでそんなドヤ顔なんだよ。


 美術室は俺たちの教室のある校舎を出て、別の建物へ移動して四階まで行かなければならない。まだ本格的な授業じゃない、という緩い雰囲気のまま俺たちはダラダラと移動を開始した。

 美術室に入った俺たちの目は、お決まりの石膏像やイーゼルの並んだ室内のほぼ中央に置かれた丸椅子に腰かけた長い黒髪の女性に自然と集まった。

 スリッパ履きの足を組んで文庫本に目を落としている、ベージュのハイネックセーターにグレーのスラックスという何の面白味もない服装の美術教師は、確かに美人だ。細く通った鼻筋と長い睫毛に縁取られた涼しげな瞳。すっとその視線が上がり、俺たち生徒を興味なさそうに見回した。

「適当に、その辺の椅子に座ってくれ。数は足りるはずだ」

 見た目に似合わない、ぶっきらぼうな男言葉。皆その言葉にしたがっておずおずと丸椅子に座る。椅子の並びも間隔もバラバラだし列ができている訳でもないようで、まさに適当な配置だった。

「さて始めるか。美術を担当する倭弓だ。もし君達が美術を選択し続ければ卒業までの付き合いになる。まあ、どうでもいいが……」

 本当にどうでも良さそうな口調で倭先生は言う。そして、さっき中村が言っていた事に得心がいった。黒髪ロングの和風美人、倭という苗字からの連想で、大和撫子。倭ナデシコってわけだ。公式とか言ってたが、確かにこれ以上にピッタリのあだ名はあるまい。見た目も名前も……ん? 倭って苗字最近聞いたような気がするな?

 ナデシコはその後も淡々と今後の授業の進め方、揃える物などの説明を続け、なんの遊びもないまま終了の時間を迎えた。

「では以上だ。なにか質問は」

 無感情な目で俺たちを見回す。本来ならここで中村のようなお調子者が「先生、彼氏いますかー?」とか聞きそうなものだが、皆完全に口をつぐんでいた。その気持ちはわかる。冗談とか言ったらものすごく冷たい反応されそうだからな。

「では終了だ。教室に戻れ」

 いくら美人でもさすがにあれはなぁ……と思いながら自分達の教室へと戻る途中、中村が「いやー、やっぱり綺麗だったなあ。これから楽しみだ」と言ったので驚いた。

「はあ? いや、確かに美人だけどお前、あれもうクール通り越してるだろ」

 ふむ、と中村は何やら考え深げに顎に手をやり、

「クール、クーラー、クーリスト。 ……うん、クーリストだな。クーリスト・ザ・ナデシコってなんか良くね?」

 もう放っておくことにした。

 俺たちがダラダラと教室に戻ると、既に担任の川島と副担任の石塚が待ち構えていた。

「……全員、揃いましたね。今後こうした教室移動の際には極力迅速な行動を望みます」

 なんか説教されているようなので、神妙な表情になっておく。

「さて、今日はこれで終了ですがこの後第一体育館にて部活説明会があります。自由参加ではありますが、特に高等部から入学された皆さんは良い機会だと思いますので是非、見に行って頂いた方が良いと思います」

 俺は特に部活に入ろうという気はなかったのだが、まあそう言うなら夕飯の支度もしなくていいし見に行ってみようかと思う。俺以外の廊下側の生徒も同様のようだった。内部生は中学からそのまま部活継続っていうやつが多いようで興味なさそうにしていたが、俺たちよそ者はどういう部活があるのかも分かってないし、部の雰囲気とか分かれば入りたいものもあるかもしれないしな。

「第一体育館か。水無藻、行くだろ?」

 通学カバンを手に立ち上がる中村。

 おう、と言いかけた俺のブレザーの裾がくいっと引かれた。

 え、と振り返ると頭一つ低い位置に真っ黒なおかっぱ頭があった。

「単刀直入に申します。水無藻刀哉さん。わたしと付き合って下さい」

 まったくの無表情、無感情に倭天はそう言った。

「……え?」

 俺だけじゃなく、一緒にいた中村も含めて教室内の生徒全員の時間が止まった。

 付き合って下さい? え、なにこれ告白? いやいやまさか。この娘あれだろ? 今朝どう扱っていいかわかんない芸人風の自己紹介した女子だよな。じゃあこれも取扱注意のボケとか、そういうことか?

 俺の困惑をよそに、倭天はお手数をおかけしますとか言いながらグイグイとブレザーを引っ張って教室を出て行こうとする。その勢いに逆らう気力が湧いてこず、されるがままに彼女に従ってしまった。その時の俺にできたのは自分のカバンを掴むことくらいだ。

「み、水無藻ー! 頑張れよ骨は拾ってやるからな」

 恐らく言った本人も意味がわからないであろう声援を背に、俺と倭は教室を出て廊下へ。

 何なんだふざけんな、と思いつつも何か思いつめたような表情で前を歩く彼女の雰囲気に気圧されてしまった俺はソフトに声をかけてみることにした。

「な、なあどこへ行くんだ? あのさ、俺たち外部生は部活説明会があって」

 何となく、返事なんかしてくれないんじゃないかと思いながら言ったのだが、意外にも倭天は淡々と明瞭な返事をした。

「些事ですが部活説明会は高等部から黒根学園に入学した生徒だけでなく、全校生徒に向けたものです。ともあれ、直裁的に言って水無藻刀哉さんには普通の部活に入っていただく訳にはいかないのです」

 相変わらず俺を引っ張っていく彼女は前を見たままそう言う。外履きに替えて校舎の外へ。どうやら敷地の裏にある山へ向かっているようだ。

「普通の部活ってなんだよ、俺に何をさせようってんだ」

「水無藻刀哉さんには、SNKに入部してもらいたいのです」

 何だその格ゲーメーカーみたいな部は?

 俺の疑問と困惑をよそに、倭天は校庭を迂回して敷地の端まで来た。目の前にある裏口の門には『生徒の立ち入り禁止』の札がかかっているが、彼女はその閂をまったく躊躇せずに引き抜いて敷地外へと出ていく。いいのか、と思いつつ後をついていく俺。

「待ってください」

 と、倭は制服の内ポケットから何かを取り出す。

「そのまま」

 彼女が手にしているのは縦長の紙、短冊のようなものだった。

「簡単な人払いの呪なので、水無藻刀哉さんには必要ないかもしれませんが」

 などと妙なことを言いながら短冊を俺の胸あたりに掲げた。すると短冊が青白く光り始めた。段々と光が強くなっていき、一瞬の強い輝きに思わず目を閉じてしまった。目を開けると既に光は収まり、倭はこちらに背を向けて歩き出していた。

 学校の裏は割と背の高い木が茂っていて、いきなり森になっていた。

「こちらです」

 と、樹木の間の小道へ足を踏み出すので仕方なく俺も従う。舗装なんてされていない地面むき出しの道だ。まだ昼前なのに陽の光が遮られて薄暗い。

 一体俺をどこへ連れていく気だ? 学校の裏山で、クラスメイトの女子が相手とは言え流石に少し不安になるが、あまり質問ばかりするのも何だかビビってるみたいだしな、とか思っているうちに口を開くきっかけを失ってしまい、無言のままダラダラと山道を登っていく。

「ご足労をおかけました。到着です」

 無言の山歩きは、倭のその言葉で終わった。

 木々の隙間にはまり込むようにして建つ小さなコンクリート作りの小屋。部室と言われればそうかもしれないが、どっちかと言うと倉庫とか、何かの設備の管理小屋に見える。

 倭が何の変哲もない金属扉のノブに手をかけて引いた。ガチャリ、と平凡な音を立てて開く扉。続いて入室した瞬間、

「いらっしゃーい!!」

 という弾んだ声と破裂音が響いた。パーティーで使うクラッカーが鳴らされたのだ。頭に色鮮やかな紙テープを載せた状態で室内を見回してみると外観と同様、特に面白みのないコンクリート打ちっぱなしの内装である。入り口から見て左側の壁に人の背の高さくらいの棚、奥の角には洗い場がある。中央には木目調の長机と椅子が何脚か。

 ああそうかと気付いた。この部室は窓がないんだ。だから倉庫っぽい……人のための建物って感じがしないのか。

 室内には二人の制服姿の女生徒、背の高いのと低いのが居る……という事まで認識した時点で低い方が動いた。

「まだまだ、これだけじゃないよー!」

 すっ、と天井から垂れた紐をひく。なんだ、と見上げるとそこには金色に輝く球体があった。その中央に切れ目が発生し、二つに割れる。

 大量の紙吹雪が舞い、「熱烈歓迎! 新人くんSNKへようこそ!」と書かれた垂れ幕がぺらーんと降りてきた。

「からのー!」

 と、小柄な女子が手の平に乗せた謎のボタンを押そうとした。見るとそこにはドクロマークとDANGERの文字がある。

「さあさあ、ポチッとな……」

 明らかに不穏な装置を発動させようとする小柄女子。その時、俺の隣の倭が動いた。

「やめて下さい、巴絹先輩」

 謎のボタンを押そうとした指がビクッとして止まった。なんか、今妙な光が彼女の指に纏わりついたように見えたんだが、気のせいか? 倭の様子を見ると、頭に大量の紙テープを載せたまま冷静そのものの表情で何か紙の短冊のようなものを手にしていた。

 無理に動きを阻止されたらしい巴絹と呼ばれた小柄な女子は、んぐぐぐとかうめきながらなおも押そうと努力していたが、やがて諦めてデンジャーな装置を放り投げた。

「あーもう。せっかく新人くんの歓迎を盛り上げようと思ったのに! てか天ちゃん今言ノ葉遣ったよね?! 普通そこまでする? 仲間じゃんあたし達!」

 倭に食ってかかる小柄女子。やや茶色がかったゆるウェーブヘアで中学生くらいに見える童顔だが、先輩と呼ばれていたので年上らしい。

「普通、人を歓迎するのに危険物は使用しないと思うのですが」

 無表情な倭がもっともな事を言う。言われた先輩は小柄な彼女よりも更に背が低い。一五〇ないくらいじゃないか?

「えー、別に危険じゃないよ爆竹とロケット花火だけじゃん」

 ふざけんな充分危険だろ。室内で何発射する気だったんだ。

「あの……巴さん。新入部員の方が、その……」

 控えめな口調でもう一人の女子が口を挟む。こちらは女子にしては身長が高く、俺と目線があまり変わらないくらいだ。長い黒髪をポニテにしているが、その括り方が雑であちこちほつれているので何だか戦いに疲れたサムライみたいだ。長い前髪が顔の左半分を隠しているのもそれっぽい。

 あー、そうだそうだとちっちゃい方の先輩が急に手を叩いた。

「サプライズは中途半端になっちゃったけど! さあ入って入って! 水無藻家の人なんでしょ? 能力はどれくらい遣えるの?」

 何やら意味不明な事を言われたが、とりあえず勧められるままに長机の前の椅子に腰掛ける。

「飲み物は何がいい? お茶? コーヒー? ……あ、天ちゃんは水だよね、常温の」

 女子二人もそれぞれに決まっているらしい席に着いた。流し台に向かう先輩に「じゃあコーヒーで」と遠慮なくオーダーした。

 あのよかったら、とサムライっぽい女子に小声で勧められた茶菓子に手をつけようか迷っていると、はいお待ちと言いながら湯気のあがるコーヒーカップを出してくれた。そして倭の前には本当に水が入っているらしき透明のコップが。

「さて、まずは自己紹介だよね! あたしは巴絹。二年生だから新人くんの先輩だよっ! 絹お姉様って呼んでいいからね! そんでー、こう見えて魔弓の射手だから! よろしくね!」

 まきゅう?

 俺のつぶやきに先輩は答えた。

「魔の弓と書いて魔弓。魔球じゃないよ。 ……あー、絹お姉様ったらそんなに立派なお胸なのに弓なんて引けるのって思ったでしょ? やだー、後輩くんのえっち〜」

 と、ご自分の立派なものを抱えて隠すようにする。

「は? そんなんわかんないじゃないすか。制服着てるんだから」

 俺は至極もっともな理屈で反論するが、

「えー、服着てるからわかんないって、なんかやらしー」

 何言ってんだ、ふざけんな。

「……ま、冗談はともかく、よろしくね。後輩くん」

 急に真顔になって言われた。なんか、天然なのか計算なのかわかりにくい人だな。

 すると俺の正面の背の高い女子が急にガタガタと音を立てて立ち上がった。

「わ、何どうしたのまどっちセンパイ」

 巴先輩が驚いて言う。

「いや……立たなきゃいけないのかと思って……」

 別にそんなルールないよ大丈夫大丈夫、と巴に言われてもう一度座り直す。なんかズレた感じの人だな。

「……滝まどかです。三年なので一応、部長……です。あの、自分が部長なんて向いてないと思うんですけど……えっと、あと何を言えばいいんだっけ……あ、そうか。妖刀に憑かれています。よ、よろしくお願いします」

 え、何? 厨二っぽいワード入れて自己紹介するのが決まりなの? ていうか、ここってなんの部活なんだ?

「SNK、スーパーナチュラルノックダウナーズの略です。超常現象、怪異や妖怪と呼ばれるものを退治するのが活動内容です」

 俺をここに連れてきたクラスメイトが平坦な声で説明してくれた。

「そーそ、カッコいいでしょ? あたし略称はあんまり好きじゃないんだけど長いからねー ……って天ちゃんこんな時くらいやめない? お札書くの」

 見ると、いつの間にか倭は机の上に硯や毛筆などを並べて墨をすり始めていた。お札と巴先輩が言った紙の短冊のようなものが何枚か用意されているので、あれに書くつもりなのだろう。

「わたしの名前は既に今朝述べましたが、倭天、言ノ葉遣いです。よろしくお願いします」

 ことのはつかい? そういう和風の二つ名が必要なのか? まいったな、俺は何にすればいいかな?

「いやいや、そうじゃなくて。俺そういうのちょっと疎いと言うか興味なくて。妖怪退治とか、そういうのもちょっと」

 俺がやんわりと断りを入れようとすると、

「ちょ、天ちゃんもしかして後輩くんに何も説明してないの?」

「ええ。巴絹先輩が腕ずくでも何でもいいからとにかく部室に連れてこいと仰ったので」

 すり終わった墨でお札に何やら漢字を書き始めた倭がこっちを見もせずに言う。

「いや、おっしゃったけどさぁ。だからって本当に腕ずくで連れてきたの? ねえ、後輩くんもそれでよくここまで来たね?」

 呆れ顔で言われてしまった。なんか俺まで変な人扱いされてるのが納得いかない。

「いやその……と、とにかく俺本当にそういうオカルトっぽいのはちょっと」

 そろそろ本気で断ろうとすると、巴先輩の顔に困惑の色が浮かんだ。

「え? 水無藻くんでしょあなた」

 そうですけど?

「どういう事でしょうか……ドッキリ、とか……?」

 滝先輩がおずおずと口にする。いやなんで俺がおかしいみたいな流れになってんの?

「天、何で先に連れてくるんだ。私が連行すると言っただろう」

 突然の背後からの声に振り返ると、いつの間にか入室していたナデシコが立っていた。そうだ、倭。つまり二人は。

「姉さん。巴絹先輩が同じクラスだからわたしが連れてくるべきだと。わたしもその方が効率的かと思ったので」

 やっぱりか。珍しい苗字だし、それによく見ると結構似てるんだよな。姉のナデシコが二重まぶた、妹の天が一重だから印象がだいぶ違うが、それ以外のパーツは瓜二つと言ってもいい。

 はあ、とため息をついてからナデシコが口を開いた。

「彼は、父上の言ノ葉で記憶を封じられているんだ。だから自分の能力の事も知らない」

 その言葉に俺も含めたその場の全員が驚く。いや、倭天は無反応で筆を動かしていたが。


 ……SNK、スーパーナチュラルノックダウナーズは私立黒根学園の、公式に認められている部活動だという。設立は十年前、活動内容は本当に妖怪退治なのだそうだ。

「ただし表向きは学外での奉仕活動、となっている。それと、細かく言うと妖怪にカテゴライズされない怪異も相手にするし、そもそも本当の怪異なのかどうかを調査するのが最初の仕事になることが多いがな」

 顧問のナデシコ、倭弓先生が巴先輩の淹れたコーヒーをすすりながら言う。

「えっと、その……冗談とかじゃないんですよね?」

 ここまで大人数で、しかも教師まで一緒になって俺を騙すなんてことあるはずないけどな。気を悪くするかもと思ったが、ナデシコは無表情の中に若干の興味の色を浮かべて俺の目を正面からじっと見つめた。

「……流石は父上だ。もう十年になるというのに言ノ葉がまだ働いているな」

 あの、と俺も質問をしてみることにした。

「さっきからちょいちょい出てくる、そのコトノハってのは何なんですか? それが俺の記憶を封じてるって? じゃあ俺も、その……なんか超能力みたいなのがあるって事ですか」

 ふむ、と美術教師は出来の悪い生徒を見るような目で、

「まず。言ノ葉とは言葉のことだ。妹の天は言ノ葉の力、言霊を操る言ノ葉遣い。そして私たちの父も言ノ葉遣いだった。君は子供の時に父上に能力を封じられたんだ」

 どうだ、と言わんばかりにこちらの様子を窺うが、そう言われても身に覚えがない。

「記憶を消したわけじゃない。単に忘れているだけなんだが……君は子供の頃、魑魅魍魎の類を日常的に視ていた。そうじゃないか?」

 確かに……いや、だけど、それは。

「子供の頃の空想の産物、小さい頃のごっこ遊びの記憶、か?」

 そりゃそうだろ。だって……あんな事現実にあるわけがない。道で幽霊に話しかけられたり、公園の池から河童が出てきて俺の足首をつかんで引きずり込もうとしたり。

 子供の頃に見たテレビか何かの影響で怖い空想をしたか、夢を現実と混同しているかだ。現に、小学校に通う頃にはそんな恐怖体験なんてしなくなってたし。

 そうだろ……そのはずなんだが。なぜか俺の心はどこかでそれを否定している気がした。

 動揺している俺に構わず、ナデシコはスマホをいじり始めていた。

「百聞は一見にしかず、という。どうしてもリアルに思えないなら体験入部してみるか?」

 体験入部……って? 何するんだ。

「ちょうど依頼が来た。これから我々は怪異の調査に向かう。見学してみるか、水無藻」

 ここまで聞いてさすがに気にならないわけがない。ただの見学、体験入部ならと俺は四人の奇妙な女性たち、SNKの連中に従って部室を出て山を降りる。すると何故か駐車場に着いた。

「あれ、ここに出るんすか?」

 疑問に思って尋ねる。部室は学校の裏山にあって、そこを降りてきたのに反対側、学校の表側にある駐車場に出たのだ。

「なんかねー、迷いの呪? を応用して本来辿り着くべき場所とは違う所に繋げてる……とかって聞いたよ」

 言ってる本人もわかってなさそうな顔で巴先輩が説明してくれる。

 ナデシコの車は有名なドイツメーカーのハッチバック。白いボディーが新車のように綺麗だ。先輩二人が部室から持ってきた大きな荷物を荷室に積み込んで俺が助手席に、女子三人は後部座席に収まった。

「持ち込まれたのは中学生の娘が何かに憑かれたという相談だ」

 細身のフレームの眼鏡をかけたナデシコが話し始める。憑かれた……狐憑きとかそういうのか。

「憑物というのは、非常にメジャーな怪異だ。オカルトが苦手だという君にも馴染みがあるんじゃないか?」

 俺を横目で見て言う。確かにそうだ。

「だが、そのメジャーさが逆にやっかいでな。子供の引きつけ、反抗期の暴力、精神疾患の症状を憑物と勘違いする場合もある」

 だからね、と後部座席の真ん中に座った巴先輩が身を乗り出して言う。

「今日も勘違いでしたー、で終わっちゃうかもしれないんだよ。ねえセンセ、もしそうだったらどうするの? せっかく後輩くんが参加してくれてるのにさ」

 ナデシコはちらと後ろに視線をやり、ちゃんと座れと注意してから、

「別にどうもしない。怪異かどうかの見極め調査も我々の活動の一環だ。それを見てもらうのも意味はあるだろう」

 やがて車はありふれた二階建ての家の前で停車した。建て売りらしき家屋にささやかな庭、一台ぶんだけの駐車スペースにはシルバーの軽自動車が停まっている。

「仕方ないな、この先にあるパーキングに停めてくるから待っていてくれ」

 路上駐車を良しとしない美術講師は走り去った。それを見送る俺たちの背後でピンポン、と音がした。

「ちょ、巴さん……先生がまだ」

 滝先輩の静止も構わず、

「いーじゃん、先に入ってようよ。 ……あ、こんちはー。SNKでーす」

 なんて言いながら上がり込んでしまった。

 俺たちを迎え入れてくれたのは何かに憑かれたという中学二年生の娘の母親。急に様子がおかしくなったという我が子を心配しての心労がはっきりと見て取れた。ありふれた玄関から奥へと廊下が伸びている。掃除は行き届いているがどこか薄暗く感じられた。それは気のせいかも知れないし、目の前の母親の暗い表情のせいかも知れない。

 通された応接間のソファに腰掛けた俺たち四人。

「あの、娘の様子が急におかしくなって……ほんの三日前までは普通だったのに……病院でも原因がわからなくて……今朝はもう完全に話も通じなくなって。まるで……」

 藁にも縋りたいってやつなんだろう。母親は高校生四人だけの胡散臭い俺たちに対して、聞かれもしないのに事情を語り始めた。

「まるで、妖怪のよう?」

 母親のあとを引き取るように巴先輩が言った。多分、雰囲気に合わせてそれっぽい事を言いたかったんだと思う。

「いえ、妖怪というか……なんだか動物のようで」

 母親は困惑したように言う。

「なるほど、動物霊が人に取り憑くのはよくある事です。安心してくださいお母さん。あたし達が娘さんを助け出してみせます!」

 能天気に胸を叩く巴先輩を心配そうに滝先輩が横から口を出す。

「巴さん、そんな勝手に……先生に聞いてからの方がいいと思うんですけど……」

 何言ってんの、と心外そうに、

「ウチに依頼きてるんだから別に許可なんて必要ないじゃん。それに、あたし達がやるんだから絶対に解決する。そうでしょ?」

 どうよ、と倭の方を見る。

「まずは、本当の怪異かどうかを見定めてからです。狂言や精神疾患の可能性もありますし」

 平気で言いにくい事を言うおかっぱ頭。巴先輩がいや何言ってんの天ちゃん、とか言ってると、天井からどん、と大きな音がした。続いて低く唸るような声……肉食獣が威嚇するような。

 その場の全員が顔を見合わせた。

「娘です。部屋に籠ってしまって、時々こんな音がするんですが決して中には入れてくれず……食事も摂らずに」

 心底心配そうな顔の母親。そりゃそうだよな。

「二階ですね? 様子を見させてもらいます」

 ソファから立ち上がる巴先輩。俺もそれに倣う。

「さ、さすがにそれはまずいのでは……先生がまだなのに」

 滝先輩が止めるが、状況がかなり切迫しているのは確かだと思う。

「まどっちセンパイ。様子を窺うだけ、行動はしない。センセーが来る前に状況確認だけはしとこうよ。 ……ひょっとすると娘さん、もう危険かもしれない」

 その真剣な表情でわかった。巴先輩は手遅れになるのを恐れているのだ。それに倭も同意する。

「わたしもそう思います。先に様子見をしておいて姉さんが到着したらすぐに指示を仰げるようにしておくのが良策かと」

 天さんがそう言うなら、と滝先輩も従う。リビングを出て、階段へ。足音を忍ばせるようにして上がるとすぐ目の前に『Yuika』とネームプレートがかかったドアがあった。最後尾に居る母親に確認するように目線を送ると無言で頷く。何かに取り憑かれているという娘の部屋で間違いないらしい。

「後輩くんとお母さんは後ろに」

 SNKの三人は慎重にドアに近づく。先程まで聞こえていた物音も唸り声もやんで静まりかえっている。巴先輩が思い切ったようにドアをノックする。

「ゆいかちゃん? ちょっといい?」

 返事はない。獣のような声もしない。

「開けるよー?」

 巴先輩がドアノブに手をかけた瞬間ドアが勢いよく開き、中から茶色い何かが飛び出してきた。

 それは廊下に四つ足をついて低く周囲を威圧するように唸り声をあげた。茶色く短い毛並みの、人間大の獣。前足の大きな爪がフローリングの床に当たってゴリッと音がした。

 俺たちが何かをする間もなくそれは、横手にある窓を体当たりで破って外へ飛び出してしまった。

「逃げた! 追わなきゃ」

 慌てて階段を駆け降りる。玄関へ向かう短い廊下でナデシコと出くわした。

「センセー! 本当になんか憑いてた! けど逃げられちゃった!」

 言いながら外へ飛び出る。周囲を見回し、居ないかくそ、とか言ってる。

 ナデシコが母親に自分の身分を説明して、責任を持って対処するので待っていてくれと言っている。母親は納得したと言うより放心してしまったようで、どうしたらいいのかわからずにただ頷いているようだった。

 さあどうする、と他人の家の門前で円形になった五人。

「姉さん、わたしのミスです。言ノ葉で部屋の外から事前調査をするべきでした」

 倭が苦しげな表情でナデシコに頭を下げる。

「いえ! ……あの、自分が、その……部長としてその」

 滝先輩が何やら自己批判しているのを巴先輩が遮る。

「まどっち先輩は反対してたじゃん。あたしが先に行こうって言ったのが悪いんだよ」

 ナデシコは無表情で三人の教え子たちを見回し、

「責任の所在を決めたところで現状の問題解決には何も役に立たない。そんな事よりも対象の情報を。何が憑いているのかが分かれば対処の方法もわかるはずだ」

 いやいや。

「あれはもう憑物ってレベルじゃないでしょ。完全に妖怪化してましたよ。茶色い毛並みのでかい犬っていうかイタチみたいなやつ」

 俺が冷静な目撃証言を伝えると、女子生徒三名がギョッとしたような顔になった。倭天も珍しく驚いた顔になっていたのでこっちが少し驚く。いや、俺だって現場にいたんだからそりゃ見てるよ?

「こ……後輩くん? 何を言ってるの? イタチ?」

 巴先輩が気味の悪そうな顔をする。失礼だな。俺が不思議そうにしていると、

「水無藻刀哉さん。あなたには、そんな姿の妖怪に見えたのですか。あの少女が」

 倭が俺の目を探るように見て言う。

「え? だってどう見たってでかい獣としか言いようがないやつだったじゃないか。牙むき出して、前足にデカい爪があって……。あんなの人間なわけない」

「あの、水無藻くん……自分たちが見たのはパジャマ姿の少女です。髪を振り乱して狂気じみた表情ではありましたが、どう見ても人間……でした」

 どういう事だ? 俺は確かに獣みたいな奴を見たのに。まさかこの状況で冗談なんて言わないだろうし……三人とも真剣な顔でこちらを窺っている。

「いや、別に不思議な事じゃない。やっと怪異を認識しただけだろう」

 言いながらナデシコはスマホを操作し、これじゃないかと俺に画像を見せた。

 それは目を剥き出して牙をむいた、犬とも狐ともつかない何とも言いようのない獣の絵だった。前足に一本ずつ大きな爪が生えている。

「そう、ですね。これだと思います」

 俺が見たアレを伝聞に想像や脚色を加えてイラストにしたらこんな感じになる気がした。

「わいら、という妖怪だこれは。外観はいくつか種類があるが、どうやら間違いなさそうだな」

 しかし……とナデシコは眉をひそめた。

「わいらが人に憑く、など聞いたことがないな」

 そうですね、と倭も同意する……いや、どっちも倭か。妹の天が姉に頷いた。

「最近、おかしな事が多いよね。何か強い妖怪が動き始めてるのかな?」

 という巴先輩の言葉に、そうかもなと軽く頷いて、

「観測結果が出た。 ……ほう、どうやら対象には計画性がないようだな。能力持ちが何人もやって来たから危機回避でその場を逃げ出した、といったところか」

 さて、と息を吐き、

「面倒だが、駐車場まで急いで移動だ」

 全員が走ったおかげでものの数分でナデシコの車が停まったコインパーキングに到着。すぐにエンジンをスタートさせる。

「で、センセ。わいらはどこに居るの?」

 身を乗り出す後部座席の巴先輩を、ちゃんと座れと横目で睨んでから、

「わいらと言えば山だ。ちょっとした皮肉だが……」

 と、ナデシコは笑った。唇の端を持ち上げる、いかにも皮肉そうな表情で。

「……黒根学園の裏山に居るらしい。既に結界を展開してもらった。効果がきれるまでに間に合わせる。ちょっと飛ばすぞ」


 なかなかのドライビングテクニックで学校へと疾走するナデシコの愛車。

 俺は、ついさっきとは見ている世界が一気に変わってしまった気分だった。何しろあんなものと出くわしてしまったあとでは妖怪がフィクションや迷信だなんて思えない。確実に、あの化け物は居る。妖怪なんていう空想の産物、迷信の代表みたいなヤツは実際に存在するのだ。そして……これからアレと戦うんだ、この女子三人と美術講師は。

「時間を節約しよう。天、おあつらえ向きに対象は部室の近くに潜んでいる。ここからなら、行けるな?」

 ナデシコの言葉に後部座席の妹は頷き、バッグから札を取り出した。

 見ると、そこには『繋』の文字が毛筆で書かれていた。そこに重ねるように天は右手の人差し指を立てて動かす。その動きはゆっくりと確実に、宙に青白い光の筋を残し、それは『栖』というあまり見慣れない文字になった。完成したその文字の光が一瞬強くなったと思うと、そのまますうっと札に吸い込まれるようにして消えた。見ると、札にあったはずの文字も消えている。

 すると突然、目の前に何本もの木々が現れた。正面衝突を避けるべく急ハンドルを切るが、車は盛大な衝突音を立ててボディ右側を樹木にぶつけて停まった。

「な、何が……」

 突然のことで訳もわからずにいると、

「水無藻、早く降りてくれ。こちらのドアは塞がっているんだ」

 ナデシコが無表情で言う。確かに右側はかなり凹んでしまっている上に、大きな木にめり込んでいるのでどうやっても開きそうにない。いや普通に大事故じゃんか。

 早くしろ、と繰り返してナデシコは赤いフレームの眼鏡をかけた。いや視力悪いなら運転する時にかけろよ。

 顧問の言葉に従って車外へ出る。そこは学校の裏山、SNKの部室のすぐ近くだった。女子三人はすでに降車しており、自分たちの荷物を開いたりして準備を始めている。

「センセ、わいらはどこ?」

 朱塗りの弓を手にした巴先輩が緊張感のある声で言う。

 ナデシコは再びスマホを取り出して、

「近いな。 ……だが、移動している。こちらに気づいて逃げ出したか」

 そりゃあれだけ派手にやればな。

「先生、わいらはあまり好戦的な妖怪ではないのでしょうか?」

 日本刀を手にした部長の質問に、早速移動を開始した顧問は歩きながら答える。

「正直、わからん。そもそもわいらという妖怪自体があまり詳細のわかっていない怪異なんだ。特に今回は人に取り憑くという、今までに例のないことをしているしな。ただ……」

 言葉を途切らせたナデシコはスマホの画面に、どうなっているんだとつぶやく。

「どうしたんです?」

「対象の反応がロストした。どうなっている? わいらはステルス能力でもあるのか?」

 マジか。昨今の妖怪はそんなにハイテクなのか。

「ログからすると四〇秒前までこの付近に居たことは確実なんだが」

「どういうこと? どこかに隠れてるの?」

 あたりを見回すが、わいらの姿は見えない。山中には茂みなど身を隠せそうなところは多いが、どうなのだろう。大きさは人間と同じくらいだったが、そもそもナデシコのスマホがどうやって妖怪を探索しているのかがわからないから何とも言えない。

「姉さん、先程言いかけた続きを。わいらの生態について知っておくのは有益ではないかと」

 そう言う妹に振り向いたナデシコはそうだなと頷き、

「わいらは山中に潜み、大きな爪で穴を掘ってモグラを捕食したり、人間を食料にすることもあるらしい。だから油断するなと……」

 その言葉に、その場の全員がハッとした。小さな茂みの奥、目立たない場所に掘られた穴から何かが勢いよく飛び出てきた。それは茶色い毛皮に覆われた獣。自分の掘った穴に潜んでいたわいらが奇襲を仕掛けてきたのだ。

「散ッ!」

 気合のこもった声とともに巴先輩の弓から赤く光る点がいくつも飛び出す。そのいくつかが相手の身体に当たった。奇襲に失敗した妖怪は急いで後退する。

 四つん這いで低く唸り、こちらを警戒するようにする様はまさに獣だ。

「これが、わいらか……」

 噛み締めるように言うナデシコに朱塗りの弓を構えた巴先輩が、

「どういうこと? さっき見た時は人間だったのに」

 そうか、みんなにはそう見えてたんだったな。

「なるほど、水無藻に視られてそれを伝えられたから……つまりは言ノ葉か」

 ナデシコが一人で納得したように言う。その傍らで滝先輩が何やら唱え始めた。

「……刃に宿りし荒御魂よ、その魂を鎮め我に力を与えよ。まもりたまえ さきわえたまえ 我が名は……魔導歌」

 滝先輩が口にする呪文のような言葉に応じるかのように彼女の手にする刀の凶悪な力が鎮まっていくのがわかった。

「……抜刀」

 鞘から解き放たれた刀は、それでもなお禍々しい力を周囲に撒き散らしていた。

 明らかに不穏な刀を手にした部長をナデシコが制止した。

「待て、わいらに取り憑かれた中学生がどうなったのかが不明だ。もし一体化してしまっていたら妖怪と一緒に殺してしまうかもしれん」

 その言葉に、三人とも慎重な顔つきになった。そうだった。女子中学生に取り憑いてたんだったな。

「では言ノ葉で」

 と札を取り出す天を姉がとどめた。

「いや待て待て、札は温存するに越したことはない。今日はあまり書いていないのだろう?」

「そうですが……ではどうやって」

 ナデシコは困惑する天から視線をこちらに向けた。

「水無藻。君が視てくれ」

 は?

「君は怪異を視る能力が非常に強い。父上の遺した記録によると幼い頃には日常生活に支障をきたす程だったらしい。だから、能力を封じた……いや、自分の能力を信じられないようにしたんだ。暗示のようなものだが、おかげで君は怪異を視たり不用意に実体化させて身の危険を招いたりする事が無くなり、一般人と同じように生きてこられた。

 だが、それはいつまでも保つものではない。気づかざるを得ないほどの怪異に出逢えばそれまでだ。と言うより、既に解けかけていんじゃないか?」

 三人がわいらを牽制しつつこちらを気にしている。ナデシコは俺の目を正面から覗き込んできた。誤魔化すんじゃないぞと、心の中まで見透かそうとするかのように。

「いや、俺は……」

 往生際悪く反論しようとした俺の言葉に被せるようにして、

「刀哉。そろそろ目醒める頃合であろうな。恐れるでない。拙者はずっとそばに居たのだぞ」

 俺の耳元すぐ近くで声がした。

「…………!」

 慌てて声の方へ顔を向けると、そこにはちっちゃな侍が浮かんでいた。

「久しぶり、なのであろうな。お主の感覚からすると」

 甲冑に身を包み、ちょんまげを結って髭を生やした三〇センチくらいの大きさのおっさんがあぐらをかいて宙に浮かんでいるのである。

「……誰?」

 俺の言葉にサムライのおっさんは器用に空中でずっこけてみせた。

「刀哉、巫山戯るでない! 拙者じゃ、刀尋じゃ!」

 とうじん……その名前が俺の頭の奥の方に響いた。

「と……いや、お前が? 昔はもっと可愛い感じじゃなかったか?」

 よく覚えていないがもっとこう、子供に愛されるキャラクター的なヤツじゃなかったか? 少なくともこんなおっさんじゃなかったはず……そうだ、羊さんだったぞ。もこもこしたやつ。

「刻が流れた、ということであろうな」

 いや、いくら老けたからってこんなおっさん侍にはならねえだろ。

「そうではない、拙者は歳をとらん。刀哉、お主が歳を重ねたという事よ。いつまでも童ではないと言う意識が拙者の姿をこうしたのであろう。ともあれ」

 と、刀尋は俺の背後を指さした。

「あまりご婦人方を待たせるものではない」

 振り返ると、四人が揃ってこちらを見ていた。わいらから完全に視線を外さないように注意しながら、横目で。

「その遣い魔についても父上が書き遺している。そいつが現れたということはやはり、もう能力は目覚めているのだな」

 ナデシコの言葉に、俺より早く刀尋が答える。

「おお、先生。拙者は遣い魔などという下級なものではありませぬぞ。水無藻という特別な家を護る為に遥か昔から寄り添ってきた、そう。大河の堤防の如きもの。名を水無藻刀尋と申す」

 いやお前も水無藻だったのか。

「何を言ってるかわからないが……何にしろ水無藻の能力はもう戻っているのだろう? だったらあの妖怪が取り憑いている人間がどうなっているか視てくれ」

 急がせるナデシコに、

「やれやれ、父君に比べるとやはり見劣りするようだ」

 小声ではあるが相手に聞かれるように言ったに違いない刀尋。

「何だと。遣い魔が生意気に」

「違うと言っておろうに……まあ良い、刀哉。あれなる怪異、お主はもう見切っているのであろう?」

 憤慨するナデシコを尻目に刀尋はこっちのハードルを上げてくる。いや何言ってんだ、見切るって何だよ。

「わいらなぞ、さして格の高くない怪異じゃ。お主の眼を誤魔化せる程の力はあるまいよ」

 マジか。俺、そんなにすげえのか? そう言えばさっきナデシコもそんなこと言ってたか。能力が強すぎたから封じたとか。

「危ない!」

 滝先輩が叫ぶ。わいらがこっちの注意が逸れている隙をついて襲いかかってきたのだ。

 妖怪は標的を天に定めたようだ。素早い、肉食獣のような身のこなしで飛びかかる。

「させるか!」

 素早く正面に回り込んだ滝先輩が刀でわいらの鋭い爪を弾き返す。刀を逆刃の状態にして峰打ちにしている。再び後ずさる妖怪を巴先輩の赤い散弾が襲う。さらに距離が開く。

「ねえ後輩くん、視るなら早くして! 女の子がどうなっているのかわからないと対処のしようがない!」

 いやそう言われてもな。

「刀哉。先刻も申したが、お主の眼で見抜けぬ怪異などないのだ。自信を持つが良い。ただ自分を信じて心を鎮めよ。それだけであれなる怪異はそなたに全てを曝け出すであろう」

 さらけ出すであろうって……そういうもんか? 

 試しにわいらを睨んでみる。身を低くして唸り、こちらを威嚇している。特に変わった点は……いや、額のあたりに青白く光る玉のようなものがあった。さっきまであんなものはなかったはずだ。そして……居た。わいらの腹の中に膝を抱えて丸くなっているパジャマ姿の少女が。大きさが赤ん坊くらいになっているがきっと物理的な法則とかは無視されるんだろう。

「ナデ……いや先生、腹の中に体丸めたパジャマの女子が見えたんすけど」

 腹の中……取り込んでるのか? と小さく呟き、

「まずいな……どの程度一体化しているかによるが、下手に攻撃すると人質が危険だ」

 人質ってのは正しい表現だな。自分の中に飲み込むとか赤ずきんちゃんみたいな事しやがって。

「そうなると……まずは人質を吐き出させてからですね」

 峰打ちに構えた刀を手にした滝先輩がやる気を見せる。

 何かを言いかけた天をナデシコが目で制した。

「水無藻。君はどう思う? その子は腹から吐き出させてやれば救えるだろうか。君には、どう視える?」

 いやそんな事言われても……返事に困って視線を泳がせる。天は任せます、みたいな顔をしていた。巴先輩は何だか知らんが両手を握って小声で頑張れ、とか言ってきた。滝先輩は、と見ると何だか真剣な顔で力強く頷いている。いやどういう意味だよそれ?

 一番事情がわかってそうな、ちっちゃなサムライを見ると、

「刀哉、お主の視たまま感じたままを告げるが良い。あの妖刀持ちの娘が妖怪の腹を横ざまに思い切り叩きのめしてやったらどうだ? 腹の中の娘を吐き出すと思わんか?」

 そう言われてみると確かに、そんな状況が想像できた。

「そう、だな。なんか、あの刀でブチかましたらいけそうな気はするけど」

 俺の無責任な言葉に、何故かナデシコはよし、と大きく頷いて妹に向き直った。

「天、今のできっとわいらは腹に少女を飲み込んでいる、という言ノ葉に縛られているはずだが……もう一押ししておこう。専門家の能力で完全に縛りつけてやれ」

 はい、と天は宙に指を走らせる。青白い光の線はゆっくりとした動きながら確実に、ひとつの文字を形作る。

 やがてそれは『現』という文字になった。

「大いなる和の名の下に命じる。彼の者の幻視を現に表せ!」

 『現』の文字が強く輝き、そして消えた。

「よしやれ!」

 ナデシコの号令を受けて刀を構えた滝先輩が走る。一気に妖怪との距離を詰める。

「散!」

 巴先輩の弓から赤い光点がバラバラと放射され、わいらの動きを止めた。その隙に妖怪の懐に飛び込んだ滝先輩の妖刀が思い切り腹を打撃する。ごぼっ、というような音とともに少女が吐き出された。

「本当に出てきた……」

 これ、俺の想像を現実にしたって事なのか? それって天の能力がすごいって事だよな?

「刀哉、覚えておくが良い。妖怪、あやかしというものは現世の理にとらわれぬ、あやふやなものじゃ。だが、お主が視ることによって妖はこの世に縛り付けられる。それをあの娘の言ノ葉が更に後押ししたというわけよ。お主の眼は、妖怪にとっては最大の足枷、障壁なのじゃ」

 よくわからんが、役には立ったんだな。

 パジャマ姿の女の子は力なく倒れている。すかさずナデシコが走り寄って保護する。水無藻、手を貸せと呼ばれたので俺も駆け寄る。地面に倒れた少女は血の気が失せて気を失っているが、怪我はなさそうだし呼吸もちゃんとしていた。俺が背負って妖怪から距離をとる。

「さあお前ら、思い切りやっていいぞ!」

 その言葉に三人は行動を開始する。

 天は札を三枚立て続けに投げる。それは空中に『攻』の文字を浮かび上がらせてわいらにダメージを与えた。

「貫!」

 巴先輩の朱塗りの弓から細い赤く光る矢が放たれた。一直線に飛んだそれは空を切り裂き、わいらの身体を貫いた。苦しげな悲鳴をあげる妖怪。その隙に滝先輩が一直線に懐へ飛び込み、妖刀を横払いに一閃する。

 胴を真っ二つにされたわいらは短い断末魔をあげ、強い輝きを一瞬だけ発して、消えた。

「ふう……なんとかなったね。退治完了っ!」

 巴先輩が額の汗を拭う。一件落着らしい。ところが、そのムードを無視するように天は無言で部室へと戻っていった。他のみんなもまだどこか中途半端な表情に見えた。

「まだ、場の浄めと縁切りが残っている。これは天にしかできない仕事だからな」

 これからその為の札を書いてわいらが倒されたこの場所と妖怪との縁を切らなければならないのだという。

「なんでそんな事を? もうあれは退治したんですよね?」

 退治というのは、とナデシコは落ちている枝を拾って地面に突き刺した。

「草木の地面から出ている部分を折り取って見えなくするだけの行為だ。確かにそれで怪異はこの世から消え去るが、根っこは残っている。やがてまた芽が出てこの世に現れる」

 そういうものなのか。

「じゃあ結局、その場凌ぎでしかないって事ですか」

 俺の質問にナデシコは皮肉めいた笑顔になった。

「人の能力の及ぶ範囲なんて、その程度だ。だが普通の人間には妖怪を視ることすらもできないのだからな。君は特別な人間だ。それは自覚しろ」

 ええまあ、と俺は煮え切らない返事をした。それはそうなんだとわかったんだが、まるで実感がないというのが本音なんだ。

 何しろ急にこんな……と傍らの小さなオッサンを見る。

「古来より、妖怪退治とはそうしたものよ。その怪異を完全に消し去るには『核』と呼ばれる妖力、魔力の元を断ち切るより他に無い」

 核か……とナデシコは皮肉な笑みを更に深くする。

「実際にそんなものがあるのか、誰も視たことのない云い伝えのようなものだがな。完全に怪異を消しされれば天も後始末が必要なくなって楽だろうが……」

 ところで、と巴、滝先輩二人に向き直った。

「二人には、あの遣い魔はどう視えるんだ? 私には白っぽい光点にしか視えないんだが。どうやら人間体をとっているようだな」

 ナデシコの言葉に驚いて刀尋を見る。めっちゃハッキリとおっさんサムライなんだが。

「ええと……武士に視えますが。鎧を着て刀を腰にさしているので……」

 うんうんと巴先輩も頷いているのでちょっと安心する。こいつは俺だけに見えてる訳じゃないんだな。

「そうか。やはり能力に応じて視え方が違うのだな。水無藻」

 はい?

「これから学校へは必ずその遣い魔を連れてくる事。そして、それが視える人間が居たら即、私へ報告するんだ。いいな」

 どういう事だ?

「この学校には、能力を持っている可能性のある人間を集めている。本人が気づいていない場合もあるし、周りに隠している者も居るが、能力持ちはどうしても怪異の危険に晒されやすいんだ。向こうも気づいてくれる人間に寄ってくる傾向があるからな」

 ああ、なるほど。つまり刀尋を能力者探しのレーダーにしようって事か。

「札が書き終わったようだな。さて、儀式の準備をするか」

 部室から出てきた妹を見て、ナデシコが言った。

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