第3話

 その日の夜は眠れなかった。心臓の鼓動がうるさい。煩わしくて仕方がない。


 脳内で、さくらの声が鮮明に反芻された。


『敗北に慣れてる』


「うるさい……さくらには私の気持ちなんて分かんない……!」


 息苦しい。海に溺れたみたい。もがいても、もがいても、日の目を見ることは叶わない。這い上がることは叶わない。弓道なんて、もう……。


 そうして気づかないうちに、私は眠りに落ちていた。




 朝目覚めると、まだ外はほんのり暗かった。部屋は青色のカーテンが映し出した光で海の底みたいな色に染まっていた。ああ、本当に溺れたんだ、私は。


 早朝、五時。二度寝する気にもなれず、私はベッドから起き上がった。適当に朝ごはんを食べて、支度をして、六時前には家を出る。朝、こんなに早く家を出るのは初めてだ。実は今日、学校に着いたらやろうと思っていることがあった。


「おはようございます。失礼します」


 朝の道場挨拶。私は弓道場に足を踏み入れた。そこには、独特な静寂が漂っていた。朝練なんて、初めて来たな。


 スパァン——!


 私はその音にびっくりした。矢が的を射抜く音。誰か、引いてる。てっきりこんな朝早くに人はいないと思っていたから、私は恐る恐る道場の射位を覗き込んだ。


「……ダメだ。こうじゃない」


 私が大好きな射形。それなのに、その表情は歪んでいる。


「さくら……?」


「ん? 悠希、おはよう。朝練来たの?」


 振り返ったさくらは、少し驚く様子を見せたけど、すぐにいつもの調子に戻ってそう言った。


「うん、おはよう……」


 知らなかった。さくら、朝練来てたんだ。しかも、こんな早くから。


「朝練、いつもやってるの?」


「うん。二年に上がったときから、毎日来てるよ。一日でも休むと、体が鈍っちゃって全然引けないからさ。お母さんには、たまには休めって怒られるんだけどね」


 毎日、朝練。私なんて、今日はたまたま朝早く起きたから思いつきで来ただけなのに。


 さくらが矢をつがえる。スッと伸びた背筋。的を見据え、丁寧に弓を打ち起こす。私は見惚れていた。凛としていて、美しい。


 離れが出て、弦音が音高く響いた。その矢は、——的の少し上にささった。


「ダメだなぁ、まだ」


 さくらは、はぁっとため息をついた。あんなに綺麗な射形でも、抜くことがあるんだ。


「引かないの?」


「引く!」


 私は急いで着替えて、弓に弦を張って、胸当てをして、ゆがけを右手につけた。矢を二本持って、弓を左手にしっかり握って、的前まとまえに立つ。


 矢をつがえて、的を見据え、丁寧に弓を打ち起こす。ゆっくり、ゆっくり引き分ける。そして、会についた瞬間。


 一秒と待たずに、私の弽は弦を離した。放たれた矢は、的の下にささった。


 やっぱり。朝練なんて来てみても、そう簡単には変わらない。


「ね、会何秒もてるか勝負しよ」


 そんなとき、さくらがそう言った。


「え? 無理だよ、私、早気だし」


「そんなことないよ。案外持てると思うよ」


 私は彼女の思いつきに乗っかって、一度引いてみることにした。


「負けた方がジュース奢りね」


「ええっ」


 二人で呼吸を合わせて打ち起こす。そして同時に会につく。


 あれ? と思った。会が持てる。伸びあえてる。久しぶりの感覚だった。


 カアン、さくらの弦音が響いた。私は十分に狙いを定めて、弦を離した。


 スパァン——!


「嘘……中った……」


 私はぼんやりと的を眺めていた。


「何だ、ちゃんと持てるじゃん」


 ふとさくらの放った矢を確かめようと目を凝らすと、その矢は的の枠を貫通しているらしかった。さくらは弓立てに弓を置きながら、自嘲気味に笑う。


「あれは外れだなぁ。的蹴った」


 的枠に矢が掠ったりすることを、“的を蹴る”という。


「たまには、こういうのも新鮮でいいね」


「あの、ありがとう」


 私はさくらにそう言った。


「会の感覚、さくらのおかげで掴めた気がする」


「ならよかった。ジュース何がいい?」


 さくらは笑って聞いてきた。


「朝練終わったら、自販機に行こう」

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