第31話 三十章 アリバイとかトリックとか、そうそう簡単に作れるもんじゃない
白根澤の腹で丸くなっていた音竹は、静かに立ち上がる。
「伸市君! 大丈夫か。ひどい目にあったな」
篠宮の問いに、音竹は落ち着いて答える。
「大丈夫です、篠宮先生。でも、落ちたおかげで、頭がすっきりしました」
「あ、いや、そうは言っても、上から落ちたのだから、念のため診察しないと」
「その必要はない」
焦りを隠さない篠宮に、蘭佳が立ちふさがる。
今日もまた七センチヒールのパンプスを履いている蘭佳は、篠宮と目線が同じ高さだ。
「私が診た限り、身体に関して全く問題はないぞ」
「な、なんだ、君は」
「しがない町医者さ」
ぶわさっと髪をかき上げる蘭佳に、篠宮は舌打ちをする。
侮蔑と苛立ちが隠しきれていない。
「あ、はい! は――い! 俺も医者だぞ。なんなら携帯型のNIRS脳計測機器使う?」
さっきまで、公園内で遊んでいた、氷沼が手を挙げる。
「なんだよ、何なんだ君たちは!」
加藤は音武の側に立ち、篠宮を見据える。
「俺は養教。子どもの心身を守るものだ。音竹伸市の心の重さを失くすため、あの日の再現をした」
篠宮の眉間に皺が寄る。
「あの日、だと?」
「そうだ。あんたが自分の母親の篠宮啓子を殺そうとして、あのアパートに火を点けた。それを見た音竹少年は、ショックですべり台から転落し、ケツの骨を折った。あの日だ」
小さく「ヒッ」と声を出したのは、音竹の母樹梨だ。
篠宮は、額の汗を拭こうともせず、加藤に向かって吠える。
「馬鹿な、ことを。だいたい、あの日かどうかは覚えていないが、母の住居が火事になった日なら、警察の連絡を受けたのは、出張先だったはずだ。だいたい、実の母親を殺すなんて……」
「見てみるか?」
「え……」
「篠宮啓子の部屋、事件当時のままだ」
ぞろぞろと、一同はアパートに向かう。
「ああ、大家に連絡しておいたから、鍵は開いているぞ」
そう言った今野が、ドアノブに手をかける。
「あの、さっき、炎が……」
音竹母が、ためらいがちに言う。
だが、開けたドアの先には、長らく誰も住んでいない、湿った空気が流れて来るだけだった。
火事のあとを偲ばせる、畳の焦げた跡がある。
割れた窓ガラスの代わりに、新聞紙が貼ってある。
「あれ、何も、ない」
訝しそうな音竹母に加藤は言う。
「そりゃそうだ。炎が上がったのは、この隣の部屋だ」
ほんの僅かに、篠宮の表情が動いた。
隣室から、何かが燃えた匂いが漂って来た。
加藤を先頭に、皆、隣室へと入る。
床には消火器から撒かれた、白い泡が残る。
窓際には、溶けたロウソクの残骸があった。
「ここが、火元……」
長尾がじっくりと室内を見る。
「そうだ。実験のために、この部屋は俺が借りている。リフォーム代込みで」
「あらあ、せいちゃんてば、夏の賞与つぎ込んだのね。消えたわね、お金」
「ほっとけ」
加藤は窓際のロウソクを指しながら、篠宮に言う。
「あんたのアリバイは、これだよな」
「ロウソクで、アリバイ? どうやって」
篠宮は唇を歪める。彼の瞳は左右に動く。
「あんたは実の母親の篠宮啓子と、火を扱う教団に出入りしてた。そこで知ったんだ。
ロウソクは一本だけじゃなく、何本か一緒に火を点けると、爆発的に炎が上がるってことを」
「だから何だ。もし私がその場にいたら、炎に巻き込まれたかもしれないだろう。そして、火事が起こった時間には、多分新幹線に乗っていたはずだ」
加藤はポケットから何かを取り出す。
それは防災用の不燃シートだった。
「それぞれのロウソクを不燃物で囲って、あとから不燃物を取り外した。そう、あんたが新幹線に乗っている時間に」
「取り外すって、どうやって!」
音竹母の顔色が悪い。
「不燃物と窓の外のバルーンを結び、バルーンを外から引っ張る。そうすれば簡単に、不燃物がはずれ、何本かのロウソクの火は、高く燃えがるのさ。
俺はさっき、すべり台の上で、バルーンに繋いであった紐を引っ張った」
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