第30話 二十九章 脂肪、それは母の愛に似ている、かも
音竹伸市は、すべり台に向かって歩き始めた。
一歩一歩、地面を踏みしめながら。
加藤は、台の上で音竹を待つ。
眼下では、白根澤の心配顔が見える。
音竹の母と伯母は、何やら言い合っているようだ。
風が吹く。
この時間に吹く夏の風だ。
アパートの窓の、黒いバルーンが揺れている。
「先生」
音竹が登り切った。
声が少々震えている。
「怖いか?」
「はい……。想い出したんです、僕。だから……」
加藤はいつの間にか手に、紐を持っている。
「君は、ここで見たんだね」
「はい。だから、僕は落ちた。怖くなって、足を踏み出して……」
「もう一度、確かめて良いか?」
「確かめる……というと、あの時と、同じことが?」
加藤はコクリと頷き、音竹の瞳を見つめる。
「君が嫌なら、止める」
音竹の喉が上下に動く。
「お願い、します」
加藤は手に持つ紐を、ぐっと引っ張る。
アパートの窓で揺れていたバルーンが、ふわふわと公園の方へ飛んで来る。
その時である。
ドゴン!!
アパートから、爆発音が聞こえた。
同時に火柱が、窓を割る。
音竹は、目を閉じ、両手で耳を塞ぐ。
公園にいた人たちも耳を押さえ、蹲る。
音竹の顔色が白くなり、体は芯を失くしたかの様に、足元から崩れる。
加藤は音竹を抱き寄せ、体を支える。
「大丈夫だ。火は消えた」
確かに窓の向こう、複数の人が動いていた。
白煙が上がったので、消火器を使ったのだろう。
立ち昇った炎は消え、煙だけがたなびいていた。
「よ、かった……」
加藤の腕の中で、音竹の力が、ずるっと抜ける。
そうか、こうして、彼は転落したのか。
ならば。
「聞こえてるか?
飛ぶぞ。一緒に!」
加藤は音竹を抱えたまま、すべり台の上から、空中へ飛び出した。
後に、音竹伸市は語る。
「僕はその時、羽が生えたように感じました」
およそ百五十センチの高度からの飛行は、すぐに地面とコンニチハだ。
加藤は四十キロくらいの音竹の体を抱えて、地面に着地が出来るのか!
「せいちゃん、こっちこっち!」
白根澤が大きく両腕を広げて、加藤を呼ぶ。
迷うことなく加藤は、音竹の体を白根澤に任せた。
白根澤以外の、例えば憲章が手を広げていたら、勿論任せなかったろう。
落下した物体を受け止める側には、莫大な力がかかる。
重力とは、べらぼうに偉大なものなのだ。
だが、白根澤の肉体は、重力をものともしない、柔軟なモノで覆われている。
そう。
脂肪である。
彼女の皮下脂肪の容積は、計り知れない。
よって、音竹の落下時の音は、「ドン」でも「ガン」でもなかった。
ボヨン!
あたかも子宮の内部のような、温かく柔らかい物体の上で、音竹は目を開く。
それは、音竹にとって二度目の生誕である。
長い間、頭に巣食っていた靄が、晴れた瞬間でもあった。
「あ、白根澤先……」
「大丈夫よ。あなたも、私も」
加藤は自力で地面に降り立ったので、足の裏がじんじんしていた。
「しんちゃん!」
音竹の母が、駆け寄って、音竹を抱きしめる。
「大丈夫だよ、母さん」
音竹母の横に、伯母の長尾もいる。
「こんにちは。あ、初めましてか。私は長尾亜都子。あなたの伯母さん」
音竹は頭を下げる。
「お名前は、知ってます」
「びっくりしたわよ。いきなり落ちるから」
長尾は加藤を睨む。
「落ちたんじゃない。飛んだのさ」
「アホか、誠作」
「アホだな」
「間違いない」
なぜか蘭佳と長尾は一緒に加藤を貶している。
まあ、いい。
音竹の顔から、憂いの影が薄くなっているから。
「オイこら、お前、養教だったな」
いきなり加藤を「お前」呼ばわりする、男の声が聞こえた。
「こんな、こんな乱暴なことを生徒にするなんて、訴えてやるぞ」
鼻息荒く言う男は、いつもの澄ました顔を赤くした、篠宮であった。
「わ、亘さん」
音竹の母がちょこちょこと走り、篠宮にすり寄る。
「君も君だな。まったく、この公園で何を……」
加藤は下を向いて薄く笑う。
どうやら役者が揃ったらしい。
「この公園だから、だよ。篠宮ドクター」
「何?」
「火事が起こって、占い師が消えて、音竹君がすべり台から落ちた。
全ては、この公園が起点になっているからな」
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