第27話 二十六章 異性の好みに口出しするのは、野暮だと覚えておこう

 生徒の夏季休業期間中も、加藤はバタバタ動き回っていた。


「あらせいちゃん。怠け者の節句働きならぬ、夏休み働きかしら」


 などという、白根澤のツッコミに、言葉を返す暇もなかった。


 そして、出張届を出すと、その足で新幹線に飛び乗った。

 行先は兵庫。出張の表向きは、全国養護教諭大会への参加。

 しかして真の目的は、音竹の伯母に会うことだ。


 神戸までは三時間弱。少し寝ようかと思った加藤のスマホに、母からメールが届く。


「この小説を読んで、感想を送ること」


 母からのメールには、ネット小説のURLが載っていた。


「なんだこれ。『婚約破棄は構わないのですが、あなた様がケンカを売ったお相手……』って、これを読めだと? 何考えてるんだ、あの母親」


 仕方なく、中身の薄そうな小説を、加藤は斜め読みした。



 音竹の伯母、長尾亜都子ながおあつこは兵庫在住だ。

 同県の研究所に勤務しているという。

 三宮のバスターミナル近くの喫茶店で、会うことになった。


「珍しいわね。男性の養護教諭って」


 待ち合わせの時間ぴったりに現れた長尾は、額のラインが綺麗な弧を描く、いかにも理知的な女性である。

 ただし、その唇から吐き出される言葉は、氷雪魔法の呪文のようだ。


「それで、音竹伸市について、私に聞きたいことって何かしら」


 眉間の皺を深くして、長尾は加藤に訊く。

 

「音竹君が夏休み直前に、保健室で言いました。『僕は父を殺した』って」


 スプーンがテーブルにぶつかり、軽い音をたてる。

 長尾の指先は震えていた。


「ば、馬鹿な。伸市が、生まれる前に死んだ男を、伸市が殺せるわけないでしょ!」


「俺もそう言いました。だけど、彼の心は傷ついている。自分が産まれなかったら、妊娠しなかったら、父だった人は別の女性と、結婚出来たはずだって……」


 長尾は目を見開き、加藤を凝視する。

 唇を、白くなるほど噛みしめながら。

 見開いた目の縁から、ぽたりと滴が落ちた。


 加藤はチーズケーキを食べながら、長尾の言葉を待った。

 神戸名物「とろふわチーズケーキ」の甘さは、至極控えめだった。



「あの子には、伸市には罪なんてないわ。あるとしたら、伸市の父親と、母親。そして、その二人を放置した、私」


 長尾はぽつぽつと、語り始めた。


 伸市の父親だった男性、音竹伸彦は長尾の大学の同級生で、長尾自身が婚約していた。

 長尾は学位取得後すぐに就職が決まったが、音竹伸彦は長尾ほどの実績を上げることも出来ず中途退学し、非正規雇用に甘んじていた。

 

「入籍前だったけど、彼の生活が不安定だったから一緒に暮らしていたの。そこへ妹の樹梨じゅりもよく遊びに来てた」


 長尾が仕事に忙殺されている間に、いつしか伸彦と樹梨は恋人関係になっていた。


「私が気付いた時には、もう樹梨は妊娠していた。伸彦は土下座、樹梨はただ泣くだけ。もう全部馬鹿らしくなって、私は兵庫こっちへ転勤願いを出したわ」


 昔から、姉である長尾の持ち物を、何でも欲しがる妹だった。

 長尾の両親が、それを窘めることはなかったという。


 加藤は、音竹伸市の母親、樹梨の顔を思い浮かべる。

 ふわふわの髪を、自分の人差し指でくるくる巻いていた。


 幼児性の高い女性に、よく見られる行動だ。


 そして姉の物を欲しがったというのは、自分に自信がない証拠。


「復縁の申し出はなかったのか?」


「音竹から? ああ、あったわよ、二人が入籍してすぐに。これ以上馬鹿にしないでって、断ったけどね」


 なるほど。

 婚約破棄された優秀な姉。破棄した側のアホな連中。

 ネット小説で流行りだという「婚約破棄」モノの実例みたいだ。


 加藤の母が読めといったのは、このためだったのか。

 加藤の母は、ヘンなところで勘が良いのだ。

 


「音竹の父親は、あんたに復縁を蹴られて、自殺でもしたのか?」


 段々加藤も素の喋りになる。


「自殺、と思いたくはないのだけど、……自損事故で亡くなったわ」


 長尾は小さく笑う。


「だいたい、自分より成績が良いとか給料が良いとか、男ってそんな女を嫌うでしょ? ゆるふわで、庇護欲を誘う華奢な女の子が良いって」


 はぁ?

 加藤は叫ぶ。心の中で。

 いきなり何を言っているのだ、この長尾という女は。


「いや。あんたの周囲の少数の事例だけで、男性全体を論じないで欲しい」


 きっぱりと言い放つ加藤に、長尾も眦を吊り上げる。


「あら、あなただってそうじゃないの? 教え子の母親が美人で儚げだから、わざわざ兵庫くんだりまで来たんでしょ?」


 心の底から「ちげーよ!」と叫びたい。

 

「そもそも俺は、女の顔の美醜基準なんて分からないし、分からなくて良い。俺にとっての美は、広隆寺の弥勒菩薩像だ。俺の友人なんかも、好みのタイプは『目と目の間が限りなく広い、爬虫類みたいな女』とか言ってるしな。……そんなことはどうでもイイや。


俺が来たのは、音竹伸市の心身の傷みを、なんとかしてやりたい、それだけだ!」


 長尾の表情がふわりと変わる。


「変わった先生ね」


「ああ、よく言われる」


「私は何をすれば良いのかしら。伸市のために」


 加藤はニカッと笑う。そして「淡路島特産新鮮卵プリン」を注文した。


「準備が出来たらお呼びするよ。妹さんにも、会ってもらわなければならないが……」


「それは構わないわ」


「ああ、それと、篠宮って医者、知ってるか?」


「篠宮……音竹の高校時代の同級生だったか後輩だったか、名前は聞いたことがあるわ」


 加藤の脳内で目まぐるしく仏像が回転する。

 足りなかったピースが、パチンパチンと埋まる。


 卵プリンのカラメルソースは、結構甘く、加藤の好みの味だった。



 翌日、加藤のスマホに、今度は父親からメッセージが届いた。


「もろもろ、準備完了」

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