第6話 8月18日(金) 鏡の中

 朝。


 目が覚めてスマホの時計を見ると、10時過ぎだった。

 

 反射的にドキッとする。


 そうだ、もう聖羅せいらよりも早く起きて飯の支度をする必要はないんだ。


 目覚ましをかけずに寝たのも、久々だった。


 

 せっかくだからもう少し寝ていようとも思うが、トイレには行きたい。


 仕方なく、ベッドから出る。


 

 トイレを済ませてリビングに向かう。


 母親が何やらPCで作業をしている。


「あら、起きたの? ご飯はどうする?」


「あぁ。腹減ったからもらうわ」


「今、温めるから先に顔、洗ってきなさい」


「あいよ」


 俺は洗面所に向かいながら思う。


 今日の俺は、昨日までの聖羅みたいだな。


 この家の家事ヒエラルキーのトップは、間違いなく聖羅だ。


 父親も母親も、聖羅に甘やかしすぎなんだよ。



 ……俺もか。



 リビングに戻ると、朝食が用意されていた。


 ご飯、みそ汁、鮭の切り身、だし巻き卵、切り干し大根、それに冷たい烏龍茶と牛乳。


 自分が何もしなくても用意される幸せを密かに感じる。



 今日も一日、予定はない。


 のんびり朝食をとり、優雅に食後のコーヒーまで楽しむ。


 

 せめて、皿くらいは自分で洗うか。



 ◇  ◇  ◇


 ■シャワータイム


 さて、今日はどうしようか。


 さっき見た天気予報では、今日は晴れで、最高気温が35度予報だった。


 よし、家にいよう。


 こんな猛暑では家から出る気もしない。


 異世界探しも今日はお休みだ。


 

 そう考えていると、ふと浴室の鏡が目に入る。


 鏡って面白いよな。


 あっちの世界。左右反転の世界。



 試しに鏡をノックしてみる。


「カンカン」


 高めの音が浴室に響く。



 さぁ、この中にどうやって入ろうか?



 ◇  ◇  ◇


 シャワーから上がって、自室に戻る。


 特に出かける予定もないから、一番上にあったTシャツとハーフパンツを適当に着る。



 さて、鏡の中ねぇ。


 猛暑の中、自宅でも簡単に試せそうだ。


 そう考えていたのだが、早速意外なところで壁にぶつかる。


 

 今まで意識していなかったのだが、俺の部屋には鏡が一つもない。


 使わないもんな。


 

 鏡って、家の中のどこにあったっけ?



 そうだ、洗面所だ。


 俺は早速1階に降りていく。



 洗面所に入り、鏡をのぞく。


 試しに触れてみるが、硬い感触がするだけ。


 その向こう側へは行けそうな気配はない。


 ちょうどその時、母親が通りかかる。


「なにしてんの、冬真とうま


「あ、いや、ちょっと髪型をね」


「あんたもそんなの気にするようになったの?」


 そう言って、特に関心もなさそうに母親は去っていった。



 忘れてた。


 今日からは日中も母親がいるんだった。


 


 とりあえず一旦、自室に戻る。


 さて、いくら自宅内とはいえ、迂闊に怪しい動きをしたら面倒だ。


 なまじ親子なだけに、いらぬ心配もされてしまうだろう。


 ことは慎重に運ばなくてはならない。



 まず、異世界につながっていそうな鏡。


 それがどこにあるのか?


 

 そもそも、鏡と言えば、まずは風呂場と、洗面所。


 どちらも既にチェック済みだ。


 触れた感じ、入れそうにないし、吸い込まれる気配もない。


 そもそも、俺が物理的に鏡の扉を通過しようとすると、大きさ的に厳しいだろう。


 であれば、この家の中にはそんな大きな鏡は無い。


 やはり、猛暑の中、外で探すしかないか。



 いや、ちょっと待てよ。


 確か聖羅の部屋には、大きな姿見があったはず。


 これなら俺でも通過できる大きさだ。


 よし、早速……



 いや、今日からは母親がいるんだった。


 俺が聖羅の部屋の鏡の前に立っていたら、怪しすぎる。


 言い訳すら浮かばない。


 これは厳しいぞ。



 そうだ、いつものパターンだと、母親は夕方買い物に出かける。


 大体16時過ぎくらいだろうか。


 

 そして、聖羅が塾から帰ってくるのは17時過ぎ。


 もっとも、母親の買い物は1時間もかからないだろうから、母親が買い物に出かけて帰ってくるまでの45分間くらいが、聖羅の部屋に潜入できるチャンスだ。



 そうと決まれば、夕方まではすることはないな。


 とりあえずネットでも見て時間をつぶすか。



 ◇  ◇  ◇


 ■鏡の中


 夕方。


 予想通り、母親は買い物に出かけて行った。


 この家の中は俺一人だ。


 これで誰にも怪しまれずに、聖羅の部屋に潜入できる。



 勝手に妹の部屋に入ること自体、罪悪感はある。


 ただ、ネットによく書かれているような、妹の下着を漁ったりするわけじゃない。


 俺は純粋に、聖羅の鏡に用があるだけだ。


 そもそも、なぜわざわざ、妹の下着とか漁る奴いるんだ?


 普通に一緒に暮らしてたら、洗濯とかするだろうに。



 あれ? もしかして妹の洗濯物まで洗わされてるのって、俺くらいか?


 

 いやいやいやいや。今そこじゃない。


 なんだろう、妙に気になる、家事ヒエラルキー。


 そもそも、家事ヒエラルキーってなんだよ。



 しまった! くだらないことを考えていて、貴重な時間を浪費した。


 まずは聖羅の部屋に行こう。



 俺は自室を出て、隣の聖羅の部屋に向かった。


 この家には他に誰もいないことは分かっているが、それでもなお、緊張して静かに聖羅の部屋のドアを開ける。


「失礼しま~す」


 俺は小声で恐る恐る聖羅の部屋に入る。


 俺の部屋のコードみたいな予防線はないよな?


 念のため、監視カメラとか……、あるわけないか。


 

 俺は忍び足で早速鏡の前に立つ。


 全身が移るほどに十分に大きい鏡だ。


 

 手汗をシャツで乱暴に拭って、試しに手で触れてみる。


 これまでと同じ、硬い感触がするだけだった。



 俺は静かに目を閉じた。


 全神経を目の前にあるであろう鏡に集中する。


 部屋の中は静かすぎて、耳鳴りのような錯覚を覚える。


 そして、俺は静かに手を伸ばす。



 先ほどと同じ硬い感触に当たり、それ以上手を延ばすことは許されなかった。


 俺は目を開ける。


 先ほどと同じ光景。


 間抜けな俺が映っている鏡があるだけだ。



 俺は手を鏡から離す。


 鏡にはべったりと指紋が付いてしまった。


 これはまずい。


 俺は近くにあったティッシュでふき取ろうとしたその時、1階で玄関の開く音がした。


 やばい、母さんが帰ってきた。



「ただいま~」


 違う! この声は聖羅だ!



 俺は急いでティッシュで鏡をこすり、指紋を拭きとった。


 そして、聖羅の部屋を出て、音が立たぬよう、且つ急いでドアを閉める。



 ティッシュを持ったまま妹の部屋から出てくる瞬間を聖羅に見られたら、100%誤解される!


 俺は素早く自室に戻った。



 ティッシュをゴミ箱に捨てた瞬間、ドア開けっ放しの俺の部屋の前を聖羅が通った。


「あ、おにぃ。ただいま~」


「お、おう。お帰り。今日は早かったんだな」


「うん。今日は自習室混んでたから、早めに帰ってきた」


「そっか」


 聖羅はそう言って、自室に入っていった。



 証拠は残さず来たつもりだが、もし聖羅が何らかの異変に気付いたら……。


 そう思って、俺はしばらく、耳を澄まして様子をうかがっていたが、杞憂に終わったようだ。



 ◇  ◇  ◇


 ■入浴タイム


 夕食が終わって、風呂に入る。


 いつものように浴槽に浸かって一日を振り返る。


 鏡はダメだったか。


 どちらかと言うと、鏡の中に吸い込まれるイメージだよな。


 自らその中に入っていくのは、やっぱ違うか。


 明日、また何か別の方法が思い浮かべば試してみよう。


 


 ◇  ◇  ◇


 風呂上がり。


 リビングに寄って両親に声をかける。


「風呂空いたよ。どうぞ」


「おぉ。わかったよ」


 そう父親が答えるが、両親ともにテレビに夢中で、動く気配はなかった。


 俺はキッチンで烏龍茶を一杯飲んで、2階に上がる。



 自室に入ろうとすると、聖羅が声をかけてきた。


「あ、おにぃ、お風呂あがったね。」


「おう」


「あのアニメ見る?」


 例の異世界モノ。それほど面白いって程ではないが、ついつい続きが気になってしまうアニメだ。


「そうだな。今PC立ち上げるから待って」


「あ、いいよ。今日は聖羅の部屋で見よう。 ちょうど今PC開いてるから」

 

「いいのか?」


「どうぞ~」


 そう言って、聖羅は自分の部屋に戻っていく。


 俺はとりあえず自室に入りスマホを持ってから、聖羅の部屋に向かう。


「失礼します」


「どうぞ~。 おにぃが私の部屋に来るなんていつぶり?」


 えーと、さっきぶり。


 とは言えるはずもなく。


「さぁ。用もないもんな。今年初くらいか?」


 公式には。



 とりあえず、例のアニメを二人で見る。


 どうやら主人公はもともと魔法を扱う特性が低いらしい。


 しかし、その力を増幅できる魔法使いが村にはいるとのことで、主人公と姫はその魔法使いの元へ行くことになった。


 途中、魔物に襲われる二人。


 しかし、姫の攻撃魔法により、難を逃れる。


 ちょっと待て! 姫を守るためにこの主人公雇われてんのに、姫に助けられてどうする!?



 相変わらず、おかしなアニメだ。


 また明日も続きを見よう。



 改めてゆっくりと聖羅の部屋を見回すと、本棚の一角に漫画の本が並んでいる。


「あ、聖羅、この漫画、持ってたんだ」


 俺が読みたいと思っていた漫画だ。


「うん。いいよ、貸してあげる」


「いいのか?」


「おにぃ、どうせ毎日ヒマでしょ? 読み終わったら戻しておいてくれればいいから」


「いや、なんか、勝手に部屋は入るのも悪いから……、読み終わったら……」


 我ながらどの口が言うんだ?


「え? いいよ、おにぃだし。別に私の部屋はおにぃと違ってヤマシイ物とか無いし~」


 そう言って、聖羅はいたずらっぽく笑う。


 聖羅もこんな笑い方、できるんだな。


「俺だってヤマシイ物とか、ないぞ」


「え~? ベッドの下とかにエロ本隠してるんじゃないの?」


「今時そんな奴いるかよ」


 それから俺と聖羅はくだらない話をして笑った。



 

「じゃ、そろそろ、俺帰るわ」


「うん。おやすみ、おにぃ」


「おやすみ」


 そう言って、俺は自室に戻った。


 

 ◆  ◆  ◆


 8月18日 金曜日

 晴 

 

 ヤマシイ兄で悪かった。ごめん。

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