4つ目

いつも通り一週間は過ぎた。私がパズルについて考えない日はなかった。原ちゃんが言っていたように本当に夢中になっていた。

 金曜日が終わって土曜日になった。

 いつもよりも一時間遅く起きて私は出かける準備をした。

 黒いシャツに白いショートパンツを履いた。

 今日は小野蓮の幼馴染である峰城藍花さんに話を聞きに行く日だ。事前に山内陸さんが連絡をしていてくれていたらしい。これでいざ聞きに行って不在でしたという事態は免れた。

 電車を二回ほど乗り継いで目的の駅に着いた。ここから先は山内陸さんに教えてもらった住所と目印を頼りにして行く。東口から出て二つ目の信号を左に曲がり、四つ目の信号を右に曲がる。そのまま大きなスーパーマーケットがあるところまでまっすぐ進み、そこを過ぎたすぐのところにある角を曲がると住宅地があるらしい。その住宅地にあるひときわ目立つ青い屋根で水色の壁のアパートに住んでいるという。

 私はメモをよく見ながら指示通りに進んだ。東口から出て二つ目の信号を曲がった。曲がったところに和菓子屋があった。その時に私は人の家に行くのにもかかわらず、手土産を持ってないことに気が付いた。私はその和菓子屋で煎餅を買い、再び目的地へと向かった。

 メモの通りに進んでいたところ、大きなスーパーマーケットの近くで一人の女性がビニール袋が破けて困っているのを見つけた。袋からは真っ赤なリンゴや箱に入ったお菓子が出てきていた。私は駆け寄っていき、落ちていたものを拾った。


「大丈夫ですか?」


「ありがとうございます。大丈夫ですよ。」


 女性は大丈夫と言っていたが、明らかに大丈夫じゃなさそうだった。約束の時間までまだ時間がある。


「今暇なので何か手伝いましょうか?」


「あら、じゃあ、お願いしようかしら。一緒に荷物を運んでもらってもいいですか?」


後ろから声をかけたため最初は気づかなかったが、よく見ると美人だった。おしとやかなそうな女性だった。オフホワイトの生地にピンクの小さな花柄のワンピースを着て、髪は右肩あたりでまとまるように結ばれていた。

 一緒に歩きながら少し話をした。


「ごめんなさいね。手伝わせちゃって。でもありがとう。おかげですごく助かるわ。」


「いえいえ、私もまだ時間があるので、いい時間つぶしになります。」


 現在は一時半。約束の時間は二時半。まだまだ時間はたっぷりあった。むしろありすぎた。このままだとかなり早い時間に峰城藍花さんの家に着くことになり、失礼になるところだった。


「でもありがとうね。」


 そういって女性は微笑んだ。百合の花が咲いたような笑顔だった。

 それにしても大荷物だ。別に思い訳ではないが、一人で持つにはちょっと不便な量だった。


「今日実は家にお客様が来るんだけど、今朝お客様に出すためのお菓子がないって気づいたのよ。お茶はあったんだけどね。」


 おっとりとした口調でそう言った。この人には他人を和ませる性質があるようだ。


「あなたまだ時間あるかしら?良ければ私の家でお茶を飲んでいかない?お客様が来るまでまだ時間あるし。それに荷物を運んでもらったお礼もしたいし。」


 私は腕時計を見た。まだ二時にもなっていなかった。


「あのそれではよろしくお願いします。まだ時間があるので。」


 そう言うと女性はやったわと言って喜んだ。私たちはそのまま女性の家へと向かった。

 十分ほど経って女性の家に着いたようだった。


「さあ、着いたわ。このアパートが私の家。少し地味かもしれないけど、きれいでしょ?」


 私は女性の家があるというアパートを見て驚いた。青い屋根で水色の壁だったからだ。

 この女性はもしかしたら峰城藍花について知っているのかもしれないと思った。


「あの、すみません。このアパートに住んでいる峰城藍花って人を知っていますか?今日、その方の家に行く予定なのですが。」


 女性は目をまん丸くしていた。


「それ私の事よ。」


「え、そうなんですか。」


 驚いた。こんな偶然が起きることにも驚いたが、何よりピースを埋め込んだ時に流れてきた記憶の中の峰城藍花さんとはだいぶ雰囲気が違っていた。記憶では峰城藍花という人物は物事をきっぱりと決められるようなさっぱりとした人物だった。だが今目の前にいるのはおしとやかな女性だった。


「驚いたわ。あなた山内君が言っていた藤崎千尋ちゃんね?」


「はい。それにしてもこんな偶然ってあるんですね。」


 そういって二人で笑った。笑っている姿も上品だった。


 藍花さんの家に上がり、私はお茶を出された。


「今日は家にお邪魔してしまってすみません。これ、さっき和菓子屋さんで買ったお煎餅です。お口に合えば良いのですが。」


「そんな!気を使わなくてもいいのに。でもせっかく買ってくれたものだからありがたくいただくわ。そうだ。このお煎餅一緒に食べましょう。ちょうどお茶もあることだし。」


 私が了承すると、藍花さんは素早くかつ丁寧にお皿に煎餅を出した。てきぱきとしているのは高校時代と変わらないらしい。


「それで、今日は何を聞きに来たのかしら?何となく想像はできるけど。」


 藍花さんは指を交差させ、その上に顎をのせながらそう言った。


「小野蓮という人物について教えてほしいのです。知っていることを全部。」


 藍花さんは少し長い時間目を閉じた。しばらくした後、ゆっくりと目を開け、口をゆっくりと開いた。


「蓮のこと。知っていること全部、か。彼の誕生日とかそんなやわなことじゃないわよねきっと。」


「はい。小野蓮の家庭の事情や所属していた部活で何をしたか、山内陸さんと小野蓮がなぜ喧嘩したのか。についてなど。それと、藍花さんが小野蓮に提案したこと。」


「提案?」


「はい。小野蓮があなたにもう辛いと泣きながら打ち明けたときのことです。」


 藍花さんは驚いた表情をしていた。そして笑い出した。


「あはは。そこまで知っているのね。それじゃあもうすぐにわかるわね。」


 藍花さんは笑いを止めるために深呼吸を二回ほどした。


「そうね。まずは家庭の事情ね。彼の母親は彼が高校一年の時に亡くなったわ。肺ガンでね。彼の両親かなりのヘビースモーカーだったのよ。」


 小野蓮の親は父親だけでなく母親も煙草を吸っていたらしい。その環境が肺にかなりの負担をかけるということは、医学に疎い私にもわかる。記憶の中でも母親は肺ガンで死んだと言っていた。


「母親は過剰喫煙で肺ガンになって死んだの。それで彼の父親が荒れちゃって。彼のお父さん、酒を飲むと人が変わるように暴力を振るうようになってね。お母さんが生きていたころはお酒は飲まないって約束を守っていたらしいんだけど、悲しみに耐えられなくてお酒を飲んでしまったらしいのよ。ずっと我慢していたお酒を飲んだものだから簡単にお酒に依存しちゃってね。それで毎日仕事から帰ってきたらすぐにお酒を飲むようになちゃって。止めようとしても振り払って是が非でも飲んでいたらしいわ。」


 藍花さんが休憩するようにお茶を一口飲む。


「仕事がない時は一日中お酒を飲んで。仕事中以外は常に酔っぱらっているようになってしまったの。不幸中の幸いなのか、お父さんはエリート企業に就職していたから、お酒を大量に買っても生活していけるだけの財力はあったわ。酔っぱらったお父さんは蓮に暴力を振るうようになったわ。最初は暴力だったけど、日に日にエスカレートしていって、最終的には火の点いた煙草を腕に押しつけたり、無理に煙草を吸わせるようになったわ。お前もこれをやればこれの素晴らしさがわかるから。これはお前のためなんだって。」


 藍花さんはティッシュを机の上に一枚敷いて、そのうえで煎餅を一口サイズに割って一欠けら食べた。煎餅の砕ける音がしばらく鳴った。鳴り終わると話を続けた。


「蓮は日に日に元気をなくしていった。周りの人はなかなか気づかなかったようだけど、私にはすぐにわかったわ。彼が危ないってね。でも彼が助けを求めないうちはこちらからサポートしないようにしていたの。彼は他人に迷惑をかけるのが嫌いな人だったからね。でもある日、彼は私にすべてを打ち明けた。最初は泣くのを堪えようと必死だったようだけど、私が泣いていいよというと、彼は滝のような涙を流した。さて、ここからは今一番知りたがっていたことなんじゃないかしら。」


 そう言うと藍花さんは微笑んだ。だがその微笑みにはどこか冷たいような後悔のようなものが感じられた。


「私は彼に彼の信用している人全員にそれを言うべきだって言ったの。」


「どうしてですか?」


「さっきも言ったけど、彼は他人に迷惑をかけるのが嫌いだったのよ。迷惑だけじゃなくて、心配もさせたがらなかった。だから彼は無理に笑っていたの。でもこのままだと、いつ彼の心が壊れてしまってもおかしくないって思ったから、壊れる前に打ち明けさせようと思ったの。事情を知っている人が一人でも多いと、その人はいざという時にいろんな人に頼れるようになるのよ。弱音を吐くこともできるようになるしね。逆に誰にも打ち明けないと、その人だけで問題を解決するようになっちゃうの。最初はそれでもいいかもしれないけど、そのうち絶対に大きな壁に行き詰まる。いろいろな人に頼れるようになれば相談したりすることもできるわ。だから信用できる人には打ち明けたらどうかって言ったのよ。」


 藍花さんはまたお茶を飲んだ。今度は私もお茶を飲む。少し熱かったが、飲めないほどではなかった。


「それと陸君と蓮がどうして喧嘩したのかだけど、これはまだ教えられないな。別に意地悪とかじゃなくてね?まだあなたが知るべき時期ではないだけなのよ」


 理由がよくわからなかったが、本当に意地悪をしているわけではなく、教えてあげたくても教えられないといったようだった。


「さて、後の質問は彼が部活で何をやっていたかでしたっけ?」


「はい。」


「うーん。正直に言うと、私は茶道部だったから彼が何をしていたのかまではよくわからないのよ。彼が美術部だったってことくらいしか知らないわ。でもその情報は千尋ちゃんも知っているでしょう?」


「はい。」


「そうよね。ごめんなさい。だから千尋ちゃんの質問には答えられないわ。本当に彼が美術部でどんなことをしていたのかは知らないのよ。」


「いえ、こちらこそ色々聞いてしまってすみませんでした。最後に小野蓮には関係ないのですが、一つ気になることを聞いてもいいですか?」


「何かしら?」


 藍花さんが可愛らしく首を傾げた。


「その、藍花さんの性格と言いますか、雰囲気がイメージと違うというか、聞いていたのと違うというか。なんか想像と異なっていた気がしたのですが。」


 正直聞くのは少しためらった。失礼な気がしたからだ。イメージと違うなんて言われても本人は何のことと思うだろう。きっと藍花さんを不快にさせてしまうだろうな。


 だが不快な表情を見せるどころか、藍花さんは微笑みながら頬を赤くした。


「それは恋をしたからかしらね。私が幼い時から好きだった人がてきぱきとした女性を好きだっていたのがわかったから、高校時代まではてきぱきとふるまっていたのよ。」


 藍花さんは両手でお茶の入ったカップを持った。お茶はもう容易に飲めるほどに冷めていたにもかかわらず、お茶に息を吹きかけていた。


「でもつい最近、と言っても去年だったかしら。彼は別にてきぱきとした人が好きなんじゃなかったのよ。彼はあくまで彼の好きだった人が好きだっただけで、そのそっくりさんには興味がなかったのよ。むしろ彼は本当に好きな人を振り向かせたいのなら、自分のありのままをどうよく見せるかを考えてアピールするべきだって言ってくれたのよ。それで私は以前までのふるまい方をやめて、素の自分でいることにしたの。」


 よほどその言葉が嬉しかったのだろう。まるで恋する人が目の前にいるかのように優しい微笑みを浮かべている。その人とは今どうなっているのかを聞きたかったが、我慢した。親しく話し合っているとはいえ、今日知り合ったばかりの人にこんなことを聞くべきではないだろう。それこそ藍花さんを不快にさせてしまう気がする。


「あ、幼い時から好きだったって言っても、蓮の事じゃないからね。そこは安心して。」


 何をどう安心するのかはわからなかったが、とりあえず藍花さんは小野蓮以外の男性を好きなようだ。

 聞くべきことを聞いた後、私たちはとりとめのないことを話し合った。高校の様子が私が通っている今と、藍花さんが通っていた時とどれくらい違っていて、どれくらい同じなのか。藍花さんがいたときに居た教師は今でもいるのかなど。主に高校についてのことだった。

 二時間程話してから私は帰ることにした。


「あまり長居してもご迷惑でしょうし。今日はこのくらいでお暇します。お茶、ありがとうございました。」


「あらそう?確かにまだ夏だからと言っても遅くなるに帰らないとね。でもちょっと待って頂戴。渡したいものがあるの。」


 そういって藍花さんはドレッサーの引出しを開けて漁った。


「えーと確かこのあたりに…あ、あった。」


 藍花さんは引出しを元に戻してから私のもとへ来た。


「はい、これ。たぶん私が持っているよりも絶対に千尋ちゃんが持つべきものよ。」


 そういって手に握らされたのはパズルのピースだった。真っ黒のピースだった。おそらく影の部分だろう。


「あっ!ありがとうございます。」


 私はピースを大事に鞄入れた。

 そういえばなぜみんな小野蓮が作ったパズルの一部を持っているのだろうか。


「あのもう一つ聞いてもいいですか?」


「何?」


 藍花さんは優しい声で言った。


「どうして皆さん小野蓮の作ったパズルの一部を持っているのかなって思って。」


「うーん。それはまだ教えられないな。まあ、そのうちわかるだろうけど。」


 あやふやな回答だった。でもなぜか藍花さんにそういわれると本当にそのうち知れるような気がした。おそらく今はまだ知っていい時期ではないのだろう。


 藍花さんに会ってから二日が経った。つまり月曜日になった。普通月曜日は憂鬱な日だが、この時の私は違った。早く平日になってほしかった。平日になって学校に行ってパズルをはめたかった。

 私はもうあのパズルに夢中だ。前よりもあのパズルを完成させたいという欲が強くなっている。自分でも不思議に思うくらいに。何が何でもあのパズルを完成させるという思いだった。

 パズルを完成させたいという欲が強すぎて授業の内容はちっとも頭に入ってこなかった。早く美術室に行きたかった。藍花さんにもらったピースを一刻も早く埋め込みたかった。

 授業がすべて終わった。今週は私の班が掃除当番だった。早く美術室に行きたいという衝動を抑え込んで掃除場所へと向かった。今週は音楽室の掃除だ。

 音楽室の床を箒で掃いていく。次にピアノの上の誇りを雑巾で取っていく。

 ふとピアノの鍵盤に触れた。レの鍵盤だ。鍵盤は人間によって仕組まれた通りにレの音をピアノの内部に響かせる。内部の音は外の世界へと旅立つ。

 レの音を聞いて、兄がよく歌っていた歌の最初の音がレの音だと気づく。掃除するべきところはもう掃除した。音楽の先生は今日出張だからいない。少し兄の唄の旋律を調べてみることにした。

 ゆっくりと音を探していく。時には黒い鍵盤も使った。なんだか黒い鍵盤を使う曲を弾くだけで、ピアノを弾けるようになった気がする。実際はピアノはおろかリコーダーさえも吹けるかどうか怪しいが。

 五分ほど経ってようやく完成した。音感がない人が五分で曲の旋律を調べられたのは上出来だと思う。まあ、さすがに私ではなく兄ならばもっと早くに完成させられただろうが。

 確認も兼ねて最初から引いてみることにした。優しく鍵盤を押す。

 弾きながらふと思い出した。記憶の中で小野蓮が歌っていた歌もこの歌に似ていた気がする。いや、似ているというよりほぼ同じだったと言った方が正しい。兄の作った旋律はそんなにありきたりなものだったのだろうか。

 一通り弾き終わったころに班長が掃除終了の挨拶をすると言った。。班長の気を付けという合図で班員は背筋を伸ばす。礼という掛け声で頭を下げる。監視役の先生が不在にもかかわらず行われた礼には何の意味があるのだろうかと一瞬思ったが、何も言わずに班長の命令に従った。

 掃除がやっと終わった。私は廊下を走って美術室へと向かった。途中何人かにぶつかりそうになったが、そのたびにもどかしい気持ちになった。

 早くこのピースをはめたい。はめ込んで記憶を見たい。小野蓮についてもっと知りたい。

 ようやく美術室に着いた。走ったために乱れた呼吸を整える。五回ほど深呼吸をしてようやく呼吸は整い始めた。

 息がまた乱れないように今度はゆっくりとパズルの置いてある棚の方へと歩いていく。

 棚の前に行ってパズルを取り出す。それを机の上に置いて、丁寧にピースを埋め込む。



「ねえ、これは一つの提案なんだけどさ。」


 少女が言った。


「みんなに話してみない?陸君や原嶋先生にさ。お父さんに虐待されていること。病気の事。」


 少年は驚いていた。


「どうして?」


「たぶんみんな気づいているんじゃないかな。細かくはわからないとしても、陸が何かをかくしてるってことはみんなもう気づいていると思う。」


「言った方がいいのかな。」


「うん。みんなのためにも。蓮のためにも言った方がいいと思う。一人でも多くの人が事情を知っていればいざという時に頼れるし。」


 少年は少し考えてから答えを出した。


「わかった。僕みんなに言ってみるよ。」


 夕焼けで世界が染まる時間。ある学校の美術室に四人の人間が集まっていた。正確には集められたのだ。


「俺と慎一と原嶋先生と陸。昼休みに蓮がいきなり今日の放課後に美術室に来てくれっていうから来たはいいけど、何をするつもりなんだろうな。」


「とりあえずわかるのはここに集められたのは蓮と親しい間柄の人間だということだけだな。」


 少年の問いに別の少年が答えた。


「俺、何となく蓮がなんで俺たちをここに呼んだのかわかる気がする。」


 話していた二人の少年とは別の少年が答えた。


「俺も確信はないけど、何となく予想はつく。」


 集められた四人の中で一番年長の男が答えた。男は窓の外を見ている。


「原嶋先生と陸はなんで予想がつくんだ?」


「蓮は何か大事な話があるときは、昔から自分が一番安心できる場所に呼んで、そこで打ち明けたんだ。」


 陸と呼ばれた少年が答えた。


「大事な話か…やっと言ってくれるんだな。」


 教師の原嶋が独り言ちた。

 美術室の扉が開いた。廊下から入ってきたのは少年と少女の二人組だった。


「やっぱり藍花も一緒に来たか。」


 藍花と少年は何も言わずに四人の方へと歩いて行った。


「今日はごめんね。いきなり呼び出して。みんなに伝えたいことがあるんだ。」


「何となく想像がつくけどな。」


 陸が少し悲しそうに言った。やっと自分の友人が頼ってくれるのだが、友人が一番最初に頼りにしたのは自分ではなく、友人の幼馴染だったのだ。自分よりも幼馴染の方が自分よりも付き合いが長く、気が置けない仲だから何でも話せるというのは頭ではわかっていたが、こうしてその事実を目の当たりにしてしまうと、やはりどこか悲しく感じるのだ。


「今日話したいことは主に二つある。どんな内容でも、しっかりと受け止めてくれるか?」


 少年は心配そうに言った。いくら信頼しているとしても、伝えるのが怖かったのだ。


「何をいまさら言ってるんだよ。ここまで来たらとことんお前に付き合ってやるぜ。」


「慎一の言う通りだな。」


 二人の少年の言葉に他の人たちも同意した。


「ありがとう。それじゃあ、言うね。」


 少年は深呼吸をした。


「俺。いや、僕実はお父さんに虐待されているんだ。」


 そう言って少年は袖をまくった。腕には痛々しいやけどの跡があった。火傷の後だけではなく、つい昨日つけられた傷もあった。

 それを見て陸と藍花を除く三人が驚く。

 腕にある痛々しい傷を見て原嶋が口を開く。


「なんでこれをもっと早く言わなかったんだ。今すぐにでも警察に言って対処してもらわないと。」


「それを僕は望んでいない。」


 少年が力強く言った。


「警察に言ったら父さんは逮捕される。そうすると僕の夢を叶えられなくなる可能税が大幅に上がる。」


「お前の夢は何なんだ。」


 少年はニコッと笑った。


「美術の専門学校に行って美術を続けることです。」


 予想外の返答に原は驚いた。


「原嶋先生。僕はあなたのおかげでここまで耐えられたんです。あなたが僕の絵を否定せずに受け入れてくれたから。僕がだめだと思った作品でも、先生が褒めてくれたから。だから僕は美術を好きになれたし、夢もできた。美術がなかったら、きっと僕はどこかで首を吊っていたでしょう。そうなっていた世界の想像は容易くできます。僕は原嶋先生のおかげで今日まで生きてこれたんです。」


 原嶋は涙を流していた。


「馬鹿野郎。俺はそんなことを言わせるためにお前に美術を勧めたんじゃねえ。純粋に美術を楽しんでほしかったからお前を美術部に入るようにと勧めたんだ。」


「美術は楽しいですよ。生きることを諦めるのを忘れてしまうくらいに。」


 原嶋はずっと泣きながらそうじゃない、と言っていた。


「でも父親が警察に行っても、時間はかかるかもしれないが美術を学ぶことはできるぞ。もし父親に情がすでにないのならば、警察に言った方がいいんじゃないのか?」


 慎一に言われて少年はうつむいた。


「どうして僕が警察に言わないのか。その理由は今日伝えたかったことのもう一つの方に当てはまるんだ。」


 少年は下を向いていた顔をみんなに見えるように上げた。


「もう感づいている人もいるかもしれないけど。僕、病気なんだ。」


「なんの病気だ?」


「肺ガン。もう末期になっちゃってる。いつまで生きていられるのかわからない。」


 少年はできるだけ強がって言った。だがその目はもううるんでいた。


「なるほど。時間が惜しいわけか。だから少しでも早く美術を専門的に学びたいんだな。」


「うん。お父さんが警察に逮捕されると、何年かは学費を貯めるために働かなくちゃいけない。その間に死ぬという可能性だって高いんだ。だったら少しでもいいから美術を学びたい。」


 そこまで少年が言うと、藍花が口を開いた。


「そこでここにいるみんなにちょっとお願いがあるの。」



 もしこの記憶が本当ならば、一つ確認しないといけないことがある。

 私はあることを確認するために鞄を持って美術室を出た。

廊下を走って下駄箱へと行く。

 慌てているからか上手く体が動かない。上履きを脱いだはいいが、下駄箱にしまうために持ったら落としてしまう。四回目でようやく上履きを下駄箱にしまうことが出来た。

 靴に履き替えて、無我夢中で走った。今日は月曜日だからこの時間にはもういるはずだ。

 息が切れるのも顧みずに走った。だがやっぱり人間の身体は軟弱で、肺とか心臓とか脾臓が激しく痛んだ。途中でそれらの臓器が空気を欲しがるように、無意識に大きく呼吸をしていた。

 こんなことをしている暇なんてない。一刻も早く真実を確かめなければ。

 別に何もないはずなのに大切な何かがある気がした。急ぐ必要はないのに、急がなければならない気がした。

 私は酸素を懇願する臓器たちを無視して走ろうとした。

 足が上手く動かない。手も疲れてきた。それでも行かなくちゃ。

 目的地に到着して、勢いよく扉を開ける。すぐそこにある階段を駆け上がり、ある部屋の扉を開ける。


「お兄ちゃん!」


 私は兄に確認したいことがあった。

 兄はベッドの上に座って本を読んでいた。そんなこともお構いなく私は兄に聞く。


「お兄ちゃん小野蓮のこと知っているよね?」


「知らないよ。誰それ。」


 誤魔化したって無駄だ。私はこの目ではっきりと見た。あの日に小野蓮から話を聞いた人は藍花さんと山内陸さん、原ちゃん、慎一さん。そこにもう一人いた。


「小野蓮の話を聞いた人は全部で五人。藍花さん、陸さん、原ちゃん、慎一さん。」


 私は指を立てながら言った。五人目が誰なのかを言う時に、私は兄の目を見た。


「それとお兄ちゃん。」



 兄は驚いた表情をした。予想外というよりはよくそこまでわかったなというような顔だった。


「どうして知らないなんて言ったの?」


 兄はため息をついた。すべてを打ち明ける覚悟をしたようだ。


「少し昔の話をしようか。」

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