3つ目

 身体の丈夫な兄が珍しく風邪で寝込んだのは、兄が小学生の時だった。私はその時まだ幼く、近所に住んでいる子供はみんな私とは年齢が離れていた。

 兄だけが私の遊び相手だった。いつも私を楽しませてくれた。そのため、兄が風邪で寝込んだ時にはひどく駄々をこねた覚えがある。風邪である兄と無理やり遊ぼうとしたのだ。当たり前だが母はそれを良しとしなかった。

 私がどうしても遊びたいと騒いでいたため、母は近所に住んでいた兄の友人に声をかけた。兄とその人は別に仲が良いというわけではなかったが、近所に住んでいたためにお互いのことを知っていた。

 私と遊ぶことを兄の友人は快く了承してくれた。

 兄の友人は外で走るよりも、外の自然を見るのが好きだった。よく一緒に出掛けてはスケッチブックに絵を描いていたのをよく覚えている。


「お兄ちゃんは絵を描くのが好きなの?」


 ある日、私は聞いた。


「うん。好きだよ。うまくはないけどね。手先が器用なわけでもないから図工は得意ではないんだ。」


 お兄さんは答えた。お兄ちゃんはよく風景や花を描いていた。絵を描いている間、お兄ちゃんは夢中になっているため、話しかけても反応が遅かった。それでも絵を描くという行為に嫉妬したことはなかった。むしろ絵を描くお兄ちゃんは普段は見せない笑顔をしていたから、その行為に感謝さえしていた。

 私はお兄さんが絵を描いている姿が好きだった。


「私、お兄ちゃんの絵が好き!」


 お兄さんは驚いていた。きっとあまり人の前で絵を描いたりしない、もしくは他人に自分の絵を褒められたことがないのだろう。

 お兄ちゃんの描く絵が好きだというのも事実だったが、お兄ちゃんが絵を描く姿が好きだった。だが、幼いながらに、この感情を告げるのは恥ずかしいなと思っていた。

 お兄さんはゆっくりと瞬きをして口を開いた。


「ありがとう。」



 朝が来た。どこか懐かしい夢を見た気がするが、忘れてしまった。

いつものように朝食を摂り、学校に行く準備をする。制服を着ていつもつけている白いヘアピンをつけようとした。その時に気づいた。ヘアピンが見当たらない。いつもベッドの横にある棚の上に置いていたのに見つからない。試しに棚を動かして棚の後ろを見る。棚の後ろには埃しかない。次第に私の心が焦りであふれていった。急いで階下に行き、母親にヘアピンのありかを聞いてみる。だが、母も知らないという。その言葉で私はさらに焦燥に駆られる。


「今日はいつもと違うヘアピンにしたら?このままだと学校に遅刻するわよ。」


 母の言う通りこのままだと学校に遅刻してしまう。私は今まで遅刻したことがなかったため、遅刻することに抵抗があった。それでも私はいつもの白いヘアピンを探した。


「ダメ。あれじゃないと。あれがないと会えないの。」


 意図せずして出た言葉。母は聞いて驚いていた。驚くのも無理はない。気が動転しすぎてめちゃくちゃなことを言っているのだから。

 母は私の焦りを察してくれたらしく、何も言わずに一緒に探してくれた。

 探し始めて十五分が過ぎた。もう学校には間に合わない。遅刻確定だ。それでも私は探した。すると母が洗面所から大きな声で言った。


「あったわよ!」


 そういって母は私に白いヘアピンを差し出した。

 私は母の手からヘアピンを受け取った。手にした瞬間に安心感が心を満たした。


「よかった。」


 気が付くと私は泣いていた。自分でも驚くくらいにこのヘアピンが見つかったことに安心しているようだ。

 私は遅刻で先生に怒られるのを覚悟しながら学校に行くことにした。たぶん遅刻した理由を問われるだろう。その時は寝坊したと言おう。きっと大事なヘアピンを探していたと言ったら呆れられるだろうから。

 まあ、最悪先生に呆れられてもいいが。



学校に着いて、予想通り先生に遅刻した理由を問われた。計画していた通りに寝坊したと言った。先生は何も疑わずにその言葉を信じた。

 そのあとはいつもと同じ一日だった。いつも通り興味のない授業を受け、休み時間を適当に過ごし、昼休みにはお弁当を食べた。


「本当に今日寝坊したの?」


 さすが。親友は鋭いな。遅刻した理由は寝坊じゃないというのをわかっているらしい口調だった。


「いや、今朝このヘアピンが見つからなくてずっと探していたんだ。そしたら遅刻した。」


 私は自分のヘアピンを指さしながら言った。

 玲奈は何か疑問を持っているような顔をした。


「眼鏡がなくて焦って探すというのならわかるけどさ、ヘアピンがなくて焦るっておかしくない?ヘアピンなんて別に大事なものじゃないし。なくても最悪一日過ごせるし。」


 言われて気づいた。。確かに今朝の私の行動は普通じゃない。普通は他のヘアピンをつけたりする。だが私はその選択肢を選ばなかった。まるでそのヘアピンに依存しているかのような行為をした。

 自分でもなぜそんなことをしたのかわからなかった。気が動転して母にはめちゃくちゃなことを言ってしまった。


「いつもつけているその白いヘアピンってそんなに大事なものなの?いつもつけているなとは思っていたけど、それってそれが気に入っているからとかじゃなくて、大事なものだからなの?」


 このヘアピンが大事か。そんなことは考えたこともなかった。自分でもよくわからない。別に特別気に入っているわけでもない。でもなぜかわからないけどこのヘアピンに私は惹かれる。別に見た目がかなり魅力的というわけでもない。なのに強く惹かれるのだ。


「わかんない。でも、このヘアピンに依存みたいなものはしているなとは思う。今日の朝も焦りすぎて探すときにこれがないと会えないってよくわかんないことをお母さんに言っていたし。」


「そのヘアピンは誰かにもらったものなの?」


「この前言ったお兄さんからもらったものだよ。」


 玲奈は考えた。この前のお兄さんとは誰のことなのか。しばらくして玲奈は思い出したように言った。


「ああ。好きだった近所のお兄さんの事?」


「そう。」


 ふーん、と玲奈は気のない返事をした。箸でつかんでいた卵焼きを口に放り込み、何度か咀嚼してから飲み込んだ。口の中が空になってから玲奈はまた聞いてきた。


「もしかして千尋が覚えていないだけで、そのお兄さんといつか会うって約束したんじゃない?」


 思いもよらない言葉が出てきて私は驚いた。

 私の反応を気にせずに玲奈は言葉を続ける。


「こないだ今はもう顔も名前も覚えてないって言っていたけど、それは今では合えないってことだよね?でも無意識にあれがないと会えないって言っていたってことは、そのヘアピンが何らかの役目をはたしていて、それがあれば会えるからじゃないの?」


 玲奈の言葉が響く。思いがけないことを言われ、動揺が生まれる。


「そう、なのかな。」


 玲奈の言っている通りなのだとしたら、今朝のあの動揺の在り方の説明はつく。だが一つわからないことがある。。大好きなお兄さんからもらったヘアピンがあることによって会えるというのを覚えているのならば、私はお兄さんのことをはっきりと覚えているはずだ。

 私はお兄さんの顔も名前も覚えていない。それでも約束だけは覚えているというのは少しおかしい気がする。


「もしそうだとしたら、名前も顔も覚えていないのに約束だけは覚えているっていうのは可笑しくない?」


「確かにそれもそうだね。」


 お兄さんについての話はそこで終わった。終わったにもかかわらず、私は玲奈との会話中ずっとお兄さんについて考えていた。

 謎は深まるばかりだった。



 幼い時によく一緒に遊んでくれたお兄さんがいた。彼の名前も顔も覚えていないけれど、ただそのお兄さんに私は行為を持っていたということだけは覚えている。幼いながらも抱いた感情。家族に抱く愛情とは異なる愛情。それを奇妙に思ったこともあったが、何も考えずに過ごしていた。


「今日は何をして遊ぶ?」


 お兄さんが話しかけてきた。顔はよく見えない。ぼやけているようだ。

 これはきっと夢なのだろう。おそらく私の記憶を基にして作られた夢だ。ならば少しでもお兄さんについて思い出すために、この夢を楽しもう。


「今日はお花の冠を作りたい!」


 幼く無邪気な私はそう答えた。身体が勝手に動く。きっと私は夢の世界の私を操ることはできないのだろう。意識とは関係なく言葉が発せられる。


「またお花で冠を作るの?」


「うん!お兄ちゃんと一緒にお花の冠を作るの大好き!」


「ほかにもたくさん楽しい遊びはあるよ。」


 お兄さんが優しい声で言った。ああ、そうだ。お兄さんはこんな声をしていた。

 この声はきっと夢から覚めたら忘れてしまうだろう。どれだけ聞いたとしても、忘れてしまうだろう。聞いても聞かなくても忘れてしまうのならば、少しでも長い間、この声を聞いていたい。


「でもお花の冠をお兄ちゃんと作るのが好きなの。」


 私の口角が上がる。


「上手にできたらお兄ちゃんが褒めてくれるから。」


 私にもこんなに無邪気なときがあったな。好きなものを好きと口にでき、嬉しいときには隠さずに笑う。そこには他意など存在しない。だからこそ存在する無垢で無知なもの。きっと私はいつの間にかこれを落としていたのだろう。そしてそれはもう二度と手に入れることはできないのだろう。


「お兄ちゃんはチヒロと遊ぶの好き?」


 首をかしげながら言う。無邪気だからこそ聞けること。無邪気で何も恐れないからこそできること。いつ失ってしまったんだろう。


「好きだよ。」


 お兄さんがまた優しく言った。その言葉が嘘だと疑いもせずに私はキャッキャと喜ぶ。


「やった!」


 両手を口元に持っていって言った。

 そのあとに、お兄さんの耳元に手を添える。


「あのね。お兄ちゃんにチヒロの秘密を教えてあげる。」


 いつもよりも少し小さな声、それでもはっきりと聞こえる声で言った。


「あのね、チヒロ・・・。」



 気が付くと朝だった。今日は土曜日だから学校は休みだ。

懐かしい夢を見た気がする。起きてすぐの時には内容を断片的に覚えていたが、次第に忘れてしまった。ただ忘れたくないと願ったことだけは覚えている。何を忘れたくないのかは覚えていない。その夢すべてなのか、あるいはその夢の中の一部分だけなのか。自分の心をなのか、それとも自分ではない誰かはこの人のことなのか。それさえも忘れてしまった。

 階段を降り、リビングに行くと、兄がソファに座ってテレビを見ていた。テレビには天気予報が映っていた。雨は降らないらしい。

 昨日の朝になかなか見当たらなかったヘアピンを私は左手に持っていた。無意識に持っていた。それも軽く握る程度などではなく、手にヘアピンの跡が残るくらいに強く握りしめていた。

 自分でも驚くくらいに私はこのヘアピンに依存しているらしい。

本当に近所のお兄さんにもらったからという理由だけでここまで依存するものなのだろうか。別にデザインは特別いいというわけではない。悪いというわけでもないが。しかもその記憶は正しい記憶ではない可能性が高い。私が中学生の時に兄や母に近所にいたお兄さんについて聞いたところ、そんな人はいなかったと言う。

だがそうだとすると、私が今左手に強く握りしめているものはどうやって手に入れたのだろうか。私が幼い時からこのヘアピンは存在した。幼い子が好んで身に着けるようなデザインでもない。私が母におねだりして買ってもらったとは考えにくい。誕生日プレゼントでもらったわけでないのは確かだ。子どものころから誕生日が大好きで、誕生日の記憶だけははっきりとしていて、今までもらった誕生日プレゼントが何かを私は覚えている。ヘアピンを誕生日プレゼントでもらった記憶はない。

私は中学生の時に聞いたことを思い切って今、もう一度聞いてみることにした。


「お兄ちゃん。私がまだ小さい時に近所にお兄ちゃんと同じ年くらいの男の子がいなかった?」


 テレビを見ていた兄はゆっくりとこちらの方に振り向いた。

 私はお兄ちゃんの真後ろに立っていたため、お兄ちゃんは首を限界まで回し、目を合わせるように睨んでいる。


「いないよ。」


 あの時と同じ回答だった。やはりいないのか。ヘアピンの謎を解くことはできなかったのに、どこかほっとしたような気がした。


「前にも同じようなことを聞いたよね。どうかしたのか?」


 今度は兄が私に尋ねる。確かに存在しない人について二回も聞くのは可笑しいと思うだろう。傍から見れば変な人だ。


「いや、このヘアピンをどうやって手に入れたのかなって気になって。私が幼い時からあったからさ、誰かにもらったものかなって思ったんだ。子どもが自ら欲しがるようなデザインでもないし。」


 私は左手を開き、兄にヘアピンが見えるようにした。

 開いた手のひらにはヘアピンの跡が赤く残っていた。


「それ確かお母さんのじゃなかったっけ。千尋が本を読んでいた時に、前髪が目に入るといけないからって、お母さんが千尋の前髪を留めるためにつけたやつじゃないっけ。」


 お母さんが私につけたもの。確かにそれならば説明がつく。子どもが好むようなデザインでもないにもかかわらず、私が幼い時からつけていて、今もつけている。

 子どもは誰かにもらった何気ないものを大切にすることがよくある。おそらくそれと同じ類なのだろう。


「そうなんだ。教えてくれてありがとう。」


 やはり近所にお兄さんはいなかった。

大好きな人のはずなのに、いないと聞いてほっとした。今会えないということは、今はもう生きているのか死んでいるのかさえわからないということだ。大好きな人に長い間会えないということは、その人が死んでいるという可能性も秘めている。おそらくそれで私は安心しているだろう。

元から生きていないものには死ぬという概念がない。あるのは存在するかしないかだ。

私の大好きなお兄さんは元から生きていなかった。だが、私の心の中になぜか存在する。おそらくなぜ存在するのかはこれから先知ることはできないのだろう。きっとお兄さんは私が何らかの事情で生み出した空想のものなのだ。だから存在していると言えば存在しているし、存在していないと言えば存在していない。私の意志でお兄さんを存在させることも消すことも出来るのだ。

私は家に居ても何もやることが思いつかなかったため、外に出ることにした。

靴を履き、扉を開けて外の世界へと行く。青い空といくつかの白い雲が見えた。飛行機がゴーと音を鳴らしながら飛んでいる。朝から外で遊ぶ小学生たちの声がかすかに遠くから聞こえる。おそらく公園にいるのだろう。

特に何の用事もないが、私は公園に行くことにした。

行く途中で犬の散歩をしている人や、駅の方へと走っている人などがいた。私は夏の風に吹かれながらゆっくりと歩いた。空には飛行機雲があった。なかなか消えない。雨が降るのだろう。天気予報では降らないと言っていたのに。

公園に着くとベンチに見覚えのある人がいた。


「あれ?千尋。こんなところで会うなんてね。」


 玲奈は両手でオレンジジュースの入った缶を持っていた。玲奈は水色の花柄のワンピースを着ていた。髪を丁寧に編み込んでピンで留めていた

「玲奈今日どこか出かけるの?それともデート?」


 玲奈がスカートやワンピースを着ることは滅多にというかほぼ一度もなかった。いつもショートパンツとかだった。


「いや。別に何もないよ。」


「玲奈がワンピースを着るなんて珍しいじゃん。」


 玲奈はああとこぼすように言った。


「たまには自分が着ないようなものを着てみようかなって思っただけ。変じゃない?」


 私は玲奈をよく観察した。見慣れない格好だが、玲奈に似合っている。玲奈はかわいらしい顔立ちだからスカートやワンピースがよく似合うのだろう。


「似合っているよ。いつもの格好もいいけど、私はこっちの玲奈の方が可愛いと思う。」


 玲奈は微笑んでよかったと言った。その顔はどこか安心しているようだった。

 私は何も言わずに玲奈の隣に座った。


「近所によく遊んでくれたお兄さんがいたって話覚えてる?」


「うん。ちょうど昨日も話題に出たしね。」


「そっか。そのお兄さんの事なんだけどね、本当は存在しないらしいの。」


 言おうか迷った。言ったところで何も変わらないだろうと思ったからだ。言っても言わなくても変わらないのなら、誰かに聞いてもらおうと思った。

 玲奈はこっちをじっと見た。それもそうだろう。いきなり予想外の答えが返ってきたのだ。驚きもする。


「どういうこと?」


「実はお兄さんは本当に存在していたのかわからないんだ。私が勝手に心の中で作り出した人なのかもしれない。前にお母さんやお兄ちゃんに近所にお兄さんがいたよねって聞いたんだけど、二人ともそんな人はいなかったって言うの。だいぶ前に聞いたことだったから、確かめるために、今日の朝もう一度お兄ちゃんに聞いてみたの。そしたらやっぱりいないって。」


「でもそれなら、千尋が今つけているヘアピンはどうなるの?それはお兄さんにもらったものなんじゃないの?もしお兄さんが本当に存在しない人ならそのヘアピンがあるのは可笑しくない?」


「このヘアピンはお母さんが私にくれたものなんだって。お母さんが前髪の伸びた私のためにくれたものだって。」


 沈黙が生まれた。玲奈は言葉一つ一つを考えて処理しているようだった。しばらく考えた後に玲奈は口を開いた。


「それが全部嘘だっていう可能性はないの?」


 その言葉に驚いて脳が思考を停止した。再び沈黙に包まれる。夏の風の音が響く。


「どういうこと?」


 私が聴くと玲奈はまたゆっくりと考えた。そして玲奈の考えていることを説明してくれた。


「あくまでこれは私の考えた仮説でしかないんだけど、お兄さんもお母さんもその周りの人たちも千尋に何か隠したいことがあってみんなで千尋に嘘をついているんじゃないかな。千尋は頭がいいから自分で作った存在と実在する人の区別がつかないとは思えないの。仮にそのヘアピンが本当にお兄さんからじゃなくてお母さんからもらったものだとしても、お兄さんの存在が完璧に否定されたわけではないでしょ?」


 玲奈は休憩するように手に持っていたオレンジジュースを一口飲んだ。


「それと本当にお兄さんが千尋の心の中で作られた人だったとしたら、そのモデルとなる人がいると思うんだよね。でも千尋のお兄さんとお母さんに聞いたらそんな人はいないって言っていたんでしょ。それだとそのモデルとなる人の存在も否定されちゃうんじゃないのかな。」


 そう言って玲奈はあくまで私の考えだけどねと言い、再びオレンジジュースを飲んだ。

 周りが嘘をついているという可能性は考えたこともなかった。最も疑うべきことだったのにもかかわらず。


「でももし玲奈の言っていた通り周りが嘘をついているのだとしたら、それはなんでなんだろう。」


「そこまではわからないよ。でもたぶん何か知られたくないことでもあるんじゃない?」


 お兄さんの存在を知ると知られたくないことも知られてしまうというのだろうか。


「もし私の考えた仮説が事実だったら、そのうち真実を知れるんじゃないかな。複数人での嘘はかなりきついものだからね。そのうち周りが打ち明けてくれるんじゃない?今はまだその時期じゃないってだけで。」


 玲奈はベンチから立ち、じゃあねと言って公園から出ていった。

 私は一人残された。一人考えた。周りが嘘をついている。確かにお兄さんが私の心の中でしか存在しないにしては思い出がはっきりし過ぎている。よく遊んだことや、どんな花で冠を作ったかなどは今でもはっきりと瞼の裏に焼き付いているように思い出せる。唯一思い出せないのはお兄さんの顔と名前だ。もしかしたらお兄さんの名前は聞いたことがないのかもしれない。だとしても顔は覚えていてもいいはずだ。それなのに顔を思い出せない。どうしてもその時の情景を思い出そうとすると、お兄さんの顔の部分に黒い靄のようなものがかかっていてよく見えない。

 お兄さんの顔は思い出せないが、お兄さんの声は思い出せる。確か程よく低くて優しい声だった。その声を聞くと私は安心した。

 やっぱり玲奈の言う通り私は周りに嘘をつかれているのではないだろうか。もし本当に私が作り出した存在なのだとしたら、声を思い出せるというのは可笑しい。想像で作られた人に声を想像で補うというのはかなり至難の業だ。なのに難なく声を思い出せるというのは可笑しい。やはりお兄さんは存在した。だが周りはそれを隠したがっている。おそらく今嘘をついているでしょと周りに問いただしても、真実を教えてくれる可能性は低い。玲奈も言っていたが、集団で嘘をつくというのはかなりの労力を要する。必ずどこかから崩れていく。ならばその崩れる瞬間を待てばいいのだ。そうすれば周りも教えてくれるはずだ。

 今私がやるべきことは待つことなのだ。嘘なのだと問いただすことではない。


 公園で玲奈にあった日から何日かが経ち、水曜日になった。今日は山内陸さんに小野蓮について聞く日だ。予定通り私は兄と一緒に兄の大学に行った。余談だが、兄は今日午後から授業なのらしい。

 四十分ほど電車に揺られた後、乗り換えをして再び電車に三十分ほど乗って兄の大学の最寄駅に着いた。兄の大学は都内にあった。都内にある大学だからか、兄の大学には人が多かった。その様々な生徒がいた。髪を金色に染めて大声で友人と一緒に笑いながら話をしている人。椅子に座ってコーヒーを飲みながら本を読んでいる人。友人と一緒に写真を撮っている人。この大学でなら私も上手くやっていけるだろう。三年生になったらここを第一志望にして勉強をしよう。

 学内にオルゴールのようなチャイムが鳴った。どうでもいいことだが、高校などのチャイムよりも心臓にいいなと思った。たまに集中しているときにチャイムが鳴るとびっくりすることがある。だが、この大学のチャイムならさほど驚くことはないだろう。

 チャイムが鳴り終わると建物からぞろぞろと生徒が出てきた。兄曰く、さっきのチャイムは昼休み開始のチャイムだったらしい。

 私と兄は食堂のテラスにある椅子に座った。山内陸さんとはここで待ち合わせているらしい。自販機で兄が買ってくれたココアを飲みながら待つことにした。五分ほど経ってから山内陸さんが来た。髪は比較的短めで明るく染めていた。黒いシャツに細かい縦縞のゆったりとしたズボンといった格好だ。背中には黒いリュックを背負い、手には缶コーヒーを持っていた。


「ごめん、待たせたね。」


 穏やかな声で、言葉一つ一つを噛み締めるような喋り方だった。


「いや、大丈夫だよ。こっちがいきなり呼び出したんだし。」


 私の代わりに兄が言った。


「その子が話していた妹さんかな?聞きたいことがあるって聞いたんだけど、何かな?」


 私は深呼吸をした。心を落ち着けて、簡潔に述べようと考えた。


「単刀直入に言います。陸さんは小野蓮という人物が何の病にかかっているのかご存じですか?」


 驚いた表情をされると思っていたが、案外落ち着いた表情のままだった。まるで予想していた通りのことを聞かれた時のようだった。兄が事前に教えておいてくれたのだろうか。


「蓮の病気についてか。」


 呟くように言うと、手に持っていた缶コーヒーを一口飲んだ。テーブルに缶コーヒーを置いてから山内陸さんは口を開いた。


「正直に言うと、俺も蓮の病気が何なのかはわからないんだ。ただ、あいつは自分の父親に虐待されていた。」


 頭に流れた記憶の中でも聞いた。小野蓮は自分の父親に虐待されていた。


「あいつの母親が死んで何年か経ったある日、あいつは泣きながら俺にもう耐えられないと言った。どうしたのか聞くと父親に虐待されていると言った。父親に火の点いた煙草を肌に押し付けられたり、動けないようにしてから無理やり煙草を吸わせたり。とにかくひどいものだった。俺はあいつの弱音を聞くことしかできなかった。何か俺にできることはないのかと聞いたが、蓮は何もしないでほしいと言った。警察に通報しようとも言ったが、あいつはそれを拒んだ。」


 山内陸さんの顔が歪んだ。


「俺は何もできなかった。いや、何もしなかったんだ。無理やりにでも警察に通報していれば、よかったんだ。そうすればあいつはあんな目には合わなかったのに。」


 手のひらを強く握っていた。この人は自分のしなかった行為を本当に恨んでいるようだ。


「何も知らない私が言うのも可笑しいのかもしれない、いや、可笑しいのですが、確かに陸さんは良いことをしたとは思えません。でも、悪いことをしたとも思えません。だって本人が何もするなと言ったのでしょう?それにもし、その意志に反して陸さんが何か行動を起こしたら、さらに悪い状況になっていたという可能性だってあるでしょう?確かに何か行動を起こして良い方向に事が進む可能性だってあるけど、悪い方向へと進む可能性だってあるんです。陸さんは何もしなかったんじゃなくて、何もしないということをしたんです。」


 人生というのは必ずしも良い方向へと進むわけではない。その証拠として小野蓮は自分の父親に虐待されていた。こんな展開は誰もが良い展開とは言わないだろう。

 私の言葉を聞いて山内陸さんは下を向いて固まっていた。何か気に障るようなことを言ってしまったのだろうか。


「あの、どうかしましたか?」


 気づくと山内陸さんは泣いていた。大粒の涙が落ち、机に水の花を咲かせた。涙は留まることを知らずに流れる。


「そういってもらえてうれしいよ。誰かにこんなことを言ってもみんなそれはしょうがないことだって言って終わらせる。俺は同情の言葉が欲しいわけじゃないんだ。俺のやったことが良いのか悪いのか、第三者からの率直な意見が欲しかったんだ。」


 そういって山内陸さんは正面を向いた。依然として涙は流れている。


「ありがとう。妹さんが薄情な人じゃなくて助かった。」


 なぜさっきの言葉で薄情じゃないと考えたのかはいまいち理解できなかったが、とりあえず何か不快にさせるようなことを言ったわけではなさそうで安心した。

 山内陸さんはひとしきり泣いた後、持っていた黒いリュックの中身をいじりだした。


「君ならもっと詳しく蓮について話してもいいな。」


 そういって山内陸さんはメモ帳とペンをリュックから取り出した。そこに何かを書き、私に見せてきた。。


「そこに書いてある住所に尋ねるといい。俺よりも蓮について詳しい奴だ。きっと連の病気についても知っていると思う。」


 住所とともにそこに書かれた名前を見て私は驚きのあまり息を飲み込んだ。

 〝みねしろあい

 パズルをはめ込んだ際に見た記憶に出てきた人の名前と同じだ。ずっとわかっていたことだが、本当にあの記憶は事実の記憶なのだと改めて知った。

 私は山内陸さんに聞きたいことがあった。


「あの、差し支えなければ教えてほしいのですが、陸さんと小野蓮は喧嘩したと聞きましたが、それは本当なのですか?今日陸さんのことを見てみて、喧嘩をするような人ではないなとは思ったのですが。」


 小野蓮について聞きだした時よりも驚いていた。目を大きく開き、口を軽く開けていた。そしてすぐに優しく微笑み、本当だよと言った。


「どのようにして喧嘩したのですか?」


「それについては俺が答えるよりも、その紙に書いてある人物に聞いた方がいいかもね。」


 言いながらさっき書いたメモ帳を指さした。


「喧嘩の当事者が語るよりも、第三者が語る方が情報は正しく伝わるからね。当事者が語るとどうしてもどこか誤解を招くような言い方をしてしまったり、誇張表現になってしまったりする。」


 確かに山内陸さんの言う通りだ。喧嘩の当事者が喧嘩について語るとき、どうしても自分に有利になるように相手に伝えてしまう。喧嘩についてはこの紙に書かれている人に聞いてみることにしよう。

 聞きたいことはすべて聞いた。もうこの大学にいる必要はない。要件が済んで私は家に帰ることにした。兄が大学の最寄駅まで送ってくれた。



 乗り換えの駅に着いて、まだ午後二時ごろだったため、少し駅の中を見ることにした。適当に店の中を見て時間をつぶそうと思っていたが、乗り換えの駅ということもあって人が多かった。結局、駅の中で最も空いていた花屋を見ることにした。

 花屋に入ったのは久しぶりだった。最後に花屋に入ったのは兄が大学受験に合格し、お祝いに花を買って来いと母に言われて行った時だ。

 いつも不思議に思うのだが、こんなにも様々な花があるにもかかわらず、花屋の中は多種多様な香りが混ざってできた嫌な匂いがしない。かすかに外とは違う匂いがするだけだ。何か工夫でもしているのだろうか。

 いろいろな花を見てふとある花に目が留まった。一本の太い茎が上に延び、茎の先端にがくと花弁が付いている花だった。しばらく見ていると、花屋の店員が話しかけてきた。


「こちらの花はリコリスという花です。花言葉は誓い。別れの場での贈り物として花束にされるお客様が多いんですよ。」


 聞いてもいないことを詳しく教えてくれた。

 リコリスの隣にはリコリスよりも少し大きな花弁のよく似た花があった。リコリスの仲間だろうか。せっかく丁寧に教えてくれたのだから、こちらも真剣に店員に向き合わなければいけない。


「こっちもリコリスですか?」


 リコリスの隣の花を指さして聞いた。店員は指さした方を見て答えた。


「こちらはネリネですね。リコリスと似てはいますが、リコリスよりも花が少し大きいのです。ネリネはリコリスと同じヒガンバナ科の花なんですよ。ネリネの花言葉はまた会う日まで。この花も別れるときに用いられることが多いんですよ。」


 店員はよほど花が好きなのだろう。こんなにも詳しいことをすらすらとそれも楽しそうに説明してくれた。聞いているこちらもその楽しさに引き込まれそうだ。

 ネリネの奥の方にも花があった。どこか見覚えのある花だった。


「ネリネの奥にある花は何ですか?」


 店員はさらに楽しそうに満面の笑みで話す。


「そちらはワスレナグサですね。花言葉はその名前の通り私を忘れないで。英語名はフォーゲットミーノット。この花にはある悲しい物語があるんですよ。」


「恋人のためにこの花を摘んでいた少年が誤って川に転落した。」


 店員が言うよりも先に私が言った。店員は驚いていた。


「そうなんですよ。お客様よくご存じですね。ひょっとしてこの花を好きとか?」


「いや、ただなんかどこかでそんなことを聞いた気がして。」


 どうして私はこんなことを知っていたのだろうか。不思議だ。別にこの花を好きというわけでもないのに。知っているということも驚きだが、それ以上に口が勝手に動いていたというのが驚きだ。何も考えず、まるで反射のように動いていた。少し気味が悪く感じてその花屋から出てしまった。店員には申し訳ないことをしたな。



 丘の頂上を目指して歩いていた。誰かの手が私の手をつかんでいる。私はその手をつかんでいる。二人とも離れないようにしっかりとつかんでいる。

 丘の頂上には木があった。その木の下には花があった。彼岸花に似ている花だった。真っ赤で一つの茎からいくつかの花が付いている。


「あの花はヒガンバナって言って死んだ人の花なんだって。だから不気味だってお母さんが言ってた。」


 無邪気に私が言う。お兄さんは花を見て一言小さく、可哀そうにと言った。その言葉を聞き逃さなかった私はどうして可哀そうなのと聞いた。


「あの花が死んだ人の花だって勝手に決めたのは人間なんだよ。人間が勝手に決めて勝手に不気味に思っている。あの花は何も悪いことをしていないのに。」


 お兄さんは悲しそうに言った。ああ。やめて。そんな顔をしてほしくて私はそんなことを言ったのではないのに。ただよく知っているねと一言褒めてほしかっただけなのに。


「お兄ちゃんはあの花好き?」


「うん。好きだよ。誰が何と言おうと、死人の花だろうと、あの花の美しさは誰にも損なうことはできない。」


 言っていることが少し難しくてうまく理解できなかったが、とりあえずお兄ちゃんはあの花が好きだとわかった。


「じゃあ、チヒロもあの花好きになる!」


「おや、どうして?」


「お兄ちゃんと同じものを好きになりたいの!」


 お兄さんは私の手をつかんでいない方の手で頭を撫でてくれた。私はえへへと言い、顔をふにゃっとさせた。



「いつまで寝ているつもりなの!?」


 母の大声で目が覚めた。いつもより四十分遅い時間に起きた。遅刻しそうだというのに、どこか心はふわふわとしていた。何も考えずに着替え、何も考えずにパンを食べ、何も考えずに歯を磨きに洗面所へと向かう。洗面所には兄がいた。

 兄は眠そうな目で歯を磨いていた。私はその隣で歯を磨こうとする。

 ふとあることを思い出した。


「お兄ちゃん。」


「何?」


「ワスレナグサって知ってる?」


 兄は眠そうな目のまま答える。


「見たことはないけど、名前は知っているぞ。あと、確か花言葉は私を忘れないでだっけ?」


「そう。」


 兄はワスレナグサを知っている。あと聞くべきことは一つだ。


「じゃあ、ワスレナグサにまつわるある少年の悲しいお話を知っている?」


 兄は少し考えてから知らないと言った。兄はワスレナグサのことは知っていたが、ワスレナグサのお話は知らないようだ。


「どんな話なんだ。」


 兄はワスレナグサの話に興味を持ったようだ。


「ある少年が恋人のためにワスレナグサを摘んでいたんだけど、誤って川に転落しちゃう話。少年は最期にフォーゲットミーノットって言葉を残したんだよ。それが花言葉にもなったの。」


 兄はふーん、ずいぶんとロマンチックな話だなと言って、うがいをした。兄がうがいをして顔を洗い終わって洗面所を出るときに口を開いた。


「そういえば昨日あの後陸からこんなのもらった。妹さんに渡してってさ。」


 そういって兄は私の前に手のひらを出した。兄の手の上を見ると、パズルのピースがあった。全体的に黒いからおそらく星空の部分だろう。

 私はありがとうと一言言ってピースをポケットに入れた。

 チャイムと同時に教室の扉を開けた。クラスの何人かがおーと、感嘆の声を漏らしていた。今日は遅刻しなかった。授業が一通り終わると私は美術室へと走って向かった。今週は掃除当番ではないというのはちゃんと確認した。

 美術室にはまだ掃除当番の生徒たちがいた。

私は廊下で掃除が終わるのを待っていた。ふと昔兄が教えてくれた歌を思い出した。歌詞も音も覚えている。


たとえ声がなくても、聞こえなくても

届いてほしい。願った。

世界に見放されても、笑われても。

あなたが認めてくれる。

それだけでもういいんだ。


兄はこの歌を絵本で知ったらしい。ただ絵本から知った歌であるため、このメロディーで合っているのかはわからないと兄は言っていた。


「ずいぶんとご機嫌だな。」


 歌っていると後ろから原ちゃんが話しかけてきた。相変わらずどこか眠そうな表情だ。


「歌なんか歌って。何かいいことでもあったのか?」


「いや、特に何もないんだけど、昔お兄ちゃんが歌っていたのを思い出したの。そしたら歌いたくなっちゃって。」


「藤崎の兄ちゃんって確かとおるって名前だっけ。」


「そう。よく覚えてたね。原ちゃんが人の名前を覚えているなんて珍しい。」


「俺だってそれくらいは覚えていられるわ。それより今歌っていた歌ってなんだったっけ。どこかで聞いた気がするんだけど。」


「え。これお兄ちゃんが絵本にあった歌詞を基にして作曲したやつなん…」


「先生。掃除が終わりました。」


 美術室の掃除が終わったようだった。生徒が美術室の扉を開けて原ちゃんに言った。


「おう。わかった。今点検するからな。」


 原ちゃんは生徒と一緒に美術室に入っていった。私は原ちゃんの後を追うように美術室に入って行った。掃除の点検の邪魔にならないように気を付けながら、パズルの棚の方へと向かっていった。

 そして今朝兄から受け取ったピースを埋め込んだ。



 一人の少年が美術室で歌っていた。外は太陽が沈みかけていて、世界を茜色に染めている。


「ご機嫌だね。歌なんか歌って。」


 少年の後ろから一人の少女が声をかけた。肩のあたりで切られた少女の髪は夕日で赤茶色に染まっていた。


「藍花か。いきなり呼び出してごめん。」


「休み時間中にいきなり今日の六時半に美術室に来てって言われるんだもん。びっくりしたよ。」


 藍花は微笑んだ。だがすぐに真剣な表情になった。


「それで何の用?こんな人気のないところに呼び出したんだから何か重要なことでも言いたいんでしょ?」


 少年は顔をうつむかせた。夕日が少年の顔に影を作る。


「もしかして誤解させるようなことをしちゃったかもしれないけど。」


「告白じゃないってことは知っているよ。」


 少年は顔を上げる。夕日で顔の半分が影になっている。


「それじゃあ、教えてもらおうか。その体中の傷の事。いや、病気のことかな?」


 少年は豆鉄砲をくらった顔をした。


「やっぱり藍花には何も隠せないね。」


「伊達に幼馴染をやっているわけじゃないからね。」


 少年ははじけたように笑った。藍花は悲しそうに微笑んだ。


「じゃあ、話すね。」


 少年は深呼吸をした。


「僕実は肺ガンなんだ。もう治らないところまできちゃった。」


 少年は優しい声で言った。


「それとね、もう辛いんだ。お父さんからの虐待。煙草を無理やり吸わされたり、火の点いたまま肌に押し付けられたり。服で隠れるところにやられるから余計にたちが悪い。」


 少年は下を向いた。


「無理しないで。ほかの人の前では強がって自分のことを俺って呼んでいるけど、今もう限界なんでしょ?僕って言ってるよ。」


 藍花は優しく微笑んだ。悲しみを隠しながら。


「あたしの前では泣いていてもいいんだよ。」


 少年は下を向いたまま静かに涙を流した。


「このことはもう誰かに言ったの?」


「陸にはお父さんから虐待されてるって言った。それ以外は何も言ってないし、誰にも言ってない。」


 藍花は窓の外を眺めていた。夕日がだんだんと沈んでいき、世界を染めるのを諦めていく。


「ねえ、これは一つの提案なんだけどさ。」



 記憶がまた流れてきた。今度は峰城藍花が出てきた。彼女は小野蓮の心の支えとなる重要人物だったようだ。

 流れてきた記憶の内容からして峰城藍花は小野蓮の病気や虐待されていたことについて詳しく知っているはずだ。

 今回の記憶からの収穫はそれだけではなかった。

 小野蓮は肺ガンだった。肺ガンは主に煙草が原因とされている。おそらく父親からの煙草を用いた虐待が引き金となったのだろう。

 肺ガンはガンの中でも死亡率が高いと有名だ。気づいた時にはもう手遅れということも多い。おそらく小野蓮は咳や吐血、もとい血痰の症状から自分が何らかの病気だと確信し、病院に行くかどうかして肺ガンであると知ったのだろう。それで肺ガンの進行が進んでいてすでに末期だと知ったのだろう。それで山内陸さんにもう時間がないと言ったのだろう。

 小野蓮の病気については知ることが出来た。だがまた一つ疑問が出来た。峰城藍花が出した提案とは何なのか。記憶から察するに峰城藍花は頭が良い。おそらく幼馴染である小野蓮にとって最善のことをすると思われる。つまり最善の提案をするのだろう。

 ちょうど山内陸さんから峰城藍花の居所を聞いている。次の土曜日にでも何を提案したのかを聞いてみよう。それと、小野蓮について知っていることを全部聞かせてもらおう。


「藤崎、何してるんだ。」


 原ちゃんが白衣のポケットに手を入れた状態で話しかけてきた。


「このパズルやっているの。」


 そういって私は小野蓮が作ったパズルを指さした。


「それこないだ言ってたやつか。」


 原ちゃんは感心したように言った。


「それにしてもよく飽きないな。俺だったらピースが足りないって気づいた時点で諦めるけど。」


「私と原ちゃんは違うの。パズルはなんとしてでも完成させたいって私は思うの。」

「だとしても始めてから結構な日数が経っているぞ。」


 言われてみればそうだった。このパズルを始めてから二週間ほどが経っていた。時間で見れば短いと思うかもしれないが、驚くのはこの二週間の間、一日たりともパズルのことを忘れることはなかった。忘れることがなかったどころか、考えない日がなかった。自分でも驚くくらいにこのパズルを完成させるのにのめりこんでいる。


「でもまだ二週間だよ。」


「〝まだ〟って言っているということはこれからも夢中でいられる自信があるってことだぞ。そんなにこのパズルを完成させたいのか。」


「うん。させたい。」


 原ちゃんの言う通りこれから先もこのパズルを完成させるまで私はこのパズルに夢中でいられる自信があった。


「パズルにそんなに情熱を持っている人間も珍しいな。まあ、俺から言うことは何もないよ。しいて言えば下校の時間になったらちゃんと下校するんだぞ。」


 そういって原ちゃんは廊下の方へと向かった。美術室を出る前に、帰るときに美術室の鍵を閉めて職員室に鍵を届けるようにと言われた。

 確かに私はこのパズルに対して並大抵ではない情熱を持っている。別に小さいころからパズルをやるのが好きだったというわけではない。嫌いだったというわけでもないが。ここまで情熱をもってパズルの完成を望むのはなぜだろうか。自分でもわからない。ただわかるのはこのパズルは他でもない私が完成させなければならないという使命感のようなものがあった。おそらく初めてこのパズルの制作者である小野蓮に関する記憶を頭に流し込まれたからだろう。

 そういえば──。

 どうして記憶が頭に流し込まれたのだろうか。初めて感じたときに気づくべきだった。なのに気づけなかった。まるでそれが当たり前だとでもいうように。まるで前から知っていたかのように。

 私は何かを忘れているのだろうか。

 完璧にではなく、断片的に何か大切なことを忘れている。そんな気がした。何を忘れているのだろうか。そしてなぜ断片的に忘れてしまったのか。なぜ一部は覚えていられているのか。

 考えてもわからない。

 とりあえずこの疑問はパズルを完成させてから考えても遅くはないだろう。

 私は美術室を出た。扉を閉め、鍵をかけた。


「ん?」


 扉のすぐ前にペンが落ちていた。確か職員室の前に落とし物を届けるための箱があったことを思い出し、ついでに届けることにした。

 廊下を歩き、職員室の方へと向かった。ふと思った。原ちゃんは小野蓮のことを知っていたが、小野蓮の幼馴染である峰城藍花については何か知っているのだろうか。今から職員室に鍵を返すついでに聞いてみよう。

 職員室の扉を優しく三回ノックし、横に引く。


「失礼します。美術部の藤崎です。美術室の鍵を返しに来ました。」


 そういって軽くお辞儀をしてから職員室へと入った。

 美術室の鍵はいつも原ちゃんの机の上にある。原ちゃんは職員室にはいないようだった。

 鍵を原ちゃんの机の上に置いて職員室から出た。出たところに原ちゃんがいた。


「原…嶋先生どこに行ってたのですか?」


 いつもの癖で危うく原ちゃんと呼ぶところだった。さすがに職員室の前で原ちゃんと呼ぶのはまずい。原ちゃんは気にしないかもしれないが、ほかの先生が聴いたら変に思うだろう。


「更衣室。いつも使っているペンがなくなったから落としたのかなって思って探しに行った。でもなかったらこれから美術室を探すところ。」


「もしかしてそのペンってこれ?」


 そういって私はさっき拾ったペンを原ちゃんに見せた。さっきは何も考えずに拾ったが、よく見ると可愛らしいペンだった。白地に赤いハートがあって、その上に黒い猫が乗っているデザインだった。成人男性が持つには少し恥ずかしいくらいに可愛いペンだった。


「そうそれだよ。ありがとう。」


 原ちゃんは安心したような表情をした。よほど大事なペンなのだろう。


「原…嶋先生が自ら買ったペンなの?可愛いの好きなの?」


「いや、知り合いに誕生日プレゼントでもらったんだ。最初は嫌だったんだけど、使っていくうちに書きやすく感じてきて今ではもうこれがないと落ち着かないんだ。」


 そういいながら原ちゃんはペンを白衣のポケットに入れた。


「ふーん、そうなんだ。あ、それと原ちゃん小野蓮って人について知っていたよね。小野蓮の幼馴染だった峰城藍花って人の事知ってる?」


 原ちゃんは顎に手をあてて考え込んだ。


「んー、ごめんわかんないや。。俺のいないときに活動していたのかもしれないけど、小野蓮もあまり美術室に来るやつじゃなかったからな。静かな環境で絵を描くのが好きだったのかもな。おかげで一緒に話した記憶があまりないんだ。」


 なるほど。だから原ちゃんは小野蓮と話した内容を覚えていたのか。話す機会が極端に少なかったから。


「そっか、わかった。ありがとう。」


「いや、こっちこそペン拾ってくれてありがとよ。ほかの知らないやつに持っていかれなくてよかったよ。」


 そういって原ちゃんとは別れた。

 私は帰るために下駄箱へと向かう。

すでに窓の外は赤くなり始めていた。グランドの方からは運動部の練習している音が聞こえる。野球部の威勢の良い声。陸上部のリズムを刻むような足音。サッカー部のボールを走らせる音。外の空気をつたって吹奏楽部の全体練習の音も聞こえる。

 青春の音に包まれながら職員室へと向かう。

 こうしていると自分は美術部で青春を味わうことはできるのだろうかと一瞬不安になる。だがその不安は不要だということを私は知っている。

 それぞれの部活はそれぞれの趣がある。美術部は静かな生活音のような非日常の音を奏でる。自分ではない他の誰かによる物音。筆で紙を撫でる音。色づいた筆を水で洗う音。下描きの時の鉛筆の音。さらには鉛筆をカッターで削る音。これらの合奏を聞くのは自分一人では無理なことだ。必ず自分ではない誰かが必要となる。この合奏を学校という場はいともたやすく実現させてくれる。

 私は美術が好きだ。

 特に自分以外の誰かがいる空間でやるのが好きだ。

 一人で作業をするのが好きだった小野蓮は私のこの気持ちを理解するのは難しいのだろう。反対に私は小野蓮がなぜ一人で作業をするのが好きなのかを理解できない。確かに静かな美術室も魅力的に感じたが、やっぱり誰かがいる空間の方が好きだ。

 それでも私は小野蓮を知りたい。




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