2つ目

 玲奈と別れてから私は走って家に帰った。今度はしっかりとした足取りで歩いている。おそらく知りたいものがあるからだろう。

 持病について知れば、少しは小野蓮についてわかるかもしれない。持病によって体を動かすのが困難だったとか、治療のために学校を休みがちだったとか。

 家の前に着き、玄関の扉を開け、家に入った。


「もう帰っていたのか。千尋。」


 後ろから声をかけられた。聞きなれた声だった。兄の声だ。


「うん。今帰ってきたところ。お兄ちゃんも?」


「ああ。それとついでに昨日言った通り、慎一を連れてきたぞ。」


そう言えば昨日そんな話をしたな。すっかり忘れていた。

兄の後ろから慎一さんが顔を出した。


「久しぶり千尋ちゃん。元気にしてた?」


 栗色で緩く曲がっている髪。パーマをかけたように見えるが、癖毛らしい。ぱっちりとした目。人懐こそうなその顔は誰の心でも打ち解けさせてしまいそうだ。実際にそうなのだが。


「お久しぶりです、慎一さん。」


「相変わらずいい子だねー。それはそうと、今日は小野蓮について聞きたいんだよね?」


「はい。何かわかることがあれば何でも教えてほしいです。」


「それもいいけど、まずは身体を温めてからね。そのままだと風邪ひいちゃう。」


 そう言われて私は自分の身体を見た。雨でびしょ濡れだった。まあ、確かにあんなに雨が降っている中を走って帰ったら、びしょ濡れになる。

 私は慎一さんの言葉に甘えてお風呂に入ることにした。入る前に兄に部屋で待っていると言われた。

 風呂で十分に身体を温めてから、兄の部屋へと向かう。

 階段を上がり、廊下を歩いて兄の部屋の扉を開ける。昨日入った時と変わったところは特にない。しいて言えば、ギターがちゃんと片付けられているという点だけだ。


「ちゃんと温まったか?」


「うん。」


 床の上に座り、私たちは話を始めた。


「さて、小野蓮について俺から話す前に、まずは千尋ちゃんが知っていることについて話してもらおうか。」


 慎一さんの予想外の言葉に私は戸惑った。その様子を見ていた慎一さんは、なぜそんなことを言ったのか理由を教えてくれた。


「なんでって思うかもしれないけど、こうすることによって情報を重複して伝えるのを防ぐことが出来るんだ。そうすれば効率よく情報の伝達ができる。だから、千尋ちゃんが知っていることを教えてくれないか?」


 兄が前に言っていたが、慎一さんは勉強が得意ではないが、このような論理的思考や生活面における頭脳はかなり良いという。確かにそうだなと思わされた。


「わかりました。私が体験したことと知っていることをすべてお話しします。」


 私はすべてを話した。美術室にあったパズルが小野蓮によって作成されたものであること。原ちゃんにもらったピースをはめ込んだら、知らない記憶を頭に直接入れられる感覚がしたこと。その記憶にいた少年が小野蓮だと思われること。また、その少年が咳をして吐血したが、本人は驚くことなく冷静に血で汚れた手を洗っていたこと。その反応から、咳と吐血の症状は日常茶飯事で、この少年は何かの病気を患っているのではないかと考えていること。

 すべてを聞いた後、慎一さんが口を開いた。


「たぶん、千尋ちゃんが見た記憶?に居た少年は蓮かもしれないね。あいつは美術部だったし、俺と一緒にいたときも騒がしい場所を嫌う傾向があったから、よく誰もいない時間に美術室に行って絵を描くって言ってたな。」


 やはりあの少年は小野蓮だったらしい。だがなぜピースを埋め込んだ瞬間に記憶が入れ込まれる感覚がしたのか。また、彼は何の病気を持っていたのか。謎がまだあった。


「小野さんは何の病気を持っていたんですか?咳をして吐血したにもかかわらず、あんなにも冷静にいられるってことはその症状に慣れている。つまり、ずっと前からその病気を持っていたってことですよね。」


 慎一さんの顔が暗くなった。


「あいつは何の病気かは教えてくれなかった。咳と吐血についても必死に隠そうとしていた。初めて見たときはなんとしてでも病気について聞きだして、力になってやろうと思っていたが、本人が咳の理由を噎せたこと、吐血は今朝食べたケチャップだって言って必死に誤魔化そうとしていたから、聞いちゃいけないなと思ったんだ。今思えば、嫌がっていたとしても、何の病気かを聞いてやるべきだったんだろうな。他人に隠していることって、案外ばらした方が楽になることもあるからね。」


 友人である慎一さんですら小野蓮の病気については知らなかった。もしかして、小野蓮は誰にも病気であることを打ち明けていないのであろうか。もしそうだとしたら小野蓮について知るのはかなり困難なものになる。病気であると打ち明けることが出来るくらいに親しい友人が居なかったということになる。つまり、小野蓮について詳しく知る人がいないということになる。小野蓮について知ることは想像以上に難しいものになりそうだ。


「慎一さん以外に、小野さんと友人だった人っていませんか?」


 慎一さんは口元に手を当てて考えた。しばらくして口を開いた。


「一人いるな。」


 その言葉に兄が反応した。


「もしかして、やま内陸うちりくか?」


 兄がそう言うと、慎一さんは肯定した。


「確かに陸は小野蓮と友人だったけど、喧嘩したよな?」


「それでも喧嘩する前は陸と仲が良かったよ。もしかしたら、蓮の持病について何か知っているかもしれない。」


 どうやら小野蓮には慎一さん以外にも友人がいたらしい。兄の反応を見ると、その人物は兄の友人でもあるらしい。兄の友人でもあるのならば、安心できる。

 私はその山内陸さんに会うことに決めた。


「その人にはどうすれば会えますか?」


 すると今度は慎一さんではなく、兄が答えてくれた。


「陸は俺と同じ大学に通っているよ。確か来週あたりに千尋の高校は開校記念日で休みだったよな?その時にでも俺の大学においでよ。千尋も一人で聞くよりは俺が一緒にいた方がききやすいだろうし。」


確かに兄の言う通り来週の水曜日は開校記念日で休日だ。その日であれば私は兄の大学に行ける。また、個人的に兄の大学に進路を決めようかなとも思っていたため、兄の大学を見学するという点でも都合がよい。


「わかった。じゃあ、来週の水曜日にお兄ちゃんの大学に行くね。陸さんによろしくって伝えておいて。」


 話は終わった。その日慎一さんは母に誘われて私の家で一緒に夕飯を食べることになった。最初慎一さんは断っていたが、兄の勧めもあって一緒に食べることになった。


「慎一君も一緒に食べる夕食なんてすごく久しぶりね。」


 母がしみじみと言った。

 私がまだ小学生くらいの時は、よく慎一さんも一緒に夕飯を食べていた。兄と慎一さんで遊び、午後六時くらいに帰ろうとすると、母が慎一さんを夕飯に誘っていた。以前は遠慮なく食べていくと言っていたが、さすがに大学生にもなると遠慮をした。当然のことなのだろうが。


「そうですね。最後に一緒に食べたのは小学生のころでしたっけ。」


 慎一さんが礼儀正しく答えた。

 私はその会話をただ聞いていた。慎一さんはお婆さんと二人暮らしだ。母親は物心つく前に他界し、父親は単身赴任をしている。父親と一緒に住むこともできたが、慎一さんに寂しい思いをさせてしまうと思って、お婆さんに任せたらしい。というのを兄から聞いたことがある。

 私は黙々と夕食を食べていた。今日の夕食は秋刀魚だ。程よく焦げ目のついた身体を箸で崩していく。中から露わになった白身を箸でつまみ、白飯の上にのせてから口へと運ぶ。塩と秋刀魚の味が口の中に広がる。その作業を繰り返す。

 夕飯を食べ終えて皿を流しに置き、自室へと行く。ベッドの上に横になり、今の状況を頭の中で整理することにした。

 小野蓮の作成したパズルを進めていくと、映像が頭の中に流れる。その映像に居た少年は小野蓮である可能性が高い。その少年は咳と吐血という症状がある病を患っている。小野蓮にもそのような病気があったという。だが、病気のことを本人は隠したがっていたようだった。そのため、何の病気なのかは今のところはまだわからない。

 整理していてふと気づいた。小野蓮に直接会うことはできないのだろうか。そうしたら一番手っ取り早い。パズルについても聞けるし、何の病気なのかも直接聞ける。隠し事というのは友人には言えなくても、まったく知らない他人には言えるものだ。

 私は階下に戻り、慎一さんに聞くことにした。

 階段を降りようとすると、兄が階段を上ってきた。


「慎一さんは?」


「慎一なら夕飯を食べ終えて五分前くらいに帰ったよ。」


 慎一さんは帰ってしまったらしい。再度呼んでもらうこともできたが、さすがにそれは申し訳ない気がする。今度山内陸さんさんに会う時に小野蓮の居所について聞こうと決めた。

 その後何もなく木曜日の朝が来た。

 私はいつも通り学校に行く準備をした。持ち物を確認し、朝ご飯を食べて歯を磨く。その後顔を洗い、二階に行って制服に着替える。最後にいつもつけている白いヘアピンを付ける。

 部屋を出て階段を降りる。玄関に行き、革靴を履いて扉に手をかけた。


「待って、千尋。」


 振り向くと、寝癖がついた頭で眠そうな顔をした兄が立っていた。今起きたばかりなのだろう。


「お兄ちゃんどうしたの?」


 すると兄は無言で手のひらを見せてきた。見ると、パズルのピースがあった。


「昨日慎一に偶然会って、渡された。本当はこないだあった時に渡そうと思っていたんだけど、忘れていたからって俺に渡してきた。」


 寝起きの頭で考えて文章を構成しているため、少し言葉が足りない気がした。だが、何となく理解はできた。

 私は兄の手からピースを受け取り、ありがとうと言ってから家を出た。

 兄はこれが何なのかは言ってはいなかったが、察するに小野蓮の作成したパズルのピースなのだろう。今日は木曜日で部活はない日だが、原ちゃんに頼めば部室を開けるくらいはしてくれるはずだ。


授業がすべて終わり、私は廊下の掃除をしてから走って美術室へと向かった。廊下の角を曲がると、原ちゃんが美術室の鍵を閉めようとしているのが見えた。


「原ちゃん待って!私美術室にちょっと用事ある!」


 走りながら大きな声で言った。文化部にこの行動はかなりきつい。美術室前に着いた時には息が切れていた。


「大丈夫か?」


 息を切らしている私を見て原ちゃんが心配そうに言った。


「大丈夫。それより、美術室の鍵まだ閉めないで。私ちょっと用事がある。」


「いいけど、用事終わったらちゃんと鍵閉めて職員室に戻しに来いよ。」


 そういって原ちゃんは鍵を渡してくれた。鍵には鳩の絵が彫られた木製のキーホルダーが付いていた。


「ありがとう原ちゃん。あとでちゃんと鍵閉めてもとに戻すね。」


 原ちゃんははいよと言って職員室の方へと向かった。原ちゃんが見えなくなったのを見てから美術室の鍵穴に鍵を差し込んで回した。

 ガラガラという音ともに扉を開く。当たり前だが、誰もいない。人の居ない世界はこんなにも静かなのか。不気味だがどこか魅力的だ。小野蓮が好んで一人で作業するのを好むのがわかった気がした。

 私はパズルのある所に向かって歩いた。

 兄にもらったピースに描かれている絵を見て、どの空きにはまるのかを考える。ピースは大きな木の枝の部分にはまった。



「陸.俺もう耐えられない。」


 少年が涙を流しながら弱弱しく言った。


「どうしたんだよいきなり。」


 陸と呼ばれた少年が尋ねた。自分の親しい友人がいきなり泣きながら耐えられないと言ったことにひどく驚いているようだった。

 少年は震える手で制服のシャツの袖をめくった。すると、火傷の痛々しい跡がいくつも現れた。


「お前、それどうしたんだよ。」


 陸は驚きのあまり叫ぶように言った。

 少年は涙をこらえようとするがこらえられない。涙は次々と溢れてくる。


「母さんが肺ガンで死んでから父さんが俺に暴力を振るうようになって、最近では火の点いた煙草を肌に押し付けてくるんだ。それも服で隠れるようなところに。」


「母さんが死ぬ前からそんな風に暴力をふるう父親だったのか?」


 少年はゆっくりと首を振る。


「いや、ここまでではなかった。でも母さんが死ぬ前から酒癖が悪くて、よく酔っぱらっては母さんに暴力をふるっていたんだ。だから母さんは酒を買わないようにしていた。父さんと酒は飲まないって約束もしていたんだ。父さんも母さんが生きている間はその約束を守っていた。でも母さんが肺ガンになって死んでから、父さんは酒を飲むようになっちゃって。」


 そう言ったところで少年は嗚咽が出て言葉が止まってしまった。


「ほかにも何かされていないのか?」


 少年はズボンの裾を上げた。そこにも火傷の跡があった。


「足と背中。あと、ひどい時には手足を縛って俺に無理やり煙草を吸わせようとすることもあったんだ。実際に吸わせられたりもした。」


 少年は泣き疲れて目が虚ろになっていた。その瞳には輝きなんてものはもう存在しなく、ただ絶望だけが瞳に浮かんでいた。


「どうして今まで黙っていたんだ。」


「陸やあいに心配をかけたくなかったんだ。最初は一人で耐えられると思っていた。でもあるとき糸が切れたように弱音が出たんだ。その時からもう生きてる心地がしなくなったんだ。何を食べても味がしなくなったし、ぼうっとすることが多くなった。」


 虚ろな目のままで言う。泣きつかれているのか焦点が合っていない。


「今だけでいいから、俺の弱音を聞いていてくれないか?あとは何もしなくていい。むしろ何もしないでくれ。」


 少年がうつむきながら言った。


「どうしてだよ。父親に虐待されているんだろ?だったら警察に届け出を出すべきじゃないか。そうすればお前は父親に虐待される恐れがなくなるぞ。」


 そう言うと少年はゆっくりと頭を横に振った。


「そうすれば俺は一人になる。別に一人になるのはいいんだが、俺には夢があるんだ。」


 少年はうつむいて見えなくなっていた頭を起こし、陸の方を見た。


「俺は美術を続けたい。どんな形ででもいい。そのためには美術の大学、もしくは専門学校に通う必要があるんだ。一人で生きるとなると困難なものになる。何年間か働いて学校に通うためのお金を稼ぐこともできるかもしれないが、俺にはもう時間がない。」


 少年は力なく、弱弱しく微笑んだ。


「俺はもうすぐで死ぬ。」


 二人の青年の間を静寂が流れる。紡がれた言葉は大きな音を出さずに、二人が居た部屋に響いた。


「どういうことだよ。」


 陸は少年の肩をつかんでいった。力強く、でも優しく。


「うまく説明できないけど、わかるんだ。俺に残された時間はもう少ない。正直、高校を卒業するのもやっとなんじゃないかと思う。それくらいに俺には時間がないんだ。だから少しでも早く美術を本格的に学べる道を歩みたいんだ。だから今は父さんからの暴力に耐えなくちゃいけない。不幸中の幸いかお父さんは会社に行く時だけは酒を飲まないでいて、収入もいい。」


 少年は悲しそうに微笑んでいる。まるで自分の望まない運命を無理やりにでも受け入れようとしているかのように。


「だから陸。お願いがあるんだ。」


 少年が今度は悲しそうにではなく、穏やかにほほ笑んだ。


「ほかの人に俺が泣いたこと。俺が父親に虐待されていること。俺がもうすぐで死ぬかもしれないことを内緒にしていてほしいんだ。」



 この前の時と同じように、知らない記憶が頭の中に入り込んだ。それと同時に新しい情報を手に入れることが出来た。

 小野蓮は父親に虐待されていた。それによって小野蓮は精神的に病んでしまい、もうすぐで死ぬなどというようになってしまった。客観的に見ればそうとらえることもできるだろう。だが前回見た記憶では、小野蓮は咳をして血を吐きだした。おそらく小野蓮はその症状が日常的に続くことから、もうすぐ死ぬと悟ったのだろう。

 仮に小野蓮の予想が合っていたとしたら、小野蓮はもうこの世には存在しない可能性がある。もし小野蓮がもうこの世に存在しないのであれば、パズルについて本人に尋ねることは不可能であるということになる。できればそれだけは避けたかった。だが本人に直接聞くのはきっと無理なのだろうというあきらめの方面への確信のようなものがあった。何となくだが小野蓮には会えない気がしていたのだ。だが物は試しだ。私は山内陸さんという人物に小野蓮が今どうしているのかを聞いてみようと思った。もうこの世のどこにもいないのか。それともまだ生きているのか。生きているのだとしたら今どこにいるのか。

山内陸さんに聞きたいことはもう一つある。流れてきた記憶で聞いたアイカという人物についてだ。兄たちによれば、小野蓮と山内陸さんは喧嘩したらしい。もし山内陸さんから何も情報が得られなかったら、話にでてきたアイカという人に尋ねよう。話の流れからして、山内陸さんはアイカという人物を知っているようだったし。

 考えをまとめてから家へと帰り始めた。

 いつものように風呂に入り、夕飯を食べ、寝る。来週になれば山内陸さんに会え、小野蓮について聞くことが出来る。

 どんどん真実に近づいていく。

 この時の私はまだ大事な記憶を忘れているままだった。



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