足りないピースを埋め込んで

柏木琥白

1つ目

千尋ちひろは好きな人いないの?」


 午前の授業が終わって、昼食を食べているときに、いきなり玲奈れいなは聞いてきた。パンを食べるために下を向いていたため、かけていた眼鏡がずれた。眼鏡のフレームの外の世界がぼやけて見えた。

 好きな異性の話。これが嫌いな女子は少ないだろう。私も誰かの恋愛話は好きだ。ただし、聞き手であるときに限る。

 この世に生まれてきて十六年間、恋人どころか恋愛的に好きな人さえできたことがなかった。そのため、このような話で私が話すことなど何もなかったのだ。隣のクラスの誰がかっこいいとか、クラスの中心的存在に憧れ、次第に好意を持つなどといったことを経験したことがなかった。別にそれが嫌だというわけではなかったが、たまにこのような好きな異性の話を友達とするときになると、恋をしてみたいなと思うものだった。だが現実はそんなに甘くなく、恋は一向にできそうにない。

 私は少しずれてしまった眼鏡の位置を右手で整えてから答えた。


「いないよ。玲奈はいるの?」


 そう聞くと、玲奈は少し頬を赤らめた。この様子だといるのであろう。正直うらやましい。私も恋をしてみたい。


「秘密。」


 そう言って玲奈はそっぽを向いた。私の経験から、いるかどうかさえも秘密と言っているという人には、高確率で好きな人がいる。人は自分の好きな人を他人に知られるのをなぜか恥ずかしがる傾向がある。

 そんなに異性を好きになるというのは恥ずかしいことなのだろうか。人が人を好きになるのはそんなにも恥ずべき行為なのだろうか。他人を異性として好きになったことがない私にはわからなかった。


「千尋は本当に好きな人いないの?」


「いないよ。人を好きになったことは何回かあるけど、別に付き合いたいとか思ったことはない。」


「なるほど。千尋は他の人を人として、もしくは友達として好きになることはあっても、恋愛的に好きになったことがないってことか。」


「そういうこと。」


 何度も言うが、私は恋をしたことがない。だから恋に落ちるというのがどういうものなのかに興味があった。

 どういう感覚なのだろうか。人は恋を素晴らしいものだという。恋はハリケーンだと聞いたこともある。またある人は恋をすると人生が楽しくなるとも言う。ほかにも女性は恋をすると美しくなるとも聞いた。恋についての噂から、恋というものが人に与える影響は凄まじいものだと、恋をしたことのない私にもわかる。

 だが、一般的に恋が始まることを〝恋に落ちる〟と表現する。〝落ちる〟と表現するのか。素晴らしいものならば、もっといい言い方があるのではないのだろうか。なぜそんな抜け出したくても抜け出せないというような表現を使うのだろうか。まるで恋が良くないもののようだ。恋とは私にとって謎が多く、理解したくてもできないものだった。だからこそ、恋をしてみたいと思ったのだ。


「じゃあ恋愛でじゃなくてもいいから、異性を好きになったことはある?」


「それなら何回もあるよ。私お兄ちゃん好きだし、お父さんも好き。隣の席の人も面白いから好きだよ。」


 一人の友人、あるいは人間として人を好きになったことはあった。だが、どうしても誰かを一人の異性として好きになることはできなかった。別に人を好きになることが怖いと感じるわけではない。ただ本当に人を恋愛的に好きになったことがなかった。


「その好きな人たちの中でこの人は特別に好きっていうのはないの?」


「特にないかな。しいて言えば私が小さい時によく遊んでくれていた近所のお兄さんはずっと前から好きだよ。」


「よく遊んでくれた近所のお兄さんねー。あれ?でも千尋お兄ちゃんいなかったっけ?子供のころはお兄ちゃんとは遊ばなかったの?」


 私にはお兄ちゃんがいる。兄は今年大学二年生だ。


「もちろんお兄ちゃんとも遊んだよ。でもあるときお兄ちゃんが熱を出しちゃって寝込んだんだ。でも私がお兄ちゃんと遊ぶって駄々をこねてたんだ。そこでお母さんは近所に住んでいたお兄さんに頼んでお兄さんが私と一緒に遊んでくれることになったんだ。その日から私はお兄さんと一緒に遊ぶようになったの。今ではもう名前も顔も覚えていないけどね。」


「そっかー。千尋の初恋は未完成で終わったんだね。」


 そう聞くと少しかっこいい気がする。実際は忘れただけなのに。

 近所のお兄さんに他の人には抱かない感情を抱いていたという話は半分本当で、半分嘘だった。確かに私はお兄さんが大好きだった。私がまだ小学生にもなってないとき、よく近所のお兄さんが遊んでくれた。いたずらをしてお母さんに怒られて一人で泣いているときにも、お兄さんは事情を聴かずにただ優しく頭をなでながら慰めてくれた。

 だが私が中学生になり始めたころから、お兄さんに会わなくなってしまった。

 以前家族にお兄さんについて聞いてみた。最近お兄さんを見ないけど、どうしているのかと。

 家族は私の質問を聞くと、誰のことだと聞いてきた。

 その時に私は気づいた。お兄さんは実在しなくて、私の想像の中に存在する人であったということを。

 お兄さんと過ごした日々は私の妄想でしかなかったのだ。私はその現実を受け入れた。

 だが一つだけわからないことがあった。

 私はいつも白いヘアピンを付けている。これはお兄さんからもらったものだ。仮にお兄さんが実在しなくて、私の想像の中の人物だとすると、この白いヘアピンが存在するということに矛盾が生じる。

 兄や母に聞いてみたりもしたけれど、知らないと言っていた。

 私は何度も考えてみた。それでも何もわからなかった。


 五限の授業は世界史だ。世界史とか暗記するだけの教科は正直あまり好きではない。覚えるという作業にかなりの労力を要するからだ。

 そんな私だがフランス革命が起きる直前のフランスの借金が四十五億リーブルだというのだけはすぐに覚えられた。昔から数字だけは覚えられたのだ。その数字が何を表しているのかはすぐに忘れてしまうが。

 私にとって六と十六という数字には何か重要な意味があると感じていた。だがそれが何なのかはわからない。たぶん意味があると感じ始めたのは中学生のころからだったと思う。


 考え事をしていると、世界史の授業が終わってしまった。次は日本史の授業だ。毎回思うが、同じ日に違う国の歴史をやるのはやめてほしい。同じ時代についてならば、まだそれぞれでリンクするところがあって覚えやすい。だが残念ながら学ぶ時代はそれぞれ違う。日本史は最初から、世界史はルネサンス期から学ぶ。そのため全く違う二つの歴史を学習している気になる。私と同じ高校に通っていた兄に聞いたところ、兄の通っていた時も同じようなやり方だったという。この高校はなぜこう生徒をいじめたがるのだろうか。


「それじゃあ、誰かにこの一連の政治改革の名称を答えてもらおうか。」


 そういって日本史の先生は黒板の文字を指さした。そして私の名前を呼んだ。先生が指さした先には、中臣鎌足が蘇我入鹿を滅ぼしたと書かれた文があった。


「大化の改新。」


 確かそうだった気がするという思いを胸に、私は答えた。


「正解だ。よく勉強しているな。」


 私は歴史という学問が嫌いだ。別に苦手だからとか、理解が出来ないからとかではない。暗記が労力を要するからというのも理由の一つだが、単純に勉強する意味が分からないのだ。


 過去のこと、それもあったこともないような人物のことや、生きたことのない時代について学んで何になるというのだろうか。勉強するにしても無駄に覚えることが多い。なぜ無理やり子どもに学ばせるのだろうか。学びたい人だけが学べばいい。そんなことを思いながら授業を受けていた。


 六限の終わりのチャイムが鳴る。

 先生は今日の授業はここまでと言い、生徒たちは授業という支配から解放された。

 帰りの支度兼部活動へ行く準備をする。

 今日の部活は何をやろうか。最近まで描いていた絵は昨日完成してしまった。新しい絵を描こうかとも思ったが、今日はそんな気分ではない。何か普段はあまりやらないようなことをやりたい。彫刻でもやってみようか。だが、部室に彫刻をするための道具が確率は低い。先輩で一人彫刻をやっている人がいるが、その人は道具を一部持参している。持参しているということは、部室にある道具では足りないという事なのだろう。部室に道具がないのなら彫刻は不可能だ。それでは何をやろう。そういえば美術室にはカッターマットとデザインナイフがあった。それらと色画用紙があれば切り絵が出来る。切り絵は小学生の時の図工の授業以来やっていない。この際いい機会だから切り絵でもやってみるか。だがどんな構図にしよう。何をやるかは決まっても、どんな作品を作るかは決まっていない。とりあえず今日はどんな作品を作ろうか考えることにしよう。

 ホームルームを受け、掃除の時間となる。今週は私の班が教室と廊下の掃除当番だ。

 廊下のごみを箒で掃きながら、窓から見える特別教室棟の方を見る。ふと部活の時にいつも使っている美術室の方に目が行った。

 美術室の窓と廊下の窓の二つのガラスを通しているためうまくは見えないが、美術室に奇妙な絵があるのが見えた。

 普通絵は完成してから額縁に入れる。だがその絵は明らかに未完成のままなのに、すでに茶色い額縁に入っているのだ。しかも絵が描かれている紙の色は茶色だ。一部分だけ完成した絵は茶色い紙に描かれているというのに、遠くからでもわかるくらいに鮮やかな色をしていた。確かにその絵は黒い部分が多く見えたが、白に近い色もあった。その部分までもはっきりとしていた。普通に考えるならば茶色い紙に描いたら、白いう部分が少し茶色っぽく見えるはずだ。だがその絵は茶色の上でも鮮やかに咲いていた。

 奇妙に思ったが、そのまま掃除を続けることにした。どうせ掃除が終わったら美術室に行くのだ。今気になったところで意味がない。廊下をいつものように箒で掃いていく。

 掃除が終わり、美術室へと行く。教室棟と特別教室棟を繋ぐ渡り廊下を歩く。毎回思うがこの廊下は少し薄暗くて不気味に感じる。以前玲奈にもそのことを言ったのだが、賛同してくれなかった。おそらく私だけが感じるのだろう。

 渡り廊下を歩き終え、階段を上る。足音が小さく響く。周りの話し声や物音に隠れながら、足音は生まれていく。外ではミンミンゼミがひっきりなしに鳴いていた。命を叫んでいるようだ。もうじき期末試験が始まり、夏休みが始まる。夏休みが終わればセミたちのほとんどは生きていない。うるさいと思いながらも、これから死にゆく運命なのだから仕方がないなと思って、うるさいのを我慢していた。

 ようやく美術室のある四階にたどり着いた。運動をしない人間にとって階段というものはきつい。美術室の扉へと歩いていく。

 手をドアノブのもとへと持っていき、扉を開く。


「こんにちは」


 中に入るとすでに橋本はしもと先輩と浦上うらがみ先輩がいた。

 橋本先輩は彫刻をやっていた。

 この学校の美術部で彫刻をやる人は橋本先輩くらいだ。橋本先輩は下の名前をかえでという。そのためよく女性に間違われてしまう。確かに面倒見がよかったり、指がほかの人に比べて細長くて綺麗だったりするが、先輩は男だ。

 少し茶色い瞳。こげ茶色の髪。男性にしては華奢な体と白い肌。優しい声色。体の割に小さい顔。初めて橋本先輩を見たとき、。まるで芸術品が芸術品を作っているように見えた。今でもそのように見える。

 橋本先輩は慣れた手つきで彫刻刀を扱っていた。作品に対する情熱がすごいため、よく無理のある彫り方をして手を怪我する。今日も左手の人差し指に絆創膏を貼っている。

 浦上先輩は紙に下絵を描いていた。浦上先輩はいつも風景画を描く。それも建造物ではなく、自然が豊かな風景を描く。以前どうして自然ばかりを描くのかと聞いてみたところ、自然だと木を描けるからだと答えた。浦上先輩が自宅療養していた時、変わらない日々の中でも木を見ると元気が出たのだという。

 浦上先輩は実はもう三年生になっているはずの年齢だ。だが浦上先輩は生まれつき身体が弱いらしく、高校一年の時に出席日数が足りなくなって留年してしまった。そのため浦上先輩は今、高校二年生として生活している。現在では少し体調が回復し、普通の人のようにまではいかないものの、それなりに健康に過ごしている。だがやはりたまに体調を崩してしまい、学校を休む。

 黒くて長く潤いを持った髪。黒くて純粋な瞳。橋本先輩よりも華奢な体。雪のように白い肌。少し高い声。桃色の薄い唇。初めて見たとき、浦上先輩は絵を描くのに夢中だったらしく、顔に絵の具が付いていた。その時私は浦上先輩はやんちゃな性格なのかなと思った。だがそんなことはなく、明るい性格で優しい先輩であった。


「千尋ちゃん、今日は少し遅かったね。」


 浦上先輩の優しい声が溶けるように耳の中に吸い込まれた。


「今週は私の班が掃除当番なので。」


 そういって私は近くの机に鞄を置いた。置いたと同時に鞄についていたストラップが揺れる。白い線の入ったパズルのピースの形をしたストラップだ。

 身体が一気に軽くなった。羽が付いたみたいだ。その感覚になれるまでに時間はそうかからなかった。

 ふと窓の方へと目をやる。掃除中に教室棟からこの部屋を見ていたが、今は特別教室棟から自分の教室を見る。教室棟から視線を自分に近い方へと向けた。掃除中に見つけた絵を見つけた。一歩ずつ近づいていき、その絵を取る。すると絵は崩れた。一瞬戸惑った。絵が崩れるなんて考えもしなかったからだ。だが絵が崩れた理由はすぐに分かった。その絵は一つのパズルだったのだ。

 そのパズルは星空が描かれているようだった。

 今日から切り絵をやろうと思っていたが、美術はしばらくの間やめて、パズルをやることにした。パズルなんて何年振りなのだろう。


「それパズルだったんだね。もうずいぶん前から部室にあるけど、誰の作品なんだろう。」


 浦上先輩が私の手にあるパズルの額縁と、散らばったピースを見て言った。浦上先輩がわからないということは、この作品の主は少なくとも二年以上前に卒業したということだ。それがなぜここにあるのだろうか。考えるための情報は明らかに少なすぎる。


「ちょうど昨日作品を仕上げたばかりで、今日やることが決まってないんですよ。なので次やることが決まるまではこのパズルやってもいいですかね。」


 この問いに答えたのは意外にも彫刻に集中していた橋本先輩だった。


「いいと思うよ。だいぶ前からあるってことは、その作品の持ち主が持って帰るのを忘れているのかもしれないし、もし本当にそうなら完成させても問題はないだろうし。」


 確かに。この作品の作成者がこの作品を持ち帰るのを忘れたのかもしれない。それならばパズルをすべてはめても何の問題もないだろう。

 私はパズルをやることにした。まず散らばってしまったピースを一つ一つ拾い、パズルの額の上に置いた。

 床に落ちていたピースすべてが拾い終わり、私はさっき鞄を置いた机の方へと行って、パズルを並べ始めた。星空というすべてのピースが同じように見えるものだったため、どのピースがどこにあるべきなのかがわかりづらかった。少しでもわかりやすくするために、端の方だけを最初にやった。

 端の方を終わらせ、いよいよパズルの真ん中に取り掛かる。徐々にパズルは完成に近づいていく。

 夜空なのだろうか。黒と藍色の中間くらいの色のピースが多かった。夜明けの前を表しているのか、白に近い色のピースもあった。ピース一つ一つには白い点が描かれていた。

 すべて似ているピースのため、完成させるのに予定よりも多くの時間がかかってしまった。時間をかけてようやくすべてのピースを埋め込んだ。

 そのパズルには夜空が描かれていた。丘と一人の少年の影が手前の方に描かれ、少年が星空を丘の上に座って眺めているという構図だ。少年の左奥の丘には木があった。少年はその上のあたりを眺めているようだった。

 写実的ではないが、その絵は美しく、今にも動き出しそうだった。少年が眺めている星空にはいくつもの星と、一つの流れ星があった。いくつかの星の色は赤や緑などだった。おそらく星は全部違う存在だというのを表しているのだろう。

 ピースはすべて埋め込んだが、ところどころ空きがあった。


「あれ?これで全部かな?」


 私は美術室をくまなく探した。絵の具収納している棚、筆が収納されている引き出し。イーゼルが入っている箱。くまなく探しても、足りないピースは見当たらない。

 探すのを諦めようとしたとき、ピースの空きから見える台紙に薄く何か書いてあることに気づいた。ピースをはめているときは集中し過ぎて気づかなかったのだろう。

 文字が書いてあるところピースを抜いた。


 二〇一七年 七月一〇日  二年 小野蓮おのれん


 この作品の制作者の名前なのだろう。

 小野蓮。どこかで聞いた気がするのは、ありきたりな名前なのだからだろう。

 この作品は今から三年前に作られたものらしい。となると、今いる先輩たちに聞いてみても何も情報が得られない可能性が高い。この場の年長者である浦上先輩でも三年前は中学生の年齢だ。仮にこの作品が二年前に作られたものだとしても、浦上先輩は一年生のときに入院していたため、情報は得られない。

 三年前。私はそのとき中学一年生だ。

 身近に三年前この高校に通っていた人はいないものだろうか。私は考えた。ふと思いついたのが私の兄だった。三年前の兄は高校二年生だ。しかもこの高校に通っていた。だが問題が一つ。私の兄は部活に所属していなかったのだ。さらにこの高校は一学年の人数が三百六十人と多い。よって、私の兄が小野蓮と知り合いである確率は低い。だが聞いてみる価値はあるだろう。私は家に帰ってから兄に聞いてみることにした。

 パズルを安全な場所に運ぼうとしているとき、ちょうどスピーカーから音楽が流れた。部活を終了して下校をするときに流れる音楽だ。ゆったりとした音が学校に響き、私たちを追い出そうとする。時計を見ると短い針が七に近い位置にあった。パズルに夢中で気づかなかったが、かなりの時間が経っていたらしい。

 未完成の絵を乾かすための棚にパズルを置いた時、ドアから美術部の顧問である原ちゃんこと原嶋裕二はらしまゆうじ先生が入ってきた。

 どこかけだるげで髪は癖が強く、いつもぼさぼさだ。たまに寝癖がついていたりする。身長が高く、顔もよくみると整っている。理科教師じゃないのにいつも白衣を着ている。そのルックスとユーモアのある性格で、生徒からは人気がある。生徒からはよく原ちゃんと呼ばれている。


「はーい。もう下校の時間だぞー。戸締り確認して帰れよー。」


 気の抜けるような声が美術室に届く。私を含め美術部の部員たちはゆっくりと帰りの支度をする。部員に帰宅を促した原ちゃん本人は、だらしなく頭を掻きながら欠伸をしていた。


「原ちゃんまた、職員室で寝ていたでしょ?」


 浦上先輩が楽しそうに言った。


「いや、寝てない。ちょっと自分の机でうつぶせになって長い瞬きをしていただけだ。」


 それを人は寝ているというのだよ原ちゃん。と思いながら私は帰りの支度を進める、帰りの支度と言っても今日は鞄から何も出していないため、パズルを置いて鞄を持つだけだ。

 鞄を持って美術室の扉へと向かう。


「それじゃあ、原ちゃんまたねー」


 そういって私は美術室を出た。美術室から三歩ほど歩いた時に、ふと思い出したことがあった。


「そういえば原ちゃん、三年前にこの学校の二年生だった小野蓮って人の事知ってる?」


 原ちゃんはこの学校に赴任して五年は経っていると以前聞いたことがある。美術室に作品があるということはあのパズルの作成者が美術部員、もしくは芸術の選択授業で美術を履修していた可能性が高い。つまり美術の授業を担当している原ちゃんが知っている確率が高い。

 原ちゃんは右手で握りこぶしを作り、顎にあてて考えた。


「小野蓮・・・あー、あの星空のパズルを作った生徒のことか?」


「そう!原ちゃん知っている?」


 原ちゃんは小野蓮について何か知っているようだった。

 原ちゃんは呆れ顔をして口を開いた。


「知っているも何も、あいつは美術部員だったからな。パズル持って帰れって卒業式の日に言ったのにあいつ見事に忘れたんだよな。」


 小野蓮が美術部というのは聞く前から何となく感づいていた。ジグソーパズルを美術の授業の一環で作成するとは考えにくいし、個人で作るにしてもジグソーパズルを作るのに必要な専門の台紙とかを売っている店はこのあたりにはないため、個人で作成するのは困難だ。となると、美術部に所属していて美術部として道具を注文した可能性が高い。


「それで、小野蓮がどうかしたのか?」


 今度は原ちゃんが私に聞いてきた。いきなり卒業生について、それも接点がないはずの人物について尋ねられたら気になるのも無理はない。


「いや、さっき美術室にあったパズルをやっていたんだけど、そのパズルに小野蓮って名前が書いてあったから、原ちゃんなら何か知っているのかなって思っただけ。」


 目的は果たせた。小野蓮が何者なのかも大雑把に分かった。あとはわずかな望みをかけて兄に聞くだけだ。

 兄と小野蓮は知り合いだろうか。もし知り合いだとしても、あまり仲が良いというわけではなかったら満足な情報は得られない。

 兄から小野蓮についての情報を聞ける確率は低い。


「小野蓮はもう大学二年生か。時が経つのは早いもんだな。」


 原ちゃんがしみじみと言った。


「それにしても原ちゃん、この学校に赴任してもう五年経つっていうのに、卒業した生徒の名前を憶えているなんて珍しいね。原ちゃんのことだから知っていたとしても忘れていると思った。」


「自分の担当している部活の生徒だからな。さすがに忘れない。」


 つまり部活でかかわっていない生徒については忘れているということなのだろう。まあ、それも原ちゃんらしいな。原ちゃんは見た目通りだらしのない性格だ。いつも職員室で寝ていたり、入れたことを忘れ去られてしまって冷めたコーヒーを飲んでいたりする。まあ、そこも生徒から人気がある理由なのだろうけど。


「そっか。ありがと原ちゃん。また明日ね。」


 そういって私は美術室を出た。私は廊下を歩きながら学校中で流れている音楽を鼻歌で歌った。


 家に着いて私はすぐにシャワーを浴びた。帰ってきたらシャワーを浴びないと気が済まない。まれに疲れていると、夕飯を食べてからシャワーに入るが、その日はずっと落ち着かない気がする。

 脱衣場で服を脱ぎ、風呂場の扉を開ける。風呂場の鏡で眼鏡をかけっぱなしであることに気が付いた。私は眼鏡を顔から外し、脱衣場の棚の上に置いた。

 シャワーの蛇口をひねる。すると冷たい水が出てきた。一瞬その冷たさにびっくりするも、しばらくするとシャワーからお湯が出てきた。最初冷たくて後から温かくなるなんて、シャワーはツンデレだなと思う。

 お湯で身体を全体的に濡らす。そのあとに髪を濡らす。短い髪はすぐに全体が濡れてくれるから楽だ。濡れた髪が頬にへばりついた。この感覚は何度も体験しているが、そのたびになんとも言えない不快感を味わう。頬に付いた髪を取り、手にシャンプーをのせる。絹のような色の液体を手にこすりつけて、軽く泡立てる。そして髪を洗う。シャカシャカという刻みよい音をたてて髪が洗われていく。

 シャンプーを水で流し、リンスを髪に着ける。しばらく待ってからそのリンスを洗い流す。落ちたリンスが太ももに流れてきて、ぬめぬめとさせる。かるくぬめりけを取ってから身体を洗う。

 身体を洗っているときに、ふと思い出した。小野蓮について兄に聞かなくては。原ちゃん曰く、小野蓮は美術部だったらしい。兄に美術部の友達がいるのかはわからないが、運動部の人とよりは友達である可能性が高い。

 身体が洗い終わり、風呂場を出る。温かかった身体が一気に冷める。だが夏であるため寒くはなかった。急いで水気を取り、私はパジャマを着る。

 リビングに行くと夕飯の支度がされていた。今日は豚肉の生姜焼きのようだ。生姜の香りが廊下にまで来ていた。

 私は椅子に座り、箸を持った。豚肉と玉ねぎを箸でつかみ、口に運ぶ。生姜の香りと、しょっぱさが口にはじける。それを調和させるように私はご飯を口に入れる。舌がご飯に触れると、たちまち舌が喜んだ。幸せを噛み締めるようにして豚肉と生姜を噛む。噛めば噛むほど幸せが生まれた。

 夕飯を食べ終えると、私は自分の部屋へと向かった。扉を開こうとして、隣の部屋から歌声が聞こえた。隣の部屋は兄の部屋だ。もう帰ってきているらしい。兄は今大学で軽音サークルに所属している。それもギターボーカル担当らしい。ロックバンドは主にボーカルが作詞・作曲を担当することが多い。兄もそのようだ。作曲をしているのだろうか。そう思いながら耳を澄ませてみたところ、昔から兄が歌っていた歌を歌っているようだった。

 作曲をしていないと気づいた私は、兄の部屋の扉をノックして開けた。


「どうしたの、千尋。」


 兄はギターを抱えていた。なぜ作曲をしていないのに、ギターを持っているのだろうか。


「どうして昔から歌っている歌を歌っていたのに、ギター持っているの?」


「この曲をバンド調にアレンジして歌おうかなって思っているからだよ。どのコードなのかを確認してから同アレンジするかを考えながら歌っていたんだ。」


 言っていることが半分もわからなかった。私は音楽についてはさっぱりわからない。だが、それと同じように兄は美術については何も知らない。


「つまり、今は新しい曲を作っているというわけではないってこと?」


 兄は頷いた。せっかく細かく教えてくれたのに、何も理解できなくて少し申し訳なく感じた。だが、そんなことはどうでもいい。今は兄に聞くべきことがあった。


「お兄ちゃん小野蓮って人のこと知っている?」


 兄は目を丸くした。いきなりの質問でびっくりしたのだろう。兄は手を握って口元に添えて考え込んだ。


「小野蓮…あ、俺の友達の友達にそんな名前のやつがいたかも。」


「友達から小野蓮って人どんな人とか聞いてない?」


「いや、特に何も聞いたことはないな。ただ俺の友達がそいつと同じ部活だったから少し話を聞いた程度だな。」


 期待外れだった。兄ならもう少し詳しいことを知っているかなと思ったが、その期待は打ち砕かれた。

 兄の部屋を出ようと考えていたところ、兄が私に尋ねた。


「で、小野蓮がどうかしたのか?」


 兄が疑問に思うのも無理はない。いきなり私の知らないはずの人の名前を尋ねられるのだから。


「今日部活で美術室にあったパズルをやってみたの。そしたらピースがいくつか足りなくてさ。それでパズルを調べてみたら、三年前に小野蓮って人が作ったみたいで。名前と制作日が書いてあるってことは、それはもう完成した作品のはずなの。でもピースが足りないってことは、なくしたか制作者が意図的に取ったのかのどちらかのはずなんだ。だからどうなのか制作者に聞いてみたいなと思って、お兄ちゃんに聞いてみたの。」


 なるほどと兄が言った。

 普通はパズルのピースが足りないことくらいでここまで気になることはない。だが、今回は状況が違う。あのパズルは作品なのだ。ピースはなくなったという可能性とともに、最初から存在しなかった。もしくはわざと抜かれたという可能性を持っている。美術がわからない兄にもわかるように説明した。兄はちゃんとわかってくれたようだった。


「でもお兄ちゃんの知り合いじゃないんじゃ聞けないね。いきなり変な事聞いてごめんね。」


 そういって私は兄の部屋を出ようと、踵を返した。すると兄が私を呼び止めた。


「そういうことなら、その小野蓮って人と知り合いの人に聞いてみるか?」


 たしかにそうすれば製作者とかかわることが出来る。だがそれは兄に迷惑がかかると思って、あえて私からは提案しなかった。だが、兄が自ら提案してくれたなら、こっちも提案に乗りやすい。


「そうしてもらえると助かる。お願いできる?」


 兄は快く了承してくれた。携帯電話を出し、友人に連絡を取った。


「たしかあいつが小野蓮と友人だったはず。ほら、お前も知っているだろう?佐々木慎一ささきしんいち。」


 佐々木慎一とは兄の幼馴染だ。私が幼い時から兄と友人で、話すのが上手い。すぐに誰とでも仲良くなれるような人物だった。

 慎一さんは美術部にいるような性格ではないが、美術部の人間と知り合いであってもおかしくはない。それくらいに慎一さんは社交的な人だった。


「慎一さんが小野蓮って人と知り合いだったの?でも、確かにあの人なら、美術部と友人でもおかしくはないね。」


 世間一般的に見れば、美術部にはおとなしい人が集まる。おとなしい人にはおとなしい友人の方が多い。そのため、慎一さんがおとなしい人と友人であることは本当は少し奇妙なことなのだ。慎一さんがかなり明るい性格だからだ。だが、慎一さんはただ明るい性格であるだけではなく、相手に合わせた会話をすることができるのだ。これは一種の才能ともいえるだろう。

 私としても、昔から知っている慎一さんとなら話しやすい。

 兄の携帯が鳴った。どうやら慎一さんから返事が来たようだ。


「あいつ返信早いな。ええと、いいってよ。明日の学校終わった後にでもどうだってさ。明日はバイトがないからゆっくり話せるって。」


 明日か。明日は火曜日だから部活は休みだ。私としても都合が良い。


「わかった。じゃあ明日学校が終わった後に話を聞く。」


「了解。じゃあ、明日の午後六時ごろに家に来るように連絡しとく。明日は俺もバイトがないから、一応一緒に話を聞くけど、問題ないよな?」


 兄がいると少し頼もしい。慎一さんがいくら話しやすいとはいっても、相手は年上で他人だ。無意識に緊張するかもしれない。緊張せずに話を聞くためにも兄にはいてもらいたい。


「うん。いいよ。」


 明日。パズルの作成者について話を聞くことが出来る。

 私は兄の部屋を出て自分の部屋へ行った。眼鏡を外して布団に潜り込み、静かに目をつぶった。


 目が覚めていつものように支度をし、いつものように学校に向かい、授業を受ける。

 今日の一限目は美術だ。昨日ぶりに美術室に行く。

 授業では今風景画を描いている。自分が住んできた町の風景の写真を撮り、それを見ながら描いていく。

 普段は授業中に携帯電話を使うことは認められていないが、美術の時だけは例外だ。生徒手帳の校則が書いてあるページにもそのことが載っている。

 今日はまだ画用紙には描かない。下絵を別の紙に描く作業をやれば今日のやるべきことは終了だ。

 私は自分で風景とかを想像しながら描くことは苦手だが、何かお手本となるものを見ながら描くことは得意だ。携帯電話を見ながらそこに映っている風景を描く。

 他の生徒よりも早めに作業が終わってしまった。授業時間はまだあと三十分残っている。


藤崎ふじさき


 どうしようかと悩んでいたところ、原ちゃんが私に話しかけてきた。


「昨日やっていたパズルについてなんだが、こんなのを見つけてな。」


 そういって原ちゃんは私に手のひらを見せてきた。原ちゃんの手のひらの上にはパズルのピースが一つだけあった。

 黒い部分と白っぽい部分がくっきりと分かれている。おそらく影と空の境目のあたりのピースなのだろう。


「これもしかして足りない部分のやつじゃないのか?」


 原ちゃんにパズルのピースが足りないことを伝えたっけと一瞬思ったが、そんなことはもうどうでもよかった。これで足りなかったピースが一つ埋まる。


「たぶんそうだよ!ありがとう原ちゃん。どこにあったの?」


 すると原ちゃんは頬を人差し指でガリガリしながら言った。


「結構前に美術室でそれを見つけてさ。それを職員室の机の引出しにしまっていたんだよ。それから結構日が経っていたから忘れちゃってさ。ごめんな。昨日のうちに渡せなくて。」


 だらしがない見た目の原ちゃんだが、やはり彼にも彼なりに誠意はあるらしい。


「大丈夫だよ、原ちゃん。ピースありがとう。」


 そういって立ち上がり、パズルのある棚の方へと向かった。

 後ろから原ちゃんが下絵は終わったのかと尋ねる声がしたため、終わったことを伝えた。

 パズルのある棚は美術部員しか立ち入りが許可されていない美術室の一角にある。

 私は棚からパズルを取り出し、床の上に置いてピースをはめた。


       *


 蒸し暑さが蔓延っている七月上旬。ヒグラシの鳴き声が夕日とともに淡く響いている。

 一人の少年が美術室で絵を描いていた。

 厚紙を筆で優しく撫でていく。筆は厚紙に色をのせ、厚紙に世界を築いていく。

 その世界は真っ黒の世界だった。いや、真っ黒というよりは藍色の世界だと言った方が正しいのかもしれない。

 絵はまだ描かれ始めたばかりで、藍色しかない。これから世界がどんな色になるのかを知っているのは筆を操っている少年だけだ。操られている筆にもどうなるのかはわからない。


「今日はここまでかな。」


 少年は独り言ちた。優しく甘く、程よく低い声だった。

 少年は美術部に所属しており、一人で絵を描いていた。

 長期休み中の美術部の活動は個人で行われる。彼は静かに作業することを好んでいたため、誰もいない時間帯に学校に来て絵を描いていたのだ。

 少年はパレットに着いたアクリル絵の具を水で丁寧に流した。だが、長時間作業をしていたため、絵の具は完璧には落ちなかった。

 色が残るパレットを流しに置いてあった雑巾で軽くふき、パレットをいつも置いている棚の上に置いた。

 次に筆をなでるように優しく洗った。蛇口から落ちる水に垂直に触れさせるのではなく、落ちた水が描く放射状に延びる水面に触れさせて、絵の具を落とす。絵の具は水に乗って緩やかに旅へ出る。

 パレットと筆を洗い終わった少年は濡れた手をハンカチで拭き、自分が作業していた机へと戻った。

 床に置いてあった鞄に筆箱を入れ、チャックを閉じる。鞄の持ち手を持って、美術室の外へと向かう。

 扉に手をかけようとした瞬間、少年は突然うずくまる。少年は激しく咳き込んだ。少年は咳き込む前に素早く手を口元にあてた。

 ごほごほという音とともに血が出てきた。

 少年はそれを見て驚く様子もなく、ただ見ていた。しばらくして少年は血で汚れてしまった手を、流しで洗った。冷めたい水が少年の手にかかり、血を流していく。血は意外にもあっさりと落ちた。

 血が取れてから少年は顔を上げ、窓の外を見た。

 ちょうど夕日が遠くの山に隠れていった。


  *


 今の感覚は何だろうか。脳に直接誰かの記憶が流れ込むような感覚だった。

 それはパズルを埋め込んだ瞬間に起こった出来事だった。おそらく流れてきた記憶にいた少年が小野蓮なのだろう。パズルの夜空と同じ色を厚紙に塗っていた。それしか証拠がないのに妙な確信じみたものがあった。

 おそらくこのパズルを解いていけば、小野蓮が何者なのかがわかるような仕組みになっている。私は小野蓮について知るためにも、このパズルを完成させなければならない。

 これはきっと私の使命なのではないだろうか。そんな風にも思えてきてしまう。きっと記憶が頭に直接流れ込むような感覚を体験したからなのだろう。だったらこの際、これは私の使命なのだと思い込んで、パズルを完成させてやろうじゃないか。

 そう思っていた時に、一限目終了のチャイムが鳴った。その時に私は学校にいて今は授業中だということを思い出した。

 そのあとの授業はまるで頭に入らなかった。授業中に寝ていたわけでもないのに、時間が早く過ぎ去っていく気がした。数学も古典も世界史も。大嫌いで時間がほかの授業よりも長く感じてしまう英語でもだ。人は集中していたり何か考え事をしていると時間の進みを早く感じる。私はパズルについて、それと小野蓮という人物について考え込んでいたのだ。

 昼休みになっていつものように玲奈と一緒に昼食を食べていた。


「千尋今日どうしたの?美術が終わってからずっとぼうっとしている感じだけど。熱でもあるの?」


 玲奈の言う通り今日ずっと私はぼうっとしている。私がいつもと違うということは、玲奈にも分かったようだった。


「ううん。なんでもないよ。ちょっと考え事をしていただけ。」


「そう?それならいいんだけど。具合が悪くなったりしたらすぐに言ってね。」


 うん、と私は気のない返事をした。

 美術室でのあの出来事から何にも集中が出来ない。パズルについて考えないようにしたとしても、いつの間にか考えてしまうのだ。あのパズルは何なのか。小野蓮とはどういう人物だったのか。なぜピースが足りないのか。

 結局美術の授業以外のすべての授業に集中できないまま今日の授業が終わってしまった。

 私は帰りのホームルームが終わり、私はいつものように美術室へと向かう。美術室へ向かう時にも私はぼうっとした状態で歩いていた。きっと真っ直ぐに歩けていないだろうなと思ったが、そんなことはどうでもよかった。ただ、真っ直ぐに歩けていないせいで、何度か人にぶつかりそうになったり、転びそうになったりした。

 やっぱり今日の私は可笑しい。なんだか世界に置いてきぼりにされているような感じだ。だが実際そんなことはなくて、世界はいつも通りに動いていて、私が勝手にゆっくりとしているというのを私は知っている。

 ふらふらとした足取りで美術室に着いた。

 扉を開くと、何人かの生徒がまだ掃除をしていた。私はその時に今週は自分の班が掃除当番であったということを思い出した。今からでも掃除場所に向かおうとも考えたが、今更行ったところでやることは少ないだろうし、何より今日の私は自覚できるくらいに可笑しいから、行ったところで足手まといになる。

 私は掃除をさぼることにした。

 美術室の掃除が終わるまで、私は廊下の窓から空を見ていた。

 空には積乱雲がもくもくとあった。もうじき雷雨にでもなるのだろうか。積乱雲の下の方は黒かった。その方向は私の家とは真逆の方向だったからまだよかったが、積乱雲は西の方角にある。ということはそのうち東の方へと移動してくる。今日は早めに帰った方がいいな。すこし原ちゃんと話がしたかったが、あいにく今日は傘を持っていないため、早めに帰らないといけない。

 やっと美術室の掃除が終わった。生徒たちが美術室からぞろぞろと出てくる。最後に美術室の掃除担当である、原ちゃんが出てきた。

 原ちゃんは美術室から出てくると、美術室の鍵を閉めようとした。


「原ちゃん、私いるから鍵開けたままでも大丈夫だよ。」


 すると原ちゃんは驚いた顔をした。


「今日は火曜日だから部活はないぞ。それとも授業の時に何か忘れものでもしたか?」


 そうだった。今日は火曜日だから部活は休みだった。いつもはこんな間違いはしないのに。やっぱり今日は可笑しい。頭が上手く働かない。


「あ、今日火曜日か。間違えちゃった。」


「そうだぞ。藤崎にしては珍しいな。お前はいつもしっかりしているのに。」


 そう言って原ちゃんは閉めていなかった美術室の鍵を閉めた。


「原ちゃん。小野蓮について一つ聞きたいんだけどいいかな?」


 原ちゃんは首を傾げた。確かに全く知らない人についてここまで興味を持つのは普通に考えると可笑しいことから、奇妙に思ったのだろう。


「いいぞ。小野蓮について何を聞きたいんだ?」


 珍しく原ちゃんが真剣な顔をした。ちゃんと質問に答えてくれるらしい。


「小野蓮って人は病気だったの?」


 蝉の声が沈黙を破るためだけに存在しているかのように思えた。それくらいに一瞬だけだが、世界から音が消えたような感覚がした。沈黙の後原ちゃんは口を開いた。


「あいつは病気だった。何の病気かは知らないが、よく咳をしては血を吐いていたりしていたぞ。」


 やっぱりあの記憶の少年は小野蓮だった。間違いない。おそらくあのパズルを解くことで小野蓮の謎について知ることが出来るだろう。


「何の病気だったとか聞いてる?」


「詳しくは知らないが、咳と吐血ということは肺の病気じゃないのか?それ以外に咳と吐血が症状として出る病気を俺は知らない。」


 咳と吐血。そして記憶の中での小野蓮のあの落ち着きようからして、きっと突発的なものではないのだろう。何度も同じ症状が起きていて、それに慣れているというようだった。

 帰ったら調べてみよう。きっと症状を調べればいくつかの候補は出てくるはずだ。


「わかった。ありがとう原ちゃん。私はもう帰るね。」


「おう。気をつけろよ。」


「うん。ばいばい原ちゃん。」


 私は原ちゃんに手を振った。

 下駄箱へ向かう。雨が降る前に帰らねば。だがそんな私の思いも世界は無視し、外では雨がザーザーと降っていた。私はとりあえず靴に履き替えることにした。


「千尋!」


 後ろから声が聞こえた。玲奈の声だ。振り返ると玲奈は私の元へと走ってきた。


「まだ学校にいたんだね。今日は火曜日だから部活じゃないんだっけ?」


「うん。でもさっき間違えて美術室に行っちゃった。」


 玲奈は不思議そうな顔をしていた。


「今日の千尋なんか変だよ。やっぱりなんかあったんでしょう?」


 玲奈はそう言ってから私に問いただしてきた。私は仕方なく白状することにした。

 美術室でパズルを見つけたこと。ピースをはめたら頭の中にある映像が流れてきたこと。

 玲奈は聞きながらうなっていた。現実的な話ではないからだろう。


「そもそも千尋はなんでそのパズルと作成者にそんなに興味を持つの?」


「え。」


 玲奈に急にそんなことを言われたため、私は一瞬たじろいだ。そんな私を玲奈は純粋な瞳で見続けている。

 理由はないわけではない。だが足りないピースをはめた瞬間に知らない記憶が頭に流れたなんてことはなぜか言いたくなかった。


「なんだろう。でもなんか気になるんだよね。それにパズルが完成したら綺麗な絵になりそうだから、それを見たいていうのもあるかな。」


 ぎこちない説明に対して玲奈は丸い瞳のままそうなんだと言った。

 その後私は玲奈と一緒に帰ることにした。だが玲奈が靴を履こうとしたときに、玲奈は教室にお弁当箱を忘れたことに気が付いた。私は待っていると言ったが、もっと雨が強くなるかもしれないから先に帰っててほしいと言われた。玲奈はそう言って教室へと走って行った。

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